■ おあそび ■

 そのバーは、森の奥にある。
 平屋の建物自体がツタに覆われ、一見すると森の続きのように風景に紛れている。かろうじて見えるいくつかの壁の色。密やかに隠された扉を開ける――。
 薄暗い店内。
 今宵も少女が一人きり。
 静かな空気をかき乱すような「恋人ごっこ」を待ちわびている。
 私は靴音を響かせて、スツールに腰かけた。
 少女の席から、ふたつ隣。
 駆け引きは既に始まっている。
 バーテンダーにアブサンの水割りを頼んでから、硝子の灰皿を引き寄せた。スーツのポケットから煙草とジッポライターを取り出す。
 キン、という金属音をたてて火が点く。独特の香りが拡散していく。
 そののちグラスが届けられる。
 グラスの中身は氷と少量の水。その上にスプーン。スプーンの上に角砂糖が置かれている。
 と。
 少女が席を移動して私の隣に来た。白いワンピースを幽霊のようにはためかせ、すこしあどけなさの残る瞳を三日月にして笑う。
 今夜も。
 見せかけだけは優雅に、夜の挨拶を。
「……今晩は。外は満月ですよ」
 彼女は返答せず、スプーンの角砂糖を興味深そうに眺めている。爪の先を角砂糖に近づけて、ひっこめる。ネイルのスワロフスキーが、ライトに反射してきらめく。
 バーテンダーが角砂糖に火をつけると、少女の瞳がおおきく開いた。
 数秒後にグラスへと放り込む。
「……彼女に同じものを」
 バーテンダーが用意をしている間、私はようやく少女と話をすることができた。曰く、彼女は、いつでも死にたいと思っているという。
 聞き飽きた話だ。
 だが一応の形式上、私は穏やかに相槌を打つ。
 ようやく来たアブサンと角砂糖の火を見つめながら、少女は唐突に、自分は360度視界を回転させることができるとうそぶいた。
 いつもとは違う話だ。
 私は少し考えたあと、持ちうる中での最高の困り顔を作った。
「可憐なわりにキテレツだね、君。にわかには信じられない話だが、こんな夜は信じて見たくなる。よかったら披露してくれないか」
 すると少女はバーテンダーからナイフをひとつ拝借した。
 バーテンダーがいつも果物を切る、鋭利な刃先を首につけ、そこから一気に手前へ滑らせた。
 鮮血が飛ぶ。
 そのまま、パックリ切れた首から上を持ち上げ、ぐるりと1回転させて少女は首を元のように繋げた。だが隙間から絶え間なく鮮血が湧き出て白いワンピースが染められていく。
 私は微笑み、スーツのポケットからピストルを取り出した。
 引き金を引くと首の皮は切れて少女の顔は無様に床に転がった。拾い上げると目が合う。
 少女はニッコリと微笑み、口を動かした。
『来月も、楽しみにしているわ……』

■ 音声案内ハバーロメンツ ■

 ようこそ、ポーシタガーラへ。機械音声による案内をご希望のお客様は、1のボタンを押してください。
『1』
 ようこそ、ポーシタガーラへ。
 ここは、南側壁面以外のすべてがふくらんだ片硝子壁となっている12階建ての建造物です。建築デザインはクア・クニア。進水式の際に垂直に立つ船底をモチーフとして建てられました。
 1階はエントランスホール、総合案内所、トイレ、売店、カフェ。
 2階から9階までがハバーロメンツ図書館。
 10階から11階はイベントホール、会議室。
 12階はレストラン、展望室、管理室がございます。
 ハバーロメンツ図書館をご利用の方は、右奥にございますエスカレーターをご利用ください。10階以上をご利用の方は、左奥にございます10・11・12階用エレベータをご利用ください。
 各階のご利用案内をご希望のお客様は、該当階のボタンを押してください。
『2』
 ようこそ、ハバーロメンツ図書館へ。
 総合案内は1を、本の検索は2を、本の予約は3を、その他のご用件の方は4を押してください。
『1』
 ハバーロメンツは、整理書架のない図書館です。
 館内読書をご希望のお客様は、館内さまざまな場所で本との出会いをお楽しみいただけます。
 3階の円形ソファ裏の棚や、5階の窓際の棚、7階の開放テーブル前の棚など、あらゆる場所に本棚が設置されております。抜き取った本は、お客様のお好きな場所に腰かけてお読みください。
 読み終わった本は、その時お客様がいらっしゃる付近の棚にお戻し下さい。返却窓口はございません。特定の書架への返却は必要ございません。
 そうです。
 図書館内の棚は、或る時その本を棚に戻した……いつかのお客様方の心が雑多に納められております。その心をお手に取り眺めていただくのも、ハバーロメンツ図書館の楽しみ方の一つです。
 ハバーロメンツ図書館の蔵書は、電子識別管理されております。お客様がどこにお戻しになっても、次のお客様を検索機にてご案内きるようになっております。御安心ください。
 検索図書貸出をご希望のお客様は、先ほどの画面に戻り、2を押し、ご希望の図書を検索してください。案内レシートが出ます。レシートの指示にしたがい、本を探し、カウンターまでお持ちください。また、10冊以上の検索図書は、カウンターにて代理手配を受けることができます。番号札をお受け取りいただきましたら、しばらくお待ちください。各階のスタッフがご希望の資料を取りまとめ、お客様にお渡しいたします。
 なお、分類番号整理された書架をご希望のお客様は、ポーシタガーラより地下鉄で20分のネムノーゴフーバボ図書館をご利用くださいませ。
 よろしければ「戻る」ボタンを押してください。
 また、操作がない場合は、この画面は10秒後に総合案内画面へと戻ります。
 ―――。

■ おっぱいは世界を救う党・公約 ■

「まず、おっぱいは世界を救う党の基本理念から話さなければなりません」
「コーヒーどうぞ」
「どうも」
 フローリングが肌寒い。
 素敵なアトリさんの部屋は割に簡素で、白の座布団に座りながらぼくは、いつも、ここに誰かが来て何かを落としていけばいいのにと考えている。
 だから毎回、チョロQやミニ四駆やNゲージを落としていくのに、アトリさんときたら、それらを丁寧に紙袋へ入れて片付けてしまう。
 惜しがったらおしまいだ。
 あのトミカの消防車どうしてる? なんて聞いた日には、アトリさんは紙袋を取り出してきて「大事なもの、いちいち忘れないで」なんて、ぼくの胸におしつけるのがオチだ。
「えー、おっぱいというのは至福なんですよ。うずもると、世の中のギスギスした不条理なんか忘れちゃうくらいです。なので、おっぱいがたくさんあって皆がうずもれば、戦争はなくなると思うんですよね」
「チョコもどうぞ」
「どうも。と、いうわけで、今回の選挙に立候補しようかと。アトリさんも党員になりませんか?」
 彼女は目線をおとし、両手でコーヒーカップを持ちながら「公約は?」と聞いた。
「もちろんありますよ!」
「どうぞ」
「まず、ニート税を作ります。ニート1人につき年間60万円を国に支払ってもらいます」
「それってどういう……」
「月5万って計算です。自宅住まいのニート1人にかかるお金はこれくらいかな、って」
 なるほど、とアトリさんはつぶやいた。
「次に年金選択制度を作ります。国民年金の支払いが始まる前に、支払うか支払わないかを選んでもらいます。支払わない場合は65歳からの年金もナシで。それから、TPPは断固反対。ぼくの実家が農家だからっていうのもあるし、次の公約・国内自給率を更に10%アップ、にも繋がっています。それと」
「ちょっと待って」
 怪訝な顔をしたアトリさんと目が合った。
 スッキリのびた鼻、唇にあてられた細い指、黒く長い前髪の奥から、知性の塊のような目が、ぼくをじっくりと観察している。
 素敵だ。
「ここまでおっぱいに関する事、なにひとつ出てないわね」
「あ、」
「わたしの胸がまな板だからかしら?」
「えーっと……」
「巨乳好きを公言する君が、まさか、わたしに遠慮してる?」
「めっそうもございません!」
「顔がニヤけてるわよ!」
 鞄をあさられ、アトリさんの部屋に落とす予定だった巨乳変装グッズにコーヒーをぶっかけられた。
 怒ってるアトリさんも素敵だ。

■ 丘の上 ■

 なにもかもが、しょうがない。
 くちびるをなめながら、あきらめている。
 石葉が住んでいるマンションは高い丘の上にある。中心街からはかなり離れていて、最寄駅から歩いても小一時間はかかる。けれどもっぱら歩くのは、ここまでの道のりが石葉への追憶だという確信があるから。石葉はいっつも、同じ道しか通らないんだ。
 合い鍵もくくってある鍵束を右手に、アイスの入ったコンビニ袋を左手に、石葉の幻影を両目に、一歩一歩進んでいく。
 夕方も目の前というのに暑さは昼から全然下がらなくて。ツウツウと肌をなぞった汗は、ワイシャツの中にじわりと滲む。仕事がわったあと汗だくになりながら丘をのぼって、のぼりきって、いつも通り石葉に会いたいから、もうしょうがないんだ、こんな毎日は。
 大理石が恭しく出迎える玄関先で、電卓みたいなボタンを4つ押してキーを解除。色の違う大理石が敷き詰められたエントランスに入ると、エアコンの冷気で思わず身震いする。
 冷えきる、石。
 石葉はね、ここ、好きなんだって。わたしは嫌い。頭、痛くなっちゃうでしょ。今だってもう、ちょっぴりズキンとしてる。
 足早に通路を通ってエレベータ。
 石葉の部屋は502号室だから、5のボタンを押す。無意味に7とか13とかも押して、もしかしたら隠された暗号が出て来て、エレベーターがドカンと宇宙へ飛んで行ったりとか、そんな妄想の中にも石葉はひそんでいる。
 何事もなくエレベーターは5階について、合い鍵でドアを開ける。
 汗でべったりしている靴を脱いで、テーブルにビニール袋を置いて、はぁ……、と、ため息をついても石葉はまだ帰ってきていない。
 袋の中身は、カップアイスと棒つきアイス。
 カップのほうが、わたし。
 石葉はかならず棒なの。
 あいつ、舐めきったアイスの棒を噛む習性があるの。
 習性っていうと、動物みたいでしょ。でも習性。無意識なの。飲み終わったストローもそう。かみかみしすぎて、ひん曲がっちゃうくらいに噛むの。テレビとか見ながら。
 あの横顔、ため息出ちゃうよ。会いたい。
 石葉。
 まだかなぁ、って。
 もちろんまだ帰ってこなくて、そんなのは分かりきってる。石葉のタイムテーブルは狂ったコトがなくて、わたしのタイムテーブルもだいたい狂わないから、石葉の部屋なのに……出迎えるのはいつも、わたしのほう。
 抱きついて。
 お帰りって。
 動物みたいけれど石葉はわたしに抱きつくと肩を噛む習性があるの、甘噛み。そういえばココに来る前、立ち読みしていた本で『口淋しい人間は幼い頃親の愛情を受けなかったから』だとかなんとか……。
 まぁ、どうでもいい。アイスの棒も、歯型がついた肩も、好きってだけじゃん。どうでもいい。
 部屋の中が薄暗くて、エントランスと違って蒸し暑くて、嗅覚がとぎすまされていく。今朝の記憶に残っている石葉の匂いに抱かれて、わたしは右手をもちあげて、人差し指の関節を、甘噛みしながら待っている。

■ 怯えているMyシャドウ ■

 光る猫の爪が夜空に高く昇ったとき、俺の隣で、影が震えているのがわかった。俺は影とベランダで、焼酎と檸檬水と柿の種で一杯やっていて。
 震え方が尋常じゃないんで、とりあえず聞いてみた。
 ――おい、どうしたんだよ。そんなに怯えてると、俺まで気分が悪くなるだろ。
 影は、ひとつため息をつき、横目で俺を見た。リビングの光が俺を後ろから照らしあて、そこから影は、ぬっと伸びていた。
「怖いんだ」
 影は言った。
 怖い?
 一体何が怖いのか、俺には見当もつかなかった。
 さっきまで楽しく飲んでいた俺たちの空気が、次第に濃くなっていく。
 ――なぁ、どうしたんだよ。飲もうぜ。
 俺はやけに明るい声で言ってはみたものの、影はまだ震えを抑えられないようだった。俺はため息をついて、真面目に、影に向き直る。
 ――聞くよ。何が怖いんだ?
 俺とお前の仲じゃないか。
 心配事も、悩み事も、嬉しい事も、悲しい事も、いつだって共有してきたじゃないか。
 そう、俺は影に言った。
 影は、グイッと焼酎を飲んで、それから意を決したように言った。
「今までも、ずっと怖かったんだ。お前にはどうしても言えなかったんだけど……。打ち明けてもイイのか?」
 ――当たり前だよ。どんとこい。
 俺のその言葉に、影は少しホッとしたようだった。
 今日の月はまさに「猫の爪」と呼ぶに相応しく、金色のそれは、細く気高く、手を伸ばすと、指がサクッと切れてしまいそうで。
「もぉスグ新月だろ」
 ――そうだな。このぶんだと、三日もすれば新月だな。
「新月、すごく怖いんだ」
 ――……マジかよ…。
 俺は驚きを隠せなかった。
 新月というコトは、影は、俺に黙って毎月怯えていたのだ。
 ――何でもっと早く喋らなかったんだよ!
 俺は思わず大声で怒鳴ってしまい、それからハッと気づいて、すぐさま謝った。
 ――ごめんな。それにしても、もっと早く言ってくれれば俺だって……。
 影は切なそうな笑みを浮かべて、謝った。
「今まで、黙っててごめんな」
 それからしばらくして、影は語り始めた。
「新月が怖いんだ……。星は光っても、お前の後ろに影をつくるまで光ったコトなんてない。暗い闇が、俺の存在を消しそうになるんだ。新月が終わって、また月が光り出すと、ホッとするよ。まだ生きてるって」
 影は本当に怖そうだった。
「だから毎月毎月、新月なんて来なきゃイイって思ってた。でも、お前は新月、好きだから……言えなかった」
 影の言うとおり、俺は新月が好きだった。
 それは、俺が月より星のほうが好きっていうのもあったし、月がなくなる頃には、親父の仕事も一段落して、家族で外食する日は決まって新月の日だっていうのもあった。
 その頃……たぶん、小学四年ぐらい……から、すでに俺は影と会話をするすべを習得していて、ハンバーグセットについてくる不味い人参とか、夕食のピーマンなんかを、影にこっそり食べさせていた。
 ずっと。
 新月の日は、ずっと。
「ずっとだよ。お前と話をするようになってから、ずっと怖かった。ほら、お前と喧嘩して一ヶ月ぐらい口をきかなかった時、覚えてるか? あの時の新月が、一番怖かった。だから俺から謝ったんだ。お前と何か話をしてないと、自分が消えちゃうんじゃないかって不安になってさ……」
 影は、照れくさそうにそっぽを向いた。
 俺は影のコップに、新しく焼酎と檸檬水を注いだ。
 ――でも、今は夜でも街燈が灯ってるし、家に居れば光に困るコトはねぇだろ。
「うん……そぉなんだケドさ…」
 影はもう、震えてはいなかったが、まだ自信なさげにうつむいていて、俺はそんな影に何をしてあげられるか、考えなければいけなかった。
 思ってみれば、今までの新月の日、影はやけにハイテンションで、そうだ、外食の日なんかも、親に見つかるんじゃないかっていう位、ずぅっと話をしてた。
 ――ずっと怖かったのか?
「あぁ、ずっと怖かった。今も、怖い。あと何日かしたら、もしかして俺は消えてしまうんじゃないのか?? って、思うよ。時々、一瞬だけ、例えば停電した直後とかには、本当に消えてしまうけど、それは大丈夫なんだ。だって、そんなのほんの数分だろ。でも新月は違う」
 影はまた、焼酎を一気に喉に流し込んだ。
 影は俺と違って、酒が強い。正反対なのだ。なんてったって、俺の影なんだから。
「本当に光がなくなる新月は一晩ダケだけれど、実際は三晩ぐらい、月の不在が続くんだ。その間といったらなかった。昼が、ずっと続いて欲しいと思ってた。怖いんだ。怖いんだ……」
 俺は何も言い返せずに、影を見つめた。
 影は静かに泣いていた。
「今も、お前とこうやって話ができるだけで、どんなに救われてるか……。他の影たちよりは幸運なんだろうけど、俺は怖いよ。光が無ければ消えてしまう、こんな不安定な存在なんて、いっそのことー…」
 ――そんなコト言うなよ! 俺は今までお前と居れて、すごく楽しかったんだから。シカトされて、クラスの皆にハブられた時だって、お前が居てくれたから大丈夫だったんだよ。
「……サンキュー」
 影はまた、悲しそうに笑うだけだった。
 今まで、新月の日に肝試しとかで、本当に暗い所に行った時とか、こいつは、どんな思いだったんだろう。
 周りの環境ひとつで、自分が存在できなくなる怖さ。
 今まで一緒に居たのに、こいつのコトを何ひとつ解ってなかったんだと、正直、俺はかなりショックを受けていた。そんな想いを隠そうと、俺は焼酎をロックで飲んだ。
「あと三日か……」
 ――おもいっきり騒ごうぜ! カラオケとか行ってさ。オールナイトで!!
 俺が開き直って笑うと、影は、猫の爪にコップを捧げた。