■ 春の嵐 ■

 発展途上の王国は、そのほとんどが深い森林に覆われていた。
 どこまでも続く濃い緑のなか、所々がまだらに途切れ、茶色いシミのよう村が点在している。民は森と共存し、必要以上の開拓はせず、ちいさな畑と最低限の狩猟で日々を過ごしていた。
 そのような王国の様を見渡すことができる山の崖の上にひとつ、寺院が建っている。王国の宗教的寺院・ガジャレムザグラ。建物は森の木で組まれ、屋根の部分は赤く塗った焼き土が使われ、修行僧たちは白い服を着て、春の嵐にそなえるため日々修練に励んでいた。
 或る日、旅人がやってきた。
 大柄な男で、シャツからはみ出るほどの強靭な筋肉が目立つ。おおきなリュックを背負い、髪や髭などは数日洗っておらず伸びていたが、その顔は新年が明けた日のように輝いていた。
 男は寺院の長と面会し、この王国の野生――原生の森や最低限の暮らしに見える共存精神――を褒めたたえたあと、一宿一飯の恩義にあずかりたいと一礼を。
 長は笑顔で快諾し、次に旅立つ時までいつまででも居るが良いとつけ加え、さらに伝統のお守りだと印のついた首飾りを旅人に与えた。しかし、上機嫌な長のとなりに座っていた長の妻は始終浮かない顔であった。

     ★

 この国の、春の嵐には二種類ある。
 物理的な風の嵐と、感覚的な魔の嵐だ。
 魔の嵐は、遠い魔の国からやってくると信じられていた。心をざわめかす不快な強風と同時に、凶暴化した野生の動物たちが襲ってくる。鳥や狼、トラやジャッカル、動物たちは普段の穏やかさを捨て魔物となり、怒りにまかせて民を屠る。
 寺院が目立つ場所にある理由は、動物たちを誘いこみ、春の嵐と戦い、国の平和を守るためであった。そして、今年の嵐は強大である事は、星見はもちろん過去の資料と照らし合わせても確実である。皆がいっそう修練に励んでいた中、ポッとやってきた旅人を引き留めるという事は――、すなわち。嵐を鎮めるための人身御供に違いなかった。
 こうしてやってきた春の嵐は、「黒い竜巻」という建国以来見たことも聞いた事もない姿でやってきた。同時に寺院には大量の狼がおしよせ、修練者たちは殺されていく。
 寺院の中庭にわけもわからず取り残された旅人は、建物をすり抜けて入ってきた黒い竜巻……魔の嵐と正面からぶつかった。
 瞬間、首飾りの印が反応し、旅人はその身の中に魔の嵐をすべて取り込んだ。彼は叫び、のたうちまわり、もはやまともな言葉すら忘れ、ただただ声をあげ続けた。
 寺院の生き残りたちの手によって旅人は拘束され、離れに隔離された。しかしなおも叫びはおさまらず、昼夜問わず飲まず食わずで暴れ続けた。
 そうして一カ月が過ぎた頃、叫び声がピタッと止まったため、旅人は死んだのだと誰もが思った。
 しかし、離れの扉を開けた時、そこにいたのは静かな瞳で長を見上げる、生きた旅人であった。
 旅人は魔の嵐に打ち勝ち、心の平静を取り戻していた。
 のみならず、ほぼ魔物と同等……それ以上の力を得ていた。
 飲まず食わずでも生活でき、歴戦の修練者たちのさらに上をいく身体能力を身につけ、なにより不老不死の肉体となっていた。
 しかし失ったものは、旅人というアイデンティティ。
 旅人は再び旅に出ようとは思わなくなっていた。
 なぜなら次の年にも嵐がやってくるからだ。そしてたくさんの修練者が死ぬだろう……。旅人はようやく、寺院の裏手にある墓標の意味を理解したのだった。
 或る年の嵐では、群れの長である巨大な狼と盟友の契りを交わし、或る年の嵐では、修練者たちの出番すらなく、或る年の嵐では、雷電の魔獣を打ち倒した。
 嵐に勝つうち、旅人は、寺院になくてはならない存在として、修練者たちから尊敬されはじめた。長が亡くなっても、奉公人だった少年が寺院一の修練者となっても、どれだけの民が感謝を捧げても、旅人は一向に老けず、変わらない姿でそこに居た。
 こうしてまた迎えた、何十度目かの魔の嵐。
 しかし。
 今回の嵐は違った。
 直前に、旅人が寺院を訪ねてきたのだ。
 それを出迎えた元・旅人は自身の再現かと一瞬目の前が暗くなったほどだった。服装も、髪形も、背負っているリュックも、あの時の自分自身にソックリだったからだ。
 同じ目にあわせるわけにはいかないと、元・旅人は旅人を自身の傍に置き、持ち場である寺院の中庭に立った。
 決して離れないでくださいと旅人に目を向けた時、旅人は笑顔で、リュックから拘束具を取り出した。
「この時を待っていました。不秩序のコトワリを体内に取り込みし人間。私としてもこのような手段は不本意なのですが、魔王様がお待ちです。私は魔王様の使者として参りました。ご同行願います」
 魔王――。
 元・旅人は、やはり嵐を起こす存在があったのだと納得したのち、同行を断った。
 が、言葉で断った位ではあきらめてはもらえず、大人しく拘束具で捕まった。直後に筋肉で拘束具を引きちぎり、魔王の使者による直接的な攻撃はすべて避け、ついでに修練者たちが苦戦していた狼の群れも倒し、旅人のフリをやめた魔王の使者を殺さない程度に叩きのめした。
 元・旅人によって破壊された中庭の中央でへたり込み、戦う気力を失った魔王の使者に向け、元・旅人は投げやりに言った。
「……おれはもう旅をすることはない。会いたいなら向こうから来ればいい。平静なように見えるだろ? あの日から旅を奪われて、ずっと頭は痛いままだし、いつも体の奥から叫び声が湧き上がってくる。抑えつけて、今も話している……うんざりだ…」
「――…っ」
 逆光で影になった元・旅人の表情に、魔王の使者は驚いた。
 直後、状況を見に来た修練者たち。その「大丈夫ですか」の声に、元・旅人はパッと表情を変えた。
 魔王の使者が旅人に変装して寺院を訪れた際に見せた、新年が明けたような晴れやかな笑顔であった。今年の嵐が去った事を確かめると、修練者たちとともに喜ぶ元・旅人。
 さきほど呟いた一言には程遠く、快活で、精神的にも成熟しているように見える彼を眺めながら、魔王の使者はしばらく寺院に滞在することを考えている。
 春の嵐は、来年もやってくる。

■ バッキンガムチョコレイト ■

 ソファの傍にはチョコレイトの銀紙。
 ボクはその銀紙をゆっくりと拾って、口にちかづけた。
 このソファには、白いソファカバーがかかっている。床も白いタイルで、照明は薄暗く、遠くからだと銀紙は見つけにくい。だから、姉さんがソファに寝転がってテレビを見ているのに気付くと、ボクはいつでもその明かりを頼りに、ソファの周りを一回、ぐるりとまわる。
 そうして見つけたこれをー…銀紙に残された茶色の名残を……ゆっくりと楽しむ。
 それがここ、カサブランカでの日常。
 ボクの楽園であり、姉さんの監獄。
 カサブランカの、ありふれた光景。
「姉さん、これ、もしかしてまたバッキンガムチョコ?」
 ソファの上の気だるそうな女性は、そうよ、それが何? と言いたげな視線だけをボクに突き刺し、またテレビに向き直った。
 姉さんは、昨日の、熱帯雨林の鳥のようなパーティードレスのままだった。
 その潤った茶の瞳から伸びた睫毛も、真っ黒で細長いまま。果実のような、ふくれあがった唇も真っ赤なまま。
 けれど、ひとつだけ。
 その肌の色だけは、昨日とうってかわって真っ白だった。
 この暑いなか、長袖のドレスを着ているなんて、よっぽどの冷え性か、それか、それか。
 ――よっぽど神経が狂っている。
「お酒、もっと飲んだほうが良いよ」
 ボクはそう言って少し首をふり、棚からパクチャの壜を取り出した。コップに注ぐ。パクチャはこの辺りで作られている麦酒で、着色料をふんだんに使った紫色が、ボクの、好み。
 姉さんは突き出したコップの紫に返答もせず、テレビをずぅっと眺めている。朝からなにも食べていない。
 ボクはふと、その画面の上下が黒い事に気が付く。
 やれやれまたかと、ため息をついた。
「また、カサブランカ」
 姉さんは何も言わずにテレビを見つめている。
「……ねぇ、口のはしに、チョコがついてるけど」
 姉さんは虚ろな瞳で、テレビを見つめている。
「まったく……姉さんは…」
 ボクはもう一回ソファの周りを歩いて、残りの銀紙を探した。
 でも、銀色は、見つからない。
 こう見えて姉さんは、チョコを食べるときだけ器用に、銀紙を、破らずめくることが得意なんだ。
 バッキンガムチョコレイトは、それがたとえ銀紙にくっついた小さな端片でも、とてもとても苦い。
 食べているときにはもう沢山だと思っても、そのうち、どうしても食べたくなるんだ。
 そういう重い茶色は、正直、ボクの好みではなかったけれど、美しくてどんよりしている姉さんに、とてもよく似合っている。
 ボクは意地になって何度も、ソファと床を交互に眺め続ける。
 唇に触れた。
 口の中は、姉さんと同じ味がする。

■ はなどろぼう ■

 磯のニオイが鼻を通り過ぎた。それもつかの間の細い。
 少年は、私の花を両手に持っている。
 月夜の林を歩いている。
 木々を抜けたその先が崖になっていることを、私はずいぶんと前から知っていた。
 林の手前に居をかまえてビニールハウスを骨組みからつくり花を育て始める前、私はよく都心から車に乗って、ここへ来たものだった。暗い足が目指している崖の、すぐ下が穴場の海水浴場になっていることも、そこの潮風が少しキツいことも、夕暮れになると岩がカッと焼けることも知っていた。
 真夜中だというのに少年は、一度もふり返らず進んでゆく。
 ゆっくりと、確実に。
 花が、こぼれないように。
 ふと、星空が見えた気がした。その次に、草むらが。
 その向こうに途切れた空が。手前に少年の小さな影と、風に鳴く蝉の、声が夜。
 幕をおろしたような薄い光に、私は目を細めた。
 地面から何かが突き出ている。
 立ち止まった少年の肩に手を置こうとした私は、近づいた黒い何かが、犬の……。
 犬の小さな死骸だということに初めて、眩暈を覚えた。
 死臭が、鼻を通り過ぎる。
 またつかの間の細い。
 少年はぐらつく視界の中、力なく座りこむ。両手を、かかげた。
「いちばん、キレェだったから」
 妻が、最近どろぼうが出るのだと言った。
 朝になるとハウスの中の花びらが、何本かむしり取られているという。私はキツネか、イノシシかとにかく動物の仕業だろうと鼻で笑い、晩酌のツマミをつついた。
 違うわよ、これは人間の手。と、氷で冷やしたスイカを片手に妻は断言した。何種類もの花が、少しずつ被害に遭っているらしい。こんな芸当は動物にはできないというのが彼女の言い分であり、命令だった。
 私は見張りの末に崖。
 妻は今、家で眠っている。
「もお、しません、ごめんなさい」
 はつと気づいて首をあげる。
 花は、手首を通ってするりと舞った。
 ここには。
 私が育てた美しい色があった。
 赤に、藍に白に橙に、死者の時間が囲われていた。
 埋葬をしなければならないのに、波の音にかきけされもう、動くことができない。液晶テレビに映るどんな殺人事件よりも鮮やかに、とびこんできた現実。
 急に、年をとったような気がした。そういえば、祖父が死んだのは何年前だっただろうか。
 私は、大きくなったこの少年の姿を想像しようとした。
 死と罪をこえて正しく育った青年は、生まれたばかりの小さな犬を抱いて、そしてきっと、笑顔で。
 少年の肩に手を置く。
 潮風が花びらと、泣きやんだ少年の髪をゆらした。

■ 馬車道55番通りの ■

「セイメイ、君がホンキであの子を引き取るならー…、………」
 朝倉五季女史が言葉に詰まるところをはじめて見た、と清明は驚いたように両手をあげた。馬車道54番通りのガス灯は、キリキリとオレンジ色を醸し出している。
 事件が終わった後の打ち上げ。
 女史が彼のことをキヨシではなくセイメイと呼ぶのは、決まって忠告か警告か宣告か、これは忠告かな、と清明は勘ぐった。
「となりの通りにカフェがあるの知ってる?」
 話はいきなりそれた。
 大変酔っ払っていらっしゃるようで、と清明が笑うと女史は「酔っぱらっへなんかいなひ、」と真っ赤になって怒った。
 ガスの光にあたり、女史の唇は冷え切っている。少なくとも、そう見えるように清明は自分をコントロールした。
 ――俺も、大層酔っぱらっへいるんですがね五季センパイ。
 彼女の唇に見とれてしまうのは、今に始まったことではなかった。
 本人は「フリーメン」と豪語する、フリーターの朝倉六月後輩や本人は「キャリア組」と豪語する、特捜課窓際の朝倉四巳刑事に言わせれば、バレバレらしいのだが彼女はこれからも清明を、信頼した社員として見るだろう。それでいい。
 このベンチを照らすガス灯の、ガスが切れたら言おう。望みはない。
「カフカが何かしました?」
 カマをかけると女史は、眉間にシワをよせてうつむいた。
 灰鱶という身寄りのない少女を引き取ろうと決めたのはかなり前の事だったが、朝倉女史に話したのは今日が初めてだった。
 薬で小さくなった高校生探偵が、様々な事件を解決していく、という推理漫画は清明のお気に入りだ。
 今回の事件も、あのくそ生意気な少女のおかげで解決した。
 けれど。漫画の中から抜け出てきた存在が、ただのちいさな、本物の子供だと気づいた。
 両親を亡くし、莫大な財産を相続し、しかしそれ故他人を信じきれずに生意気な口を叩く。涙も、弱音も、不安も、あの子は何も言えないのだ。
 俺にしか。なぜだか信じれくれた。それを返したい。
 朝倉女史に説明しようと思った。女史なら解ってくれると。しかし今の女史の酔い具合からすると、引き取るのは反対らしい。
 それが見当違いの嫉妬なら嬉しい。
 嬉しい?
 おかしな話だ。自分自身もやはり、相当酔っている。
 ぐったりとベンチにもたれていた女史が、突然立ち上がりくるりと一回転、ガス灯の細い柱にキスをした。
「隣の通りのカフェは、本当に、ここの隣なのよ」
 女史のやり方は報われない。
 いつだって、別な方法で表現するのだ。カフェも、直接扉にキスをすればいいのに。そうさせないプライドを、彼女に関わる皆が愛してやまない。
「いつでもストレートなキヨシが羨ましいわ。引き取るからには、最後まで面倒見なさい」
「俺、センパイに嫉妬されて嬉しいんですけど」
 朝倉五季女史はハイヒールのかかとで清明の靴を踏みつけ、バッカじゃないのと笑った。


■ ハジマンダロ ■

 ひっくひっくという音が、本当に聞こえる類の音だとは思ってもみなかった。
 アタシはその事実に、ただ呆然とクッコの肩をポンポンとたたいているしかなかった。
 それが。
 ポンポンという音も聞こえるのだ。
 えぇ?!
 ポンポンも、本当に聞こえる音だったの?
 アタシはこの事実に唖然とした。
 大体にして、アタシが泣いている友人のために肩をたたくというシチュエーションが初めてだったのだ。
「ヤッチャンは……ひっく、もう……帰ってもイイよぉ……ふいっく」
 クッコが涙声で言う。
 図書室は、アタシたち二人だけのために湿度を上げている。
 クッコが泣いている理由は、もちろん現役女子高校生にありがちな、男女のもつれというヤツだ。
 しかし、三年生にもなって未だに男女の付き合いを知らないアタシにとっては、関係ない話ー…と思っていたのは昨日まで。
 クッコと付き合っていたハズの男が、昨日アタシの家まで来て
「付き合ってくれ」
 と、大声。
 走って去っていったのだ。
 アタシは何がなんだかわからず、とりあえずクッコに相談しようとしたらこの有様。
 彼女はおととい「別れてくれ」と言われたそうな。現在に至る。
 夕陽がクッコの背中にあたってにじむ。
 泣き止まないクッコ。
 なんだか居心地が悪くなって、アタシはトイレに行くと言って図書室を出た。
 下を向いたまま、しばらく廊下を進む。
 突き当りは階段になっていて、そこを左に行くと女子トイレだ。
 と。
 階段の前に男が居た。
 ――イチノセトシキだ。
 アタシはムッとした。クッコの元彼。そして間髪入れずにアタシに告白した、バカな男。
 無視して通り過ぎようとした時、ヤツは
「クミ(クッコの本名)……大丈夫?」
 と、アタシに問いかけてきた。
 大丈夫なワケねーだろ!
 叫びそうになる衝動を、なんとか理性で押さえる。
「……大丈夫なワケないじゃない」
 アタシはかろうじてそう言うと、トシキが次の言葉を言う前に、走って女子トイレに入った。
 なんてヤツ!!
 クッコを泣かせておいて「大丈夫?」なんて、最低じゃない!
 心の中でそう毒づいて、それから個室の中でじっとしていた。今出て行くと、またヤツに話しかけられると思ったからだ。
 可哀想なクッコ。
 あんなヤツ、クッコから別れれば良かったのに……。
 そこまで考えて、アタシはハタと気付いた。
 そういえば、あいつから告白されてたんだっけ。
 断る?
 当然だよ……とうぜん。
 でも、どうしてアタシなんだろう?
 あいつカッコイイし、頭もそこそこイイし、モテそうなのにー…。
「むっ!」
 ダメだダメだ!
 アタシは首をふる。
 冷たい水で手を洗い、トイレを出る。
 当然のように待っていたヤツは、アタシに気付いて顔をあげた。
「八木さん(アタシの本名だ)」
「……なに?」
「クミのコトなんだけど、」
「………」
 アタシはわざと視線をそらして沈黙した。
 そんなアタシに対して、ヤツは明らかに狼狽している。今にも
「あわわ」と走り回りそうだ。
 ふん。こんなヤツ、何十時間も狼狽してればイイんだ。
「……あの、八木さ」
「アタシは、」
 目の前の男を睨みつける。
「クッコのこと大事だし、クッコを傷つけたアンタを許したくない」
「………」
「なんでクッコをー」
「ハジマンダロ」
「えっ?」
 アタシは不意をつかれて、ヤツの瞳を凝視した。
 ハジマンダロ? ……ハジマンダロ??
 くり返してみても、漢字どころか日本語にすら変換できない。
「だから、ちゃんと別れたあとで、伝えたのに……、八木さん?」
「え? あ、え、ハジマンダロ?」
「?」
 ヤツは不思議そうにアタシを見て、それから笑った。
 その笑い方には「やっぱり可愛い」というニュアンスが見え隠れして、アタシは急にドギマギした。
「え?? あ、だから、ハジマンダロってー…」
「別れないことには、始まらない」
「あ、始まらないだろ……始まんだろ」
 なんだ、それか。
「はは」
 アタシは首に手をやり、照れ隠しに笑った。
 その様子を、クッコが見てるとも知らずに。
「八木さん、昨日の返事……いつまで待ってもいいから…、じゃぁ」
 イチノセトシキは階段を降りていった。
 アタシは「さてと」とつぶやき、図書室に走った。クッコがまだ泣いていると思って。
 けれど、日の沈んだ図書室に、クッコは居なかった。
 変なの。
 あたしは不思議がって、図書室は全然不思議がらなかった。

■ 羽の生えた魚 ■

 鷺沢の足は白くて、階段をかけるように空に放り投げられた。
 背をそらしてストローのような細い棒はうねる。超えた直後にカタタ、バーがギリギリを保ってゆれた。
 その瞬間、やけに暑くて。
 好きだ。
 気付かなければ良かった。

     ☆

 ちっとも勉強をしようとしない。
 だから補習をうける。
 のぼりきった三階の右手奥に、パソコン準備室が存在を半ば忘れ去られたようにあって、補習用にたびたび使われる。たびたびといわずほぼ毎日、補習用の大量レポートを書くために使われる。準備室とはいってもパソコンはない。エアコンはあるけれど。
 だから、お前さぁ鴫嶋、ワザと宿題を忘れてきてるんだろう? え? 涼むためにさぁお前、ったく、ゲーセンにでも行けよ。と担任に勘ぐられたあとも、
「いえ。覚えてるんですけど、家に帰って爆乳戦隊ボインジャーのブルーレイディスクVol.3初回限定ボーナストラック「番外・ボインイエロー変身前の日常」を観ていると、なんだかすっかり忘れているんですアハハ」
 なんて笑って嘘ばっかりで、相変わらずの放課後。大量のレポート用紙を片手に準備室の扉をひらいた。ガラガラ。
 本当は、ワザとだった。
 鷺沢を、もっと空に近いところから眺めるためだった。
 そもそも鷺沢に、何かをしてやろうというような奇特な男はこの世にはいない。
 何かをしてやろうというような度胸のある女もいない。
 地上で見ると細くて背が高くて、けど太ももだけやたら筋肉があって、顔はちょっと浅黒くて、顔……そう、顔だ。直視できないくらい、妙に構成されて生まれてきた顔だ。パーツパーツは醜悪というほどでもないのに、全体で見るとなぜだか目をそむけたくなるような、あの顔。
 おかげで鷺沢には友達がひとりもいなかった。
 よく少女マンガで、ブスな女には美人の女友達がつく、とかやってるけれど、そんなのも全くなかった。
 性格も悪かった。文字通り悪かった。
 どんな幸運な出来事でも、とりあえず悪くとらえるというのが鷺沢の困ったクセで、春のクラス替えから一週間もしないうちに、落ちた鷺沢の消しゴムは誰も拾わなくなった。
 毎日朝から女子達が、声をあげてあることないことウワサしてるし、たまに鷺沢と話してしまう機会があったなら、武勇伝のように語られた。
 オーケイ、認めよう。
 彼女は、異邦の訪問者だった。
 それだけで、準備室の窓に切り取られた彼女は、空の海を泳ぐ魚になったのに、教師でさえ辟易する鷺沢にはあろうことかたった一人だけ理解者がいた。
 陸上部の顧問だ。
 あのハゲ頭が鷺沢に近づくたび、激しく鼓動が高鳴った。
 あぁどけよ。お前、鷺沢に触ってんじゃねえよ。肩叩いてんじゃねえよ。なに親しそうに話してるわけ? その内容はなんなの? どうせ次の大会の話だろうけど、そんな近くで話さなくてもいいだろ。くそ。殴り倒したい。後ろから、思い切り蹴飛ばしたい。
 それが嫉妬というものなのだと、名前をふせて相談した高橋に言われた直後、鴫嶋、お前なんだってそんな変な顔してんだ? と眉をひそめられたのは嘘じゃあない。
 ハゲに嫉妬、ね。
 冗談もほどほどにしてほしい。
 あんな性格悪くて、誰も直視できないような魚類顔の女を?
 わかりきっていた。ただ改めて驚いただけだ。本当に綺麗に飛ぶ。駆け上がる。
 一ヶ月そればかりで、だんだん、その天使の足以外にもいろんな所が目につくようになった。
 例えば上手く飛べなかった時。鷺沢はバーに当り散らす。高い二本のバーを支える棒の、どちらかを激しくゆらして上のバーを落とす。華麗にキャッチして、キャッチし損ねても、もう一度、ゆっくりバーをセットするのだ。それは鷺沢なりの落ち着きかただった。
 例えば上手く飛べた時。鷺沢は無表情でコクリ、誰ともなく頷いた。それは自分への納得の証で、内心では小躍りして喜んでいるに違いなかった。
 意地が悪いのは他人を信用していないからで、付き合い方が不器用なだけで、一人きりで練習していると、鷺沢はただの女の子に戻った。
 嬉しければ頷き、嬉しくなければむくれる。あの鷺沢が、だ。
 もう日が暮れて、仕方がないので準備室の電気をつけた。魚はまだ羽を生やして練習している。ずっと眺めていた。
 ふ、と。
 鷺沢がこちらを見上げた。目が合う。
 それがまるで、映画の中の切り取られたワンシーンのようだったから、随分と遅れてハッとした。
 見られた。
 見ているところを見られた。
 まったく顔を動かせなかった。もしここで、ニコリと笑ったり視線をずらしてとぼけようものなら、鷺沢は、一生ひとりなんだ。一生ひとりを選択する。ずっと見ていた。それくらいわかる。けれど、どうすればいいのだろう。もう五分くらいそのままのような気分だった。
 唇が。
 自分のものではないように動いた。
 さぎさわ、と。
 彼女の顔は、そらされる。電気を消して扉も閉めず逃げ出した。

     ☆

 期待していたほどのものは、何も無かった。
 クラスでは相変わらず鷺沢が一人きりで、教室のはじでは女子が噂話に花をさかせている。補習は教室で、という決まりができた。もうパソコン準備室には鍵がかかって入ることはできない。しきりに相手の名前をきいてくる高橋には、その恋はもう散ったよと言っておいた。
 たまに。
 本当にごくごくたまに、鷺沢と目が合う。無言で頷く魚類。何もない。
 僕だけが知っていれば。

■ 初めての方へ ■

「へぇ〜、初めてなんだ」
「……はぁ、まぁ…」
 僕は生返事をしながら、テーブルの上にあったオレンジジュースをゴクリと飲んだ。ぬるい。
 ストローもついていたけれど、唇から含みたい気分だった。喉を通り過ぎる液体は、ほんのり苦味をもって僕をつつく。
「んじゃぁ、説明するからチャント聞いてな」
 テーブルをはさんで、僕の目の前に座っている「篠田さん」は、ニコニコと笑いつつ、まぁ飲んで飲んで、と言った。お言葉に甘えて、もぉ一口飲むことにする。やっぱりぬるい。
「そう緊張するなって。初めてなんだろ?」
「……はぁ」
 生返事は、灰色のオフィス全体に響くようだった。動くパネルで仕切られた、簡易応接室。
 初めて……って、そりゃあ、二回目の人が居たら怖いって。
「誰でも初めてなんじゃぁ……」
 と僕が言うと、篠田さんは「そりゃそうだ!」と笑った。ハイテンションについていけなくなりそうで眉をひそめると、
「そんなに緊張することはないさ」
 篠田さんはハハ、と笑ってお菓子を勧めてきた。丁寧にお断りする。
「緊張は……していないと思います」
 僕は、できるだけ彼を見ないように心がけた。
 彼の、偽善をやさしさだと勘違いしている所が、キライだ。
「そうか、それが一番だな! ……なぁ、あと一時間で俺の仕事も終わるが何かー…欲しいもの、とか願い事、とかさ、あるかい?」
 彼が義務的に言ったのか、僕に同情しているのか、彼の表情からはわからなかったけれど、僕は「特にありません」と、感情を殺して言った。
「そっか……」
 彼は残念そうな声を出し、腕を組んだ。何か言わなければ、彼はこうしてずうっと、時間まで、僕を、監視しているのだろうか。
 しょうがないので、思いついたという顔をして、僕は
「……ぁ」
 と、声を出した。
「あの、ありました。お願いが、あります」
「へぇ! なになに?」
 篠田さんはその太めの体をのり出し、はずみで彼の着ているジャンパーがギシリと気持ち悪い音をたてる。
「あの、梨木先生という人に会いたいです。梨木平三郎先生。恩師で……今は、国見第三小学校の教師をやっています」
「ふぅん、先生か……」
 彼は不満そうにつぶやいた。わかってる。
 どぉして「お父さん」や「お母さん」や「妹」や「そういう大事な人」じゃないの? と。訊きたいはずだ。わかってる。でもあなたは、偽善者だから、それを口に出そうとはしない。
「……よっし、わかった。連れてきてやる」
「ありがとうございます」
「おぉい! 神崎ィ!!」
 彼は同僚の「神崎さん」という人を呼んだ。ついたての奥からのそりと出てきたのは、細身の男の人だった。眼鏡をかけていて、髪の毛が顔にかかっている。
 篠田さんとは正反対の空気が漂う彼に、篠田さんは、僕の世話を頼んでオフィスを出て行った。その、神崎さんという人は、僕に挨拶も、一瞥すらくれず、ソファに座り、持っていた文庫本を読み始めた。題名を見ようとしたけれど、カバーがかかっていて無理だった。
 嫌な雰囲気に、しばらく静かにしていたけれど、あと何十分かすれば……そぉ思うと、彼と話をしたくなった。
「何の本、読んでるんですか?」
 反応無し。それでもしばらくすると、ボソボソと返答があった。
「カフカ……の、変身」
 カフカ、か。国語の授業で、題名だけ聞いたことがある。
「それ、面白いんですか?」
「特に。まだ途中だから」
 そぉ言うと彼は、その物語の大まかなスジを話してくれた。ボソボソとした声だったけれど、オフィスが静かで助かった。
 ある朝、目が覚めたら大きな蜘蛛に変身していた主人公。取り乱す家族。そして彼は、彼の部屋に閉じ込められた。唯一、妹だけが……恐る恐るだけれど……食事やら掃除やらをしてくれる。その際には、妹から見えない位置に隠れていなければならない。明るかった平和な日常は、彼の変身をきっかけに、暗く波乱に満ちた世界へと変貌していく。
「そして……あぁ、そろそろ時間です」
「え、」
 時間は、唐突に訪れた。
 いや、連続的な時間の流れに「そのとき」が入り込んだんだ。
「行きましょう」
 彼は席を立ち、僕は、
「………」
 動けなかった。
「――怖いんですか?」
「ッ?!」
 核心を突かれて、僕は瞬間的に彼を見上げた。そこには、何の変哲もない、男の顔が浮かんでいた。
 涙が、ふいに。
「ぼ……くは、……怖い。死にたくなんか…ない……っ!」
 どうしてこんな男に話しかけているんだ。死にたくないのか? 僕は……僕は!
 その時、オフィスのドアが開き、篠田さんの陽気な声が室内に響いた。
「ウィーッス、たっだいま〜…」
 泣いている僕を見て、彼はドキッとした表情で、立ち止まり、視線を僕から背けた。なぜなら、入ってきたのは彼一人。
 ――あぁ、そっか。
「来たく……僕に会いたく…なかったんですね……」
 僕は、無理に笑った。
 世界はいつまでも僕を裏切ったままだ。ささいな約束だって果たせないくせに。なにを信じればいいかも……ワカラナイくせに。
 篠田さんは何かを言いかけて、それから、覚悟したように頷いて、
「行くか」
 覚悟を、声に出した。僕は何も言わずに歩き出す。あの十三階段の向こう側では、きっと誰も裏切らない。そぉ、信じたかった。