■ さもしい雨 ■

 ぼくにとって世界で一番無用なひとだった。
 だから君は、世界でいちばん美しかった。
 だから。
 閉じ込めた。
 ……あの日ぼくは最後から二番目の音を失った。白く長い秘密の鍵盤をそっと、君のひざに置く。君は密やかに笑った。君の爪先が乗る床も、君の背が、もたれる椅子も、小指ほどもずらせずに、閉じられた目も、首筋も、なにもかも。
 美しい予感の後には灰色の、雪のような埃が降り積もるだろう。
 ただ。
 それだけの季節。

     ★

 広大な土地と伯爵邸を継ぐ嫡男として生まれた私は、幼いころからこの洋館を探検するのが趣味だった。
 屋敷の北側に位置する一角に、古い扉があることも当然熟知している。誰にも開けられることのない部屋。内側から鍵のかかった木の扉。幼い頃、眠る前、祖父が繰り返しささやいた寝物語。
 あの扉にまつわる秘密は代々受け継がれていくのだと祖父は言った。
 祖父の父親、つまり私にとっては曾祖父の、人生でただひとつの犯罪を知らされた時。幼い私の心臓は高く撥ねた。
 閉じ込められた美少女の幻影。
 餓死していく過程の妄想。
 干からびた骨の想像。
 その部屋のものであろう窓を外側から眺めるたびに、重く引かれたままのカーテンが、いつしか動く気がしてならない。
 寝物語は繰り返され、聞くたびに、深まる。
 成長していく。
 当事者の曾祖父は扉の前で逝き、祖父は扉を怖れ、父は扉を黙殺し、私は扉に――恍惚を覚えた。
 眠れない夜が来るたびに、私は静かな音を引きずり扉の前に立った。冷えたままの木が私を拒絶する。けれど心の中までは来ない。
 閉じ込められ、餓死し、椅子に座ったまま朽ちた、美しい骨をこの胸に……。
 妄想。
 豪雨。
 雷鳴はバラバラに、雨と混じり崩れあとかたもなく。
 ………。
 私は家から逃げ出した。カレッジの寮で暮らし始め、二度と扉を見ないよう、三年間帰省しなかった。身体ばかりが大きくなり、同窓生の社交辞令ばかり見抜くようになり、心の奥底に誰一人として招かなかったのが原因だと、今なら言えるだろう。
 数年ぶりの帰省で出迎えてくれた使用人たちは、皆疲れていた。
 祖父と父が同時に亡くなったのだ。
 馬車の事故だった。
 葬儀や弔問客への接待が一通り終了した、晴れた夜。
 足が。
 勝手に動き始めた。
 理性は行くなと叫んでいるのに、ひとりでに。
 屋敷の北へ。
 久々にたどりついたそこは変わらない扉。変わったのは私だ。後悔が全身をつらぬき、責め立て、なじった。もう、こんな、ものは。
 必要ないと思いこもうとした。
 それなのに。
 やすやすと思い出される、扉の奥の幻覚。部屋の奥に座っているであろう骨がカタカタと何かを紡いだ。
『……オカエリナサイマセ…ダンナサマ……』
 扉を。
 三回ノックした。
 返答などあるはずもない。
 再度ノックをする。
 吐息が無意味な文字を描く。
 ノックを。
 ノックを。
 ノックを!
 ――ダンダンダン!
 耐えきれるはずもなかった。
 もう。
 無理だ。
 散々言い聞かされてきた約束を忘れたように私は走り出す。
 歴代当主の宝飾品をまとめた部屋に入り、息を切らして見回す。壁の低い位置にかけられていた斧を手に取り、また、走り出した。
 視界は夢を渡るように揺れ、涙さえ滲んでくる。
 止める祖父も、忠告する父も居ない。
 彼女を、手に入れるための一撃を叩きつけるー…!
 一撃。
 また一撃。
 四度目で壊れたノブが床に落ちる。ぽっかりと開いた穴に手をかけると、扉は簡単に開いた。目をこらす。古い埃の臭いと共に、ぼんやりと、影が見える。高鳴る胸をおさえ、早歩きで窓辺に向かい、分厚いカーテンを思い切り開けた。
 月明かりに照らされたのは。
 一脚の椅子。
 ただそれだけだ。
 他には何もない。
 ふと、椅子の上に白いものを見つけ、骨なのかと心臓がうなる。
 震える指が拾い上げた物が、黄ばんだ象牙の鍵盤だと気付いたとき。私の頬を静かな音がすべり落ちた。
「雨だ……」
 この音を、鎮魂歌にして跪く。
 想像していた光景を取り出して。
 干からびた肉とはみ出た骨と朱色のドレスを抱きしめる。
 ひとしきり、懺悔のまねごとをして。次に笑いがこみあげる。完璧に手に入れ、完全に失ってしまった。
 美しい妄想を。
 かき集めるように自身を抱いたまま、部屋に響くのはメゾピアノの音階だけを残した雨。
 さもしい私の嗚咽。

■ さようなら花弁 ■

 公爵邸の朝は、食堂の怒号から始まる。
「マシキ! あざあざさせておいて、なんだこの庭は! けしからんとは言わないが、最近のお前はたるみすぎてバターレーズンが分離してしまっているこのバゲットに塗れと言ったのはおい、ママレイドだ馬鹿者! 私の好みなどいちいち把握しておかなくても良いのだ。今日はママレイドの気分だったのだよ……。おい、聞いているのか、おい、マシキ!」
 公爵様の召使い、マシキ=チオルガは一息ついて
「お言葉ですが旦那様」
 満面の笑みをうかべた。
「あざあざさせておいて良いとおっしゃったのは旦那様ではないですか。それから、こちらは本当に申し訳ございませんが、バターレーズンは今日が消費期限なのです。これに塗ったもので最後でしたので、3枚目はママレイドジャムを」
 ――食堂の、大きなガラス窓から望む庭。
 薔薇に百合に薔薇、そして薔薇。芝生に生垣、さらに薔薇。マシキ=チオルガが育てた庭の花々は、今朝も鮮やかに咲いている。
 ただ若干、葉があざあざとうるさい。
 バゲットを頬張りながら公爵様は時々、その葉の茂みに目を向ける。
 そこには奥様ではない可憐な女が美しく、白百合の花を摘み、公爵様と秘密の視線を交わす。微笑み合う。
 マシキ=チオルガにひとつも降ってこないそれらを、彼は毎日。
 毎日。
 チェルシーローズのまだ青い蕾に語りかける。
「ローズ……あの女に恋をしているのはここだけの秘密です。その秘密でさえ、雨が降りかかったら落ちてしまうように魔法をかけました。けれどもこのお屋敷に雨ひとつぶも、落ちてこない。そんなことは分かっているのです。雨が降らなければ恋が落ちることはない。雨が降って恋が落ちても、ポチョンと芝生に散り消え終わる。もしあの女が君に触れ、中を覗いたら……? いいえ、そんなことはあるはずない。彼女は薔薇が、キライなのだから……」
 公爵様の命がおりたのは翌月の晴れた食堂だった。
「マシキ。よく聞きなさい。あざあざさせておいた薔薇どもは、全て切ってしまう事にした。百合と生垣と、まぁ、なんだ。お前ほどの腕なら薔薇がなくとも上手くいく。庭をまかせておるのはな、お前が庭に愛されてるからなのだ。わかるな? 今週中に全部だ」
 マシキ=チオルガは一息ついて
「お言葉ですが旦那様」
 満面の笑みをうかべた。
「庭が私を愛しているのではありません。私が、庭を、愛しているです」
 嘘だ。
 本当は、本当に愛しているのは庭に佇むあの女――。
「旦那様がお望みとあらば、今週中に終わらせてみましょう」
 公爵様はそれを聞き、食堂の窓に視線を移す。女は清楚に笑い、公爵様は頷き、秘密を交わしている。
 週末のすべてが終わった午後、屋敷のはしで薔薇の残骸を前に、マシキ=チオルガは手をのばした。チェルシーローズの蕾を持ち上げる。
 明日にでも花開きそうだった秘密の恋をかたむけ、雨粒とも涙ともつかない雫が、彼の唇に触れた。鮮烈な香りが消える。
「いただきます。そして、さようなら花弁」

■ サイノウハズシ ■

 簡素な白いテーブルのある部屋。静かに扉が開き、女が椅子に座った。女が持っているカルテバインダーだけが青く、向かいに座っている男の視界を、じわじわと支配していく。
 男がそのカルテと誓約書に記入すれば、破格の値段で男の才能は奪い取られるのだ。
 ……マイナス方向ばかり助長するのは良くないわ、と女が言ったのは数か月前。女は才能科学研究の所長で、その筋の第一人者だ。
 人を殺す才能。人を傷つける才能。犯罪者は金のない遺族の希望により研究所へ送りこまれ、才能を奪われる。ひとつ才能を奪うだけで、犯罪者は別人となった。思考回路はもとより、生活習慣や顔までもが変化し、真人間へと強制更正させられる。
 ずいぶんと長い間、女はそれらの研究にうちこんできたが、奪った才能の使い道はまるでなく、地下の倉庫にだんまりと眠り続けている。
 良い才能を培養し増殖させ植え付け、才能を持った人間を造る事は果たして可能か。その求人に応募してきた男は、カルテの才能欄に『物語りを書くこと』と書き付けた。
「――でもアナタ、世間じゃ見ない顔ね」
 研究所は辺鄙な場所にあったが、あらゆるジャンルのニュースを毎朝所員にチェックさせており、世間のズレとは無縁だ。文学担当の所員にインカムで確認をとるも、やはり男のことは知らないと言った。
「まだデビューしてないんです、でも、俺、この才能に困っていて、だって世間が遅すぎるんだ、俺の才能に世間がついていってないんです、だからすごく貧乏で、あいつら、あの××賞の審査員も、×××賞の下読みも××社の編集者も――みんな糞だ! 俺、才能がありすぎて、認められてなくて、あと100年遅く生まれていれば……もうこんな才能いらないんです、才能さえなければ、趣味で満足してたのに……!」
 女は平坦な声でそうですか、と言った。
「よくわかりました、それでは肉体が健康かどうかを測定した後、才能をとりはずしましょう」

     ★

 数時間後。男は研究所から街へと続く長い一本道をフラフラと漂っていた。男はうつろな目で、ただひとつの確かな世界をつぶやき続ける。
「俺には才能があるんだ……あの女、俺の才能の高度さにおそれをなして逃げたんだ…俺は……俺は…」
 食堂のモニターに映し出された男の後ろ姿をながめながら、女の右腕でもある所員所員が「所長、」と疑問を口にした。
「どうして才能をとらなかったんです?」
 才能室とプレートがかかげられた暗室に入り、ものの数分で出てきた男と女を所員たちは驚きと疑問をもって眺めた。憶測すら飛び交わないうちに「ご丁寧にお帰りいただいて」と女はきびすをかえし、食堂へ直行。モニターを外部に接続変更してから珈琲を飲みはじめた。
「所長。仮に文学的才能がなかったとしても、他の才能を見つけて勝手に奪えば良かったじゃあないですか。せっかくの被験者だったのに、あぁ、惜しいことしたなぁ。所長らしくもない」
「やぁね。私だってそれは思ったわ。けどね、自意識過剰なんて才能、誰が植え付けられたいと思う? ――ワタシのサンプルだけで十分よ」
 男の背中は小さくなっていく。女は自嘲気味に笑いながら、リモコンを操作しモニターの電源を切った。

■ 懺悔室にてつかの間の逢瀬 ■

 コレルリがうやうやしく両手を組み、十字架の前で祈っている間に彼はクリスマス限定と書かれたチョコレートのパッケージのフタを開けた。
 紙特有のパコロロロという音が狭い懺悔室に響く。
「まだ、もう少し、降りてくるまでチョコ食べないで。あたしも一緒に食べたい。それ、バッキンガムチョコでしょ、先生ずるい」
 快活に女子高校生をエンジョイしているコレルリに似合わず、懺悔室は黒にあふれている。
 閉めきった暗幕の隙間からたれる光はあまりにも弱弱しく、いつでも低く流れているクリスマスのヴァイオリンの協奏曲は、コレルリの大のお気に入りだった。
 彼女は光も、そして、暗闇も愛しているのだ。
 ビタミンAが豊富だという人参を毎日摂取して、夜目を鍛えているという。毎日、寮の自由時間を使い、わざわざここまでやってくる。
 それが知れ渡っているのは明白だ。この時間、他の生徒が懺悔室の扉を開けることは彼が知る限り一度もない。
 彼は普段、懺悔室の奥に腰掛け、顔が見えないように仕切られた木枠の外にやってくる、生徒たちの懺悔をきいている。
 きいた上で赦す。
 どんなに些細な懺悔であっても、どんなに残酷な懺悔であっても、彼は修道着の上から首にまわした十字架をかざし、神の加護を唱え、赦すのであった。
 暗闇の中で唯一、十字架だけが光る。
 それが生徒の目に救いとなるのであれば、懺悔室の暗幕の隙間を縫って弱弱しい光が十字架めがけて一直線に落ちるよう仕組まれている事も、他愛無い。
 突然。
 がたんと木の音がした。
 コレルリが仕切り枠の前にある木のカウンターに伏している。
 ぐもった声が「シモン」とつぶやいた。
 彼の名前。
 懺悔室付きの神父である、彼の名前だ。
 コレルリの声は明らかに別人のもので、そして、彼が座っているのは、いつも生徒たちが許しを請う――こちら側の椅子だった。
「シモン、そこにいるのね? シモン……シモン」
 ああ、彼はため息をもらし応える。
 闇は時間を逆行させる。彼女が死ぬ瞬間、死ぬ前のディナー、その前に流れたクリスマスの音色、ずっと前の約束の指輪、初めての映画、見初めた瞬間まで。
 涙があふれそうになったとき、短い儀式は唐突に終わった。
「……先生? 泣いてるの?」
 チョコ食べたい、とコレルリがのびをする。肩をコキコキ鳴らし、バッキンガムチョコレートに手をのばす。
 ふいに、指が触れ合う。
 彼は苦しく笑い、いつもすまないねと言った。
「全部あげよう」
「ホント? やった! ジェーンが食べてるの、ずっと狙ってたんだ。なかなか頂戴って言えなくて……こう見えて遠慮がちなの、乙女でしょ」
 扉を開け、場所を交換する。座ると彼の十字架が光り、コレルリはチョコを食べながら目を細めた。

■ 最強トリオ誕生秘話 ■

「三番隊から、ルーサー・ゴルドラニコフ隊員」
「――はい」
 線の細い、黒髪の少年が立ち上がる。
「五番隊から、コンコルド・ツェ・レンガルム隊員」
「ハッ、」
 肉付きの良い、浅黒の青年が立ち上がる。
「同じく五番隊から、アーツェ=フェニッシード副隊長」
「はーい! ……っと」
 すこしだけ猫背の、金髪の少女が立ち上がる。
「このたびの任務は、この三人に任命する」
 そう言って指揮官が書類を閉じると、 今まで堅苦しく座っていた隊員たちが一斉にざわめきはじめる。 そうして、ポツリポツリと室内から出て行く。残された三人と指揮官は、 お見合いごっこのように立ったままで。
「今回の任務は、テロリストたちに占拠された、南極昭和基地の奪還。作戦はこの書類に全て書いてあります」
 指揮官は力なく、バサっと書類を机に置いた。
「チッ、暗号書類かよ」
 レンガルム隊員は、軽く舌打ちをしてドカっと椅子に座る。
「解けないのか? 単細胞」
 ルーサー隊員は唇のはしを上げ、暗号を読み始めた。
「これだから五番隊は、バカの集まりなんだよ」
「んだとぉ?」
「まぁまぁ」
 一番小さいアーツェ副隊長がおさえる。 しかし、ルーサーは冷ややかな目をしてこう言った。
「どうせ、体力バカなんだろう」
「あっ、いいえルーサー。レムはこう見えても、射撃の名手なのよ」
 アーツェがニコニコしながら言う。
「バカはバカだよ。なんでボクがこんな任務―…」
「口を慎みなさい。ルーサー隊員」
 今まで黙っていた指揮官が、口をひらいた。
「ワタシがこの三人を選んだのにはそれぞれ理由があってのこと。任務が嫌なら命令違反という事で懲罰房に入ってもらいます」
 ルーサーが、黙り込んで下を向く。 レンガルムは「フン」と鼻で笑う。そこへ、アーツェが「きゃははっ」と笑い声をあげた。驚いてアーツェを見る二人。
「ほらほら、ふたりとも楽しまなきゃ! 生きて帰って来れないわよ」
 二人はしばらく無言のまま、それから
「……たまにはバカの中でやってみるのも、悪くないかな」
「こんなクソガキひきずりおろして、オレが三番隊に入ってやる」
「あははっ! そのちょーしそのちょーし」
 それを見ていた指揮官は、フッと笑い声をあげ踵をかえした。
「それでは、健闘を祈りますよ」
 三人は、戸口に向かう指揮官に、ファックポーズをとる。
「Yes,cool.」
「イエース、クールっ」
「いえすくーる☆」
 指揮官は思った。
 生きて帰れたら奇跡だが、あの三人ならやりかねない、と。

■ さみゆき ■

 雪が。
 雪が落ちるところを見たい。
 そう、小西は言った。
 今は5月だよ、とマユは言う。
 車椅子に座っている小西は目を細め、ハンドルをかたく握ったマユを見上げた。まぶしそうに。
 ――サミダレ、って、よく言うでしょ。5月の雨って書いてサミダレ。サミユキってあったら面白いな、て、思ったの。
 マユは顔をしかめる。
「そんなのあるわけないジャン」
 ここ長崎だし。とつけたした。
 小西は「だよねぇ」と笑い、今日病院のナースセンターでね、と話し始めた。どうやら、話題はそちらへ移ったらしかった。
 マユは女子高校生だった。
 金色カールのかかった髪と、濃いメイクでバシリと決められた浅黒い肌は風紀委員に目を付けられ、借りた本を古本屋に売るルーズさは、図書委員に目を付けられていた。
 勉強もろくにせず、毎日、親からせしめた金で遊んでいた。
 昼も、夜も、男を取り替えてはクラスメイトに自慢した。そうでなければ自分を維持できないような気がしていたのだ。
 しかし。
 小西が入院してからというもの、マユは学校をサボり、男と別れ、ほとんど毎日のように小西ととりとめのない話をしていた。やせ細った彼女が元気な日には、こうして中庭へ出ることもあったが、大概は、病室のベッドの上だった。
 小西は、女子高校生だった。
 おとなしい図書委員長が、マユの目の前で倒れたのは、3月のはじめ。マユは驚き立ちつくし、小西は震えながら、うわごとのように「借りてた本、返して」と言った。
 はじめて触れた少女は冷たく、保健の先生は貧血だといったが、強引に病院まで連れていったのはどうしてだかわからない。
 野生のカンだろうとマユは今でも思う。
 病名は、ガンだった。ステージ4。痛みがないのは奇跡だと医者が。
 本の詫びと称して見舞いに通う毎日。小西との会話は、それまでの男どもがバカに思えるほど面白く、マユは次第に、小西に心を開いていった。
 ネットをかぶった小西の頭に髪の毛はなく、微笑みは日に日に弱々しくなっていく。しかし彼女は気丈に振舞った。まるでガンなど、なんともないように。
 それから数日後の、5月の終わり。
 小西は死んだ。
 マユに宛てた手紙には、サミユキ、間に合って良かった、と、書かれていた。
 小西ユキ。享年17才。
 なにもわかっていなかった。
 手紙を持ったまま涙を流し続けるマユの足下には、用意してきたダンボールが、静かに置かれている。
 その茶色の箱に入っている、細かく切った白い和紙は、マユの涙でカサカサと音をたて、シワシワと縮み、崩れてゆく。
 まるでサミユキのように。

■ 残酷な神話 ■

 彼の名前はシュウ。
 彼女の名前はテフヌト。
 ただ今、別居中。

     ★

 ボクの名前はラー。
 人々は「太陽神」とかと言って崇めるけれど、本当はそんなにエラいもんじゃない。
 一応、雲の上では最高神なんだけれど、そんなに仕事もしていない。
 っていうか、暇。
 あまりに暇なので、ボクは、彼と彼女の夫婦喧嘩について文句を言おうと思ってる。
 彼と彼女っていうのは、シュウとテフヌトのこと。ちなみに、彼らはボクの子供たちだ。
 シュウは大気の神。
 テフヌトは湿気の神。
 ボクには妻と呼べる人はいないんだけど、なんか気づいたら「お父さん」なんて呼ばれちゃって、悪い気はしなかったから子供にしてる。
 だって、一億七千年も一人ぼっちだったんだもん。悪い気はしないでしょ?
 ま、そういうコトで今回の事件。
 そう、それはもぉかなり遠い時間のトキ。シュウとテフヌトには子供がいて、名前はゲブとヌト。
 ボクは一応仕事をしているし、彼と彼女も仕事をしている。だから、子供にも仕事をさせようとテフヌトが提案したのが始まりだった。
 ボクもそれに賛成だったし、シュウも渋々ではあったけれど承知した。
 当時はかなり仕事場が荒れていて、ボクもチョット参っていたし、彼と彼女も疲れていた。なんてったって、二人の子供を育てながらだもの。疲れるよ。
 だからこそ、仕事をさせようってコトになったんだ。
 ケド。
 意見が対立した。
 二人にやらせる仕事はボクが準備したのだけれど、どっちにどれをやらせるかで大論争。シュウとテフヌトが正反対の意見だったんだ。
 あ、ちなみに仕事は「地の神」と「雲の神」。
 どちらも大変な仕事なのだけれど、ゲブとヌトにならできると思っていた。幸いにして、当時はボクらのほかに誰も居なかったしね。
 ただ、仕事場が混沌の渦中だったから
「この子達にできるかしら」
 とテフヌトが言葉をこぼしたのは言うまでも無いけど。
 で、だ。
 邂逅もなにもなくて、彼と彼女の意見が対立して百年目。決まるまでボクがその仕事をするコトになったので、超忙しかった。
 五百年目。ゲブとヌトの間に子供ができた。名前はイシス。
 二千年目。ゲブとヌトの間に、また子供ができた。双子だ。名前は、右からオリシスとネフティス。
 その百年後、また子供ができた。名前は、セト。
 三千七百年目。ようやく仕事場も安定してきて、かなり快適に仕事ができるようになった。うん、これは良いコトだったな。
 五千年目。ボクのやっていた「地の神」の仕事をやりたいと言ったので、イシスに仕事を教える。かなり覚えがよくて、ビックリしたなぁ。
 七千六百年目。ひっこみがちな……っていうか、根暗で白骨オタクなオリシスのために、死者の国を見せに行く。あまりの喜びように、正直、ひいた。帰ろうとしないのでそのまま置いてきた。
 七千八百年目。オリシスから手紙が届いた。
「ボクはこのまま死者の国で暮らします」
 と書かれていた。それ以来、音沙汰なし。
 一億年目。セトが暇だと言っていたので、わりと刺激的な「嵐の神」という職を作ってやった。いまだに飽きていない。
 一億二百年目。イシスとオリシスの間に子供ができた。いつの間に? っていうぐらい成長していた。名前はホルス。自分で勝手に「神の子」だと言い張っている。……ボクは認めないぞ。あんなマッチョな肉体を見せつけられたら、絶対そぉ思うって。神の子はもっと儚くなきゃ。
 で、今。
 まだ別居中の二人に、会いに行こうかな、と、ボクは思ってる。いや、むしろ離婚しろよってカンジ。
 どっちに先に会おうかな? シュウ? テフヌト?
 う〜ん。
 ボクは考えた末、近くに居た孫ネフティスに声をかけた。ここはジャンケンかな。
「ねぇねぇネフティス。ジャンケンしよう」
「いいですわよ。私も丁度暇していたトコロなので」
「うん。じゃぁいくよ」
 ボクが勝ったらシュウ、ネフティスが勝ったらテフヌトのトコロ。
「「ジャンケンポン!」」
 ボクらの声で雲が渦巻き、嵐が起こった。そんなのはどうでもいい。結果、僕が勝ったので、シュウの家に行った。
 ――ピンポーン。
 可愛らしいチャイムの音が流れ、ガチャリとドアが開いた。
「はーい」
 出てきたのはー…
「あら、お父様」
「テフヌト?!」
 テフヌトはビックリした顔でボクを見た。いや、ビックリしたのはボクの方だって。なんでテフヌトがシュウの家に……?? 離婚は? 別居はどうしたの?!
 と。
「ただいま〜」
 シュウが帰ってきた。
「あなた、お帰りなさ〜い♪」
 彼と彼女は熱い抱擁とキスを交わし、呆然と突っ立っているボクに、シュウは言った。
「言ってませんでしたっけ?」
「聞いてないよ!!」
 なんだ、とっくに仲直りしてたのか。ボクはその場に座り込んだ。
 そぉだよね。もぉ「神」の時代は終わったんだ。
 忘れてた。
 仕事、なくなったんだ。地球、滅んじゃったんだっけ。だから暇なんだ。だから争う理由がなくなったんだ。
 へぇ、よかったね。お幸せに。