■ 舞澤果実と樽出しボジョレー ■

 雨にネオンが反射して、絵具を塗った雪のようだ。
 舞澤に追いついて歩調をあわせると、彼女は露骨に眉をひそめた。
「ヒマ人の学問を専攻している神くんにとって、私と関わる事はまったく有益ではない」
 アーケード街に入るとオレンジ一色、ハロウィンの準備。
 昨日ボジョレーヌーヴォを予約したから一緒に飲まないかと提案した。
「あいにくだが、私は熊田酒店で樽出しボジョレーをたしなむのが通例となっているのだ。樽ごと直輸入だしな。神くんが予約したショボいボトルのボジョレーは、他の人と飲みたまえよ」
 舞澤は真っ直ぐ前を見て、歩調をゆるめない。
 寒さで林檎色に染まった頬をつまんで、取って食べたら美味そうだ。
「なんだ?」
 なんでもない、と答える。
 なんでもなくはないし、なんでもいいから話をしたいけれど。
「とにかく、ついてくるな。私はこれからー…、」
 舞澤は言いかけて、それから「神くんには関係ない事だ」と言い直す。
 信号をこえて、アーケードの向こうまで歩き続ける舞澤。
「さようなら神くん。私はヒマ人じゃないから、神について考える時間なんてないし、哲学科の頭でっかち達には散々迷惑をかけられた」
 立ち止まった場所は、ピンクの壁と白い扉が特徴的なエステサロン。
 これでは、これ以上は、ついていけない。
「いいか、神くん。私は普段はこんな口調じゃないんだよ。つまりどういう事か、神くんは考えないのかい? ――ヒマ人のくせに!」
 くるりと右足を軸に回転し、舞澤は扉の向こうへ消えた。
 To know what people really think, pay regard to what they do, rather than what they say……舞澤は、一度も目を合わせてくれなかった。
 数日後に訪れたハロウィン。
 アーケード街の交差点は、露店と人ごみですし詰め状態だった。
 チョコバナナやお好み焼きといった露店の隙間に、林檎あめを見つける。舞澤の頬みたいだと思い、ひとつ購入した。
 立ち止って食べようと思ったら、人の流れに押し出され、信号を渡ってしまった。大通り沿いを避けようと思い、林檎あめを持ったまま、普段入らない路地に避難する。
 誰もいない、薄暗い路地だった。
 この辺の地図は頭に入っている。抜ければ二番町通りに出るはずだ。
 しばらく歩いていくと、小さなレストランの隣に「熊田酒店」と書かれた看板があった。舞澤の横顔が思い出されて、胸がはずむ。
 あれが樽出しボジョレーの店……。
 電柱の陰から、そっと様子をうかがってみた。
 小さな店内はカウンターで仕切られ、カウンターの奥の壁には一面の酒。そしてカウンターの端には数人が座り、店長と思しき人物と談笑している。その輪の中の、小さなコートを着た人物が舞澤だと気付いた。
 一度も見た事がない舞澤の笑顔。一度も聞いた事がない舞澤の口調。一度もあったことのない舞澤の視線は、輪の中で皆をやさしくとらえる、あたたかい空間。
 林檎あめが、パキリと割れた。
 ふるえる手で、そっと抱きしめ、ふるえる足が、通りへ向かう。
 雨は、降っていないのに、視界にネオンが反射して、絵具を塗った雪のように、とけて、頬を、通り過ぎて。

■ 埋葬 ■

 父が。……父が、なぜそう言ったのか、私には理解できなかった。
 中心街のリヒタから、歩いて五時間あまり。そこに、私の住んでいる村、インドネシアのルテナンカがある。
 昨日、父が死んだ。
「ミチー……」
「話しかけないで!」
 私は、手をあげながら近づいてきた友人にそう叫んで、木の棒を地面にたたきつけた。
 友人が近寄る理由は、わかりきっている。村から少し出たところの、丁度良い木陰。私は、ここに父を埋めようとしていた。
 この辺りは鳥葬が主流なのだ。近くの崖では話にならない。かといって、遠く、どこかの国に連れていくわけにもいかない。
 私にはお金が無いのだ。だから毎晩、体を売って生きている。
 ――土に埋めて欲しい。
 それが父の最期の言葉だった。穴を掘る間、腐乱してもかまわない。必ず土に埋めて欲しい、と。
 私は父のことを愛していた。もちろん、家族として。けれど、その愛を別な言葉にはできなかった。私も、父も。今まで生きる術しか学んでこなかったから当然だ。
「ミチカ、」
 私は来ないでの一言で完全に突き放したつもりだったのに、友人はまた私の名前を呼んで、肩にそっと手を置いた。
 その手を払いのけ、さらに、ふかく、ふかく、穴を掘ろうとした。
 土はかたく、まだ私の足が入るくらいの小さなくぼみしか、できていない。それでも、ここまで掘ったのだから、腐ってもいいと父が言ったのだから、掘るしかない。
「ミチカ。村長とアンバサが、もうだめだって。崖に、連れて行くって」
 父が死んだことを私は誰にも話していないのに、村長や、祈祷師のアンバサ=ガルヒは知っているのか。
 他人の家に土足で入ることを、なんとも思っていないのだ。
 いつもは私だってそうなのに、なぜだかキタナイと心の中でなじった。
「……頭、おかしいんじゃないの。死者のことばは絶対だって、最初に言ったのはアンバサよ」
「お前、何やってんだよこんな時に」
「穴、を、」
 埋葬を、しているのよ。
 そこまで言おうとしたのに、私の口からは吐息しか洩れなかった。
 涙が出て、くぼみに染む。
 笑って頭をなででくれた父。私のために牙の首飾りを作ってくれた父。衰弱していく父。すまなさそうに、薄目をあけて「私」を目に焼きつけていた父。なぜ埋葬してくれと言ったのか、最期までわからなかった。
 鳥に食べられるのがいやだったのかも知れないし、観光客に見られるのも、それを目ざとくみつけ金をむしる警備員も、釘で固定されるのもいやだったのかも知れない。
 そう、思っていた。
 違う。
 父はきっとー……。
 私はしばらく唇を噛んだまま泣き、友人は誰かの声に呼ばれてどこかへ行ってしまった。私はしゃがんで、足に土をかぶせる。ボロボロと。
 父が望んだ、私の、涙の埋葬だった。

■ 魔法少女マーヤだ ■

 部長のヅラ事件も終わり、ウチの部署にもようやく平和が訪れた……と、思っていたのは、どうやら俺だけだったらしい。
 煙草休憩と思って席を立つ。
「っと、ライターライター」
 デスクの引き出しから100円ライターを取り出すついでに、隣の後輩・山田の進行状況をチェックしようかと
「おい山田、サンエーの見積もりできたか?」
 ってさ、言った途端の空気感。何つうかさ、これは変だと感じたんだよ。俺だって、だてに7年この会社で働いているワケじゃあないんだぜ。
 さくっと目くばせしあうカナちゃんとマミちゃん。せわしなく眼鏡をカチカチさせている古株の好絵さん。ちらちら目線を送ってくる係長の福山女史……。
 部長の時と違うのは、こっちに意識を集中させてんのが女性社員だけってトコだ。
 何だ? 何があった??
 山田が誰かと不倫でもしてんのか? ……って、ンなわけねぇか。週刊誌の見過ぎだろ俺。
 なーんつって脳内セルフ突っ込みしてたところで、山田芳樹がPCから顔をあげた。ボサボサの黒天パ、ヨレヨレの茶色スーツ、ソバカスかかった血色悪い頬の上の、いつも通りの羊みてえな目。
「あ……、あのぉー…、エクセルのあのぉー…、入れ込んだ計算式が違うみたいなんですけどぉー…」
 相変わらず喋り方もキモいぜ。
「あっそ。じゃあ画面印刷して、数字の横に赤で電卓計算した結果書いといて。俺戻ってくるまでにやっとけ、な?」
 山田の肩をポンと軽く叩く。
 そのとたんに突き刺す、女性陣の視線。超痛ぇ。もし視線に熱があったら、俺、軽く焼け焦げてるわ。一体どうしたってんだよ。はぁ……オチオチ仕事もしてらんねぇわ。
 しょうがねえんで課長の席に行って、煙草誘ったわな。ツレションならぬツレ煙草。廊下の一番奥、つきあたりにある喫煙室で、他の奴らの副流煙にモヤモヤされながら自分のセブンスターに火をつける。
 どう切りだそうか迷っていると、ボアっと煙を吐き出した課長が
「あの山田がなぁ……」
 と意味深な言葉を呟いた。
 早速のチャンス到来。訳知り顔を装った。
「課長も気付いてたんスか」
「あぁ、現場にいたからな」
 現場?!
 不倫現場か??!
 脳内がにわかに活気づく。課長は続けた。
「しかし本当、あの山田がなぁ……。事実は小説よりも奇なり、なんて言葉をリアルに体験したというか、なぁ?」
 なぁ……って俺に振られても困るんだが、とにかく相槌は打たなきゃなんねえだろうな。
「本当ですよね、あの山田がまさか」
「だよなぁ……」
 課長はそれきり口を閉ざし、煙草を吸い続けた。俺はロングタイムなもんで、課長が先に吸い終わって喫煙室を出ていった。
 ……あの山田が、何だよ! 言えよ!!
 結局課長に聞きだす作戦は失敗し、席に戻ると山田が電卓を叩いていた。まだかかってんのかよ、本当トロいな。
「おい、山田……」
 声をかけようとしたその時。
 聞いたこともないサイレンの音が社内に響き渡った。
 部署内の皆が作業の手をとめて、地震が来たわけでもねえのに上を見る。かくいう俺も鳴りやまないサイレンを聞きながらぼんやり上を見ていたワケだが、突然。
 俺の隣でガタンと音がした。
 山田だ。山田が立ちあがった音だ。
「やま……」
「――失礼しますッ!!」
 山田はいきなり叫んで、ダッシュで部署を出ていった。
 誰もが茫然と佇んでいる。サイレンはまだ鳴りっぱなしだ。
 異常事態。
 勘弁してくれ、山田。
 俺は、……俺は、山田は、俺は、
「おい!! 山田、待て!!」
 俺は走りだした。
 山田のあとを追って。
 ここは会社の一階だ。どこかに行くとしたら、出入り口を通って会社の外へと走り出たに違いない。走って社外へ出ると、人々が悲鳴をあげて逃げまどっていた。何だ? パニック映画の撮影か?? 走る人が邪魔で山田を見つけられない。
 ふ、っと。
 目の前が暗くなった。何かの影に入ったのだと気付く。ゆっくり見上げると、巨大な怪物が俺を見下げていた。何だ?? 何なんだ「コレ」は。何なんだ!!!
 怪物が手を振り上げた。動けない。死ぬ。ヤバい。死ぬ。巨大な手が振り下ろされ、俺は目をつぶった。
 ――ゴガアアァァァァン!!!
 何かが砕け散る音。
 おそるおそる目を開ける。
 俺の目の前に、ピンクの服を着た少女の後ろ姿があった。次に怪物を見上げる。怪物の肩から先がなかった。
 こいつが腕を壊したのか?
 この、少女が。
 少女は振り返った。赤毛の髪はモジャッとした天然パーマだが、顔はかなり可愛い。美少女だった。彼女は、ほっぺたを指でカリッと掻く。俺はそこに、ソバカスを見つける。
 ん?
 天然パーマに……ソバカス…?
「良かった、大丈夫でしたか? センパイ。終わるまで、会社の中にいてくださいよ?」
 センパイ……会社??
「や、ま……だ?」
 半信半疑で出た言葉に、少女はキュルンと愛くるしいポーズをとった。
「やだなぁセンパイ。今は、魔法少女マーヤだぴょん!」
 日常、常識、ヅラすら吹き飛ぶ脳内。俺はやっとの事で口を開いた。
「おっ……、終わったら計算結果提出しろよ…」