■ ンメグネナ ■

 ――ハドボロがこの町に住みついている。
 そんな噂を耳にしたのは、スーパーマルト屋の精肉売り場でのこと。
 私がトリモモ98円と手羽モト29円で悩んでいる時だった。
 ここはとにかく肉が安くって、種類もたくさんあるから超常連。BGMの音量も控えめだし、肉のつぎにはお菓子が安い。近所にはアオニコマートもあるけれど、近道の公園を通りぬけて毎日のように足を運んでいた。
 選んでいるフリをしつつ、後ろの雑談に耳を向ける。
「……怖いわぁ〜…」
「そうよねぇ、ウチの子に何かあったらと思うと……」
「でもあの神社、誰も行かないものねぇ〜…、気付かないわけねぇ」
「そうよねぇ、参拝する人なんて見た事ない……」
 私はすぐにピンときた。
 あそこだ。
 町のはずれの山腹、さびれた神社の境内の、裏の小さな沼。
 あそこに。
 ハドボロが。
「……よし、」
 トリモモ手羽モト全部やめて豚バラブロックにした。確かハドボロは鶏肉より豚肉、豚肉よりボタン、ボタンより……人間の肉のほうが好きだったはず……。

     ★

 ハドボロの居場所は、私のカン通りだった。
 沼に豚肉を投げ込んで数十秒、ポチャリと水音がしてハドボロが顔を出した。大きな左手には泥まみれの豚肉。
『――ナノガ?』
 響く声は低く、ズンと心をゆさぶられる。
 私は、昔見た図鑑に書いてあった通りに
「ワドナ、ケヤグサナルベ!」
 と呪文を叫んだ。
 ハドボロはしばらくそのままで、けれどドボンという音をたて、沼に消えてしまった。
 コンタクトの失敗。でも、685円の豚バラブロックとひきかえに、ハドボロの生の声を聞けただけでも良しとした。数週間、ううん、数か月、いやもっと、数年単位の計画でもって、私はハドボロと仲良くなることに決めた。
 お金のこともあるので、週に一回だけハドボロに会いに行く。毎日百円ずつ貯金するだけで、豚バラブロックのそこそこ大きい奴が買えた。
 沼に投げ込み、呪文をとなえる。
「ワドナ、ケヤグサナルベ!」
 その後、ハドボロが出てきても出て来なくても、私は苔むした石に座り、ハドボロに話しかけた。
 話しかけることは、もっぱら仕事や家族の愚痴だった。
 家事をしない母親、浮気をしている父親、暴力をふるう兄、私の持ち物を勝手に売る妹。仕事先でのモラハラ上司、いびってくるお局、後輩になめられている事、ちょっとしたミスで死にたくなる。だれもいない友達、結婚した元彼、同窓会に行ったら服装を笑われた……。私はとても被害を受けていると思うけれど、もうどうしようもない。
 月日は流れ、給料が入った日。
 私はスーパーマルト屋で、ボタン肉を手に入れた。
 浮かれて、たくさん買って、神社の沼へと足を向ける。塊をひとつ投げ入れると、血の臭いとともにハドボロが顔を出した。
「ワドナ、ケヤグサナルベ!」
 すっかり慣れた呪文をとなえると、その日は違った。
『――イイド』
 ハドボロが、返答したのだ。
 私はびっくりして、しばらく固まった。ハドボロの返答―…、次に何を言えばいいんだっけ。頭がまっしろになる。
 とりあえず私は沼に飛び込んだ。
 そうだ。
 ずっとこうしたかった。
 ハドボロに食べられて死にたかったのだ。
 と、いう事に気付いた今、まさに私の足首をハドボロが舐めた。
 ベロリと。
 ぞくぞくした。食べられるんだ、今。
 けれどその直後、ハドボロは四本脚を使って器用に私を岸にあげ、低い声で悲しく言った。
『――ナンボンメグネバ』
 私は泣いた。
 その言葉の意味はわからなかったのに、私は、ひどく声をあげてぼろぼろ泣いた。

     ★

 あれからすぐ、ハドボロは射殺された。
 警察官とテレビ局が神社の沼に押し寄せ、大獲りモノとテロップが流れて夕方ニュースで全国放映された。
 翌日には朝のニュースで専門家が、もっともらしくハドボロの生体について解説していた。それによると、ハドボロはかなり凶暴で、人語を理解しているが会話は成立せず、人間が近くに来ると問答無用で襲う、凶暴な生き物だということだった。
 私はすぐにテレビを消した。
 違うって、知っているから。
 あの時、ハドボロは私を食べないでくれた。直後に響いた言葉の意味は……よくわからなかったけれど、きっと私を慰めてくれたのだ。私は、確かに背中を押してもらった。
 だから私はすぐに行動を起こした。
 必要最低限の荷物と、家の通帳から全額引き出した現金を持って遠くへ逃げた。
 会社にも家族にも知らせず、今、私は知らない土地で第二の人生を歩んでいる。
 遠くへ逃げたあと、過去の思い出がフラッシュバックして道でうずくまっていた私をひろってくれたご夫婦。中華料理屋を切り盛りしていて、住み込みで働かせてくれている。いつもニコニコと笑って一緒に夕飯を作ってくれる。気になる常連さんの男性もいるし、デパートの店員さんとは同じ趣味が発覚して友達になった。毎日が楽しい。
 中華の仕込みで豚バラブロックを大将が鍋に放りこむ時、ジュワンという炎の音が、時々、ハドボロの声に聞こえる。