■ ピエノジーのパンタンテ ■

 私が勤務する厚生労働省の健康課にタレコミがあったのは、山が色づきはじめた9月のことだった。
 厚労省の公式ウェブサイト。そのメールフォームから送信された投書で、内容は朝礼で開示された。
【パン屋で毒キノコが販売されている、調べた方がいい。】と。
「毒キノコ……?」
「……パン屋で?」
「いたずらじゃないか?」
 私の周囲では同僚たちが囁き合っている。
 しばらくざわついていると、課長が大げさな咳で皆を黙らせた。
「えー、この件に関しては、パン屋の具体名と住所電話番号も記されている。仮にいたずらだとしても、調査には入ることになる。行ってもらうのは土屋と柏井と島田――」
「えっ?!」
 私は思わず声をあげた。
 呼ばれると思っていなかったのだ。
 課長は私を見ながら
「なんだ? 行きたくないのか?」
 と訊いてきた。
 私はブルブルと首をふり、ちいさく謝りながら肩をすくめた。
 朝礼が終わると、さっそく土屋と柏井が私のデスクに来た。土屋がふわりとデスクに乗せたコピー用紙には、投書の内容が全文記載されていた。
 とはいっても、本文は朝礼で聞いたものと同じ、簡潔なものだ。その下にパン屋の名前が書かれている。
「ピエノジー…」
 後ろから覗いていた柏井が、
「ピエノジーってどんな意味なんスかね?」
 と明るい声を出した。
 私も気になり検索をかけてみる。一番上にパッと出てきたのは、口コミサイトの評価ページだった。
 5個までの星で表す評価は、総合星4.3。「美味しかったです」「パンはいつもここのに決めています」「パンタンテが世界一。行って損なし」など、肯定的な口コミが散見された。投稿写真も美味しそうなパンがずらりと並んでいる。
 店の外観も投稿されていた。煉瓦づくりの小さなパン屋。背景には山が映っていて、投書の住所を見ると多摩と書かれていた。
「早めの紅葉ドライブだな」
 とボソリと土屋が言ったため、我々は早速電話でアポを取り、パン屋――ピエノジーへと向かった。

     ★

 結果的にはシロだった。
 我々は店内で販売されているパン全種類を1個ずつ買いこみ、衛生課に持っていき成分を調べてもらった。しかし何も検出されず、投書はいたずらだという事でこの件は終了した。
 私は、あのパン屋の風情ある佇まいになんとなく惹かれ、多摩方面に向かう際にはちょくちょく立ち寄るようになった。パンはどれも美味く、特にパンタンテと呼ばれる看板商品――季節のきのことシチュークリームのパンは幾度となく買った。隠し味にしょうゆが入っているらしく、他のパン屋にはない味だ。
 山は紅葉シーズンを終えて、常連だなと自分でも思うようになってきたある日。
 いつものようにパンタンテを買い、食べながら山道をドライブをしていると、急にふわっと体が浮き上がるような感覚に襲われた。風邪の前兆のような悪寒もする。あわてて脇の砂利道に車を止め、早鐘を打つ心臓を感じる。深呼吸すると、くらくらと脳がゆれ、まばたきするたびにチカチカと、虹の、つぶが、からだが、ふわふわする……。ぼんやり、しろく、うきあがる……きもちいい…―。
 ――ハッと気が付くと、周囲は暗闇だった。
 夜?
 寝ていたのか??
 頭はスッキリと晴れ渡っている。冴えているくらいだ。
 両手を動かし、肩首をまわし、体を確認する。調子がいい。良すぎるくらいに。今ならどんなスポーツでも完璧にこなせそうだ。
 風邪ではなかった事に安堵しつつ、風邪ではなかったら一体何だったのだろうと不思議に思いつつ、私は車の運転を再開して家に帰った。
 2日もすると体の調子はいつも通りになり、年相応に腰も痛く、目もしぱしぱするし、コーヒーを飲まないといまいちシャキッとしない。
 あの爽快感さえ覚える体の感覚が忘れられず、私はまた、ピエノジーへと繋がる県道を車で向かう事にした。たしかここを通って、途中でコーヒーを買って、ピエノジーに着いて、パリパリ明太子とパンタンテを買ったはずだ。そして食べながら山道をドライブ……。
 しかし、悪寒がすることはなかった。
 次の休みもピエノジーに向かった。パンタンテと胡麻だれチキンベーグルを買う。次の休みも、次も次もそうしたが、やはり同じことは起きなかった。
 また次の土曜。今度はチョコクロワッサンとパンタンテを買い、食べずに他の用事を済ませて家に戻った。コンビニで買ったチーズとビールとパンで今日の晩餐を終わらせ、ベッドに入ったその時。ふわっと体が浮き上がる感覚のあと、くるくるとベッドごと体中がまわっていき、ふかく、しろく、しずむ、きもちいい、しあわせ――…。
 ――ハッと気づくと日曜の昼を過ぎていた。
 体の中から、10代の頃に戻ったようなエネルギーを感じ、私は意味もなく走って駐車場に向かった。鼻歌をうたいながらエンジンをかける。行き先は、ピエノジーに決まっている。
 きっとあのパンだ。
 看板商品・パンタンテ。
 投書の「毒キノコ」を思い出す。パンタンテに入っている季節のきのこがもし、仮に、毒キノコだとしたら。大変なことだ。
 私は急いでピエノジーに向かい、販売されているパンタンテを全部買い占めた。この奇行に店員は驚くだろうと思いきや、普段と変わらぬ対応だった。店の奥からちいさく「この時期おなじみだね」という声が聞こえ、割とよくある光景なのだと知る。
 車の後部座席に袋をどさっと詰め込むと、私は一路、自宅へ向かった。
 なぜなら厚生労働省は土日休みだから、健康課も閉まっている。検査してもらおうにもできないのだ。それに、次の日に持ち越したら腐ってしまうかもしれないし、そうだ、食べ物は、大事にしないとな……。
 三日月に歪んだ口角から垂れたよだれが、ハンドルを持つ手首に落ちた。

■ 微分、きみを廃棄。 ■

 ウレゼミ、という名前の蝉が居る。
 ほんとうの名前は誰も知らない。
 小学校の校庭の、松の幹にくっついてジクジクと痛そうに鳴いている。
 夏休みのプールには時々オトナが居ない。
 交代の時間やから! 次来るんはレミ先生よ、あっちまで泳ご、ねぇ、スタート! とかね、女子は口々に言うよ。
 音楽室が女子の更衣室だから、カーくんはわざと通らないように階段をのぼって6年の教室ルートを選ぶよね。だってほら、女子はいつだって自意識過剰だし。
 水着のままタオル持って、ふと教室を覗いたらガーシーが、黒板という名前の緑の板に青いチョークでなにかを書いていたね。ミッツ博士がとなりに立っている。文字はまるで漂うクラゲのように空気に浮いて、はがれるんじゃないかと思うよ。
 だって。
 文字じゃあないもの。それ。
「なぁ、」
 学級委員の習性。
 浮いている。
 ――ジクジクジクジクジク。
 夏。
 誰も言い出さないうちに、終ろうとしている。
「なぁ、何してん?」
 加藤の声に、信賀と三ツ谷はふりかえった。
 不協和音が四方八方からせめたてるように鳴り続けている。
「カズンに言うぞ」
 カズンとは5−Aのリーダー・安曇少年のことだ。
 学級委員長という名前の公的なリーダーは加藤だが、カズンはそれとは違う意味でのリーダーだ。今もプールで女子と遊んでいるはずで、呼びに行けばすぐにでも飛んでくるだろう。
 最初に口をひらいたのは信賀だった。
「かわいそうやん」
 窓のところまで歩き、開け放たれたままの枠を指す。
「ここにおったら。先生が閉めたら終わりやんか」
 三ツ谷もおおきく頷いた。
 けれど三ツ谷は直後に黒板消しを手にはめ、虹を描くような動きでサッとチョークを消した。粉が降る。死骸の上に青く。
 加藤は
「何やったんその絵?」
 と聞いたが、三ツ谷は一切無視して黒板消しをクリーナーの上に置いた。電源は入れず目を閉じる。
「なんも。別に。いーよカズンに言えば? 中庭のヘチマんトコに埋めよォ言うであいつは。ほんなら場所変わっただけや」
 三人は。
 二人と一人は、無言でにらみ合った。
 数秒。
 加藤は舌打ちをした。素肌はとっくに乾いている。
「……アホらし。帰るわ」
「おー帰れ」
「帰れ帰れ!」
「うっせ!! 帰ったるわ」
 6−Cの教室を通り過ぎた加藤は、そのまま6−Bと6−Aを通り過ぎ、5−D,5−C,5−B,5−Aも通り過ぎた。階段を駆け下りると素早く向きを変え逆走する。男子更衣室がわりの2−Cを通り過ぎ、女子更衣室の音楽室も通り過ぎ、渡り廊下から裸足のまま外に出たとたんにウレゼミの大合唱の中へと放り込まれる。
 プールだ。
 白い柵の中、まだ皆が遊んでいる。
 加藤は叫んだ。
「カズー! カズンー!」
 プール内にいたほぼ全員が加藤の方を向き、直後、1人を残して遊びに戻った。その1人、安曇はプールを出て裸足のまま、加藤の前まで歩いてきた。
「なに?」
「ガーシーが……」
 急に自分が格好悪く感じ、加藤の言葉は尻すぼみになる。
「ミッツ博士も…あいつら……」
 ――ジクジクジクジクジク。
 いっそう高く鳴く。
 安曇は肩をあげ、仕方ないといった風に笑いながらため息をついた。
「一緒に着替える?」
「うん……」
 校舎に入る。安曇は躊躇なく音楽室をつっきり、2−Cに入り着替えはじめた。加藤も自分のプールバッグを探して着替える。
 着替え終わった二人は階段をあがって6―Cの教室に入るも、そこはもう空白で、開いた窓からウレゼミの声がおしよせてくるばかりだ。
「――帰ったのかな?」
 安曇がつぶやくと、加藤はしばらく考えて
「中庭かも」
 プールバッグを肩にかけた。
 生徒用の玄関から外に出る。左に曲がり、生徒用通学門の手前をさらに左へ。また左へ。そこからエル字になっている所を曲がり、また曲がり、また曲がると中庭に出た。
 5年の畑の横でかがんでいる信賀と三ツ谷を見つける。加藤と安曇は駆け寄った。ぐっとかがんで二人の背中から見下ろすと、墓があった。こんもりと土が盛られ、中央には木の棒が立ててある。お供え物はその辺から千切ってきた雑草。
 信賀と三ツ谷は両手をあわせていた。
 事情をよく知らない安曇が屈託ない声で尋ねる。
「何が死んだの?」
「うるさいやつ」
 信賀がこたえる。
 三ツ谷はポツリと
「なんで死ぬと静かになるんかな」
 と言った。
 安曇が再度尋ねる。
「これ、何? どういう事? カーくんこれ、手ェ合わせた方がいいやつっぽいね」
 加藤も促されて、しぶしぶ両手を合わせる。
 ――ジクジクジクジクジク。
 ウレゼミが、交代しながら夏の終わりを告げていく。

■ BWV ■

 雪子先生が経営しているピアノ教室は巨大で、教室と呼ぶより学校といった方が正しいかもしれない。けれど看板の名前はいつまでたっても「YUKIKOピアノ教室」だった。
 十年前に建てたというここはひどく縦長で、入口から出口まで廊下が一本しかない。明快な構造だ。誰も迷わない。
 入口からまっすぐ出口へ歩いていくと、左側にずっとドアがある。一番手前が事務室、次にトイレ、子供用教室、教室A〜F、用具室、トイレ、という順番で並んでいた。
 利用している人間は……まぁ、憶測だけれど百人くらいは居ると思う。それくらい、いつも混んでいた。教える先生たちも十数人ほど居る。
 事務室の受付カウンターに自分のIDカードをかざすと、ディスプレイに「本日の予約」という画面が出てくる。これが受付完了の証で、画面に書かれた教室のドアにIDカードをスラッシュさせると鍵が開く、というシステムだ。
 雪子先生が来るまでは自由に弾いていいため、たまに早く来て前の人がいない時は、好きなバッハを好きなだけ弾けた。インベンション11番とかシンフォニア12番とか。もちろん、前の人のレッスンが終わっていない時には、廊下にあるベンチで暇をつぶす。
 ピアノレッスンにメインで使われるのがA、B、C、D室。
 入るとグランドピアノが堂々と部屋の中央を陣取っている。AとB室はヤマハ。C室はカワイ。D室は海外メーカーのピアノだ。
 E室は協奏曲や室内アンサンブル用の部屋。
 ヤマハのグランドピアノだけが備え付けで、それ以外の楽器は持ち込み式となっている。ボランティアで演奏する楽団などがリハーサルでよく使う、と雪子先生が教えてくれた。
 G室はイベント用教室。
 教室のなかでも一番広く、室内にはアップライトと電子ピアノが複数台置かれている。歌楽や、電子ピアノを使った教室などが開かれている。
 H室は録音用の部屋。
 レコーディング機材も揃っていて、まさにスタジオという雰囲気。プロに貸し出すこともあるらしいけれど、顔を知っているプロ奏者に廊下で出くわす……なんて機会はまだきてない。
 F室? F室は、開かずの間。
 ドアには常に鍵がかかっている。ドアの小窓にはカーテン。外から見てもカーテン。トイレに行くため通りかかると、時々、空調を調節するエアコンの音が聞こえてくる。
 F室については、一回、訊いてみた事があった。
「――先生。F室って、何があるんですか?」
 雪子先生は、ちょっと困った顔をしてこう言った。
「うーん……、………。あ、時間ね。ここ、始めから。やや早めで」
 レッスンは、平均律に入っていた。
 バッハの「平均律クラヴィーア」に入る前、先生は『音の対位法とか難しい事を考えずに、とにかく、指を平均的に動かす。打音を一定に律する。という方向を念頭に置いてみて』と、言った。
 けれど実際やってみると「平均」には程遠く、左手の薬指は毎日のように痛んだ。無理。無理すぎる。シンフォニアで三声を理解するのに苦しんだぶん、耳では聞き取れた。でも聞きとれたからといって、指が動くかは別問題。夢には毎日バッハが出てきて、教会で働かされたりした。
 そうこうしているうちに年が明け、この地域にも雪が降った。1月末の五時。あたりはしんと黒く、雪だけが街灯に反射して道をオレンジ色に照らしている。
 ゆっくり静かに降っていたので傘はささずに、ピアノ教室までコートのまま歩いた。
 雪が降ると、ピアノの音色はぐんと変わる……そう思うのは自分だけなのかな。空調調節されている室内に、音色が変化する要因なんて、なにもないハズなのに、打音の余韻が透きとおる。
「――あれっ?」
 いつものとおりピアノ教室に来たけれど、受付にIDカードをかざしても、画面に何も映らない。
 故障かと思って、事務室の扉をノックした。
「すみませー、ん……。あれ?」
 事務室には誰も居なかった。電気は付いているし、教室の入口だって普通に開いたから、誰も居ないなんて事は……。
 トイレかもしれない、と思って、一番手前のトイレと出口近くのトイレも覗いてみた。
 だれもいない。
 事務所にもう一度戻るとき、それぞれの教室の小窓も覗いていった。
 だれもいない。
 困り果てて、もう一度IDカードを受付にかざしてみた。
 ――ピ。
 受付の画面が光った。
 ほっとしたのもつかの間、予約の文字を見て目を疑う。
 F室……?
 画面には「本日の予約1月31日17:00〜18:00F室」と書かれていたのだ。そういえば、さっき教室の小窓を覗いていったとき、カーテンがしまっている部屋がなかったような気がする。
 開かずの間のF室が、開いている……。
 ドキドキしながら廊下を進む。といっても、F室にはどうせ大したものはないだろう。ここはピアノ教室なんだから。ピアノと、あとは先生用の椅子と、荷物を置くカラーボックスと、まぁ、他のいつもの教室と変わらない感じだろう。
 F室のドアノブを握る。ガチリと手ごたえがあり、ドアが開いた。
 暗い中に誰かが立っている――、
「早くしめて!」
 声で、雪子先生だとわかった。
 本当によくわからないけれど、とりあえず扉を閉め、手探りで灯りのスイッチを探す。けれど、スイッチはカチカチ鳴るだけで電気は点かなかった。
「ここに座って」
 また、雪子先生の声。肩をつかまれ、案内される。目の前に、やや小ぶりのピアノのような影が見えた。
 そうか。これはチェンバロだ。
 暗いなか、チェンバロの前に座った雪子先生が言った。
「今日は貸し切り。平均律に入った生徒にはこうして聴かせるようにしているの。でも、平均律に進ませたいような生徒は……ここ数年いなくて、ね。君は特別」
 演奏は素晴らしかった。
 その夜の夢に出てきたのは、バッハじゃなくて雪子先生だった。黒いコートで歌うように雪原をかけまわり、ピアノのようなデートをした。

■ ヒハカヒハカと虫が死ぬ ■

 月。
 吐息は白く光る。
 天使が来たかと身構える。
 森。
 おそらく全て捨てられた……。
 それがいつだか思いだせない。
 あくる日に冬が始まる。
 と。
 うそぶく確信がほしい。
 だから。
 歩くと、落ち葉が鳴る淋しい森の真夜中に、独りきり。
 立っている。
 冬が来れば、わかっている。
 少し涙をうかべ、頷きただ、深く眠る。
 ………。
 真夜中の動物たちは、誰があるじか解っている。
 鳴き声。
 狩りの合言葉。
 すべてに意味が含まれてる。
 いつもいくつも通り過ぎた、罵声や軽蔑の視線たち。
 枯れていく樹皮に含ませ、
「さよなら」
 告げて包み込む。
 きっと今夜。
 今夜来る。
 冬が来たら、まじわるはずの。
 少しだけ笑みを浮かべ、踊るように円を描く。
 祝福を撒く。
 雪虫が。
 横切った。
 すぐさま空を見上げて。
 とっくの昔に告げていた。
 手のひらを。
 さっと出す――。
 ………。
 やはり、死んでいた。
 体温から、うばわれる。
 冬が。
 ヒハカヒハカ。
 輝いては、静かに降る。
 そっと水になる。
 飲み干した特別な日を。
 告げてくれた。
 出会い。
 そして別れ、分解され、皮膚に混じる。ほのかに。
 いまは。
 ただ祝おう。
 靴を脱いで。
 踊りあかす。
 雪のように、眠くなるまで。

■ 108回目の弟の供養 ■

 最近、事あるごとに忙しい忙しいと言っていましたが、それも昨日でようやく終わりました。
 実は、寺に、弟の供養をしてきたんです。
 メビウスに昔からいる方などはもうご存知かと思います、たまに自分のブログでも話題に出したりするんですが、僕には弟がいてですね。
 ユヅルっていうんですが。
 これがまたよく死ぬんですよ。
 僕なぞは、手首足首切ったり大量に薬飲んだり餓死を試みても、結局りり子さんに見つかって全然死ねた試しないんですが、弟はもうアッサリ逝ってしまいまして。
 まぁ、翌日か翌々日の朝には普通に「おは……」とか言いながら起きてくるので、もう慣れましたけどね。あぁ、もちろん、最初はビックリしたんですよ? そりゃあ死人が起きてくるだなんて、そういえば映画でもありましたよね、省きます。
 僕が知っているだけでも自殺・事故・他殺のほかに、
 ・誰も相手にしてくれないという社会的な死
 ・タイムジャンプしすぎて同一時間軸に戻れなかった時空的な死
 ・あるいは神の手による存在そのものの死
 なんてのもありました。
 もう死にすぎて死がゲシュタルト崩壊☆って感じですよね! 弟は自分で日記を付けているのですが(もちろん僕は見ませんよ、いくら兄弟だからといって、プライベードというものがあるのですから)それで数えてみたら200回を超えていたらしく、普段無口な弟ですら
「けっこう死んだ」
 と言うようになっちゃったので、これは1回供養しないと、と。
 一般的には45回か108回か、365回死んだ時に供養するじゃあないですか。200回は確実だけれど、365回はいったかな〜…? と疑問符がついたので、無理やり108回目という事にしてこの間、お寺に行ってきたんです。
 結論から言えば、全っ然大した事ありませんでした。
 想像していたのと違う……。大きな寺だったので、受付でそれ用のお布施を払ったら、あとはお堂まで行って、座って時間まで少しばかり待って、時間が来たらお坊さんが出ていらして読経。読経の最後あたりに弟の戒名(?)が書かれた木の札が渡され、ハイ、お戻りください、これで終了です。といった感じ。
 もっと長いかと思い時間を作ってきたのに存外余ってしまったので、その木の札を持ってずうっと昨日は親族めぐりしてきました。
 報告する人なんてあんまりいないよなぁ……と思っていたのですがおばさんとおじさんと……えぇ、「弟の供養を」と言った瞬間、たたみかけるような「ご愁傷様でした」のコンボには、思わず苦笑してしまいましたよ。その後、沈黙耐久レースが始まりました。誰も泣きませんよ。ただ30分程度無言でテーブルをを囲むだけです。
 疲れました。
 そういうわけで、ユヅルも空気を読んだのかもう3日も死にっぱなしです。あぁ、そういえば、いつもよりは部屋が臭くなくて快適ですね。
 実は弟の死体が、ないので。
 この供養の前日、つまりおとといの事ですが、帰ってきたと思ったら玄関先で、直立不動のまま宙に浮かびあがったのです。空へと飛んで、逝ったまま帰ってきていません。明日あたりまた起きてくるとは思いますけどね。弟の部屋の窓に、木の札を立てかけておきました。

■ Vivid ■

 泣きそうになるのをこらえて、君の手をわざと強く握った。
「痛い」
 そう言って、君は少しだけ悲しく笑ったね。
 それだけ、今も覚えていた……。

     ★

 僕の記憶には、とてつもなく大きな穴がある。
 小学校の時の記憶がない。
 中学校の時の記憶がない。
 高校の時の記憶がない。
 大学の時の記憶がない。
 家族と暮らした記憶がない。
 思い出そうとしても、それはまるで暗闇に両手を奪われているような不確かな残像でしかなく、記憶がない、という事の重大さが、よくわからない。
 事実、僕は今、とてもスッキリとした気分だった。
 何も考えないことが、こんなにも気分を良くするなんて思ってもみなかった。
 真っ白な気分。
 けれど、考えないわけにはいかない。
 僕の持っているアルバムには、小学校に入学した時の写真や、中学校の文化祭で売店をやった時の写真、高校の時の陸上大会で走っている写真、大学に入学した時の写真などが、どれも丁寧に貼り付けてあって。
 自分と一緒に写っている、家族の写真もある。遠い昔の、僕がまだ小さい頃のものも、僕だと一目でわかる、ごくごく最近であろうものも。
 それらに関する記憶がないのに、写真の中の僕は、不器用に笑っていた。
 あぁ、どうしてだろう?
 どうして、僕という人間が、これらの時間をどのように生きてきたのか、わからないんだ。
 僕は過去を探るのが億劫になり、今の状況を思い出そうとした。
 僕がこの白い部屋で目覚めたとき、僕の横には、このアルバムが置いてあって。
 部屋の中には何もなく、暇だった僕は、それらに貼り付けてある写真をながめて暇をつぶすことにした。写真を見るたび、ズキズキと、まるで寸胴ナベをバットで横から叩いているかのように、僕の頭は音をたてる。
 最初のページに書いてある、僕のものと思われる誕生日やら血液型やらの情報からすると、僕の名前は「平坂尚斗」というらしかった。
 ――平坂尚斗。
 聞き覚えのない名前。
 自分の名前のハズなのに。
 しばらくすると、僕の居る白い部屋の中に、僕の友人と名乗る奴や、僕の親戚だと名乗る人たちが押しかけてきた。
 適当に相槌をうちながら、僕は、ぼんやりと君のことを考える。
 名前が思い出せないから、僕はこの記憶の中の女の子を「君」と、呼んでいた。
 君の居る風景は、君が着ている紺のコートや白いマフラーから考えて、どうやら冬のようだった。
 口からもれる吐息は白く、場所はどこかの家の門の前。その家の庭には白く、雪が積もっていて……。
 僕は、泣きそうになるのをこらえて、わざと君の手を強く握る。
「痛い」
 君は言う。
 そして、少しだけ、悲しく、笑う。
 僕はこの時、彼女の華奢な手首がとても愛しく感じられて……。
 ……手首? どうして手首なんだ? どうして……それ以上思い出せないんだ?
 そこに至るまでの感情の移行も、それから後の僕の行動も、なにもかもわからない。どうしてこんなにも、泣きそうになるくらい胸が痛んで、どうしようもなくなるのだろう。
 ……頭がまた痛み始めた。
 その事を伝えると、親戚たちはくだらない話をしながら帰っていって。またポツンと独りになった僕は、ここで、初めて気が付いた。
 どうして、僕の家族は来ないのだろう?
 改めてアルバムをめくる。
 そこでまた、気が付いた。
 このアルバムには一枚も、ただの一枚にも、君が写っていない。
 君は、高校生じゃないのかい?
 どうして??
 僕の頭は疑問でいっぱいになってしまった。パンクしそうだ。痛い。こんなに頭が痛むなら、いっそ思い出さないほうがー…。
 その時、白衣を来た男の人が部屋に入ってきた。その人は、信頼できる医者のようで。僕は色々と診られて、それから
「気分はどうですか?」
 と訊ねられた。
 ちょっと迷って、でも、話したほうが良いと思い、僕はその人に、大きな穴と家族への疑問を言った。
 すると医者は、苦い顔で「あなたの家族は事故で、死んでしまったのです」と、言った。
 死?
 キョトンとする僕に、その医者はとても詳しく話をしてくれた。
 遠くへ引っ越す道中に、僕と家族が交通事故に遭った事。奇跡的に、僕だけが生き残った事。そういうワケで、僕の昔の家と新しい家は、親戚たちによって売り払われ、僕の治療費にあてられた事……。
 でも、そんな事を聞いても、僕には他人事のようにしか受け止めることができなかった。
 どのような感情も浮かんでこない。
 忘れてしまった。
 僕は気付く。
 ――あぁ、記憶がないのは、何も持っていないのと同じだ。
 医者が居なくなり、僕はアルバムを元の位置に戻した。
 それから、ゆっくりと瞳を閉じる。
 今僕が持っているもの。
 彼女の手の感覚と、その声の響きと、僕の、切ない胸の鼓動。
 あの時あの場所で、僕の瞳に写ったものだけが、暗い穴の中で鮮やかに光る。
 そうだ。
 あの時、君の髪の毛には、小さな雪がいくつもついていて、僕はそれがとてもキレェだと思ったんだ。

■ PURE KISS ■

 奇跡の少女と呼ばれるようになったのはいつごろからだったろう。
 織姫は純白の糸で編まれたヴェールを引きずり、十字架の前で跪きながらそう思った。
 織姫がその力に気づいたのはまだ幼い少女のころであった。
 父が死んだ。
 自殺であった。
 しかし、探しても遺書などどこにもなく、なぜ死んでしまったのか、織姫はおろか母親でさえわからなかった。
 首を吊っていた縄を切り、床に置かれた父の死体。
 母は死体を前に、涙もかれて放心している。
 その時織姫は、窓からかたむく太陽と反対にのびた、父親の影に触ったのだ。死体に直に触れるのが憚られて――。
 父さん。
 どうして死んじゃったの。
 母さんが悲しんでるの。
 ねぇ。
 教えて……。
 影が、のびた。
 気のせいではない。確かにのびた。
 そうして影は織姫の頭をそっとなで、首をもたげた。薄い口が開き、父の声で、耳元で、こう囁いたのだった。
『織姫。母さんはね、他の男と恋に落ちていたんだ。悲しむことはないよ。君を捨て、すぐにあの男のもとへ行くだろう。だから隠しておいたお金で、君は教会へ行き、生き延びるんだ。隠し場所は……』
 翌朝、母は身の回りの品とともに消えていた。
 教会には感謝しているが、シスターになって神と結婚する気などない。
 それこそが今現在の悩みで、十字架に向かっている理由でもあった。
 織姫には、心から好いている男性がいたのだ。
 教会に身を寄せて数年、毎年教会に多額の寄付を送る、ある男性と出会った。
 彼は毎年教会に来てはいたが、織姫と会うのはあの時が初めてで、視線がふれた瞬間、驚いたように見開かれたその様子を、今でも鮮明に思い出せる。
 恋に落ちた。
 男性は、それまで年に一回だった訪問を毎月にした。
 織姫は、月に一度交わされる、数分間の男性との会話を胸に落としみちがえるように綺麗になった。
 いぶかしんだのは神父である。
 織姫の噂をきいて、大切な人を亡くした誰も彼もが、死後の言葉を聞きに来る。奇跡の少女として教会への寄付が増える中、みすみす手放すわけにはいかない……。
 だが、神父はこらえ、何も言わなかった。
 男性は貴族であり、身分の差から結婚までには至らないだろうと、タカをくくっていたのだ。

     ★

「えっ……、身請け?」
「そう、」
 テーブルに向かい合った男性は、書類を並べて織姫に言った。
 君をずっと傍に置いておきたい。
 結婚は無理だけれど、これならずっと一緒にいられる。
 一年後、迎えに来る。
 どうか僕のもとへ来て欲しい。
 男性は徴兵制度に応じる年齢であった。兵役は一年で終わる。
 織姫は喜んでサインした。
 手をとりあい、見つめあう。
 織姫の手にキスをたむけ、男性は囁いた。
「きっと迎えに来るよ」
 織姫は昼も夜も神に祈って待った。
 神父は言葉では止めたが、慈愛がすばらしいものであると説いているのは、他でもない神父であったため、後見人欄にサインをした。
 相変わらず死者の声を聞きに、東西問わず遺族がやってくる。
 昔ならその感情にゆさぶられ、何度も涙したものだが、それすら織姫にとって何の苦にもならくなった。
 戦争はまだ続いていたが、彼は貴族であるが故、きっと後方支援で働いているのだろう。早く戻ってきますように。無事に顔を見せてくれますように……。
 半年後。
 一人の老人が馬車をともなって教会にやってきた。
 男性が死んだという。
 織姫は、神父が止めるのも聞かずに飛び出した。
 外は雨が降りしきり、ざあざあと音を立て濡れながら、彼女は泣いた。
 隣に立つ、傘をさした老人に「連れて行ってくださいますか」と聞くと、老人は「そのつもりで参りました」とこたえた。
 死体が安置された、静かな屋敷の一角。
 織姫を待っていたのは、彼の父親と母親、そして、許嫁だという貴族の娘であった。
 織姫の心は痛んだが、それでも、身請けし、使用人として傍に置こうとしてくれた彼を信じていた。
 蝋燭にゆれ、ほのかに照らされた彼から、視線を下に落とす。
 ゆっくりと影に触れると、あの懐かしい、優しい声が織姫の心の中に響き渡った。
 彼の、最期の声だ。
『父上様、そしてお母様、私はこれで終りのようです。親愛なる許嫁キャサリーン、いつまでも愛しているよ。愛馬が僕の最期をみとってくれる、僕はなんて幸せ者なのだろう……』
 声は途切れた。
 そこに織姫はいなかった。
 はさまれもしなかった。
 恋をしていたのは――、私だけだったのだ。
 やっと気付いたのが、こんなにも後だったなんて。
 織姫は、彼の影の手を持ち上げると、瞳を閉じてキスをたむけた。
 全てを許して。
 これまでの優しい言葉の数々、慈愛に満ちた眼差し、髪をすくってくれた指、そして美しく輝いていた思い出、それらを全て心の奥底に仕舞うと、織姫は目を開けて立ち上がり、家族とその許嫁に、彼の最期の言葉を伝えた。
 帰りの馬車の中、織姫の目から、ひとすじの涙が伝った。
 仕舞い忘れた、自分の影の涙だった。

■ ヒャックリが止まらない ■

 ヒック。
 ………。
 ヒック。
 ………。
 と、止まったか…ーヒック。ヤバイぞ。コレで73回目だ。ヒック。
 ヒャックリって、100回するとポックリ死ぬんだよな、確か。ヒック。
 ヤバイぜマジで! 誰かー…ヒック。
「北岡ッ! 俺のひゃ……ッンクっ」
「はぁ? 何お前、ヒャックリしてンの?」
「そうなんだよ。だから、俺ヒック」
「あ〜分かった分かった。止めてくれって言ってンだろ」
 ヒック。
「おいおい。返事がそれかよ。え〜とな、確か……息を止める」
 やってみる価値はありそうカモ。
「ん……ッ。………。………。……ヒック」
「ダメか。じゃぁー……、わっ!!」
「わぁッ!」
「………」
「……ヒック」
「ダメか。なら、鼻をつまんで水を飲む」
「それ、キライ」
「やれよ!」
「ハイハイ……ヒック」
 鼻つまんで水飲むと、気管に入るからヤなんだけど……これもヒャックリのため!
「ン……ング…ング……ンぁ〜」
「変な音」
「バカ。気にしてるンだぜ?」
 ――ヒック。
「………」
「………」
「これもダメか」
 ヒック。
 どうしよう。俺、あと15回ヒャックリしたら死んじゃうのかな……。
 あぁ〜! せめて彼女でも作っとけば良かった。ヒック。
 それから競馬で一儲けして宝くじで1等当たって豪邸に住んで芸能界にデビューして……それからそれから……! ヒック。
「ま、ほっとけばスグ止まるでしょ」
「俺、死ぬ」
「は?」
「ヒック……だって、あと何回かヒャックリすれば、俺死んじゃう」
「はぁ???」
 ヒック。
「バッカじゃないのお前。死ぬわけねぇじゃん。ヒャックリくらいで」
「……え?」
「俺なんていつも100回以上ヒャックリしてるぞ?」
 ……マジで? ヒック。
「で……ッ、でも俺のばぁちゃんが」
「本気で信じてンのか?」
 ヒック。
「………」
 え? じゃぁ俺、ばぁちゃんに騙された?! ヒック。
「ヒャックリってお前は言ってるケド、本当は「シャックリ」だって、知ってる?」
「知らない」
「つまり、ヒャックリが癪……まぁ、発作のコトだ。に、症状が似てるから……」
「癪にソックリで、シャックリ……ヒャックリ?」
「正解」
「なぁんだ。そうだったのか」
 あははッ。心配して損した。
「あれ?お前……」
「へ?」
「ヒャックリ止まってンじゃん」
 ………。
 ………。
「本当だ」
「良かったな」
「あ…あぁ、サンキュ北岡」
「礼には及ばないよ」
 礼って……。
「そうそう。今度の合コン、1人足りないンだよ。お前出る?」
「あ・マジ? 出る出る。誰と?」
「聞いて驚け、帝都女学院のエリート!」
「顔は?」
「まぁまぁ……かな」
「ラッキー。北岡サマサマだぜ」
「場所は、総合病院前のいつもの場所」
「時間は?」
「5日後。夜の8時」
「遅くねぇか?」
「彼女たちがそう言うんだ。レディー・ファーストってやつ」
「ふぅん」
 まぁ、俺の未来の花嫁が隠れてるカモしれないし。今回こそは!
「それにしても……」
「何?」
「ばぁちゃんの言葉を信じるなんて……。まったく、お前らしいゼ」
 あきれ顔の北岡に、俺は少し(いや、かなり)ムッとした。
「お前の説だって、嘘くさいぜ?案外作り話だったりし・て・な!」
 ――バシッ。
 俺は思いっきり北岡の背中を叩いた。
「ッてーな……ック」
 ん?
「……ヒック。……ヒック」
 北岡? まさか、俺のヒャックリが北岡に移った?
「やばぁ。――ヒック。俺死ぬカモ」
「……じゃぁ、立場逆転だな」
「……ヒック」
「まずは息を止めてみろよ」
 俺は意地悪い笑みで、北岡に言った。

■ 氷原の足かせ ■

 感覚のない両手を見つめていた。
 死にそうに寒い。
 でも、ボクは自らその状態を望んでいた?
 まさか。望んでいたワケではない。選択したダケだ。
 ボクはどちらかというと、暑さより寒さの方が好きだった。
 だから選択した。
 そして今、ココに居る。
 寒さはボクの芯まで凍らせようとする。ボクのカラダはそれを拒み、刻一刻と体力を奪われていった。
 この状態は何だ?
 ボクはコレを望んでいた?
 まさか。
 ボクは罠にハメられたんだ。やつらに言いくるめられて、都合のイイモルモットにされたんだ。
 ボクは……いいや、もぉ何も考えたくない。
 先刻までは逃げる方法を延々と考えていた。でも、どんなに考えてもボクはその場所から一歩も動けなかった。なぜなら、ボクの足には半透明の足かせが掛かっているから。
 想像じゃない。
 確かにアル。
 その存在を痛いほど感じているし、その存在がなければボクは存在できなくなる。この足かせは結界の役目も果たしているカラ。
 本来ならば、ボクが感じているよりハルカに寒いハズなのだ。だからボクが生きているコト自体が、足かせの存在を証明している。
 あぁ、寒い。
 このままだとボクは死ぬだろうか?
 ――凍死。
 この死に方は、なかなか悪くない。
 別に死にたくてココに居るワケじゃぁないけれど、この分だと長くは持たない。せめて悪くないのは、他の死に方より痛みがナイという一点に限るだろう。
 でも、眠くない。
 寒い。
 寒い。
 そもそも寒さとは何だろう?
 ココでじっとしていると、余計なコトばかり考えてしまう。
 まるでニワトリのように。
 彼は三歩……たったの三歩あるくと、今まで考えたコトを忘れてしまう。彼の頭の中には、始終ろくでもない考えかどうでもイイ想いごとばかり巡っているのだ。
 毎日毎日、歩くたびに。
 あぁ、それにしても寒い。
 足かせは、まだボクの足にしっかりと掛かっている。
 実験体。モルモット。試験体。
 どうしてボクがこんな目に遭わなくちゃならないんだ。怒りはとうに超してしまって、今は自分に絶望している。
 寒さの中では意識のみ明確な証拠の…はぁなんだかグルグル回っている。なんだろう。
 ボクは考える。
 どぉしてクラリネットは全部壊れちゃったの?
 ドとレとミとファとソとラとシの音が出ないんだ。どうして?
「君は、そんなコトもワカラナカッタノカイ?」
 誰かが耳元で、ささやいた。
「クラリネットは一つの音が全部の音に影響を与えるんだ」
 誰だっけ?
 この声、知っている。
「だから一つの音を壊せば、他の音も簡単に壊れちゃう」
 君は誰?
「脆いね、今の君みたい……」
 知ってる誰か。ボクを助けて?
 ボクはこの氷原で殺される。何をどう選択しても、確実にボクを殺せるプログラムなんだ。でも、ボクを知っているのなら、助けるコトができるハズ。
 呪いを、うち消すコトができるハズだ。お願い、この足かせを、
「どうして? 死ねば?」
 ……ぇ?
「死ねばイイじゃないか。死になよ」
 ボクは耳元の声を疑った。
 ――死ね? 死ねって言ったのか? 今。
 ボクが何も言い返さないでいると、声は訝しげに言った。
「死にたくないの?」
 死にたくない、そうボクは即答した。
 声はしばらく何も言わなかった。居なくなったのかと思ったけれど、首を動かす余裕すら、ボクにはもぉなかった。
「生きたいの?」
 声は慎重に言葉を選んだようだった。生きたい?
 口を開く前に、ボクの知っている誰かは、ボクの耳元から居なくなった。心なしか、さっきより寒い。
 ――生きたいの?
 声がココロにコダマする。そのうち眠くなってきた。
 暗い闇に沈んでしまったら、ボクは死ぬの?
 悪くない。
 悪くない……でも、ボクはまだ……。

 ――沈黙……混沌→    ……闇。

 うっすらと瞳を開けると、ソコはまだ氷原だった。
 ただ、先刻までと違う点がいくつかある。
 吹雪がやんでる。あまり寒くない。なによりボクは、生きている。
 足下を見ると、そこに足かせは無かった。
 知ってる誰かが、ボクを助けてくれたんだ。
 そうか。生きている。
 ボクはなんだか複雑な気分で、よろける足で立ち上がった。
 ソコは視界のハジまで広がる氷原。
 ボクは足かせをハズされたモルモット。
 ……どうしよう?
 ボクは本当に困った。死にたくはなかったケド、知ってしまった。
 ボクには、生きる理由がなにひとつナイ。
 困って、でもとりあえず、ボクは歩き始めた。
 だってお腹が空いたから。