■ 目薬屋 ■

 日々に追われ、いつのまにか命日が過ぎさり、二十年も経つとこんなものかと愕然とする。
 自覚したとたんに日々のちいさな幸福はしおれ、しわ枯れ、かけらは切り花のようにバラされていく。
 俺の足元は散らされた幸せに彩られ。
 けれどそれは見せかけだと知っている。
 爪先から透明な、水のような虚無が波打ちせり上がり、いつか俺は――。
 そんなものは妄想だと気持ちを強く持てばいいのだろう。けれど現実は残酷だ。
 片手でピアノは弾けない。
 事実としての黒いカレンダー。
 過ぎた命日。
 白く朽ちていく、せりあがる、喉の、すぐ上まで。
 たまらず帰宅の足を西日に向け、俺は急いで目薬屋に行った。
 商店街の路地からはずれた暗い通りに、ひとつだけ灯りがある。無垢の扉に丸い窓がついており、そこから光が漏れているのだ。
「いらっしゃいませ。あぁ、久しぶりですね。お待ちしておりました」
 扉を開けるといつもの青年が、ふんわりと笑みをうかべた。
「今年はもう来ないんじゃないかと思っていましたよ。どうぞ、お掛けください」
 店内には美容室のような椅子が3つ並んでいる。
 だがここは美容室ではない。
 鏡のかわりに棚があり、色の違う目薬の小瓶が等間隔に置かれている。
「え? はは、いやぁ……、また種類が増えまして。全種類制覇するには、年一回じゃなくて年十回は来ないと無理なんじゃないですかね。メーカー側も、ほら、今、こんな感じでしょう? 妙に需要が増えまして。テレビ、見てます? 泣きながら窮地を訴える嘘吐きばかりですよ」
 財布から札を取り出し、青年に渡す。
「五千円お預かりいたします。いつものコースでよろしいですよね? いまお釣りを準備いたしますね。……ここだの話、実は…、私が手掛けた「泣き」が結構あるんですよ。テレビ、信じられなくなりますから、常連さんにしか言いませんけどね。お釣りとレシートのお返しです。では、棚から好きな目薬を選んで、お声をおかけくださいね。個室にご案内しますから」
 椅子の背もたれに体重を預け、様々な目薬を眺める。典型的な目薬の瓶に詰められているが、すべて色が違う。棚は虹色に彩られていた。
 時間をかけて眺めた末、今年は紺青色にしようと決めた。
 日々の、なかで。
 目に与えられる特別を選ぶとき、花の香りがどこにでもあるように。あふれ出た海の味が口まで届くのにふさわしい色。
 そういう気がしている。
「これですか? わかりました。それでは個室にご案内しますので、お立ちください」
 青年の案内で、カーテンに仕切られた店の奥へと歩く。
 ここにも3つの扉があり、青年は一番奥の扉を開けた。
 中にはまた椅子がある。
 サイドテーブルにはティッシュ。
 それだけの空間だ。
「目を大きく開けてー…もう少し上を向いて……。はい、入りました。ティアセコンドはいつも通り二十秒です。三十分後にお声をかけますね。お判りでしょうけれどティッシュはご自由に。では、」
 二十秒のうちにティッシュをできるだけ引っ張っておこうと、手を伸ばす。
 けれど、十秒もしないうちに目から涙があふれてきた。
 あわててティッシュを目頭に持ってくる。
 止まらない。
 流れ続ける。
 命日も過ぎてしまったというのに――。
 事情を知ると人々は決まってこう言うのだ。
『きっと悲しいはずだ』『きっと悲しいはずだ』『きっと悲しいはずだ』
 涙が。
 あふれてくる。
 それから吐息が。
 次に、想い出が。
 あとから。
 あとから。
 どうしても泣けなかった。死んだと知った時も、遺体と対面したときも、葬式の最中も、納骨のときでさえ。
 すべてが終わったがらんどうの部屋で。
 虚無だけがいつも這い上がる。
 どうして。
 どうして。
 喉を。
 しぼりだして。
 嗚咽の真似をしてみる。ヘタクソな鳥真似が、ちいさな部屋に消える。
 涙は流れ続ける。
 きっと悲しいはずなんだ。
 そうでなければ。
 毎年。
「――失礼します。入ってもよろしいでしょうか? えぇ、では失礼します。ホットタオルをお持ちしました、どうぞ」
 腕をふりあげてスマートウォッチを確かめる。
 早いものでもう三十分も経っていた。
「扉はこのまま開けておきますから、落ち着いたタイミングで出てくださいね。おわかりでしょうけど、言う決まりなのですみません」
 腫れぼったい目で頷くと、青年は思い出したように
「あ、」
 と言った。
「そうそう、今度の日曜に放送される子犬のドラマ、時間があれば見てみてくださいよ。テロップに私の名前出ますから。でもテレビ局ってこういうのまともに書けませんから、どこで出ますかねぇ……美術、とか、特別協力、とかで個人名だけかなぁ。大々的に宣伝できれば嬉しいんですけど、世の中そう上手くはいきませんし、大勢でワッと来られてもさばけないですし……。……今年も、」
 青年はすこし目線を下にして、次に眉尻をさげて俺を見た。
 静かな声で微笑む。
「今年も青色でしたね」
 日々を繰り返しいつの間にか積もり埋もれていく命日。時折取り出して、嘘でもいいから泣くためだけの夜。

■ メロウマンション ■

 夕日を背に泣いているカナを抱きしめようとして、けれど、僕よりも先にユウキの手がカナの髪の毛をくしゃくしゃにした。
 もう片方の手はカナの頬をすべりおりて、涙をやさしく受け止め、そして勢いよく、カナの体をぎゅうっと抱きしめた。
 僕はその様子を立ちつくしたまま見ていて。
 夕日は沈みきって――…。
 ――まるで絵画みたいだな。
 ようやく口を開いたんだ。
「……カナ、ユウキ、そろそろ入ろう」
 ふたりは顔をあげて僕を見る。
 僕の真後ろを見る。
 12階建てのメロウマンション。僕らはここに住んでいた。
 風が吹く。
 冬の、つめたい風が。
 僕は作った笑みをうかべ、二人より先にマンションの中へと入った。

     ★

 あの夕方から二週間。
 カナとユウキは付き合いはじめたらしい。
 ふたりは交互に、メロウマンションの11階にある僕の部屋まであがってきて、お互いののろけ話を僕に披露していく。
 ベッドと本しかない無機質な僕の部屋をあたためるように、頬を染めあげながら。
 そのあと決まって言う。
 もしカズヤに恋人ができたら、いつかダブルデートがしたい、と。
 僕も決まってこう言う。
「今のところは勉強が恋人だから、そんなに言うなら皆で図書館に行こうよ」
 僕とカナとユウキで図書館に行こうよ。
 昔みたいに。
 小学校のときみたいに……。
 願いは毎回却下される。
 ふたりは、今は、勉強より、お互いを知ることのほうが大事みたいで。
 僕の順位を否定していく。
 最近、部屋がやけに冷たい。

     ★

 ユウキが、大学入学早々、僕の部屋に乱入してきて泣き出した。
 ぐちゃぐちゃに喋りだしたユウキの話を総合すると、カナと喧嘩して別れる別れないの話になったらしい。
 僕は昨日カナから、お花見デートプランを聞かされたばっかりだったけれど……、この調子じゃあ桜は散ってしまうだろう。
 ――チャイムが鳴った。
 出てみると、泣きはらした目をしたカナだった。
 こんな時に僕を頼ってくれるのは嬉しいけれど、ブッキング。
 どうしようか思案しているうちに、気づいたユウキが玄関先まで出てきた。
 ふたりはお互いに謝り、僕の目の前で仲直りした。
 良いタイミングを見計らって、
「そうだ、せっかくだからピザとろうよ。確かチラシがリビングにー…」
 横を向いてやる。
 キスに気づかない振りをして。
 リビングへと向かう短い廊下のうしろから、クスクスとカナの笑い声がきこえる。

     ★

 結婚式のあとの二次会には参加しなかった。
 がらんとしたリビングのテーブルの上に、飲み干した缶チューハイを積み上げていく。
 そろそろ深夜零時をまわろうかという頃、チャイムが連打された。
 おそらく、べろべろに酔ったユウキだろう。
 仕方なく玄関まで出た。
「カナは?」
 きくと1階でダウンしていて、ふたりの新居まで引っ張るのを手伝ってほしいという。
 仕方がないのでサンダルで、メロウマンションのホールまで降りていく。
 壁にもたれて寝ているカナを背負って、千鳥足のユウキの腕をとって、エレベータで11階へ。
 ふたりの新居は、僕の部屋の隣だ。

     ★

 インターホンを連打されたので、絶対ユウキだと思って出たらカナだった。
 順調に臨月となったはずの彼女は、大きくなったお腹に手をあてたまま青ざめ、震えている。
 僕は急いで鍵と財布を持ち、先に走ってエレベータのボタンを押した。
「ユウキに電話は? ……仕事中は出れないか…病院には?」
 何度も頷くカナ。
 涙がポロポロとお腹のうえにこぼれていく。
 僕は片方の手を持ち上げ、カナの髪をくしゃくしゃにした。
 反対の手で涙をすくって抱きしめるのは――、やめる。やめなければいけない。冷静になれ。かわりにギュッと鍵を握る。冷たい無機質の波が、手の中にひろがった。
 エレベータが到着する。
 病院までは15分。車内は始終、無言だった。

     ★

 新しい命に名前をつける。
 僕が名付け親でいいのかと聞くと、ふたりは笑って頷き、赤ちゃんの顔を見て今度は顔を見合わせて笑って。
「――この子と結婚したら、僕もふたりの家族になれるのかな」
 カナとユウキは驚いたように僕を見る。
 もう家族みたいなもんだよとふたりが交互に言うので、僕は作り笑いを優しくうかべて、ありがとうと言った。