■ ネギを買いに行く根岸 ■

 根岸由紀雄は自宅の冷蔵庫を開けた。
 しかしやはり、そこにネギはなかった。
 彼の頭の献立は、既にスキヤキと決まっている。ネギが入らぬスキヤキなぞ、ショートケーキのスポンジの間に謎の甘ったるいフルーツが入っていない事と同義だ。あの日気づいた根岸由紀雄(当時6歳)はどんなに落胆したことか。そんな記憶が脳裏に浮かび、根岸由紀雄は決意した。
 商店街は苦手だが仕方ない。ネギを買うぞ、と。
 ちいさなテーブルに乗っている財布を勢いのままひったくり、上着を羽織ってスニーカーを履くと根岸由紀雄は自宅のドアを開けた。
 徒歩5分ほどで商店街に到着し、午後3時5分の根岸由紀雄は昼ちょっとすぎ特有のまったり感に包まれた通りを慎重に歩いていく。お目当ての八百屋に到着すると、店からすこしせり出した台を眺めた。
 多種多様な野菜や果物が、安っぽいプラスチック製のざるに乗っかっている。ネギが見当たらないためしぶしぶ店内に入っていくと、八百屋の親父さんが「んらっしゃい」と声をかけてきた。「い」を発音できないのは鼻が詰まっているせいだろうかと根岸由紀雄は思ったが、余計なことは声に出さず仕舞っておくべきだと常日頃言われているのでお口にチャックをビーと引く。
 会釈後2秒、ついに根岸由紀雄はネギを発見した。
 瑞々しく立派な巨大ネギは、縦長の箱の中に立てかけられたまま鎮座している。下にこれまた立てかけられた蒲鉾板に値段が筆で書いてあった。
 2本で500円。
「高っ……」
 ハッとした根岸由紀雄は素早く口を手でおさえたが、声は八百屋の親父さんの耳にしっかりこっきり届いていた。
「ほーおぉ、」
 八百屋の親父さんは根岸由紀雄に向かって一歩踏み出し、親指の腹を顎にあてた。
「ネギを値切る気だねぇ?」
「………」
 根岸由紀雄は財布から500円玉を取り出しレジテーブルに置いた。
 さっとネギを取ると回れ右をして八百屋を出る。オヤジギャグに反応するかしないか根岸由紀雄の脳はフル回転したが、反応しても特に値引きはしてくれないだろうという結論に至ったための行動であった。
 八百屋を出て数歩進むとそこには昔ながらの肉屋がある。ショウケースの向こう側にはこれまた昔ながらといったパンチパーマのおばちゃんが佇んでいる。が、根岸由紀雄の視線は髪の毛ではなくお買い得表示になっている牛肉モモ薄切りに注がれていた。
 肉を追加するかしないか、根岸由紀雄が足を止めると上からパンパンと手拍子が降った。
「いらっしゃ〜い。鴨肉安いよぉ〜」
「………」
 ネギを持っているから鴨肉を勧めたのだと気づいた根岸由紀雄は全身のギアを引き上げスタートダッシュを華麗に決めた。一直線に商店街をぬけて住宅街に入り門をくぐり鍵を開けて自宅にゴールイン。
 ぜーぜー息を切らせたまま、根岸由紀雄はやはり牛肉を追加しておけば良かったかと後悔する気持ちと商店街にもう二度と行きたくない気持ちと冷静と情熱と愛しさと切なさと心強さと東京タワーと時々ネギと根岸由紀雄のフライデークッキングが今、始まろうとしている。