■ 田端仁志のマスターブック事件(連載中) ■

■ 1 ちとせの休日 ■

 目がさめる。
 夢の中身は覚えていない。
 いつの間にかクシャクシャになっているタオルケット。ちいさな枕を抱くようなかたちで横になっている僕の耳裏を、目覚ましアラームの音が通り過ぎていく。
 いっかい目を閉じて、また開けて、何をするわけでもなくぼんやりと壁をみる。アラームはまだ鳴り続けている。指先を頭上にあげて、カーテンの隙間をもてあそぶ。夜に沈んでいたはずのワンルームが朝色にはためき、アラームの音量は更なる高鳴りをみせる。
 頭の中で、置いてきたような白の残骸がフラッと消えて、あれ、なんだったっけ……。かすれた余韻に首を振る。
 朝を始めよう。
 僕は枕を抱いたまま勢いよく起きあがった。アラームを止め、変にめくれたTシャツを元に戻す。テーブルまで数歩。昨日飲みかけて置いておいたペットボトルの中身を一気に飲む。
 今日は土曜日。
 時刻は十時。
 大学に用事はない。
 蛭間先輩に貸しっぱなしの三角定規は用事というほど重くない。
 だいたいあの人に貸したものは一生戻ってこないのだから、買った方が早い。
 そうだ。だから、今日は一日家だ。
 なら、昼はチャーハンにしよう。
 急に嬉しくなって、俄然やる気が出た。溜まっていた洗濯物。溜まっていた洗い物。溜まっていたごみ捨て。全部やろう。
「よしっ」
 僕は決意を声に出し、行動を開始した。
 去年から独りで知らない土地の大学に通いはじめ、季節はもうすっかり一周半。けれどその間、僕には友達と呼べるような人間は一人もできなかったし、それを特に苦だとも思わなかった。蛭間先輩? いや、あの人は友人じゃない。ゼミで繋がっているだけだ。
 尊敬する教授とちょっかいをかけてくる蛭間先輩。購買と食堂のおばさん、学生課のお姉さんだけで僕のミニマムな世界は完結していた。理想的な状態。
 そういうわけだから、僕は休日になるとだいたい一人で家事をする。ご飯も自炊している。
 特に好きなのがチャーハン。
 中華料理店で出るようなパラパラしたチャーハンも好きだし、小学校の給食で出てくるような水分でベチャベチャしたチャーハンだって好きだ。チャーハンにさえしたら、中の具材がなんだろうと美味しくいただける。
 一人暮らし用に買ってもらった小さな冷蔵庫まで数歩。白くてつめたい扉を開けて、卵を取り出す。常温に戻しておくのが美味しさのコツだ。輪切りネギのパックがある事を確認して扉を閉め、次に冷凍庫を開ける。ラップにくるんでストックしていた白米を確認すると、頭の中にシンプルな醤油チャーハンの映像が横切った。想像だけで美味しい。
 僕は鼻歌をうたいながら、溜まっていた家事をこなしていった。
 ちいさなワンルームのカーテンは開ききり、明るくほのかに暖かい。夏は越し、秋に入ろうとしている気配。
 途中でインターホンが鳴り、出ると宅急便だった。
「えー…こちら、しんきょ……? しん………」
「あらおり、です」
「あぁ、失礼しました。こちらにサインをお願いします」
 母さんからの仕送り。
 ジャガイモと玉ねぎ、それから誕生日祝いのポチ袋が入っている。玉ねぎをどけるとバタピーが2袋も出てきて、僕はすっかり笑顔になった。
 バタピーはチャーハンの次の次くらいに好きだ。お酒はまだ飲めないけれど、あさって誕生日がきて飲み始めたらきっと絶対つまみの定番になる。
 家事を一通り終えると時刻はもう正午を過ぎていた。
 作ろう。
 チャーハン。
 冷凍庫の白米を取り出し、レンジに入れる。あたため、スタートボタン。ピ。レンジのぶうんという唸りをBGMにして、コンロに置きっぱなしのフライパンを手に取った。さきほど洗って、すぐ使うだろうとそのまま置いていたものだ。カチチチチ、すこし長めに点火。コンロの脇にあるサラダ油をトロリ。パッと散らしたネギがジジジと鳴く。すっかり常温になった卵を持ちあげ、準備は完璧だ。と。
 ――キンコーン。……キィー〜ンコーォォォン。
 インターホンが二回鳴った。
 誰だろう。
 また宅急便かな。
 コンロの火を止めて卵をそっと置く。チンという電子レンジの音を聞きながら、玄関のドアにある覗き穴から外を見る。
 そこには青年が立っていた。金色でふわふわした髪の毛に彫りの深い顔。黒縁の四角い眼鏡をかけている。白いワイシャツに黒のジーンズ。片手に辞書のようなものを持っている。
 見覚えは――まるでない。
 魚眼レンズの中の男はドアに近づき、もう一度インターホンを押した。
 キンコーン。
 そしてまた元の位置に戻る。
 僕は全然知らないけれど、向こうは明らかに用事がある様子だ。仕方ないのでドアを開けた。対峙してみると身長差に驚いた。僕より頭ひとつぶん高い。威圧感がすごい。
 開けたことを後悔しつつ無言でいると、男はふっと目を細めて
「こちらはニールセンのお宅でしょうか?」
 低い声で微笑んだ。
 教授……、その名前は教授が僕につけたものだ。僕の名前は「千」と書いて「ちとせ」と読ませる。だから新居千(あらおり・ちとせ)を別な読みにして新居千(ニイルセン)と……。
 どうして。
 教授だけが呼んでいいのに。
「違います」
 存外冷たい声が出た。
 いや、構わない。僕はドアを閉めた。バンと音が鳴り、思った以上に力を入れていた感情が、後からじわりとやってきた。
 教授が用事を頼んだ人かも知れない……、まさか。そんなことはありえない。頼むなら蛭間先輩にするだろうし……。
 この時の僕は、戸惑いのあまりドアにカギをかける事を忘れていた。
 それが――、唯一の逃げ道だったとも知らずに。

■ 2 Coming Soon... ■