■ 僕らは電子の海でシム ■

 ヘッドホーンを両手でおさえこんだ。
 耳をふさぐとスウィッチ。S波形信号受信。
「――やあ、」
 僕に気づいて顔をあげたシムは、ゆっくりと微笑んだ。
 彼の端正な顔立ちは、まるで作られた陶磁器のように、いつも白い。
 影は、海に溶けてしまい、シムの胸を濡らしていた。
「そろそろ、死むかい?」
 シムは、ぬ、という音を発音できないようで、だから僕は彼のことを「シム」と定義していた。
 穏やかな風が、僕等の間を通りすぎてゆく。空は灰色の様を呈して曇って、それでも海はなんともなく凪いでいた。
 シムの身体は昨日より、更に海の中へと沈んでいた。
 最初にネットからこのフェイズを見つけ出したとき、シムは浜辺で、足しか浸かっていなかったのに、今では胸から下をすっかり飲み込まれていた。
 海は青なんて色じゃない。灰色、灰色がかった緑。ここの砂浜の砂は緑だった。緑の砂で足を刺しながら、僕はさぶさぶと海に入ってゆく。
 ざぶざぶと海に入ってゆく。
「ねぇ、キスしよう」
 僕は出会ってから一番言いたかった言葉を、今日、口にした。
 彼が現実世界からスキャリングしている人間であれば、触れあえるハズだった。僕は、もしかしたら、質の悪いプログラムにでもヒューリングしてしまったのかといつも不安で。最近のAIは、手を完璧に模写する。握手じゃダメだ。
 僕は、シムともっともっと触れあいたいと思っていた。
 だってそうぢゃないか。
 シムはいつも死を話題にするし、きっと次にココへアクセスしたらシムは沈んでしまうー……この電子の海の中へー……遠くへー……。僕はきっとシムの跡を追うだろう。
 シムの手をつかむ。海の中で。この手はとても儚い。
「キス……? 厭だよ」
「どうして、」
「死むのは、君ぢゃない、生きるのは、僕ぢゃない…から……」
 シムは泣いた。
 水位が上がって、シムはもう首さえも見えなくなってしまっていた。
「シム」
 僕は予告もなにもなく、シムの唇をふさいだ。
 瞬間、シムのカラダは、海の中でとけてしまったようだった。
 そのまま逆さまに、僕は、暗い海の底へと、ゆっくりと、堕ちてゆく。
 ――あぁ。
 僕は理解した。これは全部シムの涙だったのだ。
 シムも、僕も、もう、何も考えなくていい。死んでいた。はじめから、死んでいたんだ。シム……最期まで僕の名前を呼んでくれなかったね。
 ゆっくりと瞳を開けると、雨。僕はヘッドホーンを外し、テラスの白い階段を降りて久々に、本当の自分の足で茶色の砂浜へと降り立った。
 波が高く、もう足を濡らす。僕はざぶざぶと海に入ってゆく。
 ざぶざぶと海に入ってゆく。
 空も一緒に泣いていた。シムの涙が、この広い海のどこかにまだ、埋まっているような気がしたんだ。

■ Holic ■

「貴方はもう、逃げられないわ」
 狂気を孕んだ、美しい女の、声。あたしは直感で死を悟った。
 ――窓!!
 バンッ!!
「……っつ?!!!」
 体当たりして窓を壊そうと思ったけれど、壊れるどころか、逆にあたしが弾かれて、やけにヌルヌルした床を無様に掃除した。
 ドアはあの女に鍵を掛けられていて、壊せなくもなかったけれど、多分、気を抜くとあたしが……殺される。
 ゆっくり立ち上がって暗がりに瞳をこらす。……女は笑っている。唇が、とてもキレェに歪んでいるのが見える。
「貴方はとても可愛いのね」
「………」
 楽しんでいる。
 逃げようと焦り、失敗し、喘ぐあたしを見て楽しんでいる。
 ……どうせココには誰も来ない。
 ココがドコなのかは判らないけれど、あの女ならそういう場所を選ぶハズだ。ぬかりはない。たぶん、寂れた田舎の捨てられた屋敷か、そうでなければ自分の持っている土地のどこかかー…。
 なにせ時間はたっぷりある。
 ゆっくり、ゆっくり、恐怖というスパイスをすり込んでいき、そして「あたし」を壊し、狂わせ、最後に殺せばイイ。
 あたしはこの女に誘拐された。
「キラちゃん……、綺羅ちゃんでしょ?」
 学校からの帰り道、名前を呼ばれたのだ。
「……そうだけど…」
「覚えてないかしら、ほら、小さい頃よく貴方と遊んだ、吉川のおばさんよ」
 そんな名前、知らないと言いそうになったけれど、次の言葉に遮られて、何も言えなくなってしまった。
「お母さん、引っ越しちゃったのね。連絡があったんだけれど、家の場所が複雑で……。何度も探したんだけれど見つからないのよ。心配してたわ」
 引っ越したのは本当だった。
 家の場所が複雑なのも本当で。
 あたしは、母が何故急に引っ越したのか、見当も付かなかったけれど、
「お家の場所、教えてくれるかしら?」
 この女の人なら、場所を教えても大丈夫だろうと思った。
 近所の人にさえ引越しの話をしなかった母なのに、知っているというコトは、母と相当親しい人間だろうと思ったから。
「うん。いいよ」
 あたしは安請け合いして車に乗った。
 気づいたらココ。
 今に至る。
 薄暗くて、変に鼻をつく臭いがする部屋の中で、あたしは泣きそうになった。けれど、泣いてしまったらあの女の思うツボだ。長袖の裾で顔をこすり、また前を凝視する。
 ――居ない?!!!
 ……ギッ。
 左!!
 あたしが左へ体勢を整えるより早く、女はあたしの首筋へナイフをあてがった。
「……っ」
 ゴクン、とノドが鳴る。
 あたしは思いっきり下唇を噛んだ。
 女は、薄笑いをうかべながら、あたしの頬に指をすべらせる。
「怖い顔。折角の奇麗な瞳が台無し……」
 背筋が凍るほど艶かしい、彼女の「念」の入った指使い。
 ……この人、あたしを憎んでいる。
「貴方のお母さんも、若い頃はこんな奇麗な顔、してたのよ」
 とても、とても憎んでー……!
「昔話をしてあげましょうか。こういう時は大人の人が昔話をするのがー…」
「要らない」
 あたしは、震える声で言った。
「あんたとお母さんの間に何があったかなんて、あたしには関係ない。家に帰して」
「………」
 女は驚いたようにあたしを見た。
 ――今だ!!
 あたしはヒュッと腰を落とすと、女の腹に渾身のパンチを一発!
「っハ……ッ!」
 女の手からナイフをもぎ取ると、ソファの下に素早く滑らせた。
 カラカラと音をたて、やがて音は止まる。夜の静寂に、あたしは勝ったと思った。ハァ、と一息つくと、嫌な臭いが鼻を刺激した。
「これであんたに武器はなくなった、警察にー…」
「……そうかしら?」
 女は腹を押さえながら、ゆっくりと立ち上がり、やがてスピードをつけ、あたしに突進してきた。
 なっー?! ――シュッ。
「ッ!!」
 何かを顔に吹きかけられ、グラリと視界がゆがむ。同時に、首に細いモノが巻かれる感触ー…ヤバ。息ができない。苦し…っ……。
「バイバイ、綺羅ちゃん……」

     ☆

 気が付くと、天井が見えた。いやな臭い。頭がグラグラする。視界の端に、黒い何かが見える。あたしは起き上がって、まず自分の体を見る。なぜだか、服が赤い。やけにパリパリしている。
 いいや。何でもいい、助かったんだ。良かった……。
 ふと気づいて、視界の黒いものを見る。あれは何だろう。あれはー…?!
「……お母さ? …お父さん!!!」
 まさか! ――二人とも、血まみれになって倒れている。
「なんで?! ねぇ、お父さん!」
 よく見回してみると、ココはあたしの家だった。引っ越して間もないから……よく…わからなかったんだ……。
 呆然として、フラフラと立ち上がり、電話……警察に電話をかける。
「……そうです。場所は…」
 受話器を置いた後、殺人者に仕立て上げられたあたしは、声をあげて笑い始めた。