■ 雷雨笑う ■
トゥオーノが日本に来てはじめて泣いたのは、震度4の地震があったときだった。
彼の故郷では地震などめったに起こらず、なんだこれは天変地異でも! と、覚えたての日本語で叫び、その後は、お笑い番組でも見ているかのようなあわてぶりであった。頭をぶつけ、転び、大の男が泣き、浅間はせせら笑った。研究室が唯一トゥオーノによって破壊された事件でもあり、浅間は、このところめっきり開かなくなった口で
「これはいい」
端的に罵った。
「教授、ビデオに撮りましょう。オセ研の棚にありましたよね、黒いハンディ。それで面白ビデオ大賞に投稿するんです。確実になにかの賞には入りますね」
「……ここ一ヶ月で一番長いセリフだな、ケンジ」
教授が驚いたように浅間を見ると、机の下に隠れていたトゥオーノが靴をカカンと鳴らした。
落ちた研究書の山と割れたコップについて言及する余裕がようやくトゥオーノに生まれたあたりで、揺れはゆっくり収まった。
ところで。
浅間とトゥオーノの関係について、何も知らない研究生たちからしばしば疑問視されるが、それも、トゥオーノが浅間の専攻を言えば
「あぁ、」
と納得できるものである。
実際彼らの行動を見ていると、どう考えてもトゥオーノが浅間の奴隷にされているか、さもなくば苦い恋でもしているのかといった風情を漂わせていたからだ。皆、疑問に思うのも仕方がない。しかし関係などといった日常事は誰も浅間に聞かない。どんな質問でも、口を真一文字に結んで睨みつけている浅間の後ろから、手をあげてトゥオーノがこたえた。
外人という壁を越えてまでトゥオーノは気さくな大男であったし、浅間が表情を変えるところなど、誰も見た事はなかった。分厚い眼鏡のせいかも知れない。遠視なのだ。
それでも書物とパソコンと実験器具を睨みつけながら淡々と研究に打ち込む姿は、大多数の研究生から尊敬のまなざしを受けていた。
が、いざ質問をすると例の、冷徹にせせら笑いながら黒斑眼鏡のふちを押し上る仕草で
「自分で調べろ」
とにべもなく。
トゥオーノがこれまた覚えたての「ゴメンネ、ゴメンネ、バイバイ」をくり返す中、浅間は振り返らず通路を歩いて行く。
稀に研究に関する質問には答える時もあるが、それはかなり貴重な、的確な瞬間であった。
研究生たちの間では、浅間に質問するのは本当の本当に行き詰った時だけ、という暗黙の了解が成り立っていた。それでも答えない時は、まだ追及の余地があるのだ。十回中一回の確率だ、という者もあれば、俺なんかまだ一回も、という奴もいた。
トゥオーノの実家から、エアラインで安ワインが山ほどおくられてきたのは、丁度、梅雨の終わりに入ろうかという頃だった。
ざあざあの雨にもかかわらず、浅間は窓を全開にしてレールのふちにグッタリともたれかかっていた。木でできた小さなボロアパートで、本来であれば日曜でもかまわず大学に行くところ、どうしてか行く気になれなかったのだ。
使い続けて数年、既に茶渋のつきすぎたコーヒーカップには、なみなみとワインが残されている。床には無数の壜。そのほとんどは、向かいに寝転んでいる大男が飲み干したものだ。
仮眠から覚めケロリとしているトゥオーノは、空になったの自分のカップをまじまじと見つめ、ワインを飲むたびに底や側面についていくこの紫の残像はなにかと浅間に問うた。
窓辺の背中は、できうる限り短く答える。
「ワイン渋」
おそらくは、恋だった。
滅多に口を開かない、冷淡な、孤高の研究生というレッテルを貼られた浅間にとって、ひどすぎる恋だった。
勝手に到来し、そして口に出す前に勝手に去っていった。内部での処理は熱をおび、浅間の胸を黒くかきまわしたが、彼女は気づきもしなかったであろう。気づかずに、研究生ではない男と正門前で待ち合わせ、腕を組み歩き去ったのだ。
見かけて、そらした。
いつにも増して唇を結んだことに、トゥオーノが気づいていたのかは知らない。昨日になって突然、部屋で飲み明かそうと強引に浅間の住居にあがりこんできたのだ。
誰かとワインを飲みたかっただけなのかも知れないし、浅間の住んでいる狭い部屋に興味があったからなのかも知れない。
床に棚に、積み重ねられた無数の研究書は、研究室ではもう必要のなくなったものだ。面倒なので売りもしない。その本にかこまれた中央にポツンと真四角の白いテーブル。床に積んだ研究書の上には、一枚のタオルケットが、オブジェのように佇んでいる。
それだけの部屋だった。ゴミもない。
浅間は、研究が込むと平気で研究室で食事をし、眠り、洗濯までする男だ。時には何日も着替えないこともある。が、浅間にとってそれはどうでもいいことだった。
彼女も。
今だけだ。
あとは眠ればもうどうでもよくなる。
――突然。
大きな雷が鳴った。二度、三度。光。
トゥオーノのみじめな悲鳴に、浅間はビクリともしなかった。トゥオーノはあわてて起き上がり、うつぶせのままの浅間の肩に手をかけ力の限りゆさぶる。と、細身の青年はずるりと窓辺におちた。
「アサマ、アサマ! コワイヲー、コワイヲアサマ、アサマ!」
外人特有の妙なイントネーション。浅間は、閉じていたまぶたを薄く開いた。かがみこんで泣いている、自分の名を懸命に叫んでいる大男。
ぼんやりと見上げ、そして。
浅間は笑った。
最初はクツクツと、次第に声は大きくなる。トゥオーノはぽかんとしている。腹をかかえ、身をよじりながら笑った。酔っているのかと問われると、浅間はそれでいいと答えた。
めったにない、的確な瞬間であった。
「ざあざあだ。トゥオ−ノ、ざあざあだ」
雨が落ちている。
■ LOVE SONG ■
そう歌うように私の名前が呼ばれた時、私はよく自己嫌悪に陥ったものだった。 私は、……自分の声でオルトを呼ぶのが怖かった。ざらざらした私の声を、彼はいつも、丁寧に空気に織り込んでゆく。なめらかに動く冷たい手は、私の黒い肌と灰色の部屋によく似合った。
私がオルトと出会ったのは、ワーノルド侯爵が一般開放している、迷路庭園の、草むらだった。いつものようにスケッチブックを取り出し、私は、空を描いていた。辺りには薔薇の葉が茂り、出口は見えず、ただただ解放されていた。侯爵は、誰が入ってもいいとしたかわりに、迷っている人を城の上から眺めまわすことを趣味にしていた。
「――ソラ、描いてるんですか、」
突然、彼は歌った。
空気がふらっと動き、私はビクリと身体をふるわせた。顔を上げて見た瞬間、浮浪人のような気配が辺りに漂った。古びたジーンズの穴から、こんがりと焼けた膝が見え、皺の寄ったジャケットの胸からは、かすかにオレンジの香りがした。顔立ちは知らない国の人、瞳の色は、琥珀色に輝いていた。彼が笑って首をかしげると、サワサワと音をたてて黄色い肌が見えた。
お互いの自己紹介が終わった後、彼は、私に、名前を呼んでくれないかと言った。
「……オルト、」
かすれた声は自分のものではないように思えた。もうずいぶんと、私は言葉を発していなかった。毎日毎日、空ばかり描いていたのだ。
彼はゆっくり手を動かす。つかんで、閉じて、かきまわし、交差させ、揉みほぐし、織り上げた。空気の中に生まれたそれを、大事そうに両手で持ち、オルトは臙脂色のショルダーバッグにストンと入れた。こうやって世界中を旅しながら、音を、織っているのだと彼は言った。
オルトは、私の部屋では私の布の話しかしなかった。それによると、私の声からできた布は、黒く艶やかで、ミンクのような手触りらしかった。坂の下のパン屋で雑用をしている私には、ミンクというものの価値がわからなかったが、オルトは一生宝物にすると豪語した。温かく、柔らかく、まるで母親の背中みたいだと、オルトは私を抱きしめる。
私は彼の声に囚われている。
エッフェル塔の階段では、子供が老人達の手を引いて登っていた。ああやって、展望台までたどりついた後、お金をせびるのだ。私の手は彼のジャケットをつかんでいた。風の音を、絹でできたドレスに仕立てたいと、彼は言った。そのために、ずうと、こういう場所を探していたと。
展望台に着くと、彼はすぐさまショルダーバッグを開け、布を取り出した。といっても、私にはそれが、ただの仕草にしか見えない。
音でできた布は、普通の人には見えないのだ。いつになく真剣な表情、音を織る手。できた、と、彼がつぶやいたと同時に、耳鳴りが止んた。
その翌日、オルトは私の前から突然居なくなった。なにもなかった。置き手紙も、電話も、荷物も、靴も。私は、ホッと、一息ついて、ミルクを温めはじめた。
奇妙な人だった。それでも、私は彼を愛していた。それは彼も同様だったと、今なら言えると思う。部屋の中の変化に一か所だけ気づいたとき、彼も同時に気づいたであろうことに気がついた。
私は今も、ここを離れられないでいる。
彼の名前が思い出せなくなってくると、私は夕闇の中、クロゼットをそっと開ける。ささやかな服たちの中、灰色の部屋で、オレンジ色のハンガーだけが、ビュウビュウと音の風を織っている。

■ ラブ=ノーリー ■
ノーリーはね、則之ってゆうんだ本当だよ? しかももう十分に大きくて、背も、あたしの倍くらいあるのに自分のことたまにさ、ノーリーって言うんだよ。
おかしいって。
おかしいよね、ノーリー。
☆
則之は、オレンジ色のネクタイに手をかけ、くっと握るような仕草をした。次の瞬間はらりと床に、落ちる、甘い布のシロップは、無機質な白いタイルによく似合っている。
外国のキッチンをおもわせる清潔で真白な浴室。
そこで、こう顔をつき合わせるのはなにも珍しいことではなかった。少なくとも岬は、そう思って則之を見上げている。
則之のつりあがった眉毛の上には、きちんと切りそろえられた黒い髪の毛が、遠慮がちに並んでいる。その事実こそが、岬が則之に固執する要因だった。
整った顔立ち。大きな青い瞳。暑そうに袖をめくる仕草。
「ソーリー。やっちゃったわ、」
岬の足首は浴槽の中に程よくひたっていた。
血と透明が、混じった水の中でゆっくりとダンスを踊ってゆく。
則之の部屋の浴室で時々足首を切るのが、岬のクセだった。そのときには必ず、彼女は則之の帰宅時間を正確にとらえて切り、大事になっても素早く処置できるよう、ワンピースを着た。
今日着ている、空色のフリル付きワンピースは、則之が岬にプレゼントし損ねた唯一の洋服だった。
試着もせずパッと見て「買うわ」と言った岬だったが、合うサイズがその場になく、すかさず声高に店員を呼びつけ発注したのも、後日悠々と店へ引き取りに出かけたのも、代金を払ったのも岬だった。
「ソーリー。ノーリー。似てるね、」
則之は、無言で浴槽の栓を抜く。
則之は、無言で岬を抱き上げる。
則之は、無言で傷の手当をする。
「――ねぇ、日本語、わかってる?」
則之と勝手に名前をつけたのは岬だった。彼の後ろを歩き、家に勝手にあがりこむ、隣人の特権。
いつのまにか、彼の家で足首を切っていた。
好きという証だと、岬は信じている。
「ノーリー、」
傷を見つめながら、則之がつぶやいた。
ノーリーとは、ロシア語でゼロ。
ゼロは写真用語でフォーカス・ラブ。
……それを岬が知るのは、もうあと何年か先になる。
「すきなの、喋ってよ。ロシア語」
則之はもう何も喋らない。
ソーリーと、彼女が謝る言葉すら、彼には「塩」としか聞こえない。
浴室は白で満たされたまま。
彼は無言のまま。
抱きしめたまま。
それでも、夏は。
■ ラベンダーの十字に抱かれ ■
ココは変わらないな。相変わらず濃厚な薫りが漂うラベンダー畑。
彼は細い太陽の通り道に、ふぅっと腰をおろした。
再び訪れたオイルショックで、東京都心部は無人となり「国の中心」としての機能を果たさなくなった。そして国会は解散し、総理大臣という激務に追われていた彼は、何年ぶりかの長期休暇をもらった。
彼は総理大臣になってから今まで、こんなに長い休暇を貰ったコトがなかった。ただひたすらに働いては、支持率を気にし外国語を学んで異国の首脳と会談し、国会が開催されている間は野党の質疑に応答し、土曜は不祥事のスキャンダルにコメントし日曜は国家予算をどうするか悩み、もうカラダが保たないと思っていた矢先の休暇。
どうしようかと考えた末、彼は妻と子供に短い手紙を書いて、このラベンダー畑に来たのだった。
なぜココなのかは、彼にも解らない。幼い頃、母親と一緒に初めて旅行した地。
そう……あれは私が小学校2年生のコトだったな……。彼は一つだけ浮かぶ天空の雲を見ながら、そのトキの事を想い出した。空も、相変わらず青かった。
――ココよ、ホラすごいでしょう?
ニコニコ顔の母とはうってかわって、当時の彼はこのムワッと広がる薫りに吐き気を催した。母は驚いて、一本道の終わりにある喫茶店に、彼を抱いて走った。しかし、彼の発作的な嘔吐は止まらず、母は救急車を呼んだ。ラベンダーの薫りが途切れたトキ、彼はやっと深呼吸の方法を覚えたのだ。
それは彼にとっても初めての経験で、あの土地全体の雰囲気が彼を、激しく拒んでいたと、涙目になりながら感じた。鮮やかなラベンダーの向こうから「来ないで」と、誰かが言ったような気がした。
記憶を抹消しようとした。……無理だった。
鼻の奥にこびりついて、離れない、あの薫り。時と共に薄れてしまっていたが、国会議事堂を立ち去る寸前、鮮やかに、広がるように――。
あぁ、そうなのだ。忘れていたワケじゃあない。この薫りも、今では排気ガスと同じように何の拒絶もなく吸うことができる。
きっと、あのトキ感じた「来るな」は「まだ来るな」だったのではないのだろうか。
彼はそう思った。
あの時ほど嫌な感じはしない。
むしろ、ココが自分の居場所だったのではないかと、錯覚してしまう自分がいる。
ふと横に目をやると、小さなラベンダーが花を咲かせていた。彼はそれを、握りつぶした。広がる、薫り。
その手を、空にあげた瞬間。
「ごきげんよう」
声が聞こえた。
……誰だ?
一本道の始めには、駐車場と自動販売機。
終わりには、木造の喫茶店。一本道なのだから、自分以外居ないと判る。しかし、彼がいくら見わたしても、誰も。
「……誰か…」
彼はそう呟いたて、また一つ、ラベンダーを握りつぶした。
「今日は晴れて嬉しいわ」
握る。
「あなた様もいかがかしら」
潰す。
「おいしい紅茶が入りましたの」
彼は反射的に立ち上がった。
「クス」
「……誰…だ?」
風が出てきた。
「クス」
「クス」
「クス」
太陽は雲に隠れた。
「クス」
「クス」
「クス」
ラベンダーが、ゆれる。
「………」
ココはー…。
「紅茶を……頂こうかな」
彼がそう言うとざわめきが消え、ゆれる花々の間から見えたのはー…道。そこに真白なテーブルが。ラベンダー色のティーカップが。
テーブルの向こう側には、まだ道が続いている。
……まさか。
彼は、テーブルとは反対の方向に目をやった。
――ざわっ。
花々の間から見えたのは、道。
ここは十字路だったのかー…。
「どうぞ、お掛けになって」
声が、聞こえた。
彼は言われるままテーブルに腰掛け、紅茶を啜った。
紅茶? ちがう、コレは……。
「紅茶のお味はいかがかしら?」
「あぁ、美味しいよ……」
彼はラベンダーティーをもう一口啜った。
目を閉じると、今までの半生がウソのように思えてくる。
本当はずっと、ずっとココで夢を見ていたのではないかー…。
そんな感覚にしばし囚われた彼は、その思いを断ち切るようにスッと立ち上がった。
「そろそろ、帰らないと。紅茶、ご馳走様でした」
これからやる事がいっぱいある。立ち止まってはいられない。
「またいらして下さいね」
「……はい」
彼はテーブルの向こうの道を、歩き始めた。
☆
それから数年後。
彼は内閣に欠かせない逸材として定年まで国会に立ち続け、歴代の総理大臣の中でも「素晴らしい思想家だ」と、評価されるまでとなった。
この国が大好きなんだと語る、写真の中の彼の胸には、小さな小さなラベンダーの花が咲き続けている。