■ フェリックス・カルパ ■





■ 1 そんな名前なんだケド……男の人 ■

 二学期初日。暑い。
 ボクは自転車をひきずり、やっとの思いで門の前にたどり着いた。木々のざわめきは生ぬるい風に追われ、冷たいハズの水道水は鉄の味がする。
 ボクは海有学園という私立校に通っている。音楽……特に洋楽が好きなボクは、ココの「芸能科」に入った。親には猛反対されたケド。
 で。
 今日はココに入ってから一年と一学期と一日目。いつのまにか時間が過ぎて、でもこの細い体ダケは変わらず、ボクは前輪&後輪がパンクした愛機「クラクロスA―Z」を見つめた。
 体力のないボクに、三十分も道を歩かせるのは困難だと、伯母さんが買ってくれた電動自転車。名前をつけたのは愛嬌。
 でも、これで七回目のパンク。
 はぁ……、学期初日からコレじゃぁ、先が思いやられるよ。
「シーヅカっ! おはよ」
 門の前でボクに手をふっているのは、ボクの親友……っていうか、悪友の土屋圭。彼は交通安全委員だ。
「ケイ、オハヨ。お前ってホントいいヤツ」
「はぁ?」
「コレ運ぶの手伝って。ボクもぉダメ……」
「そんなモン、一人でやれよ。んーそうだな、三千円くれたら手伝ってもイイぜ」
 圭は、そう言いながらクラクロスをひょいと持ち上げた。
 ……こいつ、夏休み一緒に通ったマッチョ教室の成果なのか、やけに力持ちになりやがって……。ボクなんか、未だに腕相撲で弟に勝てないのに。
「サンキュー…助かるよ」
 ボクは自分の非力さに呆れながら、圭に礼を言った。圭は爽やかな笑顔で応える。こんな調子じゃいつまで経っても千春さんに声すらかけられないよ。
 御影千春さん……ボクの、想い人。
 千春さんは、あの、そんな名前なんだケド……男の人。
 ボクは……。
 男の子。
「シヅカ。三鷹静」
 朝のHR。ボクの席は窓側の、後ろから三番目。
「ミタカ!」
「あッ……はい!」
 ボーっとしてた。夏休みボケかな? 担任の飯田力先生に呼ばれてたのにすっかり気がつかなかった。
 何だろう? 何も悪いコトしてないよね?
 急いで席を立つ、と。
「ミタカくん……あの……」
 隣の席の女の子が、下の方を指さしていた。下を見る。
「――あ、」
 ズボンのチャック開けっぱなしだった! ドッと笑い声が響く。
 ……うぅ……死にたい……ッ。
 あたふたとチャックを閉め、教壇に近づく。先生は無言でボクを睨んだ。筋肉ムキムキのカラダ。体育科に居てもおかしくない、威厳のある顔つき。ボクの憧れと畏怖を、足して二で割ったような人だ。
「ミタカ」
「あーハイ。何でしょう……」
 こうなったら、もぉ覚悟を決めるしかない。いや、ボクは何もしてないケド……ぐすん。
 と。
 ――ピラッ。
「え?」
 突然ボクの目の前に、一枚の紙が現れた。焦点を合わせないウチに、紙は先生の顔の隣に。
「ミタカ、おめでとう」
「は?」
「この前受けたオーディション、合格だとさ」
 一瞬、イミが分からなかった。
「ゴウカ…ク……、ゴ……え――ッ!」
 ウソでしょー?
 まさか、そんなまさか!
 ボクが声をあげると同時に、教室は大騒ぎ。
「シヅカーおめでとぉ!」
「絶対観に行くぜ! お前の晴れ姿!」
「シヅカちゃんなら受かるって思ってたわよー」
「ミタカぁ! 頑張れよ〜!」
 男女問わず、ボクを応援(?)してくれている……らしい。飯田先生も、珍しく笑っている。でも、ボクは。
 途方にくれ、突っ立っていた。
 思い出す。あれは一学期最後の日。原因はー…、圭だ。
 ボクと圭は、時々ふっと思いついたようにジャンケンをする。勝った方が、負けた方に命令できるという、ゲーム。
 その日は、一学期終業式というコトで午前授業。午後の陽気はウザッたく、ボクも圭も暇だ暇だと言いながら、人もまばらな廊下を歩いていた。
 ドコへ? ……食堂へ。
 あそこの食事は美味しくないけれど、ほぼ毎日通っていた。千春さん目当てなのは、圭には、内緒。千春さんは寮生だから、いつも食堂で同じメニューを頼んでいる。その名も「豪快ヒレカツ丼」。
 ボクは、千春さんを見てるダケ。チラっと。時々は、ぼんやりと。
 見てるダケ。ただ、ただ、見てるダケ……。
「ジャンケンしよう」
 圭が、言った。
「例の?」
 ボクが、応える。
 そうだ。確か、芸能科の職員室前。あそこの掲示板には、タレントやお笑い、俳優、その他各種オーディションのチラシが山ほど貼ってある。ひときわ目立つ黒のポスターの前で、ボクらは大声をだしたんだ。
「「ジャーンケーン……ポン!」」
 しばらく動きを止め、お互いの手を見る。
「勝った」
 と、圭。
「負けた」
 と、ボク。
 満足そうな圭はまず「命令は絶対ダカラな」と念をおして、チラシを
片っ端から覗いていった。

■ 2 あの日はたしか、仏滅だった ■

「おい。圭まさか、ボクにオーディション受けろなんて言わないよね?」
 ボクは音楽が好きだケド、なにもテレビに出るタレントまがいのミュージシャンになりたいワケじゃない。
「まさかぁ」
 圭は笑って、まだチラシを見ている。
 一通り見終わって「ふぅ」とため息をついた圭は、ボクに一枚のチラシを見せた。
「何コレ」
「イイから、読めよ」
「……劇団サルリ、オーディションのお知らせ。当劇団では、劇団誕生二十周年記念の特別公演「ダークヘヴン」の子役を募集しております。条件は、十五〜十八歳で細身、身長が160センチ以下の方。プロアマ男女問いません。ぜひご応募下さい。応募〆切八月十日……」
「応募、してみろよ」
「ちょ……! イヤだよ」
「命令は、絶対だぜ? お前がイヤでも、オレがお前の名前で応募してやる」
「そんなー…」
「絶対受かるよ、お前なら。それにこういうのって大抵、〆切から十日後にオーディションやるし。マッチョ教室はその後だから、大丈夫!」
「大丈夫って……」
 ボクは断れずに、チラシを圭から受け取った。
 特別講演……ってコトは、一回だけの公演ってコトかな? 一瞬でも興味をもったボクは、すぐさま後悔した。が、もう遅い。
「決まり! 絶対受けろよな」
 圭はそう言って、笑った。
 そうだ。
 思い出した。あの日はたしか、仏滅だった。
 ……自転車を直して家に帰る。ボクのカバンには入れたくもない合格通知が入っていた。
「ただいま」
「お帰りー」
 帰宅のため息と同時に、遥が天井から顔を出した。遥はボクの弟で、海有学園の中等部三年生。
 こいつは今、忍者ごっこにハマっている。
「ハルカ、いい加減下に降りて来いよ」
「やだ。楽しいもん」
 本当にボクの弟か、時々疑いたくなる。でも顔はソックリで、違うのは髪の分け方ぐらいだ。
 ボクは合格通知と一緒に入っていた紙を見た。
『来週の日曜日、駅前の文化ホールに来られたし――』
 行くしかない……よね……。
 あっという間に日曜日。天気は上々。ボクは、パーカーにGパン。白い文化ホールの中は、冷房が効きすぎて寒いくらいだった。
 ふ、と。
 自分の名前を呼ばれたような気がした。
 振り返る。誰も居ない。
 居るのは椅子に座っているオネェサンぐらいだ。と。そのオネェサンは立ち上がり、ボクをゆっくり見据えた。
「ミタカ、シヅカ君ね?」
「あ……ハイ」
 声はこの人だったのか。
 ん?
 でもやけに声が野太いようなー…。
「初めまして。私は沙瑠璃の演出を勤めてるマイっていうの。ヨロシク」
 舞さんはにっこりと笑ったが、ボクにはなぜか違和だらけのように感じられた。
「あの……」
「何?」
「もしかして、その、もしかして性別ってー……」
 言いかけたボクに、彼女(彼?)は挑戦的な瞳を向けた。
「アタシ、これが好きなの。悪い?」
「いいえ! 悪くないデス!」
「そう。なら良かった」
 舞さんは、ボクの前に立って歩き出した。この先は大ホールだ。歩きながら、彼……彼女は説明する。もう彼女で通そう。
「今回の特別公演っていうのは、劇団誕生二十周年を祝って行われるセレモニーの一環なの。「ダークヘヴン」の脚本は、コノハ先生が手がけていて、まぁ悲しいというか狂気というか、そんな感じの物語。君にやってもらうのは、人形の役。感情をもたないから、棒読みのできる素人が欲しかったのよ」
 ……そんな理由……確かに分かるケド。
「どうしてボクなんですか?」
 棒読みのできる人間なんて他にいくらでも居るし。
「君がイイの」
「へ?」
 舞さんはそれ以上なにも言わず、その疑問は残したまった。
 扉を開くと練習の真っ最中で、その熱気に圧倒されボクはクシャミをした。熱気で皆暑そうだケド、ボクは寒い……。
「みんな! チョット集まって!」
 手を叩くと、大声で熱演していた人々が舞さんの前に集まってきた。
「この子が例の人形役。シヅカ君、あいさつ」
「あ、あの! 不束者ですがヨロシクお願いします」
 ボクはお辞儀をしたアト、周りをぐるっと見渡しー…、あれ?
 見覚えのある、顔が。
 笑っている。
「よろしく」
 千春さんは、ボクに笑顔でそう言った。
 その日はずっと見学していた。台本を渡され、ストーリーを頭に叩き込み、何十人もの名前と役名を覚え、演技を見て、悲しくなって、千春さんの姿を探した。
 千春さんは「白石英臣」という主役級の男の役だった。
 人形に恋をする、愚かな男。
 その人形は、ボクなんだ。そう考えると急にドギマギしてきて、その後はずっと千春さんだけ見てた。
 ボクは、人形の役。中性的な、無表情な、動かない人形。
 ボクに、できるだろうか?
 不安は舞さんにも伝わり、でも、彼女は笑った。
「大丈夫。できるわ。私の目に狂いはないもの」
 愚かな男は、真夜中に動く。
 人形に、キスをする。

■ 3 あの人だったんだ、相手の役 ■

 朝に目が覚めたのは、きっと母さんの声がしたからで、ボクの部屋にはベッドがあるけれど、ベッドのない居間には、ベッドに変形するソファがある。
 母さんは父さんと二人で、愛し合ってる真っ最中。
 なるべく目を向けないようにして台所へ行くと、コンロにはお湯が。その隣にはカップラーメンが二個。
 ……まただ。ここ何日か、朝食はコレだ。ため息をつき、ボクはペリリとはがしたフィルムの中にお湯を注いだ。
「母さん、話があるんだケド……」
 反応ナシ。
「父さん、ちょっと聞いてよ……」
 反応ナシ。
 父さんも母さんも、どうして子供の前でそんなコトをするんだろう。ボクには理解できない。というか、したくない。
 あぁ、でも。どうしよう。舞さんに「保護者にはキチンと言っておくように」と言われたのに、言葉をかける隙が。ない。本当どうしよう?
「シヅぅ、ふあぁ…おはよ……」
 あくびをしながら遥が起きて来たのは、カップラーメンができあがった直後だった。



 結局何も言えずに、家を出た。
 ――学校に着くと、なんだかやけに視線を感じる。またズボンのチャック開けっ放し? と思ったけれど、チャックは閉まっている。不思議に思って教室に入ると、圭が手まねきした。
「シヅカ、おっはよー」
「おは……なぁ、圭。みんなさ、ボクのこと見てない? 気になってしょうがないよ」
 ボクがそう言うと、圭は誇らしげに笑った。
「あぁ、宣伝しといたカラね」
「はぁ?」
「だから、お前の大抜擢を、宣伝しといたって」
 ……圭…! お前って奴は……ッ!!
「そんなコト、しなくってイイよ」
「気にするなって」
 気になるよ!!
「いや、兄貴の計画だからさ。ホント、気にすんなって」
 計画? というか、気になるのは……。
「誰がなんの? え、兄貴?」
「そ。土屋武。お前の合格した劇団さ、俺の兄貴が今仕切ってっから」
「ウソ!」
「あぁ、そっちじゃ「舞」だもんな」
 圭は紙とペンを取り出し、書く。
 たけし……武……ブ……舞……まい。
「去年の夏にアメリカで性転換してきてサ、恥ずかしくて黙ってたケド、俺の兄貴なんだ」
 って言われても、ボクにはただ唖然とするしかできなかった。圭の兄……いや、姉貴?
「そうだったんだ」
「だから計画通りにいって本当良かった」
「その計画? って何のー…」
「頑張れよシヅカ!」
 ――バシッ!
 思いっきり背中を叩かれると、ボクはお返しに圭の髪をグジャグジャにしてやった。
 今日から公欠が増えるな、と飯田先生は言った。ボクは「そうですね」と答えた。
 練習……開始。
「シヅカ! もっと動きを緩やかに!」
「三秒数えてから動きなさい!」
「セリフは完璧に覚えてから言いなさい!」
「笑わない!」
「なるべく瞳は開いたまま!」
「そこはもっと感情出して!」
 ボクが何かをする度に、舞さんは叫ぶ。っていうか、棒読みじゃあなかったの? ドスのきいた声で言われると、反発よりも自分の躓きに悲しくなった。
 難しい。
 特に困ったのは、千春さんとダンスを踊るシーン。ダンスなんて踊ったことないし、しかも女性パートだし相手が千春さんだしで、赤面するわ転ぶわ、どうしようもなく挫けそう……。
 公演まで、あと三ヶ月。
 焦らずにって、言い聞かせても早く早くと足が動く。
「最近、どう?」
 一ヶ月もたった頃、音楽室で、圭がボクに聞いてきた。
 圭も音楽系の仕事に就きたいと言っていて、僕と同じ音楽の授業を選択した。音楽室にはドラムセットやパーカッションその他色々な機材が置いてあり、昼休みは好きに使っていい。
「全ッ然。ステップが上手く踏めなくて……はぁ」
 ボクはキーボードに手をすべらせた。机には不似合いの、大きい、最新の、ミキサー付きのやつ。
 ボクの指に感応して、鍵盤に光が灯る。音。音。音。適当に、思うままに弾いていると、圭がボクを見て言った。
「心なしか悲しいぞ」
「うん……チハルさんに迷惑かなって、思ってる」
 音。音。音。
「え、誰?」
「ダンスを踊る相手の人。ほら、いつも食堂に居るじゃん。豪ヒレばっか食べてる男の人。あの人だったんだ、相手の役。芸能科じゃないのに変だよね。でも…あの人ボクのすー……」
 ――しまった!
 ポン……。
 動揺とともに音が途切れた。
「ボク、の、」
 誤魔化さなきゃ……考えろ!
「ボクのステップに、いつもケチつけてくるんだ。もぉ本当、ダンスの相手代わってほしいよ」
「……ふうん」
 うまく誤魔化せたかな……。
 ボクは再び鍵盤を弾いた。
 今日の音は、僕の心にまで響いてこない。きっと、千春さんのコトを考えてるから……。

■ 4 シナモンの香りと ■

 本番まで二ヶ月を切った。いつもより早めに着いたボクは、一人で練習を始めた。文化ホールは相変わらず寒い。
 ボクは一人でダンスの練習を始めた。ふっと息をこめる。
 ワン・ツー・スリー・フォー・トントン・トトトン。ここで大きくターン……っと!
「からだが揺らいでる」
「え? あ……チハルさ……」
 まともに話したことなんてないのに、ボクの口からは「千春さん」という単語がスラッと出てきた。ヤダな……また顔赤くなってるカモ……。
 千春さんはさりげなく、ボクの手をとった。
「オレが支えてやるよ。回れ」
 ボクの意思とは無関係に、体だけ回る。今度は体勢が崩れなかった。
「……できた…」
 やった! と思って千春さんを見たけれど、千春さんは、ボクを見ていなかった。
「……アリガトウございます」
 ボクは少し悲しくなって、口だけ笑った。
 初めて逢ったときも、千春さんはボクを真っ直ぐに見ていなかった。どこか遠くを、一心に見つめていた。
 そう、春に。学校の廊下を歩いていた日のことだ。何の理由だったかは忘れたけれど、ボクは飯田先生を探していて、知らない棟へ迷いこんだんだ。うろうろしていると左側の階段から、なにやら変な音がする。気になって、あたりを見回して一段目に足をかけた。
 そのとき。
 カンッ!
「はい?」
 カンカンッ、カンッカンッ……!
 上から大量のコカ・コーラが、降ってきた。全部空き缶だったらしく、怪我はしなかった。けど足を動かすたびにガガ、カカカと鳴る缶の山。
 ボクは立ちすくみ、選択を迫られる。
 選択。金属のようなイヤな音を立てて、この場を立ち去るか? それとも、誰かが来るのを待つか? ため息の後にボクは後者を選び、案の定二階から誰かの足音が聞こえてきた。
 その人が、千春さん。
 端正な顔と、スラッとした背。こげ茶色の髪。この人……透明だ。
 訳のわからない感想を抱いたボクは、次の言葉で前言撤回する事になる。
「拾って」
「は?」
 ボクを見ずにゴミ袋を差し出した千春さんは、そのまましゃがんで缶を拾いだした。なんだ……このあつかましさは。透明どころじゃない。なんだか濁ってるぞ。
 と、思いつつ袋を受け取るボクはお人よし。
 一つ一つ、缶を拾っていく。
 もぉ飯田先生のことなんて忘れてしまっていた。目の前で缶を拾っている彼の、綺麗な顔とさっきの言葉。ボクの頭の中はそれで一杯だった。なぜだか、一杯だった。
 黙々と缶を拾うこと三十分あまり。やっと床が見えた廊下と、相反するゴミ袋。千春さんはゴミ袋を置いたまま、反対方向の廊下へ無言で歩き出し、ボクはかなりムッとして千春さんの後を追いかけた。
 だって「ありがとう」の一言も言わないで立ち去ろうとしてるんだよ? せめてその一言ぐらい、言ってもいいんじゃない?
 追いついたボクは、その抗議を言おうと口を開きかけた。
「あの! ちょっと……」
 彼が、振り向いた。
「――なに?」
 瞬間、ボクの心臓の音が。
「あ……えっと……」
 ドクン。
「せめてお礼ぐらい言ってほしい……と…思って……」
 音を立てて体に響いた。
「お礼、ね」
 彼は呆然と見上げているボクの唇に、何かを押し当てた。
「……ッん!」
 吐息が、漏れる。
 頭の中が真っ白で……何も考えられなくて、瞳が潤んでギュッと閉じて体が熱くて足が崩れそうででも動けなくて―……!
 気づくと、彼は消えていた。
 ボクの周りには、シナモンの香りと、さっきまで彼が居たコトを証明するゴミ袋しかなかった。
 それから知ったことといえば、千春さんが工業科のB組だということ。
 寮生活を送っているということ。
 昼飯はいつも食堂の「豪快ヒレカツ丼」だということ。
 そして、彼をどこかで見つけると、彼は、いつも遠くを見ていた。
 今。この瞬間も。
 何を見つめているのか、ワカラナイ。
 ボクがいくら千春さんを見ても、きっと彼は気づいていない。ソレが本当に気づいてないのか、ただ気づいていないフリをしているのかさえ、ボクにはワカラナイ。
 こうして近くにいるのに、すごく遠く感じる。
 ボクは……ただ見ているダケなの?
「あ……あの、チハルさん」
 何を話そうとしているんだ、ボクは。
 世間話? それとも?
「なに?」
 彼の瞳の中に、ちいさなボクが、居る。今だけ。ボクを見ている。
「……あの…」
 あぁ。やっぱり。
 ボクは、あなたが
「好きです」
 その薄いひとみが
「ずっと」
 漂うシナモンの香りが
「好きでした」
 透明な雰囲気が
「チハルさん」
 好きです
「好き……」
 涙が。こぼれた。
 ボクは、自分のなかの精一杯の想いをぶつけて、耐えられ、なくて。その場から逃げ出した。

■ 5 会ったらスグに冗談でしたって ■

 風邪をひいたのは、外が雨だったにもかかわらず傘もナシで走って帰ったからで、熱まで出して寝こんだボクに、インターホンの音は雑音以外の何者でもない。
 ピンポーン。
 一階の、ベッド型にしたソファに寝ているのに、玄関に出るのが酷く億劫だ。居留守つかっちゃえ。
 ピンポーン。
 ……ウザい。早く何処かに行っちゃえ。
 ピンポーン…ピンポーン……。
 あぁ、やっとおさまった。
 ピポピポピンポーン。
「わかったよ出ればイイんでしょ! 出れば」
 ボクはドカドカと玄関まで行き、ゆれるドアノブを思いっきり回した。
「どちらさま、」
「よ、シヅカ」
「ケイ!」
「これ、見舞い品」
 圭はそう言って、永谷園のお茶漬けを差し出した。見舞い…品?
「サンキュ」
 とりあえず受け取って、ボクは圭を家の中へ入れた。
「そういえばお前ん家って初めてなんだよな、あ、コレ学校のプリント」
 圭はそう言って入ると、玄関の活け花を見て「造花かよ」とツッコミを入れた。いや、そのツッコミ所がわかんない。
「今日は俺が飯作ってやるよ」
 ボクの持っていたお茶漬けを奪うと、圭は台所へ走った。
「お客にそんなコトー…」
「いいから、横になってろって」
 ……強引。
 ボクはソファに横になった。と。
「うわっ! すげぇ!」
 台所から圭の叫び声が。
「なに? 何かした」
 重い体をまた起こして圭の元へ行くと、圭は上をしきりに見ている。
「これ」
「どれ?」
 ……ただのポスターじゃん。
「沙瑠璃の銀幕デビュー作! 初回限定のポスターだよ!」
「え? そうなの?」
 今まで気にも止めてなかったケド、なんだかスゴいらしい。
「それにこっちも! 五周年記念に五十枚限定で配ったヤツ! お前の両親かな……スゲェ…こっちなんか出演者のサインまで入ってる」
「ケイの家にはないの?」
「あぁ。兄貴、勘当されたから……俺の持ってるヤツまで、ほとんど母ちゃんに燃やされちゃって」
「ふうん」
 こいつの家、結構格式あるもんな。
 ボクは一人で納得して、ソファに戻った。眠い。
「ボク寝るから、その辺の適当になんか食ったら帰ってもイイよ……」
「うん。お休みシヅカ」
「……やすみ……けぃ……」
 二階から、かすかな物音が聞こえた……ような気がした。遥が帰ってきたのかな……。
 瞼を閉じると、昨日のコトが……そうだ。千春さん。今度会ったら謝らなくちゃ。きっと…困っているだろうから。そうだよね。男の子に告白されたなんて、困るに決まってる。会ったらスグに冗談でしたって。謝ろう。笑顔で…謝ろう……嘘の、笑顔で……。
「……シヅカ…?」
 圭が話しかけたのは聞こえたケド、答えなかった。眠くて……。
「シヅカ、」
 ……え?
 軋んだ音が、聞こえた。圭の気配がスゴく近くに感じられて、でも瞼を開くチカラはなくて。
「俺……知ってるよ。お前がいつも、アイツ見てるの。知ってる。好きなんだろ。でも、俺は。叶わないなんて……言うなよ? 俺は……お前がー……」
 ――カタン。
 天井から、音。遥?
 あぁ今多分、圭と遥が見つめ合ってるだろうな……。
 ボクはそう思った後、夢の世界へ飛んでいった。
 そぉいえば、圭に遥のこと話したっけ? 近頃あいつってば二階から縄で作ったはしごで出入りして、自分の部屋から屋根裏とか一階と二階の隙間を使って忍者ごっこしてるってコトー……。



 千春さんに会わなくなった。正確には、すれ違い。
 意図的にボクを避けてるの? そう思うと泣きそうになるから、稽古に熱中した。もう二週間ぐらい、見ていない。
 練習後、気晴らしに公園へと足をのばすと、寒いせいか誰も居なかった。冬が、忍び寄る。
 今年も雪、降るのかなぁ。冬はキライだ。選択を迫られるから。
「はぁ……」
 ため息をつきながら、ぼんやりベンチに座っていると、老人が隣に座ろうとしていた。重そうなカバンだ。
「大丈夫ですか?」
 ボクは老人のカバンを持ってあげた。お年寄りは、大事にしなくちゃ。
「おぉ、ありがとう」
 老人は笑った。見たコトある。ドコでだっけ……。
「少年よ」
「はい?」
「男を好きになる、ということは、決して恥ずかしいことではないぞぅ」
 硬直。
 何を言っているんだこの人。いや、ボクを知っている? ボクも……知っているような気がする。老人は、また笑った。
「アメリカでは日常行為じゃ。キスも、ゲイも」
「……はぁ……」
 適当に相づちを打って、早々に立ち去ろう。
「おじいさん。ボクはこれで……」
「君はチハルが好きかね?」
「へ?」

■ 6 なんて格好してんだ ■

 冷たい風が、頬をなでる。
 この人は……。
「あッ!」
 思い出した! オーディションの時に審査員をやっていたおじいさんだ!
「お久しぶりです」
 ボクはお辞儀をして、まだ生暖かいベンチに再び腰を下ろした。
「チハルは別に、お前さんを嫌っているワケではないぞい……ただ、迷っているのじゃ」
「まよ……って?」
「左様」
 老人は、御影木葉。
 今回の脚本を手がけていて、千春さんのおじいちゃんだ。というコトを、ボクは事前に舞さんから聞いていた。孫を主役級にしたのは、木葉先生のご意向&千春さんの顔だとも、舞さんは言っていた。
「迷っているのはボクの方です」
 ボクは今の気持ちを、なぜだか木葉先生に喋っていた。
「チハルさんに悪いコトしたっていうか……だって、ボク男の子だし、ロクに話もしたコトのない人に好きだって言われても、困るでしょう? だから、ボク、チハルさんに謝ろうって思って……。でも、最近全然会わなくて、だから」
「だから?」
 木葉先生は身をのり出した。
「だから、ボクー…」
 言いかけたとき、遠くから、誰かの声が聞こえた。
「せんせーい!」
 どうやら老人の付き人か何かのようだ。ボクはそう予想した。
「やや? もう嗅ぎつけたか。しまった……、では先に失礼するよ」
 木葉先生は慌ただしく立ち上がると、ボクに笑いかけた。
「そういうコトは、本人に言うのが一番じゃ」
「はぁ……頑張ります…」
 老人は、来たのとは反対方向へ走り出した。付き人らしきひとは、ボクの前で一息つくと、また走り出す。元気だなぁ……。
 ポッ。
「あ、」
 細い。雨が、降り出した。そういえば、ボクの傘……学校に置きっぱなしだった。
 サァァァ……。
 この時期の時雨は、空気も冷たいし一層冷えて、突き刺すような痛みが感じられる。ボクだけだろうか? 多分……ボクだけだ…。
 少し濡れたケド、何とか走って大通りまで行き、ボクは本屋の前で雨宿りすることにした。
「……ふぅ」
 木葉先生、濡れなかったかな。ボクは暗い空を見上げてから、ふと、窓ガラスにうつった自分を見つけた。
 真っ白で濡れた肌。貼り付いた黒い髪。弱々しいタレ目。細い首。グッショリの服。これが、今のボク。
 なんて格好なんだろう
「なんて格好してんだ」
 千春さんが、立っていた。
「チハルさん……」
 サァァァ……。
 雨は、まだ止まない。
「なんて格好してんだ……って、言ったんだよ」
 千春さんはそう言うと、ボクにポケットティッシュを投げてよこした。
「あ……、ありがとうございます……」
 髪と顔を適当に拭くと、千春さん特有の、あのシナモンの香りが漂った。
 やさしい……。
 じぃん……と感動していたボクは、千春さんの言葉に唖然とする。
「脱げ」
「はい?」
 え、脱げって?!
「服、脱げよ。貸してやるから」
 千春さんは持っていた袋から、黒のトレーナーを取り出した。買ったばかりの証に、タグがつきっぱなしの。
 あぁ、脱げってそういうコトか……って、うわーっ! ボクってば一体何を想像してたんだッ! うぅ…穴があったら入りたい……。
 自分に幻滅しながらトレーナーを着ると、何だか変な違和感に襲われて、千春さんは気づいたようにボソリと言った。
「前後ろ、さかさま」
「〜ッ!」
 うわー! ドジばっかり……しかも、やっぱりダボダボ。つくづく、自分がチビだってわかる。あわてて袖を通しなおして一息つく。
 と。
「…お前は……」
「チハル……さん?」
 千春さんは、ボクを見ていた。
 苦しそうに、苦しそうに。まるで、ボクを見るといけないような、そんな罪を犯しているような、苦しそうな顔で。
 瞬間。
 ――迷っているのじゃ。
 木葉先生の言葉が、浮かんだ。迷っている? 何を?
「チハルさん」
 聞きたい。
「何を……迷っているんですか?」
 千春さんはギクリとして、それからまた、苦しそうな顔をした。口を、開きかけては、閉じる。
 何を言おうとしているの?
 何をそんなにまよっているの?
「……お前は、オレが……好きか?」
 しぼりだす様な、質問。ボクは、イエスと答えた。
「そうか……」
 サァァァ……。
 降り続く、雨。空気の五線譜に引く、滴の音符。この雨が止むとき、時雨は叙情曲の一節になる。
「オレが一昨年の夏休みに、アメリカにステイしたとき、親切にしてくれた男が一人、居た。名前は、フェリック」
「……はい」
 聞かなきゃ。
 直感的に、思った。

■ 7 こんなにも ■

「親切に色々教えてもらって、感謝していた。好きだった。でも、フェリックは、オレに対して「好き」以上の感情を持っていて……。オレは、初めは驚いて、でも、」
「……はい」
「オレが帰国する直前、今みたいな……雨の日に、あいつはオレの部屋に来たんだ。その日……」
 最後の言葉は聞こえなかったけれど、多分、わかる。
 雨は、止み始めていた。
「オレは、フェリックと……」
「じゃぁ」
 だったら……。
「どうしてボクにキスしたんですか……」
 雨は、止んだ。
「どうして…キス……したんですか…?」
 あの日。大量の缶と、日差し。廊下。ぜんぶ、ぜんぶ覚えてるのに。
 あぁ、と、千春さんはうめくように言った。
「したかったからさ……」
「フェリックさんと?」
「……そうだ」
 泣きそう。
 ボクは、無理に笑顔を作った。けれど
「チハルさんなんか……好きにならなきゃ良かった…ッ」
 声が、震える。
 叶わない。
 この恋は、叶わない。
 叶わない。
 叶わない、叶わない、叶わない。
 好きにならなきゃ良かったのにボクは、あなたが。
 こんなにも。

     ☆

 ダンスが上手く踊れるようになったのは、パーティーも兼ねた公演の一週間前。舞さんは「良かったーッ!」としきりにボクを褒めたケド、女の子のパートを覚えても、今後の役には立たない。絶対に。
 千春さんとは、あの雨の日以来「事務的な話」しかしなくなった。
 トレーナーは、洗って返した。
「今日からの稽古は、全部本番だと思って演じなさい! 失敗は許されないわよ!」
「「「はいッ!」」」
 皆、気合いが入ってる。
 ボクは衣装に着替えて、イスに座った。前半は、こうして座っているダケで良い。
 気を付けるのは、瞬き。なんてったって人形だから。
 他の人たちがボクの前を通り過ぎるとき、タイミング良くやらないと、人形じゃなくて、人間だってバレるからね。
 早く本番になって。
 ボクは願った。
 この公演が終われば、もぉ二度と千春さんに会わない。
 食堂にも行かない。
 ボクの願いが通じたのか、あっという間に本番。文化ホールには、知ってる人も知らない人も、溢れかえっていた。
「シヅカ」
 呼ばれて振り向くと、そこには圭と遥が立っていた。
 ん?
 なんだこの組み合わせ……。ボクの顔を見て、二人は笑った。
「計画の成功に、こいつが一役買ったんだ」
 と、圭。
「なかなか楽しかったよ」
 と、遥。
 事情が呑み込めないボクを見て、二人は更に笑った。
「こういうの見に来るのって、大抵さ、お堅い大人たちだろ? 兄貴が、若い世代にも演劇の面白さを教えてやろうゼ! ってコトで、宣伝活動に「高校生」のお前を選んだんだ。オーディションに来てたヤツら、皆年齢偽っててさ、お前だけだったんだって。本物の高校生」
 あぁ。
 舞さんの言っていた「君がイイの」って、そういうコトだったんだ。
 それで、素人のボクが。なるほど。圭は更に、遥を見て説明した。
「オレだけじゃ学園全体は無理だカラ、こいつに頼んだんだよ。中等部の方の宣伝活動。おかげでジャンジャン人が入ってきてるし、兄貴としてはウッハウハな感じじゃん?」
「……誰がウッハウハだって?」
「あ! 兄貴ーっテ!!」
 圭の後ろから、舞さんはチョップをかました。
「舞ちゃんとお呼び」
「……姉上」
「ヨロシイ」
 どういう基準だ?
 心の中でツッコミを入れたボクに、舞さんは険しい顔を向けた。
「ご両親が来てるわよ。ちゃんと、舞台に立つコト説明しなかったのね?」
「あ……っ」
 すっかり忘れてた!
「来て」
 舞さんは歩き出した。どうしよう……。
 スタッフ達に混じって、父さんと母さんはお茶を飲んでいた。のんきすぎる。ボクを見つけると、母さんは手を振り父さんは腕組みをした。
「許可無く、息子さんを舞台に出すこと、どうか……お許し願います」
 舞さんは、頭を下げた。
 一瞬の静寂。そしてまた、スタッフ達は動き始める。本番のために。
「三鷹の名を汚すようなことは、しないで頂きたい」
「ちゃんと演技できるか、不安だし……」
 父さん。母さん。
「本当に、申し訳ありません。でも! 舞台は必ず成功させます……! シヅカ君が居なければ、この舞台は中止です」
 舞さん。ボクは。
「父さん、母さん。ボク、一生懸命練習したんだ。ダンスだってできるようになったし、だいたい、そんな大した役じゃないし、ちゃんと演技するっていう、自信がもてる。それに、話そうと思っても、セッ……んん! なんか夢中で、話を聞かなかったのはそっちじゃないか! ボクは。この舞台に立ちたい!」

■ 8 ワタクシと踊ってくださいませんコト? ■

「……ぷっ、」
 母さんは大声で笑い出した。
「この子ったらいつの間に……こんな……あはッははは!」
 か、母さん?
「わかったわ、シヅカちゃん! 頑張って」
 母さんはボクに微笑み、それから、舞さんに向き直りお辞儀をした。
「こんな息子ですが、ヨロシクお願いします」
「……しかし早希…」
「せいぞぉちゃんったら、心配性なんだから。大丈夫よ。シヅカちゃんがそう言うなら、大丈夫。なんてったって私たちの息子なんですもの」
 母さんはそう言うと立ち上がり、クルッと綺麗に一回転した。
「んん……」
 父さんはまだ納得いかない様子。と。
「もしかして……あの三鷹早希さん……ですか?」
 舞さんが驚いた顔をしている。
「もちろん、その通り!」
 舞さんは何をそんなに驚いてるんだろう? 母さんは笑った。
「息子を……、ヨロシクね」
「は、はいッ!」
 舞さんはビシッと礼をした。母さんは笑って、父さんと楽屋を出た。
 メイクをしながら、ボクは舞さんに聞いてみた。
「母さんを知ってるんですか?」
 メイクさんは「喋らないで」と言って、ボクに口紅を塗り始めた。
「知ってるも何も、伝説よ」
 伝説?
「実は……」
「迷いは無くなったかぇ?」
 突然、楽屋に入ってきた木葉先生が、鏡ごしにボクを見て言った。舞さんとの話は謎のまま終わった。メイクさんが「喋ってイイよ」と手を動かす。ボクは言葉を選んだ。
「はい。無くなりました」
「ほう?」
「ボクは、まだチハルさんが好きです。でも、諦めます」
 木葉先生は少し考えて、言った。
「……フゥム…結論を出すには、ちと早すぎじゃ」
「え?」
 それってどういう……。ご老人の言葉を聞く前に、また「喋らないで」とメイクさんに言われた。
「あと何分か待てば、答えはおのずと出てくるじゃろうな」
 木葉先生はボクに背を向け、そう言いながら楽屋を去った。
 ……答え。
 千春さんはフェリックさんのコトが好き。それは今も続いている。
 千春さんはボクのコトが……キライ? わからない。木葉先生は嫌っていないと言った。けれど、本人から聞いたワケじゃない。
 ボクは千春さんのコトが好き。
 過去も、今も。でも、結論なんて求めない。コレで終わり。もぉ諦めよう……ね…?
 衣装を着て、舞台袖に行くと、圭と遥が待っていた。
「頑張れ」
 圭が、言った。
「でもそんなに頑張らなくてイイよ」
 遥が、笑った。
「うん」
 ボクは、正直、少し緊張していた。と。
「シヅカ、あのさ」
 圭?
「あの……俺…お前のこと……」
「ケイ?」
「っ好きだ!」
 ……圭、ゴメン。
 ボクは。
「うん。ボクも、好きだよ。友達として」
「……そっかー! うん。だよな! わかっ……た」
 圭は、顔をくしゃくしゃにして、泣きながら、笑った。
「兄ちゃん」
「なに?」
「薬指を、反対の手で握って、開いて、ってコトを何回かやれば緊張しないって……。とっておきの、ウラワザ」
 遥はニッと口の端をつりあげた。
「サンキュ、ふたりとも」
 ボクは最高の笑顔を二人に向けて、それからまだ緞帳があがっていないステージの中央へと走った。
「……なぁ」
「何だよ」
「なぁ……泣くなよ。たかが失恋だろ」
「泣いてねぇよ」
「あのトキ襲ってれば良かったのに、あんたキスする気なんか、無かっただろ。天井から見てて思ったんだケドさ」
「うるさい……」
「おれさ、けっこう好きだよ」
「え……?」
「そういうトコ」



 ――スポットライトが熱い。
 けれど、熱さに関係なく話は進み、人形へのキスは当たり前だけれどそういうフリで、物語も佳境―……ボクの動き出すシーンに入った。
 周囲が薄暗くなり、笑いながら椅子から立ち上がる。
「フ……ウフフ……アハハハハ! あのバカな男のおかげでようやくワタクシの願いが叶うー…!」
 ガタン!
「誰ッ?!」
「あ……貴方は人形じゃ……ぁ…? バカな……オレは…夢でも見ているのか?」
「アァ……愛しい人…。ワタクシと踊ってくださいませんコト?」
「貴方が…喋っている? ふ……はは、ハ、ハ。そうか……オレは…、オレはついに狂ったのか!」
 低く緩やかに音楽が流れはじめると、千春さんはボクの手を取った。
 深呼吸。練習を思い出せ。ボクは自分に言い聞かせる。

■ 9 それは諦めるコトじゃない ■

 マワル。
 ゆっくりと。
 舞台のはしからはしまで、ゆっくり。くるくると。音量も次第に大きくなる。回りながら舞台の中央まで。ここまではいい。問題はこのあとの、最後のステップ。
 もう、千春さんに支えてもらわなくてもできるハズだ。
 だって。
 諦めているから。
 ワン・ツー・スリー・フォー・トントン・トトトン、ターン!
 ――グラッ。
「ッ!」
 ヤバい! 崩れるー……!
 と。
 体が、浮いた。フウッと。
 え?
 なに? なに?? ボク、千春さんに抱きかかえられてる?
 お姫様のように抱きかかえられたまま一回転すると、千春さんはボクを降ろした。トン、と。足がつく。けれど。
 見つめたまま、千春さんは踊り続けようとしない。
 動けない。見つめられて、こんなの。
 台本にないー…。
「オレは。オレは貴方を愛している……狂ったってかまわない」
「……――ンぅ…」
 二回目のキスは。
 母さんと同じ化粧品の香りがして、同時に、首筋をなぞる指先にゾッと、ボクは白い吐息を漏らした。
「貴方とならイける……ドコまでも。たとえソコがドス黒い狂気の渦の底でも、快楽にゆれる紅い血の海の中だとしても、許されなくても、コワくない……愛してる……コワくない……狂っても……コワくない…貴方となら!」
 強い、チカラで、抱きしめられた。
「――あぁッ!!」
 張り裂けそうな痺れ。悦境。思わず大声で喘いだ。
 暗転。
 緞帳がおり、幕間を。伝える。

     ☆

 ボク的には十八禁もイイとこだったのだが、とりあえず公演は大成功をおさめた。あの後、劇団に入りたいって人が殺到したらしく、圭は笑いながら話していた。
「でさ、姉貴の大出世に親父も大喜びで、勘当取り消しってまではいかなかったんだケド、一緒に食事会もしてさぁ」
「へぇ……」
 外は、雪が降っている。
 もぉ、冬。
 いやだなぁ。早く自分の部屋にもストーブ欲しいよ。毎年選択するの疲れたもの。
 選択。
 寒い部屋で着替えるか? それとも、暖かいうえにウッフンアッハンな、熱気あふれる居間で着替えるか?
 ボクは毎年後者だ。
 遥は、今年から居間で着替えるようになった。なぜかはわからない。
「シヅカ、今日も行くのか?」
「え? あー…うん。まぁ」
「そっか」
 圭は笑った。
「あのセンセイ、絶対姉貴と同じ人種だよなぁ」
「あー…確かに」
 圭とはあれからも、良い友達だ。次にジャンケンするときには、必ずボクが勝ってみせる。
 そうこうしてザワついている教室の、奥の扉がガラガラと動いた。立っているのは
「あっ、今行きます!」
 千春さんだ。
 わざわざ迎えに来てくれるなんて……うわぁ…感激だよ。ダッフルコートと手袋、マフラーを急いで装着。わたわたしているボクに、圭が眉を寄せて質問した。
「……あのさぁ」
「なに?」
「アイツと未だに敬語なの?」
「……ゴメン。いや、なんか、ほら、年上だし、直らなくて」
「俺に謝るなよ」
「あ……ゴメン」
「………」
 雪は、ゆっくり空からこぼれてくる。
 ボクはここのところ毎日、千春さんと一緒に、途中まで帰っている。結局、千春さんがボクのコトをどぉ思っているのか未だに聞けないでいるし、ワカラナイ。
 一度は諦めようと思ったけれど、ボクは……。
 やっぱり、好きで。
 フェリックさんのコトを、未だに想って遠くを見る千春さんは透明で、そして同じ透明さで、時々、ほんとうに時々だけれど、ボクを見る。
 すごく、好き。
「あ、あのっ……、じゃぁ…また明日……チハルさん」
「あぁ。また明日」
 大通りの、あの時脱げと言われた例の本屋の陰で、チハルさんはボクの手袋を脱がせた。
 手の甲に、キス。
 シナモンの香り。千春さんはこの頃、クスリと笑うようになった。
 ボクは、もっと強くなりたい。
 見てるだけじゃない勇気、聞けるだけの声、不安にならないような心。自分の足でターンしたい。
 それは諦めるコトじゃない、同じ舞台に立ちたい。そして。だから。
 ――カララン。
「あのぅ、予約していたミタカですけど……」
「いらっしゃ〜い! 待ってたわよん、シヅカちゃん。今日はダンベル五キロからネ! 早速始めるわよ〜ん」
「はい!」
 ボクはまたマッチョ教室に通い始めたんだ。