■ 逆転の発想 ■

 どの対策も意味をなさず進み続ける少子高齢化。
 ついに政府は特別対策本部を設置し、根本的な解決の糸口を探りだした。
 その結果、今まで打ち出してきた出産費・小児医療費・学費などの無料政策は、そもそも子供がいないと何の意味もなさない事に気づいたのである。
 政府はまず、AIを活用した男女マッチング事業に取り組んだ。相性が90%以上の人間を全国データベースから割り出す画期的なシステムは連日メディアに取り上げられ、成婚者が右肩あがりに転じた。
 一方で子供の出生数はなおも減少し続けている。
 そこで特別対策本部は子供がいない結婚家庭にアンケートを実施した。すると、現代の若者は性行為そのものに興味が薄い事がわかった。
 次なる対策は「アムール作戦」と名付けられた。
 非常に快適なダブルベッドを新婚家庭に無償で配り、その後に妊娠がわかれば子供に関わる費用は全て国が負担する、というものである。新婚の二人が居心地の良いベッドで何時間も過ごせば、自然とそういう雰囲気になりやすいというもの。
 センシティブな問題でもあるため、アムール作戦は極秘に進められた。
 一級の家具職人を登用し、人間工学に基づいた快適な設計、音を立てないスプリング、硬すぎず柔らかすぎない枕、ふかふかの羽毛布団、雰囲気を演出するライトなどを造り上げていく。
 こうしてできあがったベッドは、満を持してモニターの新婚家庭10戸に配られた。
 だが。
 結果は驚くべきものであった。
 ベッドを配った全家庭の人間が餓死したのである。
 快適すぎるベッドから出たくないあまり、会社を無断欠勤し、惰眠をむさぼり、食事は出前で済ませ、そのうち食事さえ億劫になり、寝たきりの身体は弱り、衰弱していく……。
 モニター家庭の監視レポートを読了した特別対策本部長は、デスクから立ち上がった。
「ベッドを増産するよう工場に連絡を入れろ」
 とたんにざわつく本部内。意を決した副部長が声をあげた。
「なにをお考えですか! 人が死んだんですよ?! それも1人じゃない……全員だ!! 我々は……っ未来ある若者を殺すためにベッドを作ったんじゃない!」
「落ち着きたまえ。配るのは新婚家庭ではない」
 その言葉に虚をつかれ、副部長は怪訝な顔をして次の言葉を待った。
 本部長は副部長の肩に手を置き、薄く笑う。
「80歳以上の高齢者に無料介護ベッドの名目で送るのだよ。これで少子高齢化に歯止めがかかる」

■ 帰還 ■

「――私から君達への、最後の命令だ!」
 軍曹が戦車の上に立ち、胸を張って声をあげる。
 朝日がのぼる前の、静かな、ボロボロの平野だった。命令を告げる鐘で叩き起こされ、テントから出たばかりの男たち数百名が、戦車の前にどんよりと並んでいる。
 戦争の傷跡はどこまでも続き、焦げた臭いはまだ隊員たちの鼻を痺れさせたままだ。
 しかし、昨日。
 戦いは終わった。
 終わったのだ。
 反乱は制圧し、反政府軍の軍勢は一人残らず駆逐したはずだった。
 これ以上、何をしろというのだ? 何の命令なのだ??
 隊員たちは疑問を隠さぬ目を真っ直ぐ軍曹に向けた。
 軍曹は続ける。
「これから、西へ30キロの地点にある王都に帰還する。君たちへの最後の命令は――、」
 一拍、置いて軍曹は叫んだ。
「胸を張ってあの門をくぐることである!!!」
 朝日が、地平線から顔を出した。
 歓喜の声が平野をふるわせる。隊員たちの喜びの波から、次々に腕が挙がる。傷つきながらも戦い抜いた、戦士たちの腕が。
 波はゆれ、国家の合唱がはじまり、ある者は急いでテントを解体し、ある者は毎晩ちびちび飲んでいた酒瓶を全部かっくらい、ある者は泣き、ある者は笑い、全員が喜んだ。
 軍曹が乗る戦車が先導し、列は動き出す。
 王都では、伝令が既に隊の帰還を告げており、大理石でできた門は、鮮やかな祭り飾りで彩られていた。
 作戦に参加していた男達の家族は、今か今かと帰還を待ちわび、また、既に祝杯をあげている老人たちもいた。女たちはこぞって屋台を出し、料理に取り掛かる。名産のステーキ、葡萄酒、祝い事で作られる揚げ菓子は、子供たちがつまみ食い。
 色とりどりの風船がひしめき、王国の旗が全ての家の玄関や屋根に吊るされ、クラッカーが鳴り響き、白いハトが舞う中。
 道の向こうから地鳴りが響いた。
 戦車の頭が見える。
 とたんにわきあがる、勝利の門。どこまでも抜ける青空に、帰還した隊員たちと王国の国民たちの歌が混じり合った。
 門をくぐりぬけ、中央広場の噴水前で停まった戦車。
 軍曹の手信号により、隊員たちは一糸乱れぬ動きで整列した。
 噴水の向こう、城のベランダには祝辞用の赤いマントを着た老齢の王が、戦士たちを穏やかに見下ろしている。
 軍曹は、朝と同じように胸を張り、声をあげた。
「――国王陛下!! 我々は反政府軍を制圧し、今! 全部隊が帰還しました!!」
 高い高い城のベランダから、パン、パン、と小さな拍手が降る。
 隊員たちをかこんでいた国民たちも、王の拍手にあわせ次々と手を叩きはじめた。
 軍曹が敬礼する。隊員たちも一斉に敬礼し、わあっと喜びの声が広がった。誰かが、ハトを飛ばした。太陽の真下でひるがえり、平和を告げる鳴き声が王国にこだました。

■ 銀行強盗 ■

 まったく、なんてことなの。よりによって、こんな時に。
 私は茶色のボストンバッグを握りしめた。
 中央区の銀行は、閉店間際の午後三時前。暇な木曜日とみえて、人は残り数人。
「全員そこから動くな! 一歩でも動いたら撃つぞ!」
 窓口の職員に銃口を向けながら、古風な黒い覆面をした男が叫んだ。私はふかふかとした銀行特有の長椅子に座りなおし、もう一度ボストンバッグを握りしめた。男たちは三人組で、一人が職員に銃を向け、一人がこちら――待合椅子に向けて銃をかまえ、もう一人はせっせと金を詰める準備を始めている。客たちはもちろん、職員たちも作業の手を止め、銀行内はしんと静まり返っていた。
 あぁ、本当についてないわ……仕方なく私は立ちあがった。
「女! 動くな! 撃つぞッ!!」
 突然の私の行動に、職員へ銃を向けていた男もまぬけにこちらを振り返る。
 ほら、今よ。窓口のおばさん。そのカウンターテーブルの下に、警察を呼ぶ緊急ボタンがあるでしょう。押して。――押しなさいよ!
 心の声もむなしく、窓口の職員たちは全員、茫然としたまま幽霊のように私をみつめていた。まぁ、想定内だけど。こんな弱気な銀行は希少価値だ。たやすく狙われる。いいわ。やっぱり、やるしかない。ガガガガガ、ガシャン。銀行のシャッターが音をたてて降り終わった。
 ちらりと、隣りに座っていた若者を見る。彼はかるく頷いた。
 遠くの席に座っている老婆を見やる。彼女はよろよろと立ちあがり、私にむけてニッと口のはしをあげたかと思うと、カラカラ笑い始めた。
 銀行強盗たちは驚いて凝視し、それから、ハッと気付いたように銃を構えなおした。
 老婆は、ツバを飛ばしながらわめく。
「――この青二才どもめが! 銀行強盗など千年早いわ!」
 私も加勢する。
「そうよ! 私たち仕事があるのよ!」
「わたしゃ時間が惜しいんじゃ!」
「そうよ! もう三時すぎてるでしょ! どうしてくれるのよ!!」
 こんな事態は予想外だったようで、男たちは「なん……」と言ったままワナワナ震えている、と。私の隣に座っていた若者が両手を椅子にパンとつけた。その勢いにのって飛び出し、男たちに低くタックル。二人から銃を奪い取り、手首をひねり、鳩尾パンチ。
 私はボストンバッグを持ったまま、ダッシュで逃げようとしている残りの一人へ飛び膝蹴りをかました。ドシャッと力なく倒れる覆面の男。
 銀行内の全員が口をぽかんとあけ、窓口のおばさんだけ、驚きのあまりガタンと椅子から立ち上がったー…。
 ――今だ!
 私はそのまま走って、立ちヒザをした若者の太ももに足をかけて飛んだ。カウンターをのりこえる。ボストンバッグからナイフを取り出し、おばさんの首に腕をまわしてつきつけた。
 窓口まで近づいてきた老婆に、若者が銃を手渡す。二人はそのまま、空のボストンバッグにありったけの札束を詰める予定だった。
 まったく。とんだ時にやってくれたわね、と、私は古風な覆面男たちを一瞥し、力のかぎり叫ぶ。
「全員そのまま動かないで! 一歩でも動いたら、この女の、命はないわ!」

■ ギンガムチェック ■

「……ぼくは忍者ですからね。ドゥフッ。グヒュフッ」
 なんだそれ。なんでそんな回答になった? 俺が佐藤にきいたのは、全然違うことだぞ?
 とりあえず整理してみるか。
 ここは佐藤の部屋。所謂ひとつのオタクルーム。四方の壁は全て本棚で、ゲームソフトや萌え本がぎっしり。本がないスペースには所せましとフィギアが飾られている。ゲーム機と呼ばれるものなら何でもあって、今日は高校で古いゲームの話になったからこうして佐藤の部屋に来た。
 俺?
 まぁ、俺もオタク……といえばオタク。どっちかっていうとライトなオタク。
 好きな少年雑誌はジャンプ(佐藤はチャンピオン派)、流行りモノのアニメしかみないし(佐藤は大抵のアニメをチェックしている)、好きなゲームと聞かれればテイルズと答える(佐藤はFF・ドラクエはもとよりアトラスRPGやら洋モノやら節操無しにプレイする)。
 ちなみに今日話題になった古いゲームなんだが、俺が懐かしいっつったのは「桃鉄」や「ボンバーマン」、かたや佐藤は「アンダーカバーコップス」に「カオスシード」、なんだそれ。そんなの聞いたことねーよ。
 まぁ、これだけで佐藤がディープなオタクだと分かってもらえるとは思わない。佐藤が高校イチのオタクだっていうのは、ずばりその体型にある。背が低いのに横幅だけは一人前の、見た目だけでオタクとわかる体つき。丸い眼鏡にソバカス、更には気持ち悪い口調。完璧だ。
 休日の服装といったらジーンズにTシャツ、そしてギンガムチェックの上着にリュックでー……あぁ、そうなんだよ。
 俺が佐藤にきいたのは『なんでいつもギンガムチェックしか着ないんだ?』ってコトだよ。
 その答えが「忍者ですから」っておかしいだろうが!
 ドラえもんよろしく押入れの奥からスーパーファミコンのハードを取り出してきた佐藤は、コードに足をからませて転倒した。
 おいおいおい。
「どこが忍者なんだよ」
 すると佐藤は、清々しいほど気持ちの悪い笑みで、こう言った。
「ギンガムチェックっていうのは、人間の印象に残らない服なんだよぅ? チェックって基本、3色以上になるだろぅ? たて色、よこ色、交わった色、あと空白部分の色もね。3色以上が細かく使用されている服は、人間の回路を疲れさせるんだよぅ。結果的に、服に意識がいってしまって、顔への認識がおろそかになる。つまり、顔も印象に残らないし服も、パッと見た時の強い印象のわりには、後々まで記憶に残らないってワケさ。ギンガムチェックっていうのはねぇ、忍者が使うものなんだよ」
 結局佐藤は、俺に合わせてボンバーマンをプレイしてくれた。佐藤の神業の連発で、あっという間にラスボスを倒したあと、俺は佐藤の家をあとにした。
 夕闇の中、向こうからまんだらけの袋を大事そうに抱えた男が、チェック柄の上着をはためかせてやってきた。
 すれ違った後俺はそいつの顔を思い出そうとしたが無理だった。
 オタクとは、ひっそりと生きたいがために、現代の忍者になった種族なのだろう。

■ 君 ■

 看護婦さんにお礼を言い扉の前で一息つくと、私の息はそのまま、白い妖精となってどこかへ消えてしまいました。
 ずいぶんと時間が経ってしまったように思います。けれど、開けないわけにはいきません。
 平常心で、扉を引くと、店員さんは水色の服でベッドに腰掛け、背を向けていました。
 きっと窓の外を眺めているのでしょう。
 ――あの時と同じ瞳で。
 店員さんはついと振り向くと、ビクリと体をふるわせ、私を見たまま止まってしまいました。
 あまりに驚いた様子なので
「どうしましたか。久々で、驚きましたか」
 と聞くと、
「……それは、そう。ものすごく、ね」
 本当に驚いているようで、しばらくまた、時間が止まりました。
 私は椅子に腰掛け、コートを脱いで制服。
「この制服、見覚え、ありませんか」
「……うん…」
 店員さんは、いつもそう。悲しく笑って、ごまかすのです。
 店員さんの主治医の先生は、外科医から精神科医にかわったそうで、本当は脳外科なんじゃないかという疑問は、脳にはまったく損傷がないんだという一言で、消えてしまいました。
 外見は、私と別れた一ヶ月前となにも変わっていません。
 でも店員さんの記憶は、私と別れた一ヶ月前の、あの日あの時のあの記憶しかないのだといいます。
「君が、どこかの庭に立っていて、僕は握手をするんだ。雪が降って、降り積もっていて。君は「痛い」って、言って、笑う……それだけ、なんだ。君のこと、名前が思い出せなくてずっと、君、と、呼んでいたんだよ」
 名前を教えてくれないかという店員さんに、私は
「私たちはお互いの名前を知りませんでした」
 と、伝え、久々に聞いた「君」という響きに、少し、悲しくて。
 店員さんの話を聞いて、私も少し、話を、して、どれもこれも言えずに、記憶が戻る気配もなく、また来ますと、ゆっくり椅子から立ち上がって。
「ねぇ、ありがとう。じゃあ、僕の名前を教えるよ。まだ、この名前に慣れていないんだけれど、」
「いえ、」
 結構です、と、私は言った。
「店員さんの、君、が、好きなので」
「そう……、そうなの」
「ハイ」
 違う。
 違うんです私が言いたいのは。
 君、は、好きです。
 でも。
 その君、抜かしてもいいんですよ、店員さん。
 ……私は、本当は、もう、あなたの名前も知っているのに。
 あの日より前に戻りたくて、たくさんわがままで、たくさん、たくさん嘘を、ついているのです。

■ 着せ替え妻 ■

 常々、こんな性格の妻とは別れたいと思っていた。
 自分が家事しない事を棚に上げ、俺の給与の額をけなしまくる。俺だって毎日汗水たらして働いているんだと怒鳴ると、やれDVだのモラハラだのとわめきちらす。結婚した当初は、まさかこんな暗澹とした生活になるとは誰が想像できただろう。
 ベッドサイドに見慣れぬ小箱を見つけたのは、2日前のことだった。
 中には短い針のついたチップが1つと、キッチンタイマー型のリモコン、そして小さな説明書が入っていた。
「性格着せ替えセット……このピンを相手の頭頂部に刺し、リモコンでナンバーを入力すると、あなたのお気に入りの性格に大変身! 安心のスペアチップ付き……」
 TVに夢中になっている妻を後ろから羽交い締めにし、頭に、ぶつけるようにチップをつきさした。
「なにするの!? ッ痛!」
 腕をふりほどいてリビングの隅に走る妻めがけ、俺は急いでリモコンのボタンを押した。032、送信。ピッ。
「痛い! もうっ、ホント訴えてや……、申し訳ございません。何か御用でしたでしょうか?」
 妻は急に姿勢を正し、申し訳なさそうに一礼した。ひかえめに首をかたむけ微笑む仕草に、こちらの思考が追いつかない。
「……は、や、いや、腹減ったなーと」
「かしこまりました。只今昼食をお持ちしますね」
 妻は、今度こそニッコリと微笑み、しずしずとキッチンへ向かった。
 あれは、誰だ?
 まさか。
 本当に?
「――あの!」
 ドキリと心臓が跳ね、恐る恐る振り返った俺が見たものは、数年ぶりにエプロンをつけた妻の姿で。
「昼食、まだできていなかったようで……、今作りますので、もう少しお待ちいただけますか? ご主人様」
 なにもかもが天国のようだった。コンビニ袋がいくつも転がるあの汚いリビングは見違えるように掃除され、食卓には毎日、できたての飯が並ぶ。会社に行くと声をかけると、弁当まで用意して見送りに来る。朝は猫のような優しい声で起こしてくれるし、風呂上りにはマッサージ、夜の晩酌はこれも手作りのおつまみが付く。まるで結婚当初に戻ったようなー…、いや、それ以上の待遇だ。
 だが、感動的だったハズの数年ぶりの夜の行為は、言い様のない違和感を俺にもたらした。
 こいつは妻じゃあない。
 妻のかたちをしたなにかだ。
 説明書には999もの人格が番号とともにリストされていた。男性用と女性用に分けられているため、実質は499項目。俺が適当に押した032は従順な英国式メイド。他にも286:姉さん女房、415:ツッパリ系少女、439:ツンデレお嬢様などなど。
 手のひらにおさまる丸いリモコンで数字を押すと、ディスプレイに数字が表示される。それからリモコンを妻に向け、送信ボタンを押すと人格は簡単に変わった。
 最初はビクビクしながら、人格の変わった妻との生活を続けていたが慣れるとどうという事もない。
 いくつか試してみたが、やはりどの人格も、妻だ! というしっくりくるものではなかったからだ。
 なら前の、ヒステリックに叫ぶ妻に戻すか?
 冗談じゃない。
 ゴミ屋敷と化した家で、栄養も何もないコンビニ弁当やスーパーの惣菜を出される日々なんて、もうこりごりだ。そのうえブクブクと豚のように太り、日がな1日ジャージを着たまま過ごし、外出なんてキティちゃんのサンダルでどこへでも行く。金髪は中途半端に伸びて黒髪と金でプリンのようだし、出会った頃の美人はどこにいってしまったんだ。
 まともな人格に変えてから、妻の外見は清潔そのもので、少しばかり昔に戻ったようだった……そうだ。俺は。
 せめて新婚当初のような、あの可愛らしい妻に戻ってほしかっただけなのだ。
 そんな中、じっくり眺めていた説明書の最後に、オールドという人格を見つけた。それはリストの中ではなく、説明書の、メーカー名や型番などが記されたその下に、ひかえめに記されていた。
 たしかに、説明書表のあおり文句には「999の人格」と書かれているが、男女とも499の人格――合計で998の人格――しかリストになかったのは、ずっと気になっていた。説明書を穴が開くまで読んだ人間にしか見つけられない、これが最後の人格というわけか。
 999:オールド。
 オールド……一体どんな人格なのだろう? 古くてスタンダードだが愛にあふれる結婚生活、が思い浮かんだ。俺がそれを望んでいるからだろうな……。
 過去の愛を、取り戻すことができるだろうか?
 今の妻は、長年よりそった良妻という人格だ。晩酌を終えた夜、TVを見て時折クスクスと笑う妻の横顔をひとしきりながめてから、俺はリモコンに999、と番号を入力した。妻の名前を呼ぶ。
「なぁに? あなた」
 送信。ピッ。
 その瞬間、妻の目は驚いたように見開かれた。茫然と俺を、いや、リモコンを見ている?
「おい、どうしたー…あッ?!」
 妻はあらん限りの力で俺から素早くリモコンを奪い取り、立ちあがった、走り出す。俺はたまらず追いかけた。階段をかけあがり、開きっぱなしになっている寝室のドアに手をかける――!
 そこには、片手にリモコンを持ち、片手をグーにしている仁王立ちの妻と、床に投げ出されたあの小箱があった。
 妻が拳をブンと振りあげた。俺に投げつけられたのは、引き抜かれたチップだった。オールドって、まさか、元の人格に戻るってことなのか? 愛は? 結婚は、俺の願いは??
「スペア使うなんて、考えなかったあたしもバカだったわ。そっちから離婚言い出すような人格にしてたのに。もっと馬鹿なヤツを選んでおけばよかった」
「なに、を」
 唇を噛み、しばらく目を閉じていた妻が、ゆっくりとリモコンを掲げこちらに向けた笑みは、諦めたような慈しむような、俺はー……。
 ピッ。
「……ママ、ママ。ぼくねれないの、こわいよぉ」
「よしよしいい子ね、りこんの紙にお名前書いたら、おねんねしようねぇ」