■ 接種 ■
木が湿気り、歩く裏からふうと吸いつく階段。
踊り場から見上げる長方形の窓が、淡い光を放ち冬の雨を知らせている。向きを変え、あがりきり、薄暗い廊下を進む。すり硝子が嵌め込まれた木戸の前に立つと、歪んだ柱の隙間からジャムの匂いが漂ってきた。202号室。甘く熟れ、煮詰められた果実の匂い。
ひとさし指をカギにして、コツコツと硝子を叩く。しばらく待つと、ぐもった「ハイ」という声と共に急に濃く、鼻に、媚びる、
「お待ちしてました、先輩」
戸が引かれ、岸谷が顔を出した。背後にこたつが見える。カセットコンロにかけられた小鍋が、コトコト鳴って湯気をたてていた。
「どうぞ、」
部屋に入ると両脇の高い戸棚がぐんと迫り、思わず背中を丸める。戸棚の大部分は、小さな瓶で埋められている――ジャムの入った瓶――降り注ぐ匂いが浸透し、体中が満たされていく……。そんな錯覚をふりきるように目をこらすと、瓶のフタは赤や黄色、中のジャムもオレンジや濃い赤、カラフルで、メルヘン。ラベルに至ってはピンクだった。文字はさすがに黒で、「二丁目のざくろ」や「うらのイチジク」「フロリダおれんじ」「レモンといよかん」などと書きつけられている。
こたつの奥には横にして置かれたベッド。その奥には壁と窓。水滴が、冬の温度差に泣くかのように幾本もの筋になり垂れた。
脱いだコートを渡す。岸谷はそれをベッドの上に無造作に投げた後、スプーンを取り鍋の中身をかき回した。すくったジャムに息を吹きかけ手の甲に乗せ、キスするように舐めとる。ちらり、目線だけ触れる。
「ん。……んー。先輩、あんまり緊張しないで」
岸谷はこたつ横の大きな缶を持ち上げた。蓋をあけ、中の粉を鍋に投入する。おそらく砂糖だろう。
立ちつくしたまま、何をしたらいいのか分からないだけだと答えると、岸谷は目を伏せ何度かまばたきをした。そのうち決まったようで、彼は
「ベッドに腰掛けて、ストッキング脱いでください」
小さく呟いた。
「いま、選びますから」
ベッドに腰をかけ、言われた通り黒のストッキングを脱ぐ。岸谷が棚の下にあるポットから洗面器にお湯をとり、タオルと一緒に渡してきた。見ると、タオルは新品のようで、タグがついたままだった。
かたく絞り、足を拭く。温かさのあとにスッと冷える、皮膚。またお湯にひたし、絞り、足指の間も拭いていく。
岸谷はカセットコンロのつまみを弱にして隅によせ、右の棚上段からふたつ、下段からひとつ、左の棚下段からひとつ、そして棚からはみ出し床に積まれている中からひとつ、瓶を取り出した。こたつのテーブルに置いていく。彼はまた立ちあがり、今度は左の棚上段からボウルと、試験管の束を持ち出した。銀のリングで巧妙に繋がっている十本の試験管の中には、絵筆が一本ずつ差してあった。
「先輩、拭きました? じゃあ……始めます。足、だして……」
冬のはじめ。岸谷に助けられた。大学内で彼の視線を常に感じていたため、夜道で襲われたとき、直感で岸谷だと決めつけた。けれど実際は、襲ってきた人間は名前も知らない男で、その男を数十回にわたって殴り気絶させて上着で縛り、警察を呼んだ人間こそが岸谷だった。
――そんな、お礼なんて! お金?! いりません! ……でも、もし、良かったら……。あのっ、ずっと見てました! 真月先輩……、足を、お願いです。変なこと言いますけど、あの、足を……っ、あの、かして……くれませんか……。
絵筆にとられた赤い、ジャムが爪の先を覆った。
親指から伝わる予想以上の冷たさに、ビクリ、体をふるわせる。甘く満たされた部屋の中、岸谷はこたえない。集中している。しずかに絵筆を動かし、丁寧に塗りつけていく。恍惚、とも違う。どこか、別な場所に精神が移ってしまったような、夢を見たまま動いているようなそんな、……表情で。
絵筆を慎重に離すとボウルにカランと入れ、ジャムの瓶の蓋をしめる。それから別なジャムの瓶を持ち、蓋をあけて脇に置く。試験管の中から新しい筆を取り出し、ねっとりとしたジャムの中に入れ、かき混ぜ、数回すくっては瓶のフチにこすりつけ重い液をたっぷりなじませる。静脈の見える、白い左手で動かないように足裏を支え、今度は紫色のジャムが、小さな、人差し指の爪の、うえに、そうっと乗せられた。
作業はゆっくりとかさねられる。
コトコトと鍋が鳴るだけの室内。
外は雨。木が濡れる。
冷たい冬の、午後、に。
右足の爪五本はついに、それぞれ別のジャムにより彩られ、岸谷はふるえる最後のひと筆を、離した。
「終わり……、ました……」
夢の深遠から、かろうじて理性が這い出したような声だった。
けれどそれも、すぐに、埋もれ、痺れたように爪から目を離さず彼はボウルに絵筆を入れ、服の裾に指をなすりつけた、二回。
首をかたむけた岸谷の、トロリとした視線が角度をかえてからみつく。頬が、眉が、悩ましげに染まり、ゆがみ、かみしめるように唾を飲み込む音。「っはぁ……」と熱を吐きだす、唾液がじっとりにじむ半開きのくちびる。ジャムよりも少し、くすんだ舌が上下し、高く乱れていく息は、甘く、熟し、煮詰められ、とろける、部屋中に満ちる、甘く、甘く、どこまでも浸透する――突然。足首を掴ま、れ、
「せん……ぱい……、」
うるんだ目が、おさえきれずに漏れだす声が
「あ……、舐めて、いい……ですか。っは、はぁ、ッ、舐め……たい……っ、ッ、はぁっ、はぁっ、はッ、な……めっ、ァ…――っん!」
岸谷はぎゅっと目を閉じ、足から手をはなした。
素早く後ろを向き、ブルブルと頭を振る。小刻みに、泣いているかのようにふるえる肩。はあはあと息を整えてからひとつ、大きな深呼吸をして彼は、洗面器のタオルを絞り後ろ手で寄越してきた。
「拭いて……、もういいです。先輩、ありがとうございました。拭いてください」
くったりとテーブルに伏した岸谷は手をのばし、カセットコンロの火を消す。ポットの横からティッシュを数枚取り作業した後、立ちあがり、並べられていた瓶を、それぞれ元あった場所に返しはじめた。
ジャムを拭きとる。べっとりと光るタオルからは、混じり合った数種の甘さがジンジンと漂い続けている。洗面器に入れ、黒のストッキングを履きなおしコートを羽織ると、岸谷は戸口まで見送りにきた。
開けた先ではもう夕暮れが過ぎたようで、廊下では裸電球が音にならない音を発し、ちらちらと光っている。夏になったらまたサンダルを履いてください、ください、と気だるげに繰り返し、岸谷は戸を閉めた。
ふわりとちいさな風が起こり、熟れ、飽和した空気が、スカートをゆらし爪先を通り過ぎて、木板の隙間へ静かに落ちていった。
■ 死生と双葉の螺旋 ■
万物の調和は数により成り立っているという言葉を教授が言ったとき、桃井はひそかに
「違う」
と呟いた。
その声は、隣に居た僕しか聞いていないだろう。
春の東南東大学、理学部数学科における最初の授業での出来事だった。
★
富士樹海、青木ヶ原の遊歩道に入る。
遊歩道は落ち葉に覆われ、所々見えづらいが、それでも道がわかれば安心だ。
僕は桃井の痕跡を注意深く探りながら、一歩一歩慎重に進んだ。
桃井の行方がわからなくなったのは、3月12日の朝だった。前日の昼から夕方にかけて、僕は桃井と会って映画を見た。そして歓楽街の飲み屋で話しながら酒を飲んだ。
その夜の最期は結局桃井と別れて、僕はもう一件、馴染みの店に行った。
桃井とラブホテルに入り、寝る……という選択はしなかった。
僕は桃井とそこまで親しくはない。
けれど次の日、僕はまた桃井を遊びに誘おうと思った。僕が大好きな数字の話に深くついてこれるのは彼女しかいなかったし、昨日の反応からして、もしかしたら今日誘ったら寝れるかも知れない……。
そんな気持ちで彼女の部屋に行ったら、鍵がかかっていた。インターホンを押しても反応なし。すると、ポストから三つ折りの紙がはみ出ていたのだ。
開いたA4のコピー用紙にはこう書かれていた。
『桜井くんへ。今までありがとう。探さないでください。探しても無駄な所へいきます。桃井』
いきます、の「い」の字がひらがなで、僕はなぜだか直感した。
樹海。
桃井が「い」く場所は富士の青木ヶ原樹海しかありえない、と。
どうしてそう思ったのかは僕にもわからない。
けれどとにかく僕は樹海の遊歩道で、そろそろと足を出しながら、桃井の痕跡を探している。
天気も良く、春がもう来ているようで道端には新しい芽と新緑色をした苔がたくさん出ていた。気持ちいい空気。手を広げて深呼吸すると、冷たい酸素が僕の肺を隅々まで潤した。
途中で数人、僕を追い越した。
けっこう観光客が来るんだな、なんてことを思っていると、ついに桃井の痕跡を発見した。真新しい桃色のタオルが、道端に落ちていたのだ。
観光客がいないかひとしきり見渡してから、僕は遊歩道をそれて樹海の中へと足を踏み入れた。すぐに360°低木ばかりになって、方向感覚が失われる。地面を見ると、新しい足あとが真っ直ぐ続いている。それを頼りに道なき道を進んでいくと、桃井はすぐに見つかった。
三つ折りの、A4の紙を握りしめ、木にぶら下がった桃井に向けて呟いた。
「違うんだ……」
僕の中に、数式を越えた感覚が存在している。
それを今すぐ桃井に伝えたいのに、芽吹いた土に足もつけず、桃井は静かに、揺れも、せずに。
■ 世界に背こう、心やさしき王。 ■
サウルが、敵対するアマレク人の王・アガクを見つけた時、王はアマレク人の子供たちを牛の背に乗せている所であった。
その笑みはふんわりと慈愛をたたえ、そっと手をそえられた牛は大人しく、子供たちは嬌声をあげ、穏やかな空気がサウルの足もとを掬うように抜けていく。平和そのものの光景……。
「あれが……アマレク人の王…」
サウルの呟きに反応した背後の兵が、サッと動いた。
優秀な兵士たちは、サウルの横をすり抜け、槍で牛を刺し、子供たちは転落し、泣きわめき、王・アガクは縛られ、立ちつくしたサウルの前に跪かされた。
最初に王を捕らえたとあって、兵士たちの士気は最高潮に達し、アマレク人の殲滅へと兵士たちを駆り立てた。皆がサウルの横をすり抜けていく。
土埃のあとに残ったのは、サウルと跪かされた王、そして軍司令官アブネルのみであった。
茫然としたまま、目の前に這いつくばっている王を眺め続けていると、どこからか、すすり泣く声がきこえた。牛から落ちた子供たちのものかと視線を遠くにやると、数人いた子供たちは全員踏みつけられて死んでいた。その声が王のものだと気付いたとき、遠くから、戦う激しい声がきこえた。サウルがまた一段視線を遠くへやると、森の向こうから火の手があがった。
王・アガクはまだ顔をあげず、泣いている。
『……あなたは主の民を治め、周囲の敵の手から彼らを救わなければならない……』
ふっと、預言者の言葉がサウルの脳裏をよぎった。同時に自身の疑問の声が、体中を巡りはじめる。
――この王が?
この王が敵だと言うのか?? もし、私の民が血をながしたら、私はなんと思うだろう。もしも私の地が潰された時、私はなんと思うだろう。この男と同じように、私もただただ泣くだろう。この男は、私と同じだ。
私と同じ、王……。
「アブネル!」
サウルは叫んだ。
「私はこの王を殺さない!!」
瞬間、アマレク人の王・アガクははじけるように顔をあげた。涙で縁取られた絶望の瞳の中にひとつ、顔がある。
イスラエルの最初の王・サウルの決心した顔が。
見つめ合ったまま、サウルは言った。
「アブネル、伝令を頼む。皆に、民を選べと伝えてくれ。下賤で無礼な、滅ぼすべきものだけを選ぶのだ。家畜もそうだ。殺さず、すべて集めるのだ。その後で選ぶ。私は、……最低限必要で、かつ最上のものはここに残していくだろう。故郷には、羊と牛を少しだけ持っていけばいい」
「………、しかしサウル様――」
「行け! 早く!!」
「――ハッ!」
アブネルが中心街に向かって駆け出した。その姿が見えなくなると、サウルは走って子供たちのもとへと向かった。事切れた子供たちをそっと抱きかかえ、王・アガクの目の前に置くと、王はサウルを数秒見つめ、頭を垂れた。
二人はそのまま、イスラエル軍勝利の時まで黙とうを捧げた。
■ 石鈴発車五分前 ■
蒸し暑い日が続いた、紫色の夕方だった。
ワタシは、自分の家へ帰るために、富士見発石鈴行きの電車が来る0番ホームに独り、ポツンと立っていた。
いつもいつも、ワタシは独り。
この蜻蛉線を利用しているのはワタシだけなのではないか、と、不安になるほど、ワタシはワタシ以外の乗車客を見た事がなかった。
ワタシは、絵を教える仕事をしていて、毎日、富士見の屋古にあるアトリエに行き、生徒たちに筆の使い方や画材の選び方などを教えている。
ささやかだが、自分の絵の個展も開いた事があり、教室はもとより地元の人々の中では「ワタシ=先生」という図式が成り立っている。
だから、ワタシは人に呼ばれる時、名前ではなく「先生」と言われても反論のしようがない。
世間にとってワタシは先生なのだ。
本当の名前が消えても、あぁ、それでも家でワタシの帰りをまっている妻だけは、名前で呼んでくれる。
きっとワタシは、妻に逢うために毎日独り列車に乗るのだろう。
紫色の空も、だんだんと暗い群青色に。
ホームにアナウンスが流れた。
『間もなく〜、0番線に列車が入ります。この列車は〜富士見発、石鈴行き〜』
と。
アナウンスが終わったと同時に、後ろからダンダンと大きな足音が続き、二人の少年が、階段をかけ降りてきた。
二人は、昔ながらの黒い学生服を着ていて、坊主にした頭を涼しげに揺らしながら、ワタシの斜め後ろで立ち止まった。
「ま……間に合った…」
「はぁ……良かっ…た」
息を切らした少年たちは、おそらく双子なのだろう。見分けがつかないほど似ていた。ワタシはしばらくそのまま、双子を見ていたが、線路の向こうから列車にの影をみつけ、前に向き直った。
「レイが南屋のアイスクリィム食べようっていったから遅れたんだぜ? まぁ、間に合ったからいいけど……」
「うわっ、ひでー。セキだって、美味しそうに食べてたじゃん。山屋のもイイけど、ココが一番だとか言って」
「だって、山屋のはヤマミズ入ってるだろ? 南屋のはアサツユ入ってるから……」
「やっぱアサツユだよなぁ。あ、島屋のウミミズもいいけど」
「えぇー、俺はパス。ショッパイじゃん」
二人が雑談していると、ホーム入ってきた列車は、金属音を響かせてゆっくりと止まった。
空の色が深く沈む列車だ。
蜻蛉線の列車は、海の色が深く沈む列車と草の色が深く沈む列車、そしてコレの三つが、毎日交代で富士見と石鈴を往復している。
空の色の扉が、音を立てて開いた。
ワタシは、転ばないようにゆっくりと列車の中へ。その後に続いて、学生服の二人も同じ車両に乗り込んだ。
初めての同乗者は、双子の学生。
ワタシ以外の人がイスに座っているなんて……なんだか妙な世界のようで、ワタシは大きく咳払いをした。
『富士見発石鈴行き〜発車いたします』
ガコン、車体が大きくゆれ、列車は走り出した。
徐々にスピードを増し、景色は足早に遠ざかってゆく。
『この列車は、富士見発、石鈴行き〜。富士見を出ますと、長寿庵・島烏・柚滝・島矢地・弁天坂・尋世・夜見・三日卦を通りまして、石鈴へとまいります。途中、弁天坂では五分少々停車いたします。次は〜、長寿庵〜、長寿庵です』
ワタシの家は弁天坂にある。しかしワタシは、一旦石鈴まで乗って、それからまた弁天坂まで戻り、そうして降りることを日課としていた。
毎日続けていることなので、もぉ理由も忘れてしまったが、ワタシは石鈴の駅が好きだ。この蜻蛉線の駅は、弁天坂以外無人駅で。どの駅も閑散とし、広い森が見えるばかりであったが、石鈴はとくにひどい。
まるで、森。こんな所に民家などあるのかという位、鬱蒼として道もほとんど見えない。
利用客がこんなに少ないのならば、そろそろ廃線になるのかも、と、心配になるほど、そう思うほど、ワタシは今までこの列車に乗ってきて、途中乗車の客すら、一度も見た事がなかった。
斜め向かいに座るあの二人が、本当に初めての同乗者で。
ちらっと目を向けると、二人は話をして笑いあっていた。
「モリも、その言葉にキレちゃってさ」
「そりゃぁそうだろ」
「カノに襲いかかろうとしたってワケ。そしたら、カノが廊下にあったモップを振り回しはじめて、廊下を封鎖しちゃったワケよ」
「はぁ? バッカじゃねー?」
「でしょでしょ。そしたら、女子がオノ呼んできちゃって、もぉ
ドッカーン!」
「あぁ、それで今日センセイー…」
先生、という単語に、下を向いていたワタシは、即座に顔をあげた。
「………」
「………」
二人は、いきなり顔をあげたワタシを見て固まった。気まずい雰囲気。
「……ぁ…ンン!」
ワタシはわざとらしく咳払いして、また下を向いて。そのまま、列車はどんどん駅を通り過ぎていった。
『ご乗車疲れ様でした。終点〜石鈴、石鈴〜』
目をあけると、アナウンスが流れた。いつの間にか、時間が足早に通り過ぎてしまったらしい。もぉ石鈴か。
ワタシは、斜め向かいにあの二人が居ない事に気が付いた。どこの駅で降りたのだろう? 島矢地までなら居たハズだ。弁天坂? 尋世? それとも夜見?
窓の向こうの電灯に焦点を合わせると、ふと人の影が見えた。
「――ぁ…」
あの双子の学生。木々のトンネルの一本道を、仲良さげに歩いている。
ワタシは、深い緑色の駅に降り立ち、彼らの後ろ姿をもっとよく見ようとした。しかし、そこにあったのは風の音と、オレンジの電灯だけで。
ワタシは諦めて、車内に戻りイスに座った。
この列車は、石鈴に十分間停車する。発車まで、あと五分。
『この列車は、石鈴発〜富士見行きです……』
急に妻が恋しくなって、ワタシは眉間にシワをよせながら、何回も目をこすった。
■ 贅沢な怪盗 ■
ついウトウトして、グラスを落としてしまった。
ゴトン、という音と共に、ぬるいウィスキーが、カーペットを侵食していく。
と。
「ありゃりゃりゃりゃ」
台所のほうから、少女が一人走ってきた。
……少女?
うっすらと開いていた瞳を大きくして、私は少女を見た。
この少女は誰だ?
「大変たいへん! シミがついちゃう」
少女はカーペットを見るなり、また台所に走っていき、私はかがんでグラスをテーブルに置いた。
水道の開け放った音が、連続して私の耳に届く。
あの少女は、誰だ?
私は深呼吸して、瞳を閉じた。
こうしないと何も思い出せないとは、私ももう歳だ。
私の名前は聡一郎という。
もう何十年もこの屋敷に住んでいる、独り身のしがない老人だ。
自分で老人と言うと笑えるが、今年で73歳である。某大企業の代表取締役であり、もちろん秘書も雇っている。
が、秘書の加留多は、確か今家族で海外旅行中だ。という事は、少女=加留多の娘という線はまず消される。
私には、家族や親戚というものが存在しないので、孫などでもない。
誰だろうか……?
考えるのが億劫になってきたので、私は雑巾を持ってきた少女に聞いてみることにした。
「小さなレディ。すまないが、君の名前を思い出せないんだ」
「……知らなくて当たり前だよ」
少女はキョトンとした顔で、私を見た。
「わたしも、お爺ちゃんの名前知らないもの」
カーペットに雑巾をあて、少女は
「シミとれなくても、わたしのせいじゃないからね」
すごい勢いでふき始めた。
カーペットの毛が全部なくなるのでは、と心配になるほどの勢いだ。
「わたし、怪盗だよ」
少女は唐突にそう言った。
怪盗?
あぁ、怪盗か。
私は至極納得した。
今月、三つの州に「怪盗求む」という暗号広告を出したのだ。
すっかり忘れていた。私としたことが、これも歳のせいだろうか。
「お爺ちゃんの家は、スゴいね。入るのにけっこう苦労しちゃった」
少女はまだカーペットをふいている。
あんまりふくので、私は
「その位で良いよ」
と手をあげ、
「それより、盗っていく物は決まったかい?」
手のひらで家の中を示した。
「うん」
少女は屈託のない笑顔を向ける。
私は、暗号広告の中に「この屋敷に進入できた者は、何でも一つ盗ってゆくことができる」と書いたのだ。
しかし、私の屋敷は常に警備されていて、ネズミ一匹忍び込めない。
現に広告を出してから、四人もの名のある怪盗が、私の屋敷の前で捕まっている。
おかげで、個人で雇った警備員の他に、警察官も二十人増えた。
「どうやってこの屋敷に入ったんだい?」
私は興味本位で少女に尋ねたが、レディは小首をかしげて
「きぎょうひみつ」
と答え、
「財布の中にあったクレジットカードを盗ってくわ」
ニッコリ微笑んだ。
「暗証番号がわからないと使えないよ」
「え、そうなの? じゃぁ……うーん…、あの冷蔵庫を盗ってくわ。中の食料も一緒に」
「運べないだろう」
「……そっか。えっとね…、じゃぁ、二階に居た黒猫を盗ってく」
「岡田くんのことかい? なつかなかっただろうに。彼は誰にもなつかないんだ」
「う………」
少女は固まった。
どうやら何の考えも無しに、ただ入ってきただけのようだ。
「まぁ、ゆっくり考えなさい」
私はソファの背もたれに体を預け、目を細めた。
さて、次は何を言い出すのやら……。
「わかった!」
少女は、問題を解けた生徒のように、瞳をかがやかせた。
「この家をまるごと盗ってくわ! お爺ちゃんは、私の執事になるの!」
「………」
驚いた。
次にこみあげてくるのは、笑い。
「え? なに? わたし、何にも変なこと言ってないよ」
少女はそう弁解していたが、やがて声をあげて笑い始めた。
「ごめんなさい、お爺ちゃん、わたし、怪盗だなんてウソなの。ただ、お父さんが警備の指揮をとってるだけなの」
そうか、なるほど。
私は先刻まで、少女のことを本当に怪盗だと思っていた。そんな自分をふり返ると、また笑いがこみあげてきて、私は何年かぶりに声をあげて笑った。
ひとしきり笑ったあと、私は少女に
「入れたのは事実なんだから、何か盗っていっても良いんだよ」
と言った。
たとえ何か一つ失くなっても、この広い屋敷の中では、たいした問題ではない。
少女は少し考えてから、
「なにも盗らないことにする」
と、笑った。
「盗らないのかい?」
「うん、贅沢でしょ」
贅沢。私はまたしばらく笑った。
■ セルフサービス葡庶館 ■
今日は水曜日なので、講義は午前中で終わりだ。
僕はやわらかい芝生の近道を通って、いつものように葡庶館へと向かった。
日差しがキツいけど、まぁ、葡庶館の中はクーラーが効いているのでよしとしよう。
芝生を抜け、大学院の南入り口の脇にある遊歩道を歩いて、5分程度で葡庶館に着く。そう、あの赤レンガの建物がそうだ。
僕は走って、葡庶館の門をくぐった。
「いらっしゃい」
用務員の尾野さんが声をかけてくれたが、僕には尾野さんがドコに居るか検討もつかない。
いつ来ても謎だらけで、ワクワクする。
ココは元々、大学院の寮として使われていたらしいけど、寮制度の廃止にともない葡庶館になったと聞いている。だから、食堂や共同風呂もあるけれど、そこは立ち入り禁止。
用務員さんは二人居て、尾野さんと佐野さん。
二人とも、姿を見たことがない。
しかし、葡庶館の中はいつもキレェなのでチャンと働いているのだろう。
僕はいつものように帳簿にサインをした後、自動販売機からモカとブレンドを買って301号室の扉をあけた。
――ココの葡庶館はセルフサービスだ。
県立とか、市立の葡庶館に行けば、もっと良い対応をしてくれる。
例えば、部屋に個別の電話機が置いてあったり、呼び鈴を鳴らせばマッサージ師が出てきてくれたり。
でも、僕はココの方が好きだ。
だから、いつも来るのは僕ぐらいしか居ない。
監視カメラが常に作動している所より、ココの方が断然イイと僕は思うんだけどな。
まぁ、能書きはそろそろオシマイにして、作業を始めよう。
僕はカバンから、500枚の原稿用紙の束と下書きと資料を取り出した。
それから万年筆。修正液。和露辞典。露和辞典。
壁に掛けてあるアンティークな時計と、僕のデジタル時計の時刻を合わせてから、珈琲を一口飲んだ。
あの時計でキッカリ5時に、葡庶館は自動的に鍵が掛かってしまう。
5時で閉鎖するのは、葡庶館にしては珍しい部類に入るだろうね。
なにせ、今時宿泊OKな葡庶館が当たり前に存在しているのだから。
僕は、5時になったら家に帰って、ゆっくり頭と体を休ませたほうがイイと思うよ。
そういう点でも、ココは僕のお気に入りの場所なんだ。
集中できる空間は、ココぐらいしかない。
★
小さな物音が聞こえて、それから女の人の声がした。
女の人は
「大丈夫かしら……」
と、やけに僕に聞こえる声でつぶやいた。
隣の302号室からの声だった。
「大丈夫だよ。誰も居ないって」
今度は男の人の声が聞こえた。
物音のせいで、僕の集中力がプッツリきれちゃったじゃないか。
半分腹立たしく思い、僕は
「……ココはラブホじゃないんですけど…」
と、つぶやいた。
セルフサービスなのをイイことに、最近こういう人たちが後をたたない。
尾野さんにも佐野さんにも、一応言ってはみたのだが、
「使ってくれるダケでいいよ」
と、言うばかりなのだ。
まったく、葡庶館をキチンと利用してるのって、この世に僕ぐらいしか居ないのではないのだろうか。
こういう人たちに遭遇(正確には声だけなんだけど)する度に、僕は「葡庶館を最初に作った人」の意図を踏みにじられているような気がしてならない。
いよいよ、隣の部屋から女の人の喘ぎ声が聞こえてきたトキ、僕は心の中で叫ばずにはいられなかった。
葡庶館を一体何だと思ってるんだよ!!
あぁ、もぉ集中できない。
帰ろう。
そういえば、今何時だっけ。
僕は自分のデジタル時計を見て、ん?
すぐさま、壁に掛かっている方の時計を見る。
……やば。
でも待てよ、コレはコレで面白いコトになりそうだぞ。
僕は静かに、道具をカバンに詰め始めた。
そっとドアを開けると、隙間に体をすべりこませて、またそっとドアを閉める。
幸い、ココの葡庶館の床にはカーペットが敷いてあるので、走っても音はでなかった。
階段を降りて、出口まで一直線。
「ほっ……と!」
門の所まで来ると、僕は知らないうちに自分が笑っているのに気づいた。
ざまぁ見ろだよ。
ほら、あと1分で閉まっちゃうよ。
閉まっちゃったら、電気も冷房もストップしちゃうし、窓だってハメ殺しだから、朝まで出られないんだぜ?
「ざまぁ見ろだよ」
改めて声に出して、僕は、笑いをこらえながら遊歩道を走り始めた。
利用者注意事項をチャンと見ないからこうなるんだ。
葡庶館をラブホと勘違いしてるからこうなるんだ。
ざまぁ見ろだよ。
ざまぁ見ろだよ!
走りながら、僕は何度も笑いだしそうになって、そのたびに口へ手をあてた。すれ違った人たちが、不思議そうに僕を見る。
書きかけの卒論は、あともう少しで終わりそうだ。来週の水曜日も、僕は葡庶館に足を運ぶだろう。
葡庶館の利用は、それで最後。
そのトキには、尾野さんと佐野さんにお菓子の詰め合わせでもプレゼントしよう。
あぁ、お腹すいた。
今夜のメニューは多分水餃子だ。