■ 乾杯屋 ■

■ QBOOKS 第35回 1000字バトル チャンピオン作品 ■

 彼はよく、人に声をかけられるのだそうだ。
 ただ道を歩いているだけで知らない人から道をきかれ、立ち止っているだけで知らない人から恋の相談を受け、買い物するだけでレジの人から天気の話をされる。一事が万事こんな感じで、嫌気がさして10代後半から引きこもっていたらしい。
 そんな彼を外に引っ張り出してくれたのが、このガーデンイベント業者の社長だ。夏はビアガーデン、冬には牡蠣小屋、春はお茶会、秋は焼き芋大会などを催しているらしい。
 彼はイベントごとにブース内をうろつき、するとやっぱり知らない客から声をかけられる。知らない客におつまみの買い方をレクチャーしてあげたり、知らない客たちと一緒に「乾杯〜!」と場を盛り上げたり、それが仕事になるなんて彼自身驚きだという。
 かくいう私も、彼に声をかけた客の一人だ。
 奢りのビールをごくごく飲んだ彼は、ここだけの話、と声をひそめた。
 実は彼は、一度誘拐されたことがあるらしい。
 とあるイベントが終了した真夜中のことだった。歩いて帰宅していた彼の隣に、黒い車が停まったのだそうだ。助手席から声をかけられて立ち止まった彼は、後ろから突如現れた黒い服の男たちに捕まり、そこから記憶は途切れ、次に彼が目覚めると知らない倉庫のような場所で鉄骨に縛られていたという。
 よく無事だったねと私が言うと、彼は人懐っこい笑みをうかべ
「誤算があったんですよ。なんだと思います?」
 空のグラスを傾けた。
 と。後ろからすいませんの声。彼はふり返り、はいと答える。見知らぬ女性が申し訳なさそうに話はじめた。どうやら女性の息子がぐずっていて、見ず知らずの彼をご指名なのだそうだ。彼は私に礼を言って席を立ち、その後、席に戻ってくることはなかった。しばらく女性と息子の相手をしていたが、また誰かに呼ばれ、人混みに消えていった。
 犯人の誤算がなにか気になった私は、イベントを楽しみつつ彼をさがすことにした。
 すぐに見つかる。
 彼は……こう、なんだか声をかけたくなる。全身から、いい人オーラがあふれだしていて、彼の周囲は空気がゆったりと流れているような気がする。声をかけても絶対に嫌がらないだろうと思わせてくれる雰囲気なのだ。
 話しかけると、彼はすぐに思い出してくれた。
「見張りの人がね、いたんですよ」
 ふふっと笑った直後、彼は誰かに呼ばれた。彼は酔っ払いの輪の中に入っていき「乾杯!」とグラスを掲げた。

■ カタストロフE ■

 神父様。
 いえ牧師様。
 どちらでもかまわないのでございます。いいえ、違います。僕はあぁ、とにかく告白したいのです。
 誰にも言えない秘密を。僕という一人の人間の中で行われている、深くて黒い罪を。
 ……僕は、人を殺しました。
 いいえ、まだ殺しては居ません。けれど、そのうち殺してしまうのではないかと、もう気が気ではないのです。頭の中では毎晩、彼女が何回も何回も死んでいくのです。
 そのヴィジョンときたらまた鮮明で、僕は毎朝飛び起きて心臓を抑えたり、手に血がついていないか確かめたり、見回して、夢だったということを確認しなければなりません。
 その殺される子の名前は、あぁ、僕の大好きなアイアンデティーという名の、幼馴染の女の子です。
 年は僕と同じです。いつも赤毛を気にして、小さな帽子をかぶっている子です。そばかすがとにかく可愛くて、僕はいつでも帽子をとってしまうけれど、アニーは笑って許してくれます。足首にはいつもリボンを結んでいて、いつかそれを僕にくれることを、願ってやみません。
 僕はアニーが好きで、好きでしかたないのです。
 牧師様、いいえ、神父様? 僕は見分けがつかないのですがどのようなお名前で言えば良いのでしょうか?
 殺したい。
 あの血の感触が生々しい。
 殺したいんです。殺して、悲鳴に酔って、逃げようとする彼女を抱きしめて、ナイフでおなかを裂いて、指を折り曲げて、ゴトリと地面にキスをする様子をながめ、そうして、うすぼんやりと閉じることのない瞳にみつめられながら、血肉の中で僕は眠りたいんです。
 そうすることで僕はやっと本当の眠りを得るような、そんな気がしているのです。
 でも実際は殺していません。あぁ、聞いてください。
 彼女は、自殺しました。
 僕は銃を持って戦っていたはずなのに、丘のいちばんうえで、彼女を見つけてしまったのです。首に、縄をかける幼いしぐさ。彼女を殺したのは、戦争でした。
 けれど。
 彼女を一番殺したかったのは僕です。
 どうか。お願いです、アニーを生き返らせてはくれませんか? もし生き返ってくれたなら、僕がいちばんに彼女の死に抱かれて眠りたいのです。エゴだとおっしゃるかも知れませんが、今はそればかりが頭の中をめぐっています。
 そうなんです。
 だから、先日からの墓荒らしの正体は僕です。
 どうぞ逮捕してください。いえ、逮捕なんて軽いものじゃなく、アニーと同じ方法で、僕を殺してください。そうでなければ、彼女と一緒の墓に、生きたまま入れてくださいませんか。
 あぁ、もう、どうして僕はこんなことを喋っているのでしょうか。
 ここも所詮、夢の中の懺悔室だというのに!
 ねぇ牧師様……。
 いえ、神父様?

■ 鍵っ子 ■

 その子の腰には、女子高生の携帯ストラップと同じように、ジャラジャラとした何かがたくさんぶら下がっていて。
「なぁ、それ、」
「鍵だよ」
 その子、郁(イク)は、無表情で早歩き。俺は置いて行かれないように、時々走る。
 この街の人達と同じように、急かされるように早く。
 郁は、俺がいつも寝ている公園のベンチに突然現れた。なにもない所から「ひょい」と出てきて目が合ったのだ。
 お互いしばし硬直。それから少女は
「しまった、」
 と、言ったのだ。
 しまった、見つかった。うわ、ヤバい。ばあちゃんに叱られる。あ、あのさそこのオニイサン。ちょっと来て。あたし郁。べつに怪しいモンじゃないんだ。スグに元にもどすからー……。
 ――ピタ。
 ビルの隙間の暗闇、急に郁の足がとまり、俺もあわてて急ブレーキをかける。
 郁が腰の鍵に手をあてるとジャラリ、音がうなった。
 大きな針金の輪の中。
 鍵は数え切れないほどぶらさがっている。
 銀の鍵、金の鍵、木の鍵、鉄の鍵、大きな鍵、小さな鍵、平たい鍵、太い鍵、丸い鍵、四角い鍵、三角の鍵、鍵、鍵、鍵。
 郁は暗闇を見つめたまま、腰からひとつの鍵を選んだ。
 大きくて黒い、平たい鍵。
 ピンッと、手品のように針金の輪から鍵を外す。
 そして、俺をふり返りこう言った。
「オニイサン、ばあちゃんにコレ言わないでね」
 空中に鍵をさしこむ。
 まわす。
 瞬間、確かにカチリと音がした。
 同時に、暗闇から四角く白い光が開けた。
 と。
 ゴゥウゥゥウオォオオオウッ。
「は……? っぅわッ!?!!!?」
 風っ!! すっ、吸い込まれるーっ!!?
 ……………。
 ……あ…れ?
 暗い…ココどこだ……??
 少女の笑い声が聞こえる。
 まぶたを、うっすらと光が。
「!!」
 がばっと起きあがると、さっきまで寝ていたベンチで。
 え?
 え?? なんだったんだ? 夢……か?
 時計を見ると、ベンチで寝てからまだ10分と経っていなかった。
 あの子は何者なのだろう。
 たぶんまたココで寝ていれば、そのうちひょっこり現れて顔面蒼白で「やべ……またかよ」とか言うに決まっている。
 俺はチャリっと自分の部屋と車の鍵を出して、ショボいなぁと思った。

■ がくらむ^つぇいさー>> ■

 ふぁるにぇかんばら:ふぁるにえかんばら”ら”つぇいさー
(私の職業はファルニエカンバラです。)
 どみるかるた;かか”る”う゛ぉるでんぶくす&りぐら&がくらむ”ら”ふぁるにえ
(あなたや王族や他の方々のファルニエを発見し次第除去します。)
 がくらむ^つぇいさー>>
(あなたの職業は?)
 けるぇる;びびそ’ら’おん^けぷか+>>
(ケプカだったのですか?!それは知りませんでした。)
 きるろらしぇーぬ{どるもる;べべくらみっく”り”つぇいさー
(さぞかし大変でしょうね。頑張って下さい。)

     ★

「はいええかー? ここの『きるろらしぇーぬ』のつぎの『{』に注目や!」
「せんせぇー」
「なんや?」
「ファルニエカンバラって何ですかー?」
「そんなんいちいち気にせんでえぇ。文法キッチリ覚えてからや」
 私の担任の先生は、少し、おかしい。
 でも、本気でテストに出してくるので、私はノートにこの不可解な外国語を書き写そうとシャーペンを取り出した。
 曲がりなりにも授業中。
 キョロキョロあたりを見回してみる。皆、この不可解な呪文みたいな言葉のはしを、ノートに熱心に書き込んでいる。
「文法は、基本的には英語と同じや。さかさまに解釈しー」
「せんせぇー」
 あたしはまた手をあげた。
「なんや?」
 先生はニコニコしながら、チョークを持った手であたしを指した。
「これってどこの国の言葉ですかー?」
「ペルドゥミーヤ公国や」
 即答されると、本当にある国かと錯覚してしまう。
 でも、騙されちゃ生けない。先生は、元詐欺師なんだから。
「そんな事より数学教えてください!」
 ――ドンッ。
 ちょっとカッとなって机を叩いてしまった。けれど、先生の表情はかわらない。輝くばかりの笑顔。そして、
「がくらむつぇいさー」
 口から呪文が放たれた。
「……はぁ?」
「なんや、今習ったばっかしやのに、わからへんのか優実」
「あ……職業。学生です」
「学生はな『くろりきゃん』や」
「えぇと……くろりきゃんくろりきゃん、ら、つぇいさー……?」
「そうや、ようでけたな」
 私の席は一番前だから、さして歩きもせずに先生はガシガシと私の頭をなでた。
 もっと授業を受けたい気分にさせられる、先生の、くしゃっとした笑いがここにあるけれど、毎日騙されるのは、正直、キツい。

■ 彼女を救う愛の証明 ■

 黒い牛皮が張った回転椅子に、男が座っている。
 男は上官の軍服をピシリと着こなし、無表情に、そして微動だにせずあの汚らしい乾いた髪を見続けていた。ウォールナットで造られた、重厚感ある机をはさみ、立っている、少女を。
 少女はむせかえるような腐臭をまとったまま、ゆっくりと頭をあげた。おそらく体も数週間洗っていないのだろう。泥にまみれた、顔を、その奥の目を、男に向けた。
 内戦はまだ収束の光明すら見せていない。
 軍の基地以外は全てがスラムといって良かった。あるいは廃墟か、残骸の墓場か。そこからやってきた少女を、この指令室に入れた事こそ奇跡。穴のあいたワンピースのポケットから彼女は一通の手紙を取り出した。泥水の痕がついた、いびつな形の、紙を。
 日光をはじきキラキラと反射するウォールナットの机の上にそれを置いた瞬間、少女はかがんだ! 男の視界から一瞬消えたと思うと、素早い動きで椅子に回り込み、そして――……!
 少女はピタリと停止した。
 首にはナイフ。
 握っているのは男だ。
 男は血がにじむギリギリのラインをなぞり、先ほどの無表情とはうって変わって、蔑むように笑った。
「――ムスタフ! 連れて行け」
 男が呼ぶと、扉の向こうで待機していた士官が入ってきた。燃えるような憎しみを叫びながら暴れ抵抗する少女を「ひょい」と担ぎ上げ、士官は革命軍本部・指令室をあとにした。
 残された男は、そっと、残された机の上の手紙を指でなぞる……本物だと直感する。持ち上げ、かわりにナイフを机の上に置き、折り曲げられた紙を破らないよう慎重に広げていく。
 目にとびこんだ「ジャック」の文字――バハシュ。とたんによみがえる日々。男はひとつ、深呼吸して目を閉じる。あの日で停止したままの、幼いバハシュが遠い記憶からやってくる。もうかすれている彼の声を思い浮かべて読み始めた。
『親愛なるジャックへ――。
 こんな事になるなんて、運命はわからないものだな。
 おまえと遊んだ日々をおもうと、おれの胸は苦しくなるよ。
 最近。いつもそうだ。
 おれが人民解放組織の幹部としてじゃあなく、ただ一人の人間。
 おまえの親友としてこの手紙を送ったのは、他でもない。
 フィ//判別不能//ンのことだ。盗聴されたくない。会って話がしたい。
 おまえはこれを罠だと思うか?
 ジャック、おまえだったら、たぶんそう思うだろうな。
 おれたちは子供の戦争ごっこをしているんじゃないから……けど。
 彼女がお前にあ//判別不能//と。
 信じるなら、明日の25時……明後日の午前1時にガルデイの南門で。
 追伸。
 この手紙は燃やしてくれ。
               ――お前の親愛なる過去の友人より』
 手紙に火をつけながら、男は幼いバハシュの隣にもう一人女性を立たせた。彼女は子供ではない。青春を知った女性の姿だ。
 近い過去からやってきた彼女は、はにかみながら白いヒジャブを取る。とたんに豊かな黒髪が、はらはらとウェーブを描き美しく胸に舞い踊った――フィラスティーン。
 彼女が……。
 明朝には武装勢力に対する作戦が始まろうとしていた。男は燃えていく手紙をじっと眺め、覚悟は、黒く焼けながら、くったりと灰皿の中で倒れていった。

     ★

 男が体勢を変えるたびに、ギチギチと身体に食い込む縄。
 ガルディの南門で後頭部を叩かれ、気付いた時には既に、この状態であった。体中に走る鈍痛は、気絶していた最中にも殴られ蹴られていた事を鮮やかに示している。
 縛られ、床に転がっている男が顔をあげると、壁に飾られた二本の銃と人民解放軍の旗。その前に座っている、一人の男性が目にとびこんできた。口ひげをたくわた、精悍な顔つきの青年――。
 ――バハシュ!
 男は声を出そうとしたが、口は、布を詰めこまれガムテープで塞がれている。ぐもったうめき声をあげるのが精一杯だった。
 バハシュと思しき青年は、男の目が覚めたことに気がつくと、男の前に一人の女性を連れてきた。その顔はまさしく
『フィラスティーン……』
 しかし、声は。
 次に、目が。
 男は身体を小刻みに震わせ、泣いた。
 伴侶として側に置いておくことが、どうしてもできなかった。この国を根本から変えるという、どこまでも険しい修羅の道を歩くのは男一人で十分だと。そう思い突き放した。
 だが。
 今は。
 なにもかもが解ってしまった。男は国を変えるという大きな使命を果たしている筈が、その実、彼女という一人の人間を救う事さえ……、できていなかったのだ。
 唇を噛んで男を見続けているフィラスティーンの腰に、青年の腕が巻きつけられた事こそが、確固たる証拠。
 彼女はあの懐かしい、鈴のようなか細い声で青年に、口のガムテープを取ってあげたいと懇願した。
 願いは聞き入れられる。
 彼女のあの懐かしい、透き通った白い指が、男の顔をそっとなぞる。
 ガムテープを剥がされ、男は口の中の布をせき込みながら吐き出した。見上げる、彼女のシルエット。その奥に、銃を構えた青年の姿を認めた。
「ジャック……いや、革命軍指揮官。死んでくれ。彼女の事は任せておけ。俺の妻にしてやる」
「バハシュ……私の情にうったえて、まんまと指揮官を引きずり出したつもりか? 私は任を交代してきた。今の私はー…ただの士官だ」
 男は泣きながら笑い、それから、首をかたむけ愛しい顔を目に焼き付ける。もはや何を言っても、生き残る彼女の不利にしかならないということを、男は知っている。
 死を覚悟して会いに来た行為を、永遠の愛と、思ってくれればいいと。
「……フィラスティーン、」
 銃声が響いた。

■ がびよ ■

 じっとりとした悪夢の破片を消そうとして、私は真夜中の台所で、一人、鉛筆を削る。
 昨日も、その前も、その前も、同じコトをしてきたような気がする。まるで、世界中の人の命を、毎晩、削りとっていくようだ。と、私は思う。
 そして、削る。
 削った黒いものや茶色いものは、出しっぱなしの水道にのって、下へ下へと流れてゆく。
 この下には、どれだけの黒い水があふれているのだろう。今、この水道の水はとてもキレェだけれど、やがて渦を巻いて黒に合流する。
 色のない世界が、土の中に埋まっている。
 ふと手を止めると、玄関からガチガチという音が聞こえてきた。
 ――るり子さんだ。
 私はそう思って玄関を見やり、また削る作業を再開した。
 入ってきたのはやっぱりるり子さんだった。この家のカギを全部持っているのは、るり子さんしか居ない。私が主張して、今年の春に、玄関のカギを四つに増やしたからだ。
 私はもうすでに、二つ失くしている。
 るり子さんは走って台所まで来て、私のとなりからコップを引き抜いた。とりあえずと思って、挨拶をしてみる。
「こんばんは、るり子さん」
「あら、きなり。アンタまーた鉛筆削ってんの? 飽きないわねー」
 流れっぱなしの水道から、るり子さんは上手に水を汲み、ごくごくと音をたてて、それはそれは美味しそうに飲んだ。
 私はるり子さんの飲み方が好きだ。
「あー、塩素!」
 コップを、いきおいよく台に置くと、るり子さんは、いつものように私の首をながめた。
 自然と、体がかたくなる。
「……きなり、ねぇ、アンタまだ怒ってんの?」
 そのお決まりの質問に、私はゆっくり首をふった。
 キズのついた首を。
「そ、じゃぁ、アタシ寝るから」
 るり子さんは「おやすみ」と言って自分の部屋に帰っていく。
 私はしばらく立ちつくして、それからそっと四角を盗み見た。
 この台所からは月が見えないけれど、いつも一箇所、ぽっかりと、四角い光がさしている床がある。
 私はそれを、四角と呼ぶことにしていた。
 ずいぶんと長い時間見て、それから私は、前々から考えていた計画を実行すべく、るり子さんの部屋をたずねた。
「ねー、がびよ、ある?」
 ノックせずにドアを開けると、るり子さんはベッドに突っ伏したまま「ガビョウ?」と言った。
 るり子さんの紅いドレスと赤い毛布は、お互い吸い付くように同化して見える。
 私はそれをとてもキレェだと思い、しばし見とれた。
「子機の棚の引き出しの中じゃない? 何段かは知らないけど」
「んー、わかった」
 るり子さんはすごい。
 家にずっと居る私よりも、家のコトを知っている。
 お礼を言ってドアを閉めようとすると、るり子さんは
「んっ?! ちょい待ちー…えやっ」
 と、かけ声。ベッドから体をひきはがした。
 ――蝶の羽化のようだ。
 私は一瞬、息を呑み、こんな美しい人が私の姉であることを、居るわけのない神さまに感謝した。
 るり子さんは「んー、んー」と言いながら、部屋の隅の木箱から埃のかぶった筆箱を見つけ出し、そこから四つのかびよを取りだしてくれた。
「ほら」
 と、るり子さんがふり返ったので、私はあわてて手のひらを二つあわせ、受け取りに走る。
 チクチクと手に落ちたがびよは、将棋の駒の形をしていた。
 上の左がわから順に、飛車、金、香車、歩、と書いてある。
 おぉ、香車!
 香車があったのが嬉しくて、私は、こいつだけ一番最後にしてやろう、と決めた。
 ウキウキしながら台所に戻る。
 四角は、少し移動したように見えた。
 まぁ、かまわない。
 私は四角の中に影をつくらない場所を選び、そこに陣取った。イスが邪魔だったので、私は、るり子さんを起こさないよう慎重に動かした。
 四角の角を、じっと眺める。
 それはぼんやりしたものから、やがて、薄い膜の張った紙にかわる。
 私は自分で「よし」と思うまで見極め、それからゆっくりと、床にがびよを刺した。
 刺す順番は、嫌いな駒からにした。
 飛車、歩、金、そして香車。
 ぎりぎりと床が鳴る。
 鳴ったぶんだけ、私は力をこめた。
 水の音は、まだまだ止まらない。
 香車を刺してしまうと、私は冷蔵庫の壁にもたれて四角の標本をながめた。
 白く光る四角。
 そこには、私の人生のほとんどが、すっきりと収まってしまうように思えた。
 私が生まれてから、物心ついて、幼稚園、小学校、中学校、高校に入り、その最期の春休み、るり子さんの彼氏に首を切られた所までの、全てが。
 そこから先のものは、毎晩、鉛筆と一緒に水に流してしまっていた。
 ――四角は動かない。
 それでいい。
 私は、ほっとため息をついて、立ち上がった。
 鉛筆を削りはじめる。
 こんなんだから、水道代が高いのよ、と、困ったように言うるり子さんの顔がうかぶ。
 私は一人でクツクツと笑う。
 笑いながら、明日も誰かの命を削っていくんだな、と、思う。
 だって、仕方がない。
 頭と体が同じ動きをしてくれるほど、私は大人じゃない。
 本当は、その四角が月の光でないことをずいぶん前から知っているのに、動きはしないかと、いつも不安なのだ。

■ 彼女が特に気にすること ■

 彼女が特に気にするコトといえば、僕が、煙草を一向に止めないとか、そういうコト。
 彼女は、僕のキタナイ顔や、汗ばんだ髪や、筋肉ではなく脂肪の固まりの体には、全然関心がない。平気で横に並ぶ。歩く。キスする。
 彼女が特に気にするコトといえば、僕が、野菜を食べないとか、そういうコト。
 彼女は、僕の回転の悪い頭や、服のセンスや、似合わないピアスには、全然関心がない。今日も、浅草で彼女と待ち合わせる。
 ジジイ・ババァの町にも、彼女にとってはどうでもイイコトなのだ。
「お待たせ」
 彼女はいつもGパンにTシャツ。
 僕は彼女の黒い髪と、化粧のしない……でもキレェな顔に見とれる。
 ギャル(死語?)達なんかより、よっぽどイイさ。と、僕は思う。
「今日は珍しく時間に遅れたね」
 僕は彼女に言った。
 彼女は毎回、待ち合わせ時刻の3分前には居るのに、今日は5分遅れた。
「洗濯物が乾かなくて」
 彼女は一人暮らし。
 でも、彼女の家には入らない。
 僕は自分でそう決めていた。
「行こうか」
「うん」
 彼女は自然に僕の手を握った。
 彼女は、サラサラした髪をなびかせ、風のように歩く。
 足音がまったく聞こえなくて、僕は以前、彼女に
「君は幽霊じゃないよね?」
 と、本気で質問したコトがある。
 彼女は笑って
「ばか。でも、君のそういう所、好き」
 キスしてくれた。
 幽霊でもいい。
 僕は生まれて初めてのキスを、その日味わった。
 彼女が飲んでいたオレンジジュースの味がした。きっと彼女には、僕が飲んでいたコーヒーの味がしたのだろう。
 僕と彼女は、浅草の喧騒をぬけて、小川の流るる公園に着いた。
「ハイ」
 彼女は弁当を持ってきていた。
「僕に?」
「アラ・要らないのなら私が食べるわ」
「あ、いや、嬉しいよ。ありがとう」
 三段の重箱に入っている弁当。中身はオニギリと卵焼き。サラダに唐揚げ。フルーツは別のタッパに詰めていて、あと定番のタコウィンナーなど等。
 その他、何だか解らないモノまであった。
「うまい」
「良かった。あ・野菜食べてよ」
「分かってる」
「絶対よ。いつも残すんだから」
 彼女のしつこさに負け、サラダもたいらげた。
 時間の流れはあっという間で、僕と彼女の別れは、いつも唐突に訪れる。
「じゃぁ」
「じゃぁ」
 誰も居なくなった公園で、僕は手をふった。
 彼女は、笑っていた。
 ……彼女が居なくなって、寂しい?
 ずいぶん前は、別れが辛かったのだけれど今はそうでもなくなった。
 でも、彼女への愛しさ。
 忘れていない。
 僕はしばらく立ちつくして、それから煙草に火をつけた。
 彼女といる間は、吸わないと約束したから。
 息を吐くと、煙草の白いケムリが舞った。
 これから、どうしようか。
 まだまだ夜はこれから。
 彼女は、僕と別れたあと、何をしているのだろう?
 他の男とあそんでいるのかも知れない。
 まだ乾かない洗濯物を干しているのかも。
 もしくは、道の途中で拾った犬に、ミルクを買ってやっている。の、かもしれない。
 僕は、何をしようか?
「……はぁー…ぁ」
 僕はゆっくりと腕を伸ばし、大きくせのびの運動をした。
 そういえば、小学校の夏休み以来だ。十年ぶり?
 気持ちイイな。
 彼女と別れた時は、いつもこんなカンジだ。気持ちイイ喪失感。でも、寂しくはないんだ。
 僕は公園を出て歩き出した。
 風が心地よく吹く夜。
 故郷の空気に比べたら、幾分か粉っぽいカンジのする、東京の風。
 ネオンサインが光る。
 僕は足を速めた。
 彼女はドコに?
 僕は、ドコに?

     ★

 彼女が特に気にするコトといえば、僕が、いつまでたってもSEXしたがらないとか、そういうコト。
 僕がもしかしたら不能なんじゃないの? とか、もしかしたら同性愛者なんじゃないの? とか、もしかしたら潔癖なんじゃないの? という憶測には、全然関心がない。本当は、好きだからムヤミにできないのに、ふとした瞬間、平気で誘ってくる。
 でも、彼女のそういう所が好きだ。
 あぁ今夜は、大家さんと一杯やるかな。きっと彼は、喜んで晩酌してくれるだろう。
 彼女が特に気にするコトといえば、僕が、お酒を飲み過ぎるとか、そういうコト。この前も、僕がビール一杯飲んだだけで、顔を真っ赤にして怒っていたっけ。
 僕は、彼女が特に気にするコトには、特に気にしていない。
 僕は、彼女が特に気にしていないコトを特に気にする。
 僕らはきっと、反対だから好きあってる。

■ 蜻蛉の遺書 ■

 いつからこうして独りで彼女を見ていたのか、もう、とっくにわからなくなっていた。土間に尻をついているのに、冷たくもなんともない。
 ぼくはもう一度、短くため息をついた。
 飢饉だというのに、幕府は自分達の腹さえ満たせればいいと、ぼくらを見捨てている。
 だから、もう、役人も来ない。
 居るのは死骸を喰っているカラスや狸たちばかりで。
 けれど一応、誰かが戸を引いたときの為にぼくは、背中を丸めて膝をかかえこんでいた。
 視線の先の、土の上。
 ……蟻すら出てこない。
 まぁ、村ごと見捨てるなんてザラにあること。それが今回ぼくの村だっただけ。いつか巡ってくるモノが、ほんの早く来ただけのこと。
 ほんの、ちょっと早く。
 そう納得しても、少し虚しい気分になるだけだった。ため息をつく。
 農家なんて、そういうもの。ただの使い捨て、だ……もうやめよう。考えたくもない。
 今更だけれどぼくは「腹……減った」とつぶやいて、少しだけ力を入れ首を持ち上げた。
 もうもうそろそろ日が暮れる。
 藁の上の彼女は、今日も微動だにしなかった。
 昨日も、おとといも、その前もそうだった。
 小紋を着て横たわったままの、キレェな髪のカンザシから素足の爪の丸みまで、ぼくはぼんやりとながめていた。
 ――不思議と死臭はない。
 ぼくが土間に居るせいなのだろうか。
 もっと近くで見たいと思うのに、同じだけ離れてしまいたいとも思っていて、動けない事への涙は、流れないかわりに土間で温まり湯気になっていく。
 ……そうだ、死臭がないのなら、もしかしたら、ただ冬眠しているだけなのかも知れないぞ。
 明日の朝には起き上がり「お早うあんた。朝ごはん、作らないとねぇ」と、いつものようにー……いや。
 いくらなんでもそれはないだろう。
 ぼくは苦い顔で笑おうとしたけれど、顔が動かなかった。
 筋肉が、固くなっている。
 それもそうだ。どれぐらい経ったかわからないほど、ぼくはこの体勢のままだったから。
 これは、なんだろう?
 ぼくはこのまま、死んでしまうのだろうか。
 このまま、起き上がるのを待ったまま。
 このまま。
 ……地べたに視線を戻す。薄暗くかすみ、土は真っ黒に見えた。
 そろそろ眠る時間だ。永遠ではなくただの、一時の眠り。明日にはまた、ぼくだけが一人息をする。誰も居なくなったここで。
 なんてことだ。どこまで胸を汚くするのだろう。
 ぐちゃぐちゃと、骨まで抉ってまだやまない。
 お前らここに立って彼女を見ろ。
 あのカンザシは! ぼくが、買ってやったんだ。初めてあげた、ものだったんだ……。
 なんて幕府だ。なんて、幕府なんだ。
 ぼくは落ち着こうと、しっかり頭をあげて彼女を見ようとした。今日最後の、その形を。
 ――そのとき。
 彼女の胸の上で、何かが動いた。
 え。
 ぼくは目をこらして、それでも暗く、よく見えないのでしばたいて、トンボ、だ。
 トンボがとまっている。
 羽をゆっくり動かしている。
 そうしてそのうち、ピタリと動かなくなった。
 ぼくは突然の来客に驚き、そしてひとつ、ふっと思い浮かんだ。
 トンボ……トンボは、食べれるものだろうか。
 ぼくはトンボをつかまえようと、ゆっくりカラダを斜めに動かしはじめた。
 ギ、ギ、ギ、と筋肉が鳴る。なんでもいいから食べ物がほしかった。おとといまでは草を食べていたけれど、もう、全て枯れてしまっている。
 ぼくはゆっくりと動きながら、美しいトンボの味を想像してみた。
 最初は、苦み。
 トンボは暴れるので、しばらく口の中が痛いだろうけれど、胴体の真ん中からガリっと噛むと、その動きが停まる。
 生温かくて酸っぱい汁が、あとからあとから音をたててわき出る。
 そうして、目が、プチッという音を立てて潰れる。まっすぐに伸びたその尾は、容易にクシャリと曲がるだろう。
 ここもまた苦い。
 卵を孕んでいるから。
 ハネはパリパリではなく、しっとりしているけれども口を動かすとシャラリと溶けてしまうような気がする。
 足は、舌でそのうぶ毛の感触を確かめてから、奧歯ですり潰そう。
 全体がとろけたらあとはもう一気に飲み込む。
 かみ切れなかった部分が喉に当たってチクリと刺すだろう。かまわない。なんてったって、ぼくは、お腹がすいているんだ。
 どうやら気付かれなかったようで、トンボは微動だにしなかった。彼女と同じく。
 ぼくはそうっと手をおろしていき、あと少しというところで一気に振り下ろした。
 トッ。
 ――つかまえたっ!
 そう思った瞬間、トンボは、飛んだ。
 ぼくは「あっ……」とかすれた声で、そのままの体勢でトンボをみあげた。
 きらりと、トンボの羽が光る。月の声が、木の隙間から届いているんだ。しばらくするとトンボは降りてきて、ぼくの手の上にとまった。
「……―どうして……っ…」
 ぼくの手は、彼女の胸の上にあった。
 とても、冷たかった。
 どうしてこんなにも小さく、冷たいのだろう。
 ぼくはそのまま首をたれて、彼女の腹に顔をうずめて泣いた……死臭と蛆のやわらかさ。
 その間、トンボはぼくの手からはなれなかった。

■ かごめの眼 ■

 むかぁしむかし、越中の旅籠さんに、神隠しにおうた子がおったそうな。
 男の名は長三郎といってな、チョサブロー、チョサブローと、皆にかわいがられておったそうな。
 長三郎は、力持ちのえぇえぇ子供じゃった。そのうえ優しくて、村の井戸端でケガをした娘っこを、おんぶして、家まで運んでやったりもしたもんじゃ。
 ある日、長三郎は山の入り口の川辺で、この辺りではとんと見かけない黒い、黒い、トンボをみたのじゃ。
 はたっ。はたっ。はたっとな。
 トンボは空をなんーとも難儀に渡り、山の中へ中へと、泳いでいっての。
 長三郎は、飴屋のみっちゃんに見せてやろうと思うて、山の中へ中へと入っていったのじゃ。
 子供じゃけん、もうトンボしか目に入らなかったんじゃろうて。
 ……そのせいかはわからんが、不思議と静かぁな道じゃった。
 はたっ。はたっ。はたっとな。
 長三郎が追いかけたトンボは、いつの間にか、どこかへふいと、消えてしもうた。
 こりゃぁいかん、と長三郎は、回れ右をして帰り始めたんじゃがー…。

     ☆

「道子さん、道子さんや」
「はぁい」
 甲高い声と足音を響かせ、道子は座敷の戸を開け放った。その瞬間、長三郎はニッコリと笑い
「あぁ、そうなんじゃよ、ありがとう」
 と、腕を少しあげ何かを手離す動作をした。
 長三郎のこの行動には、もう慣れたもので、道子はおかまいなしに部屋に入り、掃除をし始めた。
 長三郎の眼はいつも遠くを見ている。
 それでも、この場所が見えていないのではない。見えてはいるのだ。
 たとえそれが、十年以上前の姿かたちであろうと。
 道子がそれに気づいたのは、もう何十年も前の、神隠しの沈黙を長三郎が破った、その時であった。
 やっと喋った一言に、道子は驚き、声が出ぬよう唇を噛んだほどであった。
『――みっちゃん、かごめかごめしようかぁ?』
 道子はもう、隠れん坊などする年ではなくなっていた。目の前で笑う長三郎も、もう、子供ではなくなっていたというのに。
 それからというもの、長三郎の時間のずれは、次第に大きくなっていった。
 長三郎の眼に映る全てのものが、過去の産物であり、幻想であった。
 それ故、長三郎が囲炉裏に手をかざしても、囲炉裏はその場所には、もうなく、逆に、長三郎が見えていない場所にある箪笥に、彼は幾度となくぶつかり、そのたびに、首をかしげるのであった。
 そんな長三郎の様子から、旅籠の旦那は道子の家に全てを押し付け、逃げるように村を去った。
 すぐに道子も家を追い出され、しかし、長三郎は笑っていた。
 過去の、まだ幸せな頃をその眼で見ているのであった。ある意味では、それは道子の救いになったであろう。
 みっちゃん、みっちゃん、と長三郎が呼びかけるたびに、道子は少し甲高い声で
「はぁい」
 と応えるのであった。
 しかし、幸せな生活は長くは続かなかった。
 道子は心の臓を患い、長三郎の世話をすることが、難しくなってきたのだった。
 仕事もできず、幻視ばかりに囚われている長三郎のために、道子はそれこそ朝から晩まで働き、子は持たず、質素な生活を送ってきたのだ。
 道子は倒れた。
 床の中、ただただ、一心に長三郎を見ていた。
 長三郎。
 長三郎。
 幾度と無く名を読んでも、その眼の中に道子が写るわけもなかった。

     ☆

 村では大騒ぎになっておった。長三郎が、いつになっても戻ってこないのじゃ。
 酉の刻もそろそろ過ぎ、夕日がたぁんまり赤く染まってきおった。
 旅籠の主人は、村の若い衆を集め、息子を探しに山へとくりだした。
 神隠しじゃろか、狐に盗まれたんじゃろか、大きな声で、チョサブロー、チョサブロー、と、叫びまわった。
 すると、うずくまっている長三郎を、若い衆が見つけ出したのじゃが、長三郎は動きもしない。
 ぐるり、と松明をかかげた皆が見たのは、草いっぱいに長三郎を囲んだ、足跡だったそうな。
 かごめぇ、かごめぇ。
 村の衆は、なぁんも喋らなくなってしもうた長三郎を見て、狐が化かして遊んだんじゃろうと、口々に言うたわい……。
 なぁんでもないんじゃぁ。わしの昔話じゃけぇ。
 昔ぃ言うても、ほんの昨日のことじゃけぇ。
 あぁ、なぁんだろうやぁ。晴れとるのに、雨の音がするわぁ。最近天変地異でも起こっとるんじゃろうかぁ。
 なぁ、道子さん。もう、呼んでもなぁんも喋ってくれへん。
 みっちゃん。
 みっちゃん。
 なして笑っとるんじゃぁ。わしは道子さんの声がききたいんじゃあ。
 なしてなぁんも言わんのじゃあ。わしは、道子さんの声がききたいんじゃあ。
 なんじゃ? 部屋が揺れておる。二重になっておる。
 あぁくわばらくわばら。
 わしはどうしてしまったんじゃろうか……。
 ……道子さん。……道子さん? 寝ておるんかぁい?
 夢かぇ?
 これは、夢かぇ?
 道子さん、死んでおるんかえ? わしは、今まで誰と話しておったんかぇ?
 道子さん、かごめかごめぇ、しよかぁ?
 のお。かごめぇ、かごめぇ。
 どんとはれ。

■ 〜革命〜 ■

 グチャグチャと、肉を噛む音がする。
 ジュルリと、血を啜る音がする。
 人間が支配していたこの地上で今、人類史上最大の革命が起こった。
 その名は……捕食革命。
 我々、農林水産省捕食革命対策本部は、この革命の全貌を把握するためそして、今後の革命の行く先を見届けるために設置された機関であり、その全貌は資料ニ−五に書かれている。
 国会議事堂地下、特殊機密事項保管倉庫に収められたこの文章ファイルは、総理大臣・国会議事堂地下書庫管理運営局長・農林水産大臣及び農林水産省捕食革命対策本部長の許可なく閲覧することを禁ずる。
 またこの書類の持ち出し・複写・転写などは固く禁ずるとともに、禁止事項を守らなかった場合は一億円以下の罰金及び無期限の懲役を申し渡すものとする。

     ★

 この革命が一番初めに起こったのは、今から3ヶ月前の6月25日である。
 しかし、革命の前兆は1980・90年代に、既に起こっていたと思われる。
 経済成長にともない「都市伝説」という数々の恐怖話が生まれたのは、我々の年代であれば皆知っていることだろう。
 ベッド下の殺人鬼……踏み切りの女……不思議なチャーシュー麺……タクシーの乗客……。
 その中の一つに「人肉団子」という話があるのは、あまりにも有名だが、これは、まさに捕食革命の核心をついた話だと言ってよい。
 この頃から既に捕食という行為を許容する為の布石がが敷かれていたのだ!
 このような事実から、革命がたった2・3ヶ月あまりで全国に広がった経緯がみてとれる。
 革命は今、マスメディアを通して世界全土へと広がりつつある。
 我々の予想では、「革命」がその意味を終えるまで1年とかからない。
 ……我々はこのまま、運命を受け入れるべきなのだろうか……。
 さて、大規模な革命とはいえ、その革命を肯定的にとる者も居れば、否定的にとらえて革命を拒否する者も居る。
 我々は、農林水産省の中でも数少ない「革命否定派」の集まりだが、つい先日、革命を受け入れて「捕食」という行為を行い始めた同僚のN岡が、農林水産大臣に辞表を提出した。
 彼は革命を受け入れ、発展に行き詰まった小さな世界より、変動的な未知数に満ちた世界を選んだのだ。
「……慣れてみると結構美味しいんだぜ……」
 と、彼は我々に言い残し、去っていった。
 笑ったN岡の顔は、もはや人間のモノではなかった。
 ……肉食獣。
 そう、本能的に活動する猛々しい獣の顔だ。
 今まで抑制されていた衝動が解き放たれ、新たなエネルギーに満ち溢れた「人間」という「獣」だ。
 「獣」は、数が増えすぎたため食料が無くなり、ついに共食いを始めたのではないか。
 それこそが、捕食革命の謂わんとしているコトなのではないのだろうか?
 ……そもそも「捕食革命」という言葉は、経済ジャーナリストのT橋が作った言葉だ。
 彼は、最初の捕食行為を目撃した人物で、それをスクープとしてメディアに出した人物でもある。
 我々は彼に「捕食」の材料として在る「人間」について、独占インタビューすることに成功した。

     ★

 編集職員(以下:編)「最初に目撃した時の感想は?」
 T橋(以下:T)「感想? そんなもんじゃなかったよ。…地獄だったね」
 編「確か、最初の「捕食」は、ある民家で起こったんですよね?」
 T「あぁ。その家の近くでチョッとした事件があったんで、当事者達の人物像を聞きに行ったのさ」
 編「スクープだと思いました?」
 T「いや、ショックで何も…。自分がココニイナイ感覚とでもいうのかな。最初、ドアをノックしても返事がなかったんで、ノブを回してみたんですよ。そしたらドアが開いて。靴もあるし、何かあったのかとリビングの扉を開いたとたん……あぁ、とにかく、血と肉の臭いがすごかったんでね。とっさに部屋の窓を開けたさ」
 編「大変でしたね」
 T「今思えば、そうでもないよ。世の中が狂ってるのか、俺が狂ってるのか、ワケがわかんなくなっちまったし」
 編「その「捕食」という言葉の由来というのは…なにかありますか?」
 T「そのまんまさ」
 編「というと?」
 T「捕まえて食べる…。最初に俺の見た光景のままだよ」
 編「では、捕食する側とされる側、その境界線は何だと思いますか?」
 T「それは……ノーコメントだね。俺は基本的に、人間という存在が「将来的に捕食される側」に居ると思うンでね」
 編「人間が…全員?」
 T「人類は要らないんじゃないかと、俺は革命を通して感じてる」
 編「その理論で行くと、最終的には「捕食する側」の人間が、一人だけ残るのでは?」
 T「…それは…どうかな(笑)」
 編「意味がある、と?」
 T「その辺もノーコメント。じゃ、俺はまだ仕事があるんで、この辺で失礼させてもらうぜ」
 編「……ありがとうございました」

     ★

 このインタビューをカセットテーブで聞いた誰もが、T橋の言った言葉に疑問をもった。
 ……何かが引っ掛かる。
『人間という存在が、将来的に捕食される側』
 彼の解釈で革命が進めば、我々もいつか捕食されてしまうのだろうか?
 いつか。
 ……それでも、革命はもう止まらない。

■ COLOR ■

 フィルターを通された彼女の視細胞は、脳に白黒の像しか結ばない。
 かなり専門的な説明になるが、とりあえず視細胞についての基本的な知識と、今の彼女の状態を簡潔に言おう。
 人間には二つの視細胞が備わっている。
 ひとつは稈体。
 この視細胞は、光に敏感で、主に暗い所で活躍している視細胞である。
 しかし、色の識別ができない。
 もうひとつは錐体。
 この視細胞は、色に敏感で、主に明るい所で活躍している。
 しかし、明暗の識別ができない。
 人間が日常的に見る「像」は、この二つの視細胞が、場所や状況により交互に働きを強めるコトで成り立っている。
 蛇足であるが、夕方の薄暗い所などでは二つの視細胞が同時に活発化するので、明性色である赤(空の色)より、暗性色である青(道路標識の色)の方が明るく感じられる。
 この状態をプルキンエ現象という。
 今の彼女の状態は、水晶体や網膜等に、あるフィルターを通すことにより、普通なら暗所視状態でしか活発にならない稈体を、明所視状態で活発にさせている。
 同時に、角膜や脈絡膜等に、錐体の活動を低迷化させる信号を送っている。
 彼女の年齢は二十五歳。
 この実験に積極的に参加してくれた。
 理由を尋ねると、彼女の妹が両眼角膜破損による盲なのだそうだ。
 それでは、白い部屋の椅子に座っている彼女に、いくつか質問してみることにしよう。
 今の体調はどうですか? 普段と変わりありませんか?
「はい。大丈夫です」
 よろしい。では、この部屋は何色に見えますか?
「白です」
 では、この紙は何色に見えますか?
 彼女の目の前に、桃色の折り紙を置くと、彼女はしばらく沈黙し、そして答えた。
「薄い灰色です」
 その途端、隣の部屋に居た研究員たちは、口々に驚きを口にした。
 幹体のみの活動ならば、本当に「白」か「黒」の識別のみだと思われてきたからだ。
 ……それでは、この紙は何色に見えますか?
 彼女の前に黒い折り紙を置くと、彼女は即答した。
「黒です」
 よろしい。
 では、この紙は?
 彼女の前に置いた紙は、光る銀色の折り紙だ。
 彼女はまた、少し考えて、言った。
「灰色? 時折白にも見えます」
 研究員たちは、またざわめきだした。
 それから彼女を立たせて、部屋の中を歩いてみるように指示を出した。
 ふらつかず、しっかりと一歩一歩を踏みだして、彼女は部屋の中を何分か歩きまわった。
 このフィルターによる身体機能への影響は、今の時点ではないようだ。
 しかし、長時間この状態が続くと、どうなるかわからない。
 今回の実験時間は三十分を予定している。もうすでに、予定時間の半分を過ぎていた。また彼女を椅子に座らせて、質問を開始することにする。
 今の気分はどうですか? 感想でも良いですが。
「昔の映画を見ているみたいです」
 そうですか。
 では、窓から外を眺めてみてください。
 今日の天気は快晴です。空はとても青い。
 そこの木々は新緑の葉を広げている。
 道路には、赤や黄色の車が走っている。
 そして、目の前に居る研究員は、人間。肌、唇、衣服、何色に見えますか?
「全部、モノクロに見えます」
 それを、貴方はどう思いますか?
 やはり「色」があった方が良いと思いますか? それとも、このままでも十分暮せる自信がおありでしょうか?
「………」
 彼女は口をつぐみ、そのまま実験時間は終了した。
 白い部屋から、となりの実験室へと戻り、紙に書いた手順を確認しながら、ゆっくりとフィルターをはずす。
 瞳を開けて結構ですよ。
 彼女はそっと瞳を開いた。しかし、次の瞬間、彼女の顔は困惑の表情を浮かべた。
 どうしましたか?
「え……? あ……色が…」
 研究員たちがざわめき始めた。
「色が……ない」
 それは、フィルターを通した情景がまだそのままだと?
 モノクロにしか見えないと??
「あ……はい、そうで……す」
 彼女は本当に戸惑っているようだった。それ以上に、研究員たちの恐怖の声が後をたたず、彼らを白い部屋に押しやらなければならなかった。
 何回も瞬きしてみて下さい。
「はい」
 それから、しばらく瞳を閉じて、気を落ちつけて下さい。深呼吸して。
「はい……」
 ゆっくり、瞳を開けて下さい。
「………」
 どうですか?
「………」
 彼女は首を横にふり、モノクロの像しか結ばない彼女の瞳からは、大粒の涙が溢れた。
「……研究員さん」
 なんですか。
「何年かかっても良いので……。元通りに、なりますか?」
 ―…大丈夫です。
 そして彼女は笑った。
「妹に、良い土産話ができましたね……」
 この気丈な女性は、何ヶ月もしないうちに精神病院で息を引き取った。