■ モリノ ■

 テレビは見ない。
 森乃が出ているから。
 けれど情報にあふれた世界から森乃を追い出すのは到底無理無謀な話だった。
 どこからでも追いかけてくる。
 ネットニュースの見出しから。社食の新聞から。同僚の話し声から。駅前のスクリーン広告から。電車の週刊誌釣り下げから。タクシーのラジオから。そして、
「……おかえり」
 自宅のベッドから。
 毛布で巧妙に隠しあたかも裸を連想させるような体勢で森乃はベッドに座っていた。本来座る場所には大きめの段ボール。テーブルに隠れて、何の段ボールかは分からない。
 小さい1DKが急に狭くなり、俺は盛大にため息をついた。
「はぁー…。いっつも俺ん家来るのやめろ」
 毛布をはぎ取ると、布面積少なめのスタジオ衣装だった。こんな格好で歌って踊るのかこいつ……。
「お前なぁ、………」
 あとは続かなかった。
 森乃の目から大粒の涙がこぼれ落ちたからだ。
 いつもの泣き落としだ。
「お兄ちゃんっ、もっ、森乃ね、森乃ね……! ひっく、ひっく」
「嘘泣きやめろ」
「ウソじゃないもんっ! ひっく、ひっく」
「しゃっくりかよ」
「………」
 森乃は頬をぷっくりふくらませた。
 あれほど大粒だったのに、涙はもう出ていない。
「お兄ちゃんなんか目隠し写真で春文砲撃たれればいいんだー!」
「兼谷さんはちゃんと裏取る人だろ。名刺交換したし」
「つまんない」
「おー帰れ帰れ。こんな詰まらない部屋から出てけ。おら、出ってっけー、出ってっけー」
「やだー!!」
「やだじゃないだろ社会人だろ。衣装も返さないとだろ」
「……お兄ちゃんの服貸して」
「入んねーだろ……。………。おい、無理に着んな! それ気に入っ…」
 ――ビリビリビリ!
 盛大な音を立てて俺の服は破けた。今月2回目。
「森乃!!」
「ごめーん。だってお兄ちゃん小さいんだもん」
「お前がでかいの! 用事ねぇなら北斗の拳の世界に帰れよもぉー…」
 破れたお気に入りの布骸を抱えている俺の上に、ヌッと影がかかる。
「用事ならあるよ。お兄ちゃん。だからあれプレゼント」
 森乃が指さした段ボールをよく見ると、ワイドテレビと書かれていた。
「僕、SASUKEの予選通過した」
「マジか……!?」
「お兄ちゃん好きだったでしょSASUKE。僕がんばるから見て」
 筋肉系アイドルの弟は、いそいそと段ボールを開けはじめた。
 テレビ……見るか。

■ モンブラン・ポポフィーヌ ■

 商店街の小さな洋菓子店「モンブラン・ポポフィーヌ」は、その名の通りモンブランケーキが主力商品だ。
 販売員の渡辺三姫は、ショウケースに5種類のモンブランケーキを並べ終わると両腕を高く伸ばした。
「んーっ、やりきったぁー…」
 すかさず店長の渡辺柳一が売り場に顔を出し
「ミキちゃん、ほいっ」
 と、天板一杯に敷き詰められた焼きたてのアップルパイを三姫にトスする。ふわんと、林檎の甘い香りが店内に漂った。三姫がアップルパイをショウケースの上の網に移動させていると、見習いパティシエの渡辺浩二がひょいとホールに顔を出した。白い帽子をカクンと下げる。
「おはょざいやーす」
 この洋菓子店は、店長でパティシエの渡辺柳一、見習いパティシエで販売員も兼ねている渡辺浩二、アルバイト販売員の渡辺三姫の3人で構成されている。
 3人は全員渡辺という苗字だが、まったくの赤の他人だ。
 けれどネームプレートを見たお客様の大半に、家族経営だと勘違いされる。3人は逐一訂正するのを諦め、今では半笑いで流している。
 アップルパイを並べ終わった三姫は、空の天板をクルリと回しながら、鼻歌まじりにキッチンへと向かった。しかし、キッチンには入れなかった。入り口に渡辺浩二が立っていたからだ。ひょいっとキッチンを覗くと、店長の柳一がそれに気づき浩二に声をかけた。浩二が体を横にし、三姫はようやくキッチンへと入れた。
 ステンレス製の作業台に、小さな白いケーキ箱が乗っている。
 ケーキ箱の横には、中身と思われる黄色いモンブランケーキが1個。
 手前にさしてある小さい板チョコには白チョコペンでこう書かれていた。
『ワタナベさんへ』
 三姫は、押し黙っている2人の顔を見た。どちらも困惑といった表情を浮かべている。
「あの……コレ、オレ、手紙……」
 浩二が説明しはじめる。
「手紙を取りにポスト行って…開けたらコレが……外は誰もいなかったっス……」
 三姫はケーキ箱をひっくり返したが、何も入っていない。
「店長ぉー。これ、店長あてじゃないですかぁー? 明日で2周年だし、お祝いのつもりかもだし」
 三姫がモンブランケーキを持ち上げると、柳一はそれをじっと眺める。次に、三姫が返したケーキ箱の裏面を確認した。
「……ふむ」
 裏面に貼られたシール状の店舗情報を読むと、どうやらこのケーキは全国にチェーン展開している激安菓子店のものである。値段は非常に安いが、大して美味しくない事は全員が知っている。
「私の店を祝ってくれるなら、ここでケーキを買ってくれるはずだよ。コージ君宛てじゃあないかい? 引き抜きのメッセージとか……」
 柳一が水を向けると、浩二はブンブンと首を振った。
「ないッス、ないッス! 絶対。ミキさんじゃないスか? この前、お客さんに告られてたじゃないスか。そのプレゼントって事も……」
「え?! やだぁ〜…、キモッ」
 三姫の言葉がそのお客に向けたものなのか話題を取り出した浩二に向けたものなのかが分からない中、突如柳一は歩き出した。
 作業台の上のモンブランケーキを持ち上げてゴミ箱へ捨てる。金色のトレーも捨てる。白いケーキ箱も捨てる。そして調味料入れまでサッサと歩を進め、塩の箱を持ち上げ、裏口をキィと開けてパッパと撒いた。
「毒でも入っていたら危ないからね。明日からは、当分私がポストを開けるからね。さ、開店準備を続けよう」
 静かだが有無を言わせない圧に、浩二と三姫は「「ハイ」」と返事した。

     ☆

 翌日。
 2周年のめまぐるしい忙しさもようやく終わりかけた午後六時過ぎ。無人の店内には三姫だけがポツンと立ちつくしている。浩二は休憩中、柳一は到着した材料を倉庫に運んでいる。
 と、一人の女性客が店のドアを開けた。
 すかさず三姫は満面の笑みを浮かべる。
「いらっしゃいませぇ。お決まりになりましたらお声がけくださぁい」
 しかし女は、ショウケース内のケーキではなく三姫の顔に視線を置いたままツカツカ歩いてきた。これ以上ないところまで近づくと、顔をゆがませジロジロと三姫を眺める。
 三姫は驚いたが、笑顔を崩さすと首を可愛く傾けた。
「……お客様? お決まりになりましたでしょうか?」
 女は顔を近づけたまま唇を開く。
「あなた、具合は?」
「はい?」
「具合はどうかって聞いてるの!」
「具合……でしょうか? ……元気ですけど」
「何で!!?」
「………。お客様、少々お待ちください」
 三姫は柳一を呼びに行こうと素早く駆け出した。しかし女も同時に走り始め、ショウケースが途切れたところで三姫は胸倉をつかまれ
「返しなさいよ!!」
 と怒鳴られた。
 騒ぎに気付いた浩二が駆け寄り、三姫とお客を引きはがす。そして奥に向かって
「店長! 店長ひゃくとーばん!!」
 と叫ぶと、柳一が静かな足取りで売り場に入ってきた。スマートフォンを耳に当てたまま、冷静に警察へと情報を伝える。
 すっかり大人しくなった女に事情をきくと、女は先日三姫に告白してきたお客様と付き合っていたのだという。急な別れに戸惑っているうちに、この店の店員に告白したという情報を得て下剤入りのモンブランを店のポストに仕込んだらしい。
「……じゃあ、何でワタナベさんへって書いたんスか? 誰宛てかわかんなくて捨てたし…」
 浩二がそう聞くと、女は苦虫を噛み潰したような顔で
「読めなかったのよ。キラキラネームで」
 と言った。
「はぁ?!?! ちゃんとワタナベ・ミキって書いてますけど?!?!」
 女に食って掛かる三姫を見て、柳一は怪我の功名だねと笑った。
「店長! アタシ怪我してないから!!」
 そのやり取りを見て、思わず浩二もクスリと笑みをこぼした。