■ 双子岬灯台のE ■

■ 1 白滝分館配達員と灯台の少年 ■

 少年は海に居る。
 私には、それがわかる。

   ★

 石に躓いただけで大きく転がりそうになる荷物をどうにか紐でゆわえ、私は海洋研究分館を出立した。バイクのエンジン音だけが響く道路は、遠い潮風を受けて酷くぼんやりしている。
 ちょうど一つ目の曲がり角まできたとき、出勤札を「外出」にし忘れた事に気づいたが、かまわずハンドルを右に切る。そうでもしないと、今にも止まってしまいそうな暑さだったからだ。
 三十分ほど走らせ、何の看板も目印もない、カードレールの切れ目に入る。すぐ山の中腹へと入るが、私の前の配達員が砂利を敷いてくれたおかげで、しばらくはエンジンをかけたまま歩くことが出来る。
 砂利が途切れるとエンジンを止め、バイクから荷物を降ろし、私はとめどなくこちらへ流れてくる、風葉の奥へと歩いた。
 昨日、大荒れの天気となって荷物を運べなかったことが悔やまれる。無線の向こう側から、少年は言った。
『……紅茶をご用意しておりましたのに…、どうぞ』
 よく耳に残る、透き通った声だ。
 私はあの声が、あまり好きではない。淀みのない、見越したような完璧さで、彼の手に踊らされているような気がするのだ。
 回想もほどほどに、目的地へと急ぐ。肩の荷物がゆれる。
 ――白く塗られた巨大な灯台が、突然目の前に現れた。
 まぶしすぎて、下を見る。嵐が過ぎ去った土はぬかるみ、私の気に入りのサバイバルブーツがひどく、黒くなっている。
 周囲の芝生を適度な長さに刈り取るのも少年の仕事であったが、どうやら、芝刈り機の設定を間違えて、この辺りだけ土を掘り起こしてしまったようだった。
 荷物を置いてぐるりと一周したのち、かたく閉ざされた扉を無骨に叩く。
「御免下さい、」
 空しい徒労と化す。
 こんなことをせずとも、この扉が閉まっているとき、少年は海に居ると相場が決まっているのだ。あの白く、細い手は、雨の日でも少しだけ扉を開けることを美徳としている。
 置かれたバケツのかげりに細く続いている獣道を、私は注意深く進み始めた。そこもぬかるんではいたが、少年の足跡がくっきりと残されている。
 配達の仕事は、何年も前から海上保安庁より委任されている。燈台守の報酬は、鴎の刻印が入ったコインにより届けられ、歴代の彼、彼女らはそのコインで日常の欲しい品を届けさせた。
 一生、この白い棺桶に閉じ込められるのはどんな気分なのだろう。
 外出などは滅多に無く、それは、燈台守に選ばれる人間が、孤独の中に住んでいることを示していた。
 ふいに横にそれた足跡をたどり、私も草をかきわけた。
 一瞬で海に出る、崖だ。眼下の黒髪がなびいた。
「――おい、」
 思ったより大きな声が出たが、少年は私に気づかない様子で、熱心に波間に漂う塊に手をのばしている。
 ……またか。
 少年は、私には理解できない特殊な趣味を持っている。
「おい、E!」
 声をはりあげたと同時に、ザザ、水のノイズ。
 海に落ちるのではないかという位手前にかたむいた体は、しなやかに動き、体勢を整えてこちらを見上げたその手には、先ほどまで手をのばしていた白い、レーウィンゾンデが収まっていた。
 私は一息つくと今来た道を戻り始め、少年も無言でそれに続いた。
 灯台の扉が開かれる。
 そこは巨大なホールになっている。正面奥に同じような扉が見えるが、まだ一度も開け放たれたことがない。少なくとも、私が灯台に来るときには、いつも鍵がかかっているように見える。
 視線をずらすと、少年は既に、壁にとりつけられた小さな階段を軽く昇りはじめていた。
 私はしばらくぼんやりしていたが、直ぐに自分の役目を思い出して荷物を取りにもう一度外へ出る。
 気づくのはたやすい。
 灯台の白い壁に、濡れたゾンデが捨て置かれている……。一瞥し、荷物を肩にかついだ。私は少年と違い、あの塊に何の感情も抱かない。
 階段を昇り荷物を下ろすと、少年はカップに紅茶を注いでいた。白磁のそれは確か、少年がはじめてもらったコインで求めた品だ。
 紐をほどき、ダンボールの中から品物を取り出す。私はジャンパーのポケットから納品書を取り出し、丹念に調べていった。
 分館を出る際に確認したものだが、これは形式となっており、少年はこれを見届けない限り、絶対に荷物を受け取らないのだった。
 当座の食料、洗剤、電気信号記録用紙、新しい日誌を二冊、懐中電灯と時計の電池、板チョコレイト……。
 確認し終わった私は、納品書を少年に渡した。少年はワイシャツのポケットからペンを取り出し、確認印欄にサインする。
 一文字、Eと。
「いつもありがとうございます、白滝さん、番茶どうぞ」
 よどみなく流れるか細い声に、じっくりカップの中身を眺めると、なるほどそれは紅茶ではなく、番茶であった。
「いただく」
「ええ、」
 音をたてて飲みほすと、少年はソファにもたれたまましばし瞳を伏せ
「すいません、」
 パッと立ち上がった。
「通信が入っているようなので失礼します。帰りもお気をつけて」
 手をあげるモーション。たおれるように走り壁際に指先をあてる。音もなくかけあがり、少年はするりと視界からぬけおちた。
 外ではカタカタと、風が笑っている。そのまま座っているわけにもいかず、私は慎重に階段を降り、ホールを通り、外に出た。扉は……そのうち少年が閉めるだろう。
 相変わらず打ちひしがれた様子でゾンデがそこに在る。私は、なぜかその瞬間だけ、掌の汗と共に第三燈台守・古川あゐの死を思い出した。
 彼女に短い黙祷を捧げるとひとつ、鳥の声がし、上を向くとEの、骨が透けて見えるような腕と手が、ひらひらと舞って窓の中へと消えていった。儚く。
 それが少年流のあいさつだと気づくのに、ずいぶんと時間がかかった。

■ 2 フェルマー博士と灯台の少年 ■

 フェルマー博士がその灯台を訪ねたのは、秋雨もそぼる10月のことだった。
 日本では毎年、この時期になるとタイフーンという巨大な低気圧が通過し、各地に莫大な被害を及ぼす。先週、まさにタイフーンが訪れ、博士はこの採集を取りやめにしようかと考えたほどだったが、低気圧の渦はあっさりと進路を変え、今に至った。
 しかしながら、フェルマー博士が本当に研究しているのは、タイフーンではなく海洋地質学であった。
 その中でも特に浅瀬の地質を研究しており、それには流体力学やらなにやら、ほかにも様々な勉強をせねばならなかったが、博士にとってはどれも、自分の子供のように愛しいものたちだ。
 当面の博士の目標は、各地の岬の地質を調査し、せり出していても決して崩れない頑丈な地層の重なり合いを見つけることである。
 この土地は、まだ本格的な調査の手が入っていない稀有な場所であったため、森の奥の灯台の存在は、灯台を研究している友人の情報で、やっと知りえたものだった。
 泊まる場所さえあれば、何日もかけて土の採集ができる。
 が。
 『ぬかるんだ森の道を抜けると、灯台は目の前』という話の筈だったがなかなかにひらけない。フィールドワークで歩くのには慣れている博士も、さすがに心配になってくるほど道は悪く、人一人通るのがやっとといった獣道。最初にあった砂利も途切れ、どんどん細くなっていく。
 もしや狐に化かされたのか、と、日本に染まった自分の思考に自嘲する。ドレードマークの黒傘をまわし、今日の天候をうらんだ。タイフーンは過ぎたものの、どんよりと曇った空は、光をさえぎり森の中をさらに暗澹とした雰囲気に仕立て上げていた。
 どの位歩いただろう。
 ふと目をあげると、襟袖を蒸らすように濡らせて一人の少年が頼りなげに立っていた。気配のなさに、博士の背中が凍る。
 ――狐か?
 いや。少年の奥には開けた空間と、白く高い灯台が鎮座している。
 着いたのだ。
 ほっと安堵の表情を浮かべた博士の耳に、
「お待ちしておりました、」
 リンと、水紋が広がった。
 何者にも染まらない、森の奥から汲み上げてきたばかりの水のような声であった。すきとおり、届く。
「フェルマー博士ですね?」
 博士はハッと気づき、あわてて駆け寄った。森の陰影で錯覚していたが、小雨はやんでいない。黒傘をかけると、少年は「ありがとうございます」と小首をおとし、自分の両手に収まっている白い塊に目をやった。
「それは……何だね?」
 博士は興味をそそられた。
 少年の襟から撥ねた水の粒が、博士の目を一瞬だけとまらせた。
「今、とってきたばかりなのでワイシャツのことはお気になさらずに。先に灯台の中へどうぞ。お湯とタオルをご用意しております」
 真白なうなじがふるえるままに、人間の汚さを含んだ。
 ――研究のことはいつも頭の隅にある。フェルマー博士はそうやって今まで過ごしてきた。日本に来たのも、日本の地層が複雑な層を呈していて面白そうだと確信したからだ。
 しかし今、脳の大半はこの少年に向けられている。
 それが、なぜだかわかってしまった。
「申し遅れたね、私はデイビット・フェルマー。日本では地質の研究をしている。時間に遅れてしまってすまなかったね。バスストップを探すのに手間取ってしまって、結局タクシーを使ったんだが迷ってー…、更にこんなに歩くとは。私も年なものでね」
 まくしたてるように自己紹介をしたあと、博士はもう一度、少年の手の中の何かに触れた。
「それはー…」
「ゾンデです、博士」
 今度は間髪入れず、少年は顔をあげた。
 そこには、無垢も極まる透き通った黒い双眸があり、博士をピタリととらえてはなさない。笑顔の造詣は、身じろいだ拍子に傘の影に隠れた。
「気象台で毎日飛ばしている、観測用の気球機械です。おわかりでしょうが、この地形は波に削られてできたものではありません。全てのものが流れ着き、岬は堆積物の宝庫なんです。これも、流れてきたものを僕が毎日拾っているだけで……。こんな場所でも、研究のお役に立てると良いのですが、とにかく灯台の中へどうぞ」
 一階のホールから狭い階段を昇り、応接室に通された博士は、青いラインが入っている真新しいタオルを渡され、立ち尽くした。
 時折音をたてる石炭ストーヴ、さりげなく象嵌細工を施してある低い机。壁にかけられている海図、棚に置かれたインクペン。丹念に磨かれた木の床、その上にそうと置かれている絨毯を踏む。
 博士は身震いした。
 この灯台と、少年は。
 使い古されやさしい色合いが出た白磁のカップに注がれる紅茶も、座ったソファの心地よさも、全てがどこか深淵をおもわせる完璧さだった。乾ききっていない黒髪をなでつけ
「すみません。まだ僕の名前を言っていませんでした……」
 とつぶやいた少年のしぐさにすら耐えられなくなり、『後ほど聞く、まっ先に調査現場を見たい、外に出る』と言うと彼はあっさり引き下がった。扉の前まで見送りに出た少年は「お気をつけて」と礼をする。やはり、完璧な礼であった。
 と。
 フェルマー博士は気づく。
 灯台の中に入るとき少年が無造作に置いた、ゾンデと呼ばれる白い箱が、戸口からなくなっている――…。
 深い淵のどこか奥の奥に、少年がゾンデを大事に仕舞う様子を、フェルマー博士は思い浮かべる。研究室のような、埃くさい、無機質な棚に一つずつ並べるのだろうか。それとも、閉ざされた一室の床に、捨てるように積み上げるのだろうか。どちらにしてもきっと、ぞっとするような――それでいて惹きつけられるような――仕草で彼は行うのだ。
 それはヒビの入った、汚くて美しい人間の姿だ。
 見上げた空はやはり、今にも泣きそうなうねりで曇っている。博士は先ほど少年から聞いた通り、海岸線にそって歩き始めた。数分先には、崖と、崖下に降り立つためのゆるい下り坂が見えてくる筈であった。
 ヒビが入っている器の方が完璧であるということをフェルマー博士は知っている。
 完璧な少年は、完璧という言葉の本当の意味を、まだ知らないに違いなかった。

■ 3 古川元第三代燈台守と灯台の少年 ■

 お母さんという存在を僕は知らない。
 お父さんという存在を僕は知らない。
 もし、そういう存在を指し示すとしたら、僕には古川としか言えない。
 古川が母さんで、父さんで、この灯台そのものでもあった。
 古川は、もう居ない。
 古川が居なくなってから、僕の生活は予定通りに淡々と進んでいる。

     ☆

 早朝四時、ラインダウンゾーンを通る船に信号を送る。
 そこから僕は階段をおりて、応接間を兼ねた部屋で仮眠をとる。ちらりと壁にかけられた海図を見て、そういえば昨日は嵐で、拾えなかったんだと思い出した。
 机に置かれた日誌と万年筆を無造作にどけて、足はくずれるようにおれた。椅子が低い音をたてて鳴る。それはもう何十回と聞いたもので、今更驚きもない。
 こういう嵐が過ぎ去った夜明け前。
 ……時々、ふっと古川のことを思い出す。
 彼女は海の底でなにを思っているのだろう。そのイチパアセントでいい、僕のことであってほしいと願う。
 止まったままの目覚まし時計。電池がきれたと思って新しいのを入れても何も変わらず、早々にあきらめた。
 最近、この机でなければ眠れない。時計なんてなくとも、朝日が僕を起こしてくれる。それはどんな事象よりも確実なことだった。嵐の日以外は。
 八時半、バウンダリーゾーンを通る船から信号が届く。
 僕はワイシャツに着替えるところだったので、あわてて走り応答する。
「こちらLH58632、双子岬燈台守Eです、どうぞ」
 この言葉にももう慣れた。そんな自分に、反吐が出そうになる。本当はこれは、古川の記号。LH58632双子岬燈台守I。
 けれど出してはいけない。
 僕は、単調でなければいけない。
 どうしても古川を思い出すなら、やはり今日も掬いに行かなければならないだろう。
 ゾンデを。
 たわいもない会話で通信が終わる。麻倉五郎船長は、彼に言わせればまだこの任に付いた「ばかり」の僕を案じていることを、皆のように隠そうとはせず、それが逆に彼を信用させていた。
 あれからもう半年にもなるのに、お節介な。
 じりじりと暑くなりはじめた昼前、僕はミルクパンをかじったあと、長靴に履き替えて灯台の扉を閉めた。
 巡航船の航路進行表を見定めなくとも、既に全部頭に入っている。この時間だと二十分は大丈夫な筈で。
 裏手から続く獣道を、少し速めに歩く。
 まだ露に濡れた葉があたって、ワイシャツから肌に滲みた。どうせこのあとも水しぶきにあたる予定だ。気にしない。
 この岬の周囲は特異な波のおかげで、大抵のものが流れ着く。僕のほしい、白くて軽い箱も、このところ毎日流れ着いていたけれどー…昨日までの嵐では、どうだろうか。
 僕はそれが波間の奥にあるかもしれないと思い、草むらに放り投げていた長網をつかんだ。たしか、この前の嵐の時以来、ずうとここにあったような気がする。
 崖に着いた。
 波が高い。
 今日はb、Acなし。と、練習のようにつぶやいた。bは快晴。Acは高積雲。昔、古川が教えてくれた、船乗りたちの略称。
 ゾンデは、にらんだとおり手では届かない位置に浮かんでいて、僕は存外軽いそれを長網ですくいあげた。
 一緒に入ってきた小枝をどけると、大きく「気象庁」と書かれた黒文字が目に入った――そうだ、今年も観測年表を取り寄せよう。仕事上の物品だから誰も怪しまない。趣味と仕事を兼ねているとは、何て便利なこと。僕は海水に濡れたゾンデを持ち、道を戻った。
 夕方近くの仮眠まで、いくつかの仕事が残っていた。
 明日後、物好きな観光客が灯台までくるというので少し中を整理したり、ベルメゾーンを通る船に信号を送ったり、毎日付ける灯台日誌の半分を文字で埋めたり、久々に真水で壁を拭いたり。
 たまに来て仕事を手伝ってくれる海洋研究分館の白滝さんは、今日は来ないようだった。こんなときに来てほしい。けれど僕は、古川が死んでから、まだ一度も彼に頼ったことはない。
 陽が、暮れようとしていた。
 戸口に置いていたゾンデは、すっかり乾いている。持ち上げて僕は、崖とは反対方向の草むらをわけ入り、古川の家に向かった。
 この双子岬灯台は、双子の名の通り昔はふたつの灯台が光っていた。そのうちのひとつは、今動いている白い第一灯台。そしてもうひとつが、この先にある。
 日に日に草に覆われ廃墟と化していく第二灯台。忘れられたここを、古川は勝手に自分の家にしていた。死ぬ前、その温かくて枯れた手を恭しくあげて、僕にここの鍵を渡した夜。すべて覚えている。
 好きに使っていい、と。
 扉を開けると、すぐに螺旋階段がはじまる。それを昇りきった所に、少しだけの業務用スペースがある。上はもう最上階だ。以前はこの業務用スペースに、小さなベッドといくつかの本が置かれていた。
 手から。
 ゾンデがこぼれおちた。
 円を描く低い壁は、ゾンデでぎっしり埋まっている。それを目で確認すると、ようやく磯の香りが漂ってきた。ゆっくり膝を折り手をついて顔を寄せ、倒れたふりをする。埃くさい、廃墟の香り。
 誰か、知ったことがあるのだろうか。
 死を、自分が引き寄せたと思わせる錯覚を。
 古川はきっとあるはずだった。僕は知らない。どうしていいのか、わからない。
 階段を昇りきったとき、一瞬古川の匂いが鼻をついた。
 まだするんだ。
 僕は計算できない時間が嫌いだった、今でも。それを起こさせるのはいつだって古川だという事を、急に。あの声。あの手。
 まだするの、もっと集めなければ。
 僕は倒れたふりをしたまま、しばらく瞳を閉じた。崖のふちに一人で立っている自分を思って、唇は動く。
「……明日は、」
 予定通りに淡々と進めさせてくれない古川と天気を、いっそのことどうにかして憎めればいいのに。

■ 4 須藤澄也と灯台の少年(前編) ■

 ピー、ヒー、リー、ヒー。
 ピー、ヒー、リー、ヒー。
「お早うございます」
 ピー、ヒー、リー、ヒー。
 ピー、ヒー、リー、ヒー。
「遅ェよ」
 ピー、ヒー、リー、ヒー。
 新田がパチンと計測スイッチをはね上げた。けれどまだ、音はやまない。やむ気配など微塵もない。
 ピー、ヒー、リー、ヒー。
 四つの運命の音だ。ゾンデの計測器は、いつだって正確でなくてはならない。性能を確かめるため、放球前もずっとモニターしている。
 新田はハン、と蔑みの声で僕を見た。
「お前、遅かったから今日もカウントな」
 気象観測所は日本各地、いや、世界各地に点在している。日に二回決まった時刻に、世界の空へ一斉にレーウィンゾンデが飛ばされる。日本では、朝の九時と夜の九時。
 腕時計は、八時四五分をまわったところだった。
 この部署に配属されたからには、ゾンデがくくりつけられたガス気球を放球するのが……なんというか、一種のあこがれでもあったけれど、新田は毎日理由をつけて、僕にさせてはくれない。
 計測室から廊下を左へ。靴を履き替え外に出ると、野外に設置された小屋では、既にふくらんだ気球が、今か今かと放球を待っていた。
 新田が慣れた手つきで、気球にかかっていた錘を外す。先ほどから室内でモニターし続けている白い四角いゾンデを、それにくくりつけた。
「五分前」
「早ェし。いらねェし」
 また皮肉るような笑みを浮かべた新田は気球を持ち上げ、ゆらしながら小高い丘の中央へと向かった。と、ふと用事を思い出したように
「今年はお前が行けよ。初めてだろ」
「……なんの話ですか」
「おっこちたゾンデがどうなってるか、知ってっか?」
 レーウィンゾンデを知る人は少ない。新田を代表する観測所の人間、学生を含む高層気象マニア、そして、役目を終え落ちた白い箱を――偶然拾った一般人。それくらいだ。
「三分前」
 ゾンデは大抵海に落ちる。
 飛ばしたガス気球は存外高くあがり、高層気流に乗って海まで。
 気圧の関係で限界までふくらんだ気球は割れるけれど、かわりに、小さなオモチャのようなパラシュートが、落ちる速度を制限してくれる。
 日本の観測所はどこも海に近い。
 けれど、季節になると風向きが変わり、たまに、街に落ちることもある。ゾンデには大きく気象庁の文字と、これが危険なものではないこと、連絡をくれれば引き取りに行く旨が記されている。
「落ちたって、連絡きたんですか? 一分前」
「違ェよ。灯台の――、いいや、」
「なんですか。三十秒前」
「後で渡す」
「十秒前――五、四、三、二、一、」
 新田が手を放した瞬間、ゾンデは勢いよく空へと舞い上がり、数秒もたたずに冬の高みへ消えた。

     ☆

 どんなに、道に迷ったと思ったか。真白な灯台が目の前にそびえて、僕は圧倒されながらも安堵の息をもらした。
 鞄の中に入っている観測年表は石のように重く、それは、僕が森をさ迷い歩いた時間に、正確に比例していた。
 扉は薄く開いている。中に誰かいるのは明白だ。最初はコンコンと控えめにノックしたけれど、きこえているかいないか、もうこの際で、力強くガンガンと鳴らして待った。
「ごめん下さい、はしば気象台の者ですが!」
 周囲の草は低く切りそろえられ、森との境界線あたりにバケツやら草刈り機やらが並んでいる。見慣れない形のバイクもあった。灯台の高みに小さく見える手すりには、結ばれたタオルが舞っていて。
 青いラインが忙しく上下左右にゆれている。
 うんともすんとも応答がないため、もう一度扉を叩く。手が痛い。寒い。早く帰りたい。
 ――と。
 ふと、下を見て。
 その白に。気づいてしまった。気象庁という黒文字。
 見慣れた箱が朽ち捨てられたように、ひっそりと、置かれて。
 ゾンデ。
 新田の声が再生される。
 俺、アイツ嫌いなんだよね。観測年表はただの口実だよ。コレ持って確認してこい。日本で残り数十人っていう貴重な燈台守サマだ。早く切り捨てたいんだよ、上は。ま、それはウチの仕事じゃねェけどな。
「お待たせしました。……こんにちは、何かご用でしょうか」
 扉を開けて出てきたのは、驚いたことに小柄な少年だった。
 こんな子供が燈台守なのかと思ったけれど、らせん階段をのぼり通された応接室には、黒のジャンパーを着た、がっしりした体付きの男性がソファに座ってくつろいでいた。
 あぁ、なんだ。良かった。この人が燈台守か。
 男はゆっくり立ち上がる。僕は、挨拶をしようと右手を差し出した。
「初めまして。はしば気象台の須藤澄也です」
「どうも。双海市海洋研究分館の、白滝トヲルです」
「えっ?」
 思わず疑問が声に出る。
「あ、えーっと……?」
「わざわざ申し訳ない。ショウ……新田には、郵送してくれて構わないといつも言っているのですが」
 郵送。観測年表のことだ。分厚いそれが入った鞄を床に置きコートを脱ぐと、男は、大きなボストンバッグを肩にかけて階段へと向かった。
「帰る」
「はい。さようなら、白滝さん」
「……須藤さん。新田によろしく言っておいて下さい。ごゆっくり」
 遠くから、扉を閉めるゴウンという音。僕はあらためて少年を見た。背は低く細い。黒髪、黒い目。白い肌、白のハイネック、黒のズボン。白い手、白い、極端なまでの白と黒。あぁ、この子は。まるで。
 ゾンデのようだ……。

■ 5 須藤澄也と灯台の少年(後編) ■

「初めまして。Eと申します。届けていただいて、どうもありがとうございました。今、お茶を淹れますね、」
 高い。声変わりしていない、風のように通り抜ける声。
 出されたアツアツの緑茶を一口飲んでから、今年の気象年鑑と観測年表、気象台彙報をテーブルに置いた。
 少年は観測年表を手にし、しばらく表紙を眺めたあと、上目使いにはにかんだ。
「ほんとうに、わざわざすみません」
 ゾンデで観測されたデータは気象予報に利用される。
 気圧、気温、湿度、風向き、風速。特に気圧に関して重要な役割をになっている。それらは気象年鑑として端的にまとめられ、大きめの冊子になって毎年発行されているのだ。
 観測年表は気象年鑑より更に、こまごましたデータを過去五年にさかのぼって網羅していて、これとは別に、高層気象台の最新の調査・研究なんかは気象台彙報に載せられる。
 まぁ、つまり、重かった。帰りは楽になるだろう。
「新田さんはお元気ですか? もう半年以上会っていないのですが」
「あ、ええ。はい」
 僕はできるだけ詳細に、最近の新田ショウの生態について語った。
 口が悪ければ手が出るのも早い新田は、この間、夜九時の放球のあと他の職員とモメて、いきなりそいつの頭に殴りかかった。
 驚いたのは僕をはじめとする止めに入った人間たちで、取れたのはカツラ。新田は、そのカツラをビタンと床に叩きつけると渾身の力でグリグリと踏みつけ、蛍光灯が反射するスキンヘッドに向けてこう言い放ったのだ。
「あーあーお前がエラかったよ! 悪うございました! ほら! エラすぎてご来光だ! あーありがたやありがたや」
 その少年、燈台守Eは楽しそうにクツクツと笑った。
「あの人らしいですね、相変わらず」
 新田とは長い付き合いなんですかと聞くと、Eは急に真顔で口ごもり、茶を啜ってあいまいに微笑んだ。奇妙な間が数秒続く。
 僕は耐え切れなくなり、何か別の話題はないかと考えた。浮かんだのは、戸口にあった、見慣れた箱。
「そういえば、戸口にゾンデがありましたね。連絡して頂ければ取りに伺いますがー…」
「いえ、お気遣いなく。流れてきたのを、いつも拾っているんです」
「えーっと……?」
「海からです。潮の流れの関係で……、ちょっと見に行きますか? 今信号送ったら時間空くので」
 Eが上の階に消えて数分。待つのに飽きた僕は、この部屋の中を見てまわることにした。レトロなダルマ型ストーブには火が入り、薬缶がコトコト鳴っている。壁には大きめの海図がかけられていた。右下に海岸線と二つの灯台が描かれている。低い棚には食器が並び、その上に本と貝殻とインク壜が無造作に置かれていた。窓際の木の机には開かれたままの日誌があり、興味本位で覗く。少し丸みをおびた几帳面な字で、こう書かれていた。
 ――古川の遺品を整理。白滝さんが来たら渡す。日誌の記録は保管すること。
 遺品……なんだか、見てはいけないものを見たような気がして、僕は慌ててソファに戻った。
 黒のダッフルコートを着たEの案内で、灯台の外の茂みに入る。ここからでも十分に波の音が響く。しばらく進んで森がひらけると、音は一層高く大きくうなった。
 崖だ。風が冷たく当たる。
 見下ろすと、木屑や海草、プラスチック容器、空き瓶なんかが、泡とともに鈍く揺れ動いていた。Eが「あれです」と指差すまでもなく、僕はすぐに、木屑の合間のゾンデを見つけた。ナナメになった気象庁の「気」の字が、水面に出たり入ったりしている。
「取ってきていいですか、」
「えっ?」
 返答を待たずに少年はスルリと崖を下り、いつの間にか手にしていた網で、ゾンデをサッと掬いあげた。網の中に入った木屑をどけ、その白を、箱を、両手で、かかげ笑顔で、なんだ、これ。なんで。どうして、僕、は。
 飛ばせないのに。僕は。
 毎日。
 その白に、触れられもしないー…。
 嫉妬という名の激情が、カッと頭までかけのぼった。違う! 少年は悪くない。落ち着け。悪いのは新田で、新田が悪い奴だっていうのは全員が知っている。落ち着け須藤澄也! 僕は大人で、少年は子供で、だから僕のほうが自制する、そういうのが世の中で、
「母が死んだんです」
 突然、の。Eの言葉に、僕はうまく反応できなかった。
 グルグルまわる思考を一旦止めて横を向くと、いつの間にか隣に戻ってきていた少年が、海を眺めながら続けた。風が吹く。
「といっても、育ての親で、年齢でいうとおばあちゃんでしたけど。新田さんが、月命日には必ず自分が飛ばすって、ここに流れ着くのがわかっているからですよね。ゾンデ。きっと古川も喜んでいます。葬式以来、会っていませんけれど」
 こちらに首をかたむけ、Eは笑った。
 さっきの熱は遠のき、けれどまだ、奥底でくすぶるように渦巻いて、僕は感情をどうにもできず灯台をあとにした。雪が降るという予報は外れたようで、刺すような寒さの中、やっとの思いで、家に。運命よ。
 ピー、ヒー、リー、ヒー。
 ピー、ヒー、リー、ヒー。
 翌日。四つの音が打ちつける中、新田は、今日はお前が飛ばせよと親指で机をさした。そこにあるのは、今日放球予定のレーウィンゾンデ。
 夢心地で白い箱を持ち、外に出る。手がかじかんで、ガス気球の錘すら、うまく外せない。
「五分前ェ。つーか、トロい」
 ムッとして「今日は命日じゃないんですね」と言うと、新田は頬を歪めて薄汚く笑った。
「嫉妬して、自己嫌悪したろ? 精神的ダメージは顔に出ていいねェ。俺、お前いじめんの趣味だから。三分前」
「悪趣味ですね」
 やはり新田は新田でしかない。ゾンデを手に登る丘の上は冷えて、見上げると鈍色の雲に、白の気球が美しく映えた。
「十秒前ェ――五、四、三、二、一、」
 手を放す。
 ゾンデが飛んだ、あっという間に。高く。高く。

■ 6 自殺志願者ユウバミと灯台の少年 ■

 灯台を見上げてユウバミがまず思ったことは――咽が渇いた。温かいコーヒーが飲みたい――という、死とは対極にある本能的な体の叫びであった。
 いや、と、ユウバミは力なく視線を落とす。自分は死にに来たのではなかったか。この森ならふさわしいと意を決して入ったはずが、想像とは違う。
 職業上、あまり一人きりで外出したことがなく、本もゆっくり読めないユウバミにとって「想像上の自殺」とは、鬱蒼としたほの暗い森に誘われるように入りこみ、さ迷い、洞窟のような場所で座り込んで、空腹と寒さを味わいながら眠るように死んでいく、というものであった。
 それが実際はどうだろう。
 葉が枯れて黒い枝ばかりの森は思ったよりも歩きやすく、立ち止まったら海の音。眼前には洞窟ではなく白い灯台がそびえ立ち、その扉がパックリ開いたかと思うと、コートを着た小柄な少年が、スルリと出てきて目が合った。小さな口が開く。
「あのっ、何かご用でー…」
 声変わりもしていないような甲高い響きは、突然の強風にかき消された。違う、とユウバミは首を左右に振る。少年は会釈して右手に消えた。
 これからどうするか、全く決めていない。
 来た道をひきかえしたところで、いつマネージャーに見つかるとも知れない。いっそ、何事もなかったフリをして戻るか、監督の怒る姿がありありと想像できる。
 ユウバミは震える体を抱きしめるようにしてしゃがんだ。
 だいたいにして、あの監督とはソリが合わないのだ。向こうもそう思っているだろうに、なぜ自分を起用し続けるのか。大人だからなのか。その「自分は大人ですから・これは仕事ですから」といった澄ました顔もまた嫌なのだ――…。
「あの、具合悪いんですか、」
 顔をあげると、さきほどの少年が白い箱を手に持ち、ユウバミの前に立っていた。

     ☆

「特別です。この辺は、他に休めるところありませんから」
 ユウバミがソファに座るのを待って、少年はカップを手渡した。
 決まって真冬の撮影現場に持ち込んでいる、大好きなキリマンジャロの香りがしたが、いや、とユウバミは黒い液体を啜る。自分がそう思い込みたいだけで、本当は違う。リテイクという監督の声が、頭の中で繰り返される。違う、違う。あれもこれも、全部違う!
「……ありがとうございます」
 わざと低めの声を出した。この顔と声で、もしかしたらあの映画の、などと言われでもしたら、正体を明かし即刻サインと握手だろう。
 しかし少年はユウバミの事など全く知らない素振りで世間話を始め、注意深く見回すと、この部屋にはテレビというものがなかった。
 年端もいかない少年と向かい合い、どうでも良い話――今日の強風や潮の満ち引き、月の傾きなど、ほとんどが天候の話であった――をしていくうちに、ユウバミは、正体も事情も知らないまったくの他人というものに安心しきり、少年に自殺の事を打ち明けていた。
「あぁ。やっぱり」
 と少年は言った。
 しっかり予約を入れていない招かれざる客というのが、ほんのたまに来るらしい。数年に一人か二人、ほとんどが自殺志願者だという。
「身投げはよした方がいいですよ。潮の流れの関係で、確実に岸につきますから」
 説得を始めるのかと思いきや、少年はあっさりとした口調でそう言い放ち、通信が入っているようなので失礼しますと上の階へ消えた。
 階段の下に白い箱がある。
 さきほど外で少年が持っていたものた。透明なビニールの上に置かれている。まだいくぶん濡れ、近づくと磯の香りが漂った。
 降りてきた少年にたずねると、気象観測用の箱だという。しばらくそのゾンデという物体が、どのように飛ばされるかが熱っぽく語られた。毎日掬いに行き、集めているのだという。
「それって、どうしてー…」
 純粋な疑問の声に、予想外の答えが返ってきた。
「じゃあ、どうして自殺を考えているんですか? 教えてくれたら言っても良いですよ」
 ユウバミはたまらず監督の態度について、長い時間をかけて少年に説明した。しかし言えば言うほど、なぜ自分だけこんな思いをしなければならないのかという気分になる。逃げ出すには自殺しかないと思い込んでいただけで、実際は違う。自分が死んでも映画はキャストを変えてできあがるだろうし、監督はそのまま生き続ける。それはズルい。
 本当は、自分は、誰かにこうして聞いてほしかっただけなのだ。失踪して注目を集めれば皆が心配して話を聞いてくれる……これこそ子供の発想だ。ユウバミは自分を恥じた。
 自殺の話はなかった事にしてくれと言うと、そうですねそれが良いですねと少年は笑った。ニッコリという擬音がふさわしいほどの、輝かしい笑顔で、
「僕が毎日拾っているのは、ゾンデじゃなくて墓標です……あの人の……きっと僕もここで死んでいきます。ここは。灯台という名前の白いお墓なんです。――だから、」
「え?」
「あなたにはあげません」
 ゴウン、と下から鈍い金属音がした。続いてガンガンと階段を踏みつける複数の足音。
 部屋に入ってきたのは、警官服を着た長身の男性と年配の女性である。
 少年は立ち上がり、手のひらでユウバミを示した。その顔にはもうさきほどまでの笑顔はなく、ぞっとするほど完璧に整いきった、冷たい無表情があるのみであった。
「この方です」
「Eくん、先に挨拶。古川先生もそう仰っていたよね?」
「すみません白昼さん、こんにちは。恵さん、お久しぶりです」
「久しぶりねぇ。こんなに大きくなって……」
 恵と呼ばれた年配の女性がFAX用紙を取り出し、ユウバミと紙を交互に見比べる。軽く頷いたのを合図に、男がユウバミの肩にそっと触れた。
「Eくんありがとう。ご協力に感謝します」
「どういたしまして。……さようなら、お元気で」
 強風にあおられながら森の道を数歩進み、ユウバミは振り返った。
 大人びた少年を埋葬している墓が、何者にも揺るがず鎮座している。

■ 7 麻倉船長と灯台の少年 ■

 夜明け前の暗い色。
 嵐が過ぎ去った双海漁港の桟橋。
 ひっそりと捨て置かれた、濡れたダンボールを見つけたのは漁船・太陽丸の船長兼、双海市漁業組合長の麻倉五郎であった。
 昨日まではなかったハズだが……と、麻倉は記憶をたどりながらくったりした茶色のフタを空け、同時に顔を歪める。何だ、これは? 脳が認識しない。入っていたのは、枕のような白いかたまりであった。
 数秒後に理解する。
 これは。
 布にくるまれた赤ん坊だ。泣きもせず目を閉じている。
 寝ている…――いや、死にかけているのだ。麻倉は確信した。今すぐ病院へ連れて行かなければ、この赤子は死んでしまうだろう。
 だが、病院へ連れて行けば今日の漁は中止となる。自分が食いつなぐための漁だ。船の維持費とトントンの現状。一日休めば採算が取れなくなる。
 見なかったことにしておこうか……目に付く場所に移動させ、他の漁師達が見つければ……打算的な考えが麻倉の中を駆けめぐった。
 いや、やめよう。
 麻倉は自分の浅はかさを意思で打ち消した。得られる今日一日ぶんの金を無駄にすることと、消えそうな小さな命を秤にかけるなど、愚考以外のなにものでもない。
 そこまで決めてから麻倉は愕然とする。
 助ける……?
 どうやって助ければ良いのだ??
 交番は、こんな早朝では連絡がつかないだろう。病院は、片道1時間弱の中規模な病院しか知らない。小児科などあっただろうか? 聞こうにも電話番号が分からない。女房はいない。半年前に死んだのだ。
「――!」
 とっさに思いついた人物は、第三燈台守・古川夫妻であった。
 ダンボールのフタを閉め、祈りながら持ち上げる。底は丈夫なようで安心しながら船に乗り込んだ。無線コールするとスグに繋がる。
『ザ……こちらLH58632、双子岬燈台守Iです、どうぞ…ザザ…』
「麻倉だ、緊急事態。5分後ベルメゾーンまで行く、フネ出せるか、どうぞ」
『……ザザ…了解です。アンカーブイ8番あたりで待機します、どうぞ』
 ベルメゾーンまで船を走らせると、波間に漂う巨大な赤い輪の近くに
停泊している小型船が見えた。柔和な顔をした年配の女性が、手を大きく振っている。
 手短にワケを話して赤ん坊を手渡すと、麻倉は頭を切り替え、今日のポイントへと航路をとった。

     ☆

 午後には帰港した。
 当然、赤ん坊の事が気がかりであったからだ。今日の漁が芳しくないのも一因ではある。氷詰めの作業もあっさりと終わり、麻倉は急いで双子岬の第一灯台へと向かった。
 白塗りの扉を手早く叩き「麻倉です、お邪魔さまです」と叫びながら階段を昇りきると、ソファには門間恵が座っていた。婦警である。会釈もそこそこに鞄から書類を取り出しはじめた。と。
 上の無線室から古川あゐが降りてきて
「大丈夫だそうですよ」
 ニッコリと、第一声が発せられた。独特の響きをもつ、静かで、それでいてあたたかな、包み込むような声。
「赤ちゃんは、夫が病院に。それで恵さんから――」
「麻倉さん、当時の詳しい状況を聞いてもよろしいですか? それと、この書類に目を通してサインしてください」
 古川の言葉を遮り、門間は、まるで麻倉が何かの犯人であるかのように詰問した。しかし、発見時の状況といっても、5分と語る要素はない。今日は一番乗りだったのだ。周囲には誰もおらず、怪しい車も停まっていなかった。当然、誰かの気配などといったものも。
 門間が調べたダンボールには、赤ん坊の身元を証明できるようなものは何一つ入っていなかった。母親が見つからない場合には、家庭裁判所に申し立てて新たに戸籍を作らなければならないが、置き去りの子を「どうするか」は、第一発見者である麻倉の意思確認も必要らしく、こうして出向いているという。
 つまり。
 麻倉に、あの赤ん坊を引き取って育てる意思があるのかどうかと訊いているのだ。その場合は麻倉が戸籍申請しなければならない。周到にも門間は、既に申請書類を一式揃えていた。
 麻倉は迷った。
 男の子だと聞かされたからだ。
 麻倉家の2人の娘は、もうとっくに嫁にやってしまっている。疲れたように息をひきとった女房の顔が、さっとよぎる。跡継ぎ問題は、最近の仲間内でもよく話題にのぼっていた。今の若者は、みな都会の大学へ行き、地元に戻ってくるのは10人に満たない。しかも漁師志望となると、数年に1人居れば良いほうであった。
 なにより、この孤独感。
 ラジオの音量をあげながらの晩酌。このまま独り終えるのだろうか、ふとそう思うことが度々あった。
 ――否。どうやって育てるのだ? 費用は? 世話は? 女房も娘もいない今、子供を育てるなど到底できる事ではない。
 感情を制するように、理性が訴えはじめた。
 若い頃は、年老いればもっとシンプルに物事を考えられるようになると思っていたが、こんな年齢になっても、迷いは変わらず多い。
 麻倉は、首を横にふった。門間はため息をつき、やっぱりそうですかとでも言いたげに、手を額にあてた。
「施設に送るよりは、誰か、家族になってあげられたら良いんですが……」
「あら、」
 突然声をあげたのは古川である。一拍置き、ニッコリと微笑んだ。
「じゃあ、私があの子の家族になろうかしら――…」
『……ザザッ…』
 無線機のノイズが、麻倉を現実にひきもどした。船室が大きく揺れ、快晴の海が輝きはじめる。朝焼けが始まった。
『こちらLH58632、双子岬燈台守Eです、どうぞ……ザッ…』
「麻倉だ、坊主。ちゃんと飯食ってるか? どうぞ」
『ザ……これ、通過連絡ですよね? いちいち……まぁいいですけど。どうぞ』
「で、飯はどうした? どうぞ」
『今日はフランスパンでした、どうぞ……ザッ』

■ 8 針路を右に変える灯台の少年(前編) ■

 月に誘われて外へ出た。少し風が強い夢。
 どこまでも白く、重い灯台の扉をキッチリと閉めきった。両手で。僕はもう、その手になにも持ってはいないのに。
 奥の枯れ草をかき分け、崖へと向かう。まるでそうすることを知っていたかのように、高らかにうたう木々。不協和音は、心をすこしだけ不安にさせる。けれど止まらずに歩けば必ず、凪いだ海に行き着くはずだった。
 視界の先が、ざあっと開けた瞬間。崖の上で立ちすくむ。体が、しびれたように動かなくなった。なんで、こんな。
 ゆらゆらと――、海面にゾンデがいくつも浮かんでいる。
 それは今まで僕が、何度も何度も波間から拾って古川の部屋に置いた、墓標たち。たしかにそれだと直ぐにわかった。それなら。しなければ。
 祈りを。
 いつものように、古川の部屋でそうしているように目を閉じ、ゆっくりヒザを折り曲げる。重力は僕をさかさまにして、頭から衝撃、しみる目。白い泡。海の中へと落ちていく。そうだ、ずっとこうしたかった。
 イチパアセントでいい。
 僕のことを、思っていてくれたなら。
 不思議と痛みはない。ただ、ゆらめく服を、しびれる体を、いたわるように抱きしめた。
 僕はどこまでも沈んでいく。
 僕はどこまでも沈んでいく。
 そのうちコツリと、何かに当たるだろう。それが朽ちた棺であることを、息を吐き出し肺に水を入れながらどうしようもなく予感する。
 苦しい。
 夢。
 わかりきっていたのに。

     ☆

 双海漁港に最近、不審な女性が出没するという話を、海洋研究分館の一階ロビーで白滝トヲルは聞いた。丁度、バイクの不調を理由に白昼ケイスケを呼び出した、春の午後のことであった。
「あらぁ派出所の……何か事件ですかぃ?」
 通りかかった事務の古株職員が、突然大声で二人に話しかけると、白昼は持ち前の爽やかな笑顔で軽く敬礼のポーズをとった。
「いえ、今日は非番です」
「あぁーあそうかい、そうかい、ハッハッハハハハ」
 職員が廊下の角を曲がるまで見届けた後、二人は顔を見合わせて肩をすくめた。
 玄関を出てすぐの駐車場に停めてあるのは、いつも灯台への配達に使っているバイクだ。白滝は興味がなさそうにオイルタンクへと棒を突っ込み、つまみあげた。白昼がヒザに手をあて、のぞきこむようにかがんだ。
「交換時だね。走行は?」
「2700」
「うん、やっぱり。そうだと思って新しいオイル買ってきたし、もうやっちゃおうか。ハイ。これ下に受けるやつ、置いて。ドレンボルト。そこ、ゆるめて」
「……で?」
「で?」
「不審な女性の話」
「あぁ……。ここだけの話、まぁ狭いところだから、ここだけっていってもスグに広まるだろうけど、」
 白昼はそこで言葉を区切り、姿勢を正して北西の空を見た。双子岬の方角だ。
「僕はね。Eくんの母親なんじゃないか……って、思ってるんだ」
 つまり、次の配達時に、それとなく灯台の少年に聞いてみてほしい、女性の素性を確認するのはこちらでやる、どのように聞くかは任せる、という事であった。話題はすぐに移る。
「もう一年になるね……」
 目を細め、空を見続ける白昼を見つめ、白滝は「あぁ……」とつぶやく。声は続かず、彼は排出され続けるオイルに視線を戻した。
 双子岬灯台、第三燈台守・古川あゐが死んでから、この春で一年が経とうとしていた。古川夫妻は協力して燈台守の役目を担ってきたが、漁港に置き去りにされた赤ん坊を引き取ってから数年後、古川の夫は死亡した。その時点で、当時の先進技術――第一灯台の自動点燈機械導入が決まり、第二灯台の役目は終わったのである。
 「燈台守」も名ばかりの存在になってしまったのは言うまでもない。
 しかし、特異な立地、波の条件、自動点燈はまだ実績がなく安定して運用できるか不明である事などを考慮し、古川は従来の燈台守としてではなく、緊急待機用員としての雇用継続が決まったのだった。
 夫の死とともに決まった、ひとつの灯台の終焉。最新鋭の自動化導入。数多のトラブル。そして、拾われたEという名の少年。これらは双海市の歴史的背景と合わせ体よくまとめられ、古川の死の翌月から隔週で新聞に掲載されていた。先月でようやく連載が終了したところである。
 当然、白滝にも取材のアポが来た。配達の仕事もそうだが、白滝トヲル・新田ショウ・白昼ケイスケの三人は、幼馴染の同級生であり、当時、こっそり灯台に遊びに行っては親に叱られるという事をくり返す相当な悪ガキでもあった。古川夫妻との交流話もいくつか記事になった。
 白昼はまだ空を眺めている。記憶をたどっているに違いない。白滝はオイルが落ちきったのを確認し、ドレンボルトを締めた。
 小雨が上がった翌週の金曜。
 白滝はすっかり調子の良くなったバイクでいつもの道を走っていた。ガードレールの切れ目に入る。砂利が途切れたところでバイクを停め、荷物をかつぎ、芽吹きはじめた木々の中、灯台へと歩いた。
 着くと、白い扉が少し開いているのが見えた。今日は珍しく中に居るらしい。いつもの通り、既に無線連絡はしてある。白滝は扉を叩きもせずに開け、そのまま中の階段を昇りきった。
「こんにちは、白滝さん。ありがとうございます」
 少年は、こちらもいつも通りの様子で白滝に緑茶を勧めてきた。が。目が合ったとたん、否応なしに白昼の声が再生された……トヲル。もし、さ。いきなり母親が現れたりしたら、Eくん、どうするのかな……。
 どのように切り出そうか迷っている白滝を横目に少年は、納品書の確認印欄に「E」と書いた。窓際まで歩き、机の上の日誌をパラパラとめくる。
 視線は落としたまま、ささやくように。
「さっき、無線が入りました。白昼さんからです」
 白滝は直感した。今、この涼やかな顔の裏には、幾多の感情が入り乱れている。そして少年は混沌から、一番持ってきたくなかったであろう感情を、そっと睫毛をふるわせ、覚悟を決めてついに取りだしたのだと。
「あさって。来客があるのですが、白滝さんに同席してほしいんです」
 私は――、初めて少年に頼られている。

■ 9 針路を右に変える灯台の少年(後編) ■

 日曜に灯台を訪れた婦人は、Eを見たとたんポーチバッグからハンカチを取り出した。後から入ってきた夫らしき男が、婦人の肩を抱く。
 私の隣に立っている、普段であればにこやかに挨拶するであろう少年も、自分と目鼻立ちがよく似た男を凝視したまま動けずにいる。最後に入ってきた白昼が、ようやく助け船を出した。
「Eくん、先に挨拶。さぁ、立ち話もなんですから、どうぞソファへ」
 ソファにはこの夫妻が。白昼は立ったまま、私と少年は用意していた小さな椅子に腰掛けた。
 珈琲を出し、落ち着いた婦人から話を聞くと、どうやら新聞の連載記事を、偶然目にしたらしい。モノクロの小さなEの写真で行動を決めたという。しかし、会いに行こうにも灯台の場所がわからず、漁港にたびたび現れ逡巡していたところを白昼が確保した次第だ。
 その日はただ、当たり障りのないお決まりの問いかけで終了した。
 お名前は? 元気? 病気は? ケガは? こんなに大きくなって。ご飯はちゃんと食べてる? お友達はいるのかしら? お仕事はどう? つらくない? あぁ、やっぱりお父さんに――、
「お父さんにそっくりね、」
 瞬間、私の隣に座っていた少年がビクリと体を強張らせた。さっきからヒザに乗せていた手はかたく握り締められていたが、いっそう強く、手の甲が、赤を通り越して青くなっている。
 私は白昼と目を合わせ、これ以上は無理だと訴えかけた。
 警官服の青年が、ふっと笑い「Eくん、」と声をかける。
「船からの通信は入ってない? 大丈夫?」
「あっ。……あの、失礼します。ちょっと上の無線室に行ってきます」
 おおかた、数十分間隔で無線通信を入れてくれと漁港の連中にでも頼んでおいたのだろう。Eの姿が見えなくなったと同時に私は立ち上がり、白昼と二人、夫妻を促して階段を降りた。
 森の入り口まで夫妻と白昼を見送り、引き返してもう一度階段を昇る。上に着くと少年は、さきほどまで自分が座っていた小さな椅子に腰掛け、曲げた片方のヒザに自分の頭をのせたまま放心していた。
 かわりに私がカップを片付ける。白磁のそれは、古川から仕事を受け継いだ少年が、報酬のコインではじめて求めた品だった。
「白滝さん…今日は……ありがとうございました。休日なのに……」
「いや、」
 私は何もしていない。ただ黙って隣に座っていただけだ。白昼のほうがよほどしたたかに事を運んでいる。もしこの場に新田がいたなら、また違う方法でもっと上手く事を運ぶだろう。
 古川先生なら……。
 私は思い出す。あの穏やかな声。シワが刻まれた温かい手。眼差し。小さな頃から、口の重さが悩みの種だった。古川先生なら、見越したように微笑み、きっとこう言うだろう。
 ただ言葉を喋るだけが伝える方法ではない。伝える方法には限りがあるが、ひとつきりではないのだ。と。
 翌週の早朝、白昼から連絡が入った。予想通りあの夫婦が「Eを養子として引き取りたい」と申し出ているらしい。血はどうか知らないが、戸籍上では正真正銘、古川の子供になっている。そのため「養子」という言葉を使ったのであろう。
 私はまた白昼に、Eの気持ちを聞きだしてくれと頼まれた。今日は古川の一周忌だ。できるわけがない。簡素に読経と献花のみ、参列は、白昼が仕事のため、私と漁業組合長・麻倉とEの三人だけで行われた。
 崖の上から花束を落とす。古川の骨壷が沈んでいるであろう場所だ。
 組合長と坊主が消え、私は切り出すことさえできずに少年の隣に立ち続けた。少し風が強い。寄せてくる海面の枝やガラクタに紛れ、白い箱が漂っている。ゾンデ。
 おそらくEも、同じものを見ているのだろう。波が大きくうねりゾンデの位置が変わると、少年の首もわずかに傾いた。
「白滝さん……」
「ん、」
「もう灯台に人が住む時代は、終わっているんですよね。もう……」
 それは、期限前に灯台を去りたいという意思表示なのだろうか……あの夫婦とともに暮らすという事なのだろうか? なにか、私は答えなければならない? 何を? 何を言葉にすればいいのだ? 私は……。
 口を開きかけたとたん。
 少年の体は一瞬ゆれ、ななめに飛んだ。
 目を見開く、スローモーションで、さかさまに、海に、落ちて、
「――E!!」
 ザン、という音が私の体をはじいた。走り出す。と、崖下に続く道を黒い影が横切る、あれはー…!
「ショウ!?」
 上着のまま新田が海に飛び込む。私は後を追い、崖下まで来ると上着を脱ぎ捨てた。新田が、漂う枝の間から顔を出す。一番近くのへりまで走り、かかげた黒い塊をひきはがすように持ち上げた。伏したEが激しく痙攣し、ガッと大量の水を吐き出した。苦しそうに咳き込み続ける。軽く叩きながら背中をさすると、新田が岸に上がってきた。手にしているのは、ゾンデ。息を吐き、白い箱を、新田は地面に叩きつけた。
「トヲル、どけ」
 少年の襟首をつかみ無理やり上半身を起こさせる。
 平手打ちを一発。裏になった手を握り、もう一発。
 無言で終えると新田は、ズブ濡れの上着を脱ぎ肩にかけ唾を吐いた。背を向けて歩き始める。私は新田を引きとめようと腰を浮かしたが、クッと、服に抵抗が加わった――Eが。ふるえながら私のワイシャツを掴んでいる。反対の手が這うようにのばし、掴んだのは。
 白い、レーウィンゾンデ。
「しら……っきさん…。ぼ、く……ずっとな…っ、なきたかっ……」
 独白は、嗚咽にかわる。
 声をはりあげ、子供のように泣きじゃくるEの姿は、赤ん坊の頃から知っている私でも初めて見るものであった。普段はおろか、古川の葬儀でさえ表情を変えなかった少年が。と、気がつく。崖の上に、木にもたれ座りこんでいる新田の背中と、そっとこちらを伺う白昼が見える。
 私たちは……、傍に居る。
 心の海底に、古川の思い出を息づかせながら。全員が。それだけで。何も言わずとも、支えになると。伝わると、信じて。
 ――数年後の昨日。双子岬灯台は完全自動点燈の無人灯台となり、管区海上保安部の管轄となった。
 第一灯台にはもう立ち入ることはできないが、私はひとつ、鍵を持っている。ゾンデの箱で空間が埋まりきった、小さな廃墟・第二灯台の鍵だ。18才になり少年とは呼べなくなった古川五十鈴が、この地を立ち去る際、私にくれた。
 ただ。私は、今までもこれからもあの白い箱には興味がないため、デスクの引き出しに仕舞ったまま、もう。使うことはないだろう。