■ 群青限界 ■
市場で日記帳を探すのはとても大変だったわ。ハッサ伯父に頼んで出店の端から端まで口をきいてもらって。でもこうして日記帳が、私の前にあって、ペンとインクもあって、ようやく、って、うれしいけど、ただ。……、サーヤだけがいないの。
……私の名前はローレェ。
ググオルの孫、ウェウェダの子、ローレェ。
私が住んでいるちいさな島は、細長く弓なりに反った形をしていて、両端にそれぞれ集落があって、私は西のチェデレに住んでいる。普段は海に浮かんでいるこの島だけれど、月に一回だけ海がさあっと退く日があって。砂が見えて、大陸と繋がるの。
そういう日は一族全員で島向こうの市場まで歩くのが習わし。
島でとれたイモとか、葉を編んだカゴとか、木を削って組んだ工芸品とかを、砂糖や肉と交換してもらうの。大人は大陸の情報をいろいろ聞いているみたい。子どもたちは皆すこしだけお小遣いをもらって、水菓子なんかを買える、幸せな日。
売り買いが終わって島に帰る時も歩くけれど、私は島の東で皆と別れて、いつもひとりで、乾いてしまった海辺の境界線を歩くの。満潮では行けない岩場の陰とか崖の下とか、好き。浜辺にはいろいろな物が落ちていて、何かのロープや、誰かの布や、大きな貝がらを拾ったり。
私にとってはむしろ帰り道が本番。
少しづつ波音が近くなって海が元の姿に戻ろうとする。普段はなんとも思わないのに、こういう時だけキレェだなって、私、思うわ。
――アッシャ季の、月に一度の日。前日まで島は怒り狂った風の神と雨の神に支配されていて、明日の大陸渡りは中止なのかなって、心配していたけれど次の日。嘘みたいに晴れて、私、ちょっと、かなり、ワクワクしたわ。こういう日は、帰りの浜辺は宝物でいっぱいだから……。
大陸の市場は、少しいつもと雰囲気が違っていたわ。
父や、ハッサ伯父も、なんだろうって不思議がってた。
いつも辻のところに店を出している焼き魚売りのオジサンが言うには、昨日までの大きな嵐で大陸中に摩訶不思議なものが沢山降って来て、しかも、素材も使い方もわからない異国のものらしくて、おそらく貴重だろうからと王様が集めるように言っていると……。
「アンタらの所にも降ってきてンだろうから、集めて来月にでも持ってきてくれや」
それを聞いたとき、私、ほんとうにワクワクした! 早く帰りにならないかなって。きっと落ちてるから、集めて、それで、異国の不思議なものをじっくり眺めて、父に渡す前にちょっとだけ……何かのひとかけらだけ、宝物の箱にそっと仕舞おうって。
だから浜辺の帰り道は、もう本当に楽しくて。いろいろ落ちていたわ。金の髪の人形や、動物の皮でできた財布や、なんの素材でできているかわからない透明な筒や、鏡のようにツルツルした黒くて四角くて重いもの、濡れていてもう読めない本は異国の言葉が書いてあって……。
今日を過ぎたらまた海に沈むから、少し集めてから崖の上に運ぼうと思って、岩の下に出たとき、それを見つけたの。
大きな、透明な箱。
細長くて、高くて、そうね。高さは私のうえに私をのせた位。幅は両腕をのばせば抱えられるくらい。透明なその中には小さなテーブルと灰色の箱があって、そして――、人が座り込んでいた。
同い年くらいの女の子だって、すぐわかったわ。まっすぐ伸びた黒い髪、静かに白い肌、とてもとても変わった服。大陸の貴族のような上等な黒の布地、腰布からは、白くて細い素足がのびていて、それで、すぐに、向こうも私に気づいて。
私たちは透明な板をはさんで、お互いにお互いの手を重ねたわ。
彼女はハクハクと口を動かしたれど、私には何を言っているのか全然わからなかった。しばらく眉をひそめてじっと聞いていたけれど、やっぱりわからなくて。
彼女は板から手を放して、その手で自分を示して
「サヤ!」
と叫んだわ。それがあなたの名前だってことくらいはわかったから、私も自分を指さして
「ローレェ!」
って叫んで。
とたんに二人で吹き出しちゃって、しばらく一緒に笑ったわね。
サーヤは座り込んで、私に色々と話しかけてくれたわ。私も他愛ない事を喋って。お互い、言葉もわからないのに、どうしてか離れがたくて。
……けれど、海が元に戻ろうとするのはとめられなかったわ。
私はそれに気づいて、必死にサーヤに言ったわ。波をさし示して、波を体で表現して、何度も何度も。ここはもう海に沈む。その前にサーヤを助けたいって。
サーヤは私の気持ちを理解したのか、透明で四角い箱の一辺に手をあてて、ガタガタと引っ張り始めたわ。それで気づいたの。そこから出られるんだってこと。でも、岩が邪魔して扉は全然動かなかったわ。
近づいてくる波の音。
私は必死に岩をどけて。小さな石からどけてどけて。でも大きな岩が扉を塞ぐようにあって、全然動かなくて。
サーヤは透明な箱を壊すようにドンドンと強く叩き始めたわ。それで私も、これは壊せるんじゃないかと思ったの。さっきはどけた石を拾って、何度も投げて。でも壊れなくて。
足元に波がきたとき、私、ふと思ったわ。
海の中ではいろんな物が軽くなるの。だから少しだけ待てば、大きな石が私の力でも動くんじゃないかって。私はサーヤに大声で伝えたけれど、サーヤが理解したかどうかはわからないわ。サーヤは泣いてた。私に何かを言っていた。言葉はわからないけれど、もう諦めた様子で。
私たちはまた、透明な板をはさんで、お互いの手をくっつけたの。
私は心配しないでと言ったけれど、サーヤには別れの言葉のように聞こえたのかもしれないわ。大粒の涙が、夜のような目からぽろぽろと溢れていって。私はサーヤを安心させるように笑って何度も頷いて。そうして流れ着いていた木の棒を持って、ヒザ下まで浸かりながら岩を何度も何度も動かして。
ついに岩が動いて。サーヤはかじりつくように扉に向かい、鈍い音がして開いて、私は手を差し出して、触れ合う――瞬間。
サーヤの身体は消えてしまったわ。
風に混じったように、一瞬で。ふっと。
私の手の中に、さっきまでサーヤが着ていた服が落ちてきて、波は高くなって腰を濡らして、崖の上まで戻った時、顔もずいぶん濡れたと思ったけれど、私の顔を濡らしていたのは、私の涙だったの……。
次の月、私は大陸に行く時も皆とわかれて、あの崖に行ったわ。透明な箱は波に運ばれたようで、どこにもなくて、サーヤは私の心だけに居て、それで、ハッサ伯父に頼んで、こうして日記帳に書いていて――、衣装籠のいちばん奥に、サーヤの服だけが、畳んで置いてあるの。
■ クリスマス・イヴ ■
……あれ?
俺、なにしてたんだっけ?
ぼんやりしてると目の奥がキンキンして涙が出てきた。まばたきしてから見上げると、夜空に街灯りが映えていた――さかさまに。
雪も下から上に、さかさまに降っている。
あぁ、そうだ。
違うんだ。
俺がさかさまなんだっけ。煙突から出たとたん、雪で足滑らせちまって転んだんだっけ。頭打った感じだなぁコリャ。降り積もった屋根に、べったり無様にあおむけに、へばりついているカンジだな。
そうだ、ハハ。そうだった。
俺は「ほっ」とかけ声をかけて、日頃鍛えていたりいなかったりする腹筋を痛めつけながら起きあが……れるワケもなく、ゴロゴロと斜めに回転してようやく起き上った。
今宵はクリスマス・イブ。
イブ・マサトーが歌ったり歌わなかったり、ミカワケンイチがクリスマスディナーショウをしたりしなかったりする、まさにその日だ。
急に風がしみこんできて「うぅ、さぶっ」っつってブルンと震えた俺の右側から、聞き慣れた声が飛び込んできた。
『大丈夫だった? まぁ、アンタは丈夫なのダケがとりえだからねぇ』
俺の愛トナカイ、ミハエル・シューマッハだ。
「ダイジョブ大丈夫、ヘーキヘーキ。それにしてもさみーなぁミハエル」
寒さをかき消すように声をかけると、ミハエルは赤っぱなを鳴らした。
『よしとくれよ、しゃらくさい! 本名で呼んでちょうだい』
「わかったわかった、三郎」
俺は赤ジャケットのポッケからジンジャークッキーを取りだした。先ほどお邪魔した女の子、つまりこの屋根の……家の中で眠っている子の部屋に、ミルクと一緒に置かれていたのだ。深夜の労働にはありがてぇ。三口で食いきる。
『早くしな! あと何百件残ってると思ってんの!』
「うるせーな……計算してるっつうの」
昼にサンタ村で子供たちにプレゼントを配る役目は、老人幹部たちが独り占めだ。まぁ、こうしてソリに乗って配達するのも悪くはねえ。
子供部屋にそっと忍びこんで、ぐっすり眠るガキ……違った、お子ちゃまたちの寝顔を覗くと心が温まるし、下手くそなジンジャークッキーとミルクと靴下を批評しちゃったりとかして、俺なりになんとか楽しさを見いだしている。
ヒラッと効果音をつけて、俺はソリに乗り込んだ。
「ほんじゃ、鈴木家のマリンちゃん、ハッピー・メリークリスマス!」
盛大な独り言と共にバシッと手綱を引くと、ミハエル……じゃなかった、三郎は空へと駈けだした。
「……あっ?!」
『なぁに、どうしたのさ』
「あの子のプレゼントの中に、俺のブロマイド入れるの忘れた……!」
熟練の老トナカイは、また赤っぱなをフンと鳴らした。
『安心しなさい、サンタクロース姿のアンタなんて、少女の恋愛対象に入らないわよ。絶対的論外。守備範囲外!』
「うるせぇ! あの子が大きくなった時に万が一があるかもだろ!」
『このロリコン!』
彼女はいつでも募集中だぜ! 応募、待ってるよーい!!
■ 繰らせない病 ■
繰らせない病にかかってしまった。
僕はもう、暮らせない。
☆
「繰らせない病とは、学名をアンチロンド=シンドロームといい、カナダを中心に世界の各地で同時多発的に発見されたまったく新しい脳の病気です。カナダでの発病件数が最も多く、WHOの調査では三人に一人はかかっているとの事です。まぁ、日本では水際で感染が食い止められ、百万人に一人いるかいないかという、希な病気ではありますな」
カルテ970236アシヤヌイ.
病名:繰らせない病.アンチロンド=シンドローム.
発病:20×1・3・13.
投与薬名:N−363「んのう薬」10mg.食後三回.四年.
「これ言ってみて、東京特許許可局局長東京特許許可局局長東京特許許可局局長」
「……言えない」
「じゃぁこれは? バスガス爆発バスガス爆発バスガス爆発」
「……言えない」
「じゃぁこれは? きまきがみきまきがみきまきがみ」
「……最悪」
「反復横とびできる?」
「……できない」
「二重跳びを10回してみて」
「……無理」
「食べ物をかんでみて」
「……死にたい」
「歩いてみて」
「……」
アンチロンド=シンドロームには、二つのタイプがある。
ひとつは慢性的にカラダへ浸透する「弱性型」。
ひとつは突発的にカラダを攻撃する「強性型」。
弱性ならば特に問題なく生活できるが、強性の場合には緊急を要する。体中の繰り返すものを止めようとするチカラが働き、最終的に心臓へと達する。
発病後36時間以内に「んのう薬」を投与しないと死の危険性もある。また、投与できても障害が残る場合もある。
発病を認めたらスグにでも病院へ行くのが適切であろう。
(〜医学大全2巻598ページより)
「この薬は安全なのかって? ふははははは、ははははは、ははっ……ゴホゴホッ。若いのに変な所を気にする方ですねぇ。この薬は、繰らせない病にしか効かない特効薬でしてね。発見したのは芸能人の、んのサンですよ。ご存じでしょう? アンチロンドウィルスに「ん」をつける効果がある、すすごい薬なんです。コレを飲めば、ロンドがロンドンになるのです! はははははは!!」
僕の病気は、薬のおかげでどうやら完治したようだ。
これで、心おきなく泳ぐことができるぞ。
※皆さんも繰らせない病にかからないようご注意ください。単発で「ん」を発音できなければ弱性にかかっている兆候があります。
■ CLEAR TEARS ■
ビクッと身体を震わせて目を開けると、そこには ー…、
「ウフフフフフ、殿方、お気がつかれましたか?」
着物を着た女の人が、かがんでボクの顔をのぞきこんでいた。
「わっ?!」
慌てて立ち上がろうとした瞬間、ゴッ、と、何かに頭がぶつかる。痛……っ。
振り返るとそこには氷の塊……、いや。これはただの氷じゃない。これは。この氷の中身は、
「ウフフ、そんなに慌てなさらんとも」
氷漬けにされた、ボクの親友の姿――。
ぞぞぞと、血の気が引いたボクに、彼女は
「誤解やわ、誤解やわ」
と何度も言い、誤解もなにもないだろう、逃げよう、と、辺りを見回しても出入り口はどこにもなかった。
「逃げんといて、誤解やわー」
「ご……誤解?」
彼女のその着物の端々に血の痕があることに気づいたボクは、少し落ち着けと、心の中で深呼吸し、息をとめて、もう一度、氷の中に閉じこめられている親友を見つめた。
親友は氷の中で、頭から、血を流していた。
☆
囲炉裏もなにもない。どうやらここは、即席で作ったかまくらのようで。
確かホッカイロが、と思ってポケットを探ると、ゾリ、と手に感触があった。
雪しか、ない。
僕らはスキーを楽しんでいた最中、雪崩に遭ったらしい。彼女が助けてくれたようで、本当に誤解だったと、ボクはちょっと、反省した。
まぁ、雪女に助けられたところで、どうせ食べられてしまうのだろうから、今更生きていることに感謝しても、しなくても、メリットも、なにもないけど。
「それも誤解やで、食べられへんもの」
彼女は寂しそうに言った。
よくよく訳をきいてみると、彼女は世間一般的に広まっている「雪女」ではないのだという。
水女、なのだそうだ……要するに、水を創り出すことができる。
それが。ここがあんまり寒いものだから、創ったそばから氷になってしまう、と。
水女、ね。
雪女とさして変わりないじゃないか。
「そんなことより、氷の中じゃ、あと数十分ももたないよ水女さん」
親友はどっちみち死ぬ。
氷に閉じ込めて出血を遅らせても、冷やし過ぎで凍死が近い。
ここから山の麓までどれくらいだろう……。ボクはスキーコースを頭に描いてみた。コースの半分は滑りきったハズだけど、スキー板もストックも失っている。
親友を背負って雪山を降りる? 危険すぎる。死ぬしかない。
ボクの思考をどこまで悟ったのか、彼女は親友を「すぐ元に戻せる」と言った。
「ふもとまでは、わらわが創った氷車で運べばええやろや」
氷車……?
サンタクロースが乗るような巨大なソリを連想したら、彼女はその通りのものを創れるだろうと豪語した。だてに水女をやっているわけではない、と。
けれど問題は山を降りるより親友の事だ、と彼女は言った。親友をすぐ元に戻すには、温かい水が必要だ、と。
温かい、水………そうか、ボクの体液をー…。
――いや、それはない!
尿とか唾液とか、恥ずかしい。無理。血? ないない、痛いから。
けれど時間がない。
どうする。
考えを巡らせはじめた瞬間、着物の袖が、ふいと動いた。
顔をあげる。いつの間に。
ふうっと。
耳許に。
『涙でも、ええよ』
ドキリと、頭が、痺れたように動かなくなった。
これは、何だ?
息がかかる。声が、響く。
『泣きなはれ』
「――っは……」
頬に、感触。
あとからあとから、つつう、つつう。
『さぁ鬼の子よ、泣きなはれ、鬼の子よ』
どうして知っているんだ。
『さぁ、さぁ、泣きなはれ』
ボクが、鬼の子供だということ。
ボクが、本当はいつでも泣きたくて泣きたくて、しょうがなかったこと。
大声で、死にたくて、雪崩を呼んだこと。親友を、殺すつもりだったことそして、そして、そして。
『許すわ、ええよ、生きといて、ええんよー……』
☆
「クキ、お前、誰と話してたんだ?」
「……え?」
病室で、親友にそう訊かれ、ボクは思わず冷蔵庫を開け閉めした。
病院に間に合ったのは奇跡だと、親友の主治医はボクを褒め称えた。
後遺症は少しだけのこるらしいけれど、でも、親友はまだ、生きている。
「なんのこと?」
笑顔で言うと、親友は真顔で言った。
「あのとき、泣いてただろ」
「……なんのこと?」
ボクはよく不思議な体験をする。この血が、鬼の血がそうさせる。
「違うのか」
「………」
ボクはよく親友に、そう、訊かれる。
そしていつも、笑顔で、本当に笑顔でこう答えている。
「違うよ、たぶん」