■ 紫陽花泥棒 ■

 硝子人(らがすびと)の少女は雨の翌日に来る。
 水たまりをはじき、叫びながら。
「アジサイ泥棒だ! アジサイ泥棒が出たよ! ――アジサイ泥棒だ! アジサイ泥棒が出たよ!」
 毎度の大声に、私は億劫になりながらも窓を開けた。
 会話で対応しないと、硝子人はいつまでも叫び続ける。なぜなら硝子人にとって会話は食料。普通人(ふつうびと)との会話中に起こる音波エネルギーで生きているからだ。
 私はそれでも億劫のほうが勝り、投げやりに聞いた。
「どこに」
 少女は興奮しながら透明な指を地面に向けた。
「どろの靴跡があるだろう? 千の目玉が消えたろう。酔える食事のせいでなければ、見張りの猫が鳴けないせいだ!」
 この辺に猫はいない。足跡さえ、少女の硝子の靴ばかり。
 私が窓のへりに寄りかかると、少女は私を見上げた。硝子の目が光に反射して、きらりとまたたく。
「……それで?」
「アジサイ泥棒だ! アジサイ泥棒が出たよ!」
「で?」
「アジサイ泥棒だ!! アジサイ泥棒が出たよ!! 本当だよ……」
 私も鬼ではない。
 一度ならず少女の言う紫陽花を見に行ったことがある。でも。
 紫陽花なんてドコにもなかった。近所に住む硝子人に訊いてみても、元々ここには何も植えていないという。その次の機会に行った別な場所も、その次の場所も。
 そこからもう少女の言葉には耳を貸さないことにした。
 紫陽花泥棒はいない。
 虚言。
 可哀そうな硝子人。
 誰もいない白い廃屋のなかで、妄想ばかりを愛してやまない少女のまま、壊れるのも待てずに、私で簡素な単語だけの貧相な食事を、それも、雨の次の日だけ。もう面倒くさい。
「むらさき色の可憐な花を、むせかえるような葉をかえせ!」
「………」
「泥棒はひどいんだ!!」
「………」
「疎まれて逝った子猫の群れを昨日――雨のふるなか泥に埋めた……」
「………それは、」
 思わず声が出た。
 今まで何度も少女と会話してきて、初めて出てきた言葉。
 それは私の、いちばん古い追憶……。
 そうだ、幼い私は死骸を、土を、確かその時に花をどこからか手折って、挿した。硝子人は年をとらない。この少女が私に、執拗に声をかけ続けるのは。まさか。
 私?
 私が
「紫陽花泥棒……」
「ウソつき!!」
 本当に。
 あたまがいたい。泣きそうなせいかもしれない。

■ アイリス ■

 あの谷に、火色の花が群生していることを知っているかい。
 あの谷って?
 ほら、あの向こう側に山が見えるだろう。
 折り重なった青灰は――かすむ雲に隠れてひどくぼんやりしている。
 その尾根の向こう側だ。
 谷がある。
 名前がない谷。
 常にうす暗く、霧が漂い、立ち入る人間も限られているような……。そんな谷間に燃えるような色をした群生が、季節を忘れて咲き乱れている。
 想像してごらん。
 風にさえ忘れ去られた谷間の底に、砂糖菓子のようなあの花の香りが留まり続けていつの間にかくらくらと、甘美に陶酔して眠りだす。
 ほんのたまに――。
 何も知らない少女がふらりと迷いこむことがある。
 少女は、偶然見つけた谷間の花園に驚き、ひとしきり鑑賞して、誰もいない事を確認したあと決まって、故郷の古びた歌を口ずさみながら花を摘み始める。
 ひとつ。
 ふたつ。
 みっつ。
 花はあふれている。
 よっつ。
 いつつ。
 摘んでも摘んでも無くなることはない。
 むっつ。
 ななつ。
 やっつ……。
 夢中になって花を摘む少女のかたわらに、いつの間にか少年が立っている。うっすらと笑う、美しい少年だ。
 気配もなく、はじめからそこにあるように佇んでいるため、少女はしばらく気づかないまま花を摘んでいる。
 ところが、何かの拍子に気づく。
 自分以外の存在に。
 少女は決まって短い悲鳴をあげる。吐息とともに花を落とす。咎められるのではないかと、口をむすんで少年を凝視する。
 少年は、うっすらと笑ったまま、唇を三日月のかたちに開く。
『アイリス』
 と。
 ささやく。
 その言葉が、花の名前なのか少女の名前なのか、はたまた少年の名前なのかは誰も知らない。
 ただ一言。
 それだけで。
 少女の胸に何かが落ちる。
 霧が深くなっていることにも気づかず、少女はそれが、燃え上がる恋の予感だと確信した。
 少年は手のひらを少女に向ける。少女はすこしためらったあと、自分の手を重ねる。
 二人は駆け出す。
 赤い花畑の中を。
 甘い蜜の香りに囲まれ、足はふわふわと浮く。
 しばらく走り、たどり着いたのは青の形をした洞窟。
 手前には何かの骨が散らばり、中央には鉄格子。奥には赤い花びらのベッドが敷き詰められている。少年は慣れた手つきで少女を奥に閉じ込め、ささやいた。
『アイリス』
 うっとりとした瞳は、過去の少女を思い出す。
『アイリス』
 そして怯えたような未来の君ももちろん
『アイリス』
 天国へ逃げてしまった過去の少女たちをまた想う。
 今度こそ逃がさない。
『アイリス』
 ――そこから何日経ったのかは、誰も知らない。
 洞窟の中では、薄日が今日も差し込む。たったそれだけが、少女に経過を知らせる合図。
 気配もなく、笑顔の少年が今日の食事を差し出す。
 鉄格子の隙間から。
 両手いっぱいの火色の花弁を。
 やせ細った少女は我慢できずに、その花弁をむしり取り、口いっぱいにほおばる。こぼれ落ちた花弁はそのまま洞窟の飾りとなる。周囲に散らばる、すっかり枯れた茶色の花弁がカサカサと音をたてる。
 体中がアイリスで染まる。
 染まっていく。
 赤い少女の耳元に、いつの間にか少年の唇が、重なるようにささやく。
『花の名前は?』
「……アイリスよ」
『君の名前は?』
「……アイリスよ」
『そうだね。君はアイリス……僕の愛しい、アイリス』
「えぇ、私は……アイリス……」
 ――あれから何日経ったのかは、誰も知らない。花すらも。
 少女はもう、声すら出せず、少年はまだ、微笑んだまま、少女がうつろに倒れ込む、飛び散る花弁が少年の頬に、まるで血液のようにひとひら貼りついた。
『おいで、アイリス』
 少年は、こと切れた少女を優しく両腕に抱き、鉄格子をくぐり洞窟を抜けて花畑の端まで歩く。
 そうっと死体を地面におろすと、少女のか細い腕から芽がふき出した。 芽はまたたく間に成長し、体中に根を張り、赤い花を咲かせる。次々と芽吹く火色に覆われ、少女はもう少女ではなくなる。
 アイリス。
 夢を谷間に敷き詰め、抱きしめるように慈しむ。
 これからもずっと離さない。
 過去の少女たちもアイリス。
 未来の君も、もちろんアイリス。
 火色の群生に惹かれてきた、次の少女が古い故郷の歌を口ずさむ。
 次の君の名前も――。
 アイリス。

■ アネモネ街の風 ■

 それは彼女がチョコレイトの破片を捨てたことから始まる。
 一瞬の風に舞う破片を眺めている彼女は、若く、希望にあふれ、美しい伝統模様の頭巾をかぶり、この先の輝かしい未来を疑いようもなく信じている。
 しかし。
 チョコレイトの破片が地に落ちた瞬間、それが呼び水となり、あの戦争時代を到来させた。まだ若かった彼女はその意味に気づかず適齢期を迎え、物資が乏しくなるなか爆撃を受けた。
 看病をしてくれた青年と結婚したが、子供には恵まれなかった。のちの教科書にも載るほどの爆撃で腹を打ったためか、それとも元々の体質なのか、青年に種がなかったのか、今はもう誰にもわからない。
 青年は特攻隊に志願し帰らぬ人となった。
 彼女は女性になり、女性は老婆になり、老婆は――そのままアネモネ街で一生を終えようとしてる。先に語られた途中のストーリーは暗がりを通り過ぎるように省かれ、今では街の子供たちは老婆の事を昔から裏路地スラムの入口に居座るしなびた門前オブジェのように取扱っている。
 老婆は朝、目が覚めるとベッド横の分厚い図鑑に手を這わす。青年がこのかつての新居から負け戦に向かう前日、彼女に渡した手作りの図鑑だ。ベッドから降りて朝食を。アーモンド一粒と窓辺の薬草、毎週日曜日の礼拝に受ける施しのパン。そして夜まで裏路地の入口で、図鑑を開いて笑うのだ。
 今日もまた同じ日々が始まる。
 ひとさしゆびで幼い子供をあやし寝かしつけるように。
「これは、つむじ風。これは、こがらし。こっちは、春一番……」
 老婆の近くでは、やせ細り皮膚から骨が浮き出た子供が、ヒザを丸めてうつむいている。
「これは、そよ風。これは、なぎ。こっちは、吹きすさぶ……」
 老婆が口を動かすたびに腐臭と湿った砂が口からこぼれ落ち、アネモネ街から遠くにあるという砂漠と――人々の足によりころがってきた乾いたところと――ちろちろ混じった。
「台風、台風の、目、たつまき、たつまき、の、そとがわ……」
 かつて彼女が捨てたものは二度と元には戻らなかった。
 チョコレイトどころか、彼女は何でも捨てた。
 実家も、家族も、身分も、服も、宝石も。
 与えてくれたのは彼だけであった。
 恋、新しい家、図鑑、安心して眠れる夜。
 しかし彼が消えてからというもの、彼女は必死に繋ぎとめているはずなのに、手から砂がこぼれ落ちるように、ありとあらゆるものが去り続けている。
 瑞々しい肌、美しい声、高かった背、煌びやかな婚礼衣装。真新しかった新居、真新しかったベッド。お祝いの品々はとうに売り払い、唯一持ちつづけている古びた図鑑も、そのうちスラムの子供たちが金のため盗み出すのだろう。
 もう二度と、戻らないものを毎日老婆はつぶやく。
 風だ。
 戦争で地形が変わり、風を失ったアネモネ街で、老婆は大人たちに疎まれている。唇から既に言葉も去り、はくはくと砂を吐き続ける、薄汚い頭巾の老婆は飽きもせず、何も書かれていない紙の束をスラムの入口でめくりつづけている。
 街の人々は、彼女が自分の命を捨てることに12セント賭けている。

■ アスパラダイス ■

「私はソーマ君のこと「狂ってる」って思ってる」
「そうですか」
「だってアスパラガスじゃん、これ」
「……アスパラガスですね、」
「おかしいじゃん?」
「言うほどオカシイですか? それ」
 草馬が指をさしたのは、ラップに包まれた生のアスパラガスである。
 東南東大学工学部・応用化学科の、植松・梶田研究室。植松教授が主に指導を行う、通称「植松部屋」の一角で、草馬久人は植松リカと対峙していた。もちろん、リカ=植松教授である。
「ちょっと待って……。私の研究室に所属する大事な生徒を「狂ってる」呼ばわりするのは、どんな理由があれダメだわ。ソーマ君、謝らせて」
「えっ?」
「え??」
「……でもリカさんはそれ、オカシイんですよね?」
「うん。だって、アスパラガスじゃん、これ」
「まぁ、アスパラですね」
「なんなの、この穴……察しはつくけど」
 リカは、太いアスパラガスの根に近い部分を触った。ペンシルであけたと思しき穴が、等間隔で刻まれている。穴の数は、アスパラガスをくるりと回すごとに増え、六個までくると、その次は一個の穴に戻った。
「これってほら……、」
「はい」
「アレでしょ、あのー…ホラ、テストで鉛筆を転がす、アレ」
「鉛筆サイコロ」
「そう! それ!! ……って、違ぁーう!!」
 一瞬喜びかけた植松教授は、左手をビシッと動かしセルフツッコミした。その後、数秒の時間をおき、ゴホンと咳払いして居住まいを正した。
「ソーマ君。テストで不正を働きましたね?」
「いいえ」
「じゃあ、なんで筆箱の中からアスパラガスが出てくるの?」
「……やっていません。心外です」
「明らかな証拠はどう説明するの? 応用化学なめてるの? やる気あるの? ないなら研究室から出ていってもらうけど、いいわよね??」
 ため息をついた草馬は、テストの問題用紙を持って来るようリカに求めた。植松部屋の隣はリカに与えられた自室であり、彼女はそこから、今回の抜き打ちテストの問題用紙と草馬の解答を持ってきた。
「リカさんこれ、見て下さいこの問題、ぜんぶ記述形式じゃないですか。どうやってアスパラを使えばいいんですか」
 リカは自分が作った問題を改めて見直し「確かに……」と呟いた。
「や、でも、待って。じゃあこのアスパラは何なの?」
「臨時……、の、食料」
「食料っ?!」
「穴は、筆記用具たちとの交流を目的としたオリエンテーリングの結果です。うまく筆箱になじみました」
 草馬が真面目に言った直後、植松教授は笑い出した。その大声で、反対隣の部屋にいた梶田教授や生徒たちが、何だ何だと入ってきた。
「アスパラガスって、生で食べれるんですよ。酵素栄養学的に……」
「やめて! おかしいから! おかしいから!!」
 植松教授はその後、笑いすぎて痙攣を起こし医務室に運ばれていった。

■ 悪魔とユメ ■

 彼は悪魔だ。
 僕は、それを知っている。
 彼と彼女が出会ったのは、暑い異国の地で毎年行われる、夏祭りパレードの真っ最中だった。都市部の人口はこの一週間で十倍にふくれあがり、日に焼けた黒い肌の人々が赤や黄色のリボンを投げ合う。この土地の熱帯雨林、それを模した鮮やかな緑の国旗がそこかしこにはためき、風に舞い、どの路地に避難しても人ごみ。民族音楽が鳴り響く屋台で、ケバブを買ったときだった。
 彼と彼女は出会ってしまった。
 出会ったばかりだというのに、彼女の腰は彼の手に吸い寄せられるようにピタリとはまり、彼の靴からはじきだされるステップは彼女の胸を爛々と揺らした。
 彼は悪魔だ。だから僕は、彼じゃあない……他の人間と彼女が幸せになることを願って、踊る二人を屋台のかげから心配そうに見ていた老女に――彼女の母親だ――予言めいた、ささやきを。
「……あの二人は……きっと、上手くいかなくなる。手ひどく別れ、彼女はボロボロになるだろう」
 老女は顔を上げ、僕を見つめた。じっと。ガラスのような、目で。音楽は鳴りやまない。翌日は雨が降った。
 彼は悪魔にしては、幸運に満ちあふれた生活を送っていた。僕は、それを知っている。彼の、人間として登録してある名前は、世界にとどろく大企業の社長の名だった。名誉はすでに、手中におさめ、あとは日がな一日高層ビルのてっぺんで指示を出せばいいだけの毎日。
 オーダーメイドのスーツを着て、この土地では珍しい黒塗りの高級車で出勤する。服も、靴も、鞄もネクタイも、消耗品として毎日着ては捨てられる。発注により地元の縫製業界はギリギリ倒産をまぬがれ、ゴミ捨て場を漁るために処理場勤務を希望する男たちが後を絶たない。
 彼の手には大げさな指輪が、常時数個つけられている。少し路地をズレたスラムの入り口によく落としてしまうことを僕は知っている。貧しい子供たちが宝石を奪い合い、時には殺し合いに発展してしまう事も知っている。奪い合いに負け傷ついた子供たちを介抱する。こういう時だけ、彼が本当に人間の皮をかぶった悪魔なのだと実感する。
 僕は、あのパレードがあった翌週から、何度も彼女を助けようとした。本当のところをいうと、僕は彼女が好きじゃない……もっと本音をいうと嫌いの部類に入っていたが、背に腹は代えられない。しかしどれも失敗に終わった。彼女はもはや、大企業の社長夫人として動くことに何の違和も感じていなかった。忠告は無視され、あげく、嫌悪され、最終的には彼女に近づくことさえできなくなってしまった。
 ……彼女は知らないのだ。
 悪魔が、なぜあのような幸運に恵まれているのかを。彼女が持つ、生来の幸運が、彼のキスで首筋から吸い取られていることを。吸いつくしたあとにこっぴどく捨てられるという未来のシナリオを。
 僕だけが知っているというのに。
 打つ手を失いグッタリと部屋のベッドに横たわる。外壁がコツコツとノックされ、彼が窓から入ってきた。黒い翼をスマートに仕舞うと、彼は勝手に棚から酒を取り出した。
「あれはもう、終いだな。幸運が尽きてきた」
「一体何人、不幸にする気だもう……、やめてくれ」
「そのお願いだけは頷けないな、親友。飲もうぜ」
 やはり今回も救えなかった。僕は彼に背を向けて、少し、泣いた。

■ アルミニウムグレイ ■

 あの日、水を取ると決めた。
 浮気してもいいよ、なんて軽く言っていたら本当に浮気するとは、いくらバカでもあぁバカなんだ本当にバカなのね。でももういいの、そのバカはいない、なんて、軽く言って。
 ハイ。
 私が締めました。
 倒れてるコレは私の夫。
 立っているのは黒服の私。
 本当に、死んでいるんだ。
 結婚指輪を取ろうとして、硬直して抜けないからアルミニウムグレイの包丁を持ってきた。この指にまだ、はまっているのが信じられないだって、ウソ、この指輪、したまましたんだ。浮気……。
 してもいいよっつっただろうなんて、女心まったくわかってないの。バカなんだ本当にあぁ、わかっていなかった。
 最期まで。
 あなたの中ではマルだった。
 オーケーという形を想像する。
 形だけなら、タオルを水でしぼって、わっかにしたのににている。そっちのクビはむらさきになって、こっちのユビはあかいろのクレヨン。みどりのクレヨンはおれちゃったんだ、夏に。
 昔、折ったことがあった私。
『あーあ。パパのかお、まだかいてないのに』
 緑色でもう書いてある。
 離婚届という用紙。
 そうね、敗北感というのはあったのかも知れない。あの女のどこがいいのか私には全くわからなかったから。あんな女、あなたの好みじゃないじゃない。いつも言っていたじゃない。ああいうケバケバしたギャルおれ嫌いなんだよね、って。
 おかしくなったの? ねえ、おかしくなったの?
 どちらが??
 うん、つまり異星人になってしまったという事なのかも。異星人。あぁ、そう、無理にでもそう思えば納得いくわ。
 本当に、私、どの約束も一度たりとも破ったことはなかった。
『浮気してもいいよ』
『本当か?』
『うーん、嘘。やっぱりダメ』
『どっちだよ』
『ダメダメ、殺しちゃうかもしれないよ』
『なんだそれ』
『チジョウノモツレってやつ』
『こえー』
 だって地上にはあなたがいるじゃない。
 もつれた結果の大惨事。
 結婚した日に誓ったことを忘れたのは、わたしじゃないの。わたし、水をとるってちかったわ。死がふたりをわかつまで、愛し合うという約束を。
 指が落ちた。時間はずいぶん短く感じたけれど、窓を見るともう夕方だった。根元のリングを取り出して、水を含んだタオルで血を拭く。
 かざしてみても、銀は鈍い。
 あなたの言い訳と同様に安っぽく沈んでいる。

■ 蒼い壁の波間に酔って ■

 知らない間に、俺のカラダは蒼く光っていて。本当に、知らない間に。
 というか、何がどうなっているのかさえ、感覚も、視覚も、聴覚も、嗅覚もあぁ何もー…感じない。唯一呑み込めるのは、俺のカラダが、いや、そもそも何で光ってるんだ?
 今日、凍てつく氷の夜に、親友の真壁から電話があって……。
 そうだ、俺はあいつとジンを飲み交わしていた。木の丸テーブルにギルビーとビィフィータをならべ、オン・ザ・ロック。レコードはワグナーの名盤で……そうだ、楽しく会話していた筈だ。
 あいつは?
 ドコだ?
「ねぇキリス」
 キリス?
 単語。誰を指している? ……俺だ。俺の名前。霧栖という字を書く。
「君は、何故ボクを拒否するんだい?」
 真壁の、声。やけに、響く。声。声。声。
「こんなに待っていたのに、限界だよ」
 何の話だ? さっぱり意味が解らない。
「あぁ、そうだね。意味か……君にはまだ」
 話していない。だろ?
「違うよ。君にはまだ、覚醒が必要なんだ」
 カクセイ?
「そう。覚醒が」
 真壁は頬を紅潮させた。見えない……だが、見える。
 奴は俺の隣に座っている。いつもの、世界を皮肉るような笑みで、じっとりとした夜に警告を鳴らしている。
「忘れているコトを、思い出すんだよ。だって、こんなに待っても君は自分から思い出そうとはしなかった。だから、ね。今夜は、君に無理やりにでも思い出してもらうコトにしたんだ」
 カクセイ? 忘れている? 何を? 俺の名前は霧栖だろう? 今更なにを思い出すんだ??
「いつから?」
 え?
「いつから君は霧栖なんて名前になったの、」
 そう言われてみると、確かに俺は思い出せなかった。ずっと昔のような気もするし、つい最近のようにも思える。
「1年からだよ」
 平成?
「1世紀。正確には、君が産まれてから1年後。じゃぁ、君の名前は誰が付けたんだい?」
 父と母だろ。俺がそう思うと同時に、真壁は苦そうにうめいた。
「ボクだよ」
 は?
「ボクが付けたの。本当に、忘れているんだね、さびしいよ。あの、眩暈のするような月夜も、丘の上の馬小屋も。泣きながら、君の誕生や世界の平和を、愛を、祈りを唱えたのも、みんな……」
 真壁の口調は、ウソを付いていない……そう思えるほど真剣だった。
「君は、忘れちゃったの? ボクは君と一緒に、世界を救う旅に出た。ポセイドンや、ゼウスも、君の誕生を心から祝って、あぁそうだ……アフロディーテもオリシスも、みんなが祝福して君に全権を託したんじゃないか! それが!!」
 ……真壁。
「君がこんなザマじゃぁ、世界なんか、きっとあと何年もしないうちに消えてしまうよ! いや、もう消えかかってるんだ。思い出してくれよ! 君の中の真実を!!」
 涙が、零れたような、気が、した。
「思い出して……?」
 真壁は、はち切れそうな痛みをこらえる様に、俺の前に跪いた。
「君のほんとうの名前をー…」
 真壁は手を胸の前で組み、うつむいた額に手がコツンと当たった。まるで、神様に懺悔をするように。俺は神なんかじゃないのに……?
「お願い……思い出して…!」
 ――オネガイオモイダシテー…。
 真壁の声に、俺の脳髄に刻んだハズの忘れていた情景がー急に浮かびあがった。カミナンカジャナイ?
 いや、俺はー…。
 真壁と、その後ろに幾つもの光が居る。真壁が、葡萄酒とパンを持っている。
 ――祝福といっても、コレしか無いけどさ。受け取ってくれ。ボクらからのお祝い。
 受け取ったのは、キレェなキレェな女性。
 ――おめでとう……マリア。
 笑顔で、祝福を受けたこの女性。俺はこの人を知っている。次に浮かんだのは、炎の獣。これはー…?! 轟音と共に真壁が叫ぶ。
 ――×××! 早く逃げるンだ!!
 ×××? そうだ……俺の…名前。
 ――早く!
 いや、俺は、逃げない。
 ――どうし……、わかった。なら約束して。
「君がもしこの戦争を止めて、その代償にボクを忘れてしまったとしても、ボクは君の傍に居る。ずっと。ずっと……でも、本当に世界が大変なトキには、お願い……思い出してー…!」
 ユダ。わかった、約束する。必ず思い出すからー!

     ★

 いつのまにか、蒼い光はなくなり、ベッドの上のランプだけが、淡い光を放っている。ロックグラスの中の氷は、もう解けてしまっている。
 ユダは、クッと音をたてて、解けた氷を体の中へと流し込んだ。
「うれしいよキリス……いや、覚醒したなら君の名前はー…」
 いや、それより、何がどう大変なんだ?
「あぁ。核戦争が始まった」
 何だって?!
「君の出番さ。またあのトキみたいに止めてくれ。ボクにも手に負えなくて」
 わかった。行こうユダ。
「うん、キリスー…じゃなかった」
 ユダは照れたように笑って、歩き出し、ふっと振り返った。
「行こうか、イエス」
 あぁ。
 イエス。
 俺の名前は……イエス・キリスト。

■ アルカザンドール ■

 そのバーの中で彼女に誕生日プレゼントを貰うことは、ある意味儀式のような繊細な恒例行事となっていた。
「おめでとう」
 彼女が言う。その白磁の頬をブラックライトで照らしつけながら。
「ありがとう」
 オレは言う。このくたびれた背広に、わずかながら水が落ちてきた。
 お決まりのセリフを言うのは、いったい、これで何回目だろうか。もう50回以上は言っているハズだった。なぜなら、オレの誕生日は一週間ごとにやってくるからだ。
 ……灰色の包みの中には人形が入っている。
 見なくともわかる。
 それは俗に「アルカザンドール」と呼ばれ、チベットの奥地では割とメジャーな、願いの人形だと彼女から聞いていた。
「おめでとう」
 もう一度、彼女が言う。
 カウンターの向こうのマスターは、わが子を撫でつけるように手中の布巾でグラスを拭いている。

     ★

 オレはいたって普通の真面目な会社員で、朝から夕方まで会社のデスクで書類とにらめっこしながら働いている。
 あのショットバーへは、一週間のうち一回しか行かない。ほかは全部最愛の妻と二人で過ごそう。そう、自分で決めていた。
 バーの中はいつでも薄暗く、そのシンプルな雰囲気にそぐわない様なボサノヴァがいつも流れていた。
 カウンターの中には、世界中の酒をこよなく愛するマスターが、そしてカウンターの外には、真っ黒なエプロンと長い髪が特徴的な彼女が、静かに佇んでいる。
 それだけのバーだった。
 カウンターの中には一枚だけ壁に絵が掛けられていた。あれはたぶんチベットの絵だろう。
 なぜそう思ったかはわからない。あるいは、マスターが前に言っていた話を、まだどこかで覚えているのかも知れなかった。
 オレがこのバーに通い始めた頃には常連客がいつもたむろしていたのに、最近は見ないな。
 そう彼女に言うと
「今日はたまたまじゃない? よくあるわよ」
 と笑って水を差しだした。
「まだいけるよ」
 オレはチビチビとウィスキーを舐めて、ナッツをつまむ。
 彼女は、マスターのいとこで、大学生だと聞いた。昼は勉強し、夜はここで働く。
 そうして、バーが休みのときには、唯一の趣味である、精巧な人形を作るのだと。
「丁度一週間ぐらいでできあがるの、貰ってほしいんです」
 はにかみながら漂う香水の匂いに、オレは最初、快くOKしたが、それから人形は、一週間ごとに、オレに、手渡された。
「人形はあなた、だから、人形の誕生日はあなたの誕生日よ」
 ――オメデトウ。
 魔法のようなその言葉も、いつしかウソのように単調になり、慣れとは恐ろしいもので、次第に部屋に溜まっていく人形が家族のように思えてきた。
 だが、一緒に暮らしていた妻は、嫌がった。
 なにか得体の知れない臭いがするという。夜中に動き回ったらどうするの、とオレを責める。
 ほら、あなたも嗅いでみてよと言われ、仕方なく人形を手に持ち鼻を近づけても、なにも香らないのだった。
 妻は相当鼻が利くのだろうか。
 本棚の上に座らせる格好で置いていた人形も、棚に入りきらなくなり、床に置かれた。
 ある日嫁が、部屋の隅に全ての人形を積み重ねるようにして掃除した。それからは人形が届けられると、部屋の隅にそっと置いた。
 そのまま半年ほど経ったとき、妻は愛想をつかして出て行ってしまった。
 今では「家族」と言う単語が、あの人形達を指す言葉となっている。人形達は、まるで生きているような、そんな顔をダラリとこちらに向けている。
 人形が届けられてから、一年。
 オレは彼女に呼ばれ、初めて彼女の家へと足を運んだ。そこは古いアパートで、苦学生という言葉を体言したような木の階段を昇った。
 どうぞと言われて靴を脱ごうとした瞬間、ふいに、何かの臭いが漂った。腐った野菜のような、焦がしたカレーのような。
 なんだ?
 この懐かしい臭いはー……。
 彼女が「どうしたの?」と聞きオレは「なんでもない」と靴を脱ぐ。
 玄関を通りすぎると、臭いはなくなり、オレはちゃぶ台に出されたお茶を飲み干した。

     ★

「――そろそろ眠くなりましたか?」
 ハッとして時計を見ると、もう真夜中を過ぎた頃だった。何の話をしていたのか、記憶がまるでない。酔ったのだろうか?
 立ち上がろうとするが、眩暈。体に力が入らない。目頭を押さえて首を左右に動かしたとき、背中に、温かい何かが当たった。
「あの……泊まっていって…ください……」
 切実そうな声。
 オレは戸惑いつつ、承諾する。まぶたが重い。そういえば、妻とまだ離婚していなかったな。こんな時に限って思い浮かぶ妻の幻想を、無理やり振り払った。
 彼女は玄関の横にあったドアを開き、オレを招き入れる。
 そこは、浴室だった。換気扇がカラカラと回っている。黒いタイルが、所々剥がれている。いや、青いタイルに何かがこびり付いているのか……。
 あぁ、あの臭いがする。懐かしい、臭いが。
 と。
 腹に、ズブリと何かが食い込む感覚。なんだ? そう思ったとたん、鋭い痛みが走る。腹をおさえ、かがみこんだ。何かがオレの体に入っている。そうだ、この臭いは人形の、
「おめでとう」
 顔をあげると、包丁、笑顔。アルカザンドール。それは願いの人形。

■ 青い手 ■

 彼女の左手は青い。
 まるでこの世の物とは思えないほど、青く。くすんで、今にも腐ってそのまま落ちて、床と一緒に溶けてしまいそうな。
 どうしてそうなったのか……、僕にはわからない。彼女自身もわからないという。気付くと、左手だけが青くなっていたという。
 僕は彼女の顔を、次に胸を、そして肩をながめ、それから決まってこう言う。
「君のことを愛しているんだ」
 それは僕のための暗示で。
 決して彼女に言っているわけではない。なぜなら彼女には、右手がないからだ。僕はまだ、彼女の右手に恋焦がれていなければならない。
 右手とおなじように、腰から下もなかった。
 どうしてそうなったのか、彼女は何回も僕に聞かせてそのたびに僕は、何度もうなづいた。
「そう、うん。そうだね……」
 誰にともなくつぶやく。
 けれど。
 彼女の言葉は、僕にはわからなかった。
 僕は彼女が言おうとしていることを注意深く判断しなければいけなくて。それはポップコーンにキャラメルをのせるより部屋の床の角にワックスをかけるより、繊細な作業だった。
 だらしなく垂らした腕。ゆっくり持ち上げて。
 彼女の髪に触れる。
 さっき見ていたとおりに。
 顔に、胸に。
 肩に。
 換気扇の音がする。部屋の中、前の住居者が置いていったカーテンが、こぼれそうな朝日を遮るようにかかっている。彼女と同じ、青色のカーテン。
 ずっと眠れなかったんだ。
 彼女の手にくちづけると冷蔵庫のふるえが室内にゆきわたった。
 靄から醒める前。僕は裸足で室内を歩き回り、そこにはクロッキーや絵の具や、紙パレットや画集が積まれ、乱れている机のひとつはしからペタナイフを奇跡的に探し出す。
 やっとのことで自分の手首を切り、その緩慢な瞬間、痛みなんてとうに忘れている。
 滲む血を、カンバスにこすりつけて。
 今夜。
 いや、今朝。
 ここのところ毎日、夢の終りはたおれている。
 薄目をあけて彼女を見た。もう、彼女は、青い左手だけを残して鈍色の茶に侵されていた。
 涙する新しい赤は香ばしく焼けたグリルのソース。軽々しくもなく、それでいて、仰々しくもない。
 それらが愛しいものだということ、本当は、わかっていた。
 誰も、迎えになんか来ないということも。
 とろけたソースが青い手からしたたり落ちたとき僕は、イーゼルの足下で、やっとあなたを救えたと、思った。

     ☆

 ハルオの右手は青い。
 それがこびりついた絵の具だということを、わたしはやっと理解したところだった。
 そんなだから皆の言う、ハルオの左手の切り傷も、まだ見れてはいないのだ。
 学科が違うからそうそう見ることはできない。
 それはそうなの。
 わたし、ハルオの半分すらわかってない。
 科の違いなんてもんじゃない。根本から、きっとわかってないんだ。
 けれど。
 けれどわたしは、人ごみの中からハルオを見つけることができるし、彼の大げさな荷物の角を持ってあげることができる。大抵が何号だかという数字のついた重そうなカンバスだから、ハルオはきっとわたしに感謝しているはずで。
 あ、食堂で一緒に食事をとることもできるし、さ、ケータイ電話の電話帳メモリをひとつ、増やしてあげることだってできるんだ。
 天才といわれる代償に、ハルオには、カンバスの片方を持つような友達がひとりも居ないから。
 だからいい。
「ハルーッ!」
 わたしは叩くようにさけんで、ハルオ以外の通行人を振り返らせる。
 細くて、今にも倒れて千切れそうな姿を、彼は隠そうともしない。だから振り返らない。
 いつでも弱っている彼は、自分のことでせいいっぱいなのだ。
 わたしは走ってハルオの目の前でとまり、クルリと回転する。そういう時は決まって、わざとらしく確認する、彼の。
 右手が青いこと。
「まだその新作は終わらないの?」
 前に言ってたでしょ、あたらしい絵を描いてる、って。
 ハルオは気だるそうに頷いて、フラフラとベンチに腰掛けた。わたしもお供することにする。けどまたいつものことで、一言も話さないうちに、薄いまぶたはぴっちりしめられてしまった。寝息がきこえてくる。
 ねぇ、ハルオ。
 わたし、バカじゃないの。考える。いつだって見てるから。
 ハルオはハルオのことをわからない方が安心できるんだ。こころの中に人を入れるってことが、どんなに苦しいのか知ってる。その反面、本当は知ってほしいんでしょ。だから絵を描くんだ。
 そのうち新作が終われば、またあたらしい絵を描き始める。わたしがその青い絵を引き裂いてしまっても、きっとハルオは描くよね。それを愛しいものだと、思いもしないで。
 わたしは想像する。
 ハルオの右手が、鉛筆の黒にまみれるところを。
 そして赤か、白か、黄色かみどりか、とにかく青以外の色に染まるところをー……。
 読書をはじめて二時間あまり。ハルオのまぶたがふるえて、うわ言のように彼は言った。
「……君は僕を観察して、なにか楽しいの」
 笑顔をつくった。泣きそうな声で。
「わたしは、ハルを迎えにきたの。愛とか青とか、傷もどうでもいいわ」