■ 知恵者の指輪事件 ■
■ 1 猫と刑事の訪問 ■
さいきん、この部屋のベランダに黒い猫がやってくるようになった。三階の角部屋は、隣の家の屋根から飛んでくるのに丁度いいとみえる。
僕は特に猫が好きでもないけれど、昔アリスが飼っていたチェシャを思い出すので時々餌をやったり遊んでやったりした。黒猫は少し太っていて、首輪の先についている鈴が埋もれてグルゴロ鈍い音をたてる。
今日は天気がいい。
時計はもう三時を半分過ぎて、リビングのソファに寝転んだまま小説を第八章まで読み終わったところだった。
南向きだから本当に暖かいんだよなぁと空を眺めていると、ベランダに黒い塊がスルッと降りてきた。僕は本を置いて立ちあがり、アリスも一緒に降りてこないかどうか……しばらく観察した。
僕はこの春から、うさぎさんと一緒に暮らしはじめたところだった。
倉部からも三ノ宮からも自由の身になって一年、僕はずっとアパート、書店、アパート、書店、アパート、たまにコンビニ、という暮らしを続けていた。そんな生活をアリスが許してくれるはずもなく、うさぎさんに連れ出され、就職の前にとりあえず「家事手伝い」という仕事が与えられた。
実際の生活は、一人暮らしの時とあまり変わっていない。
掃除はルンバ、洗濯は全自動洗濯乾燥機、食器洗いは自動食洗機が全部やってくれて、さらにゴミ出しは毎朝うさぎさんが外出ついでに出してくれて、そのうえ帰ってきたら料理まで作ってくれるし。
けれど。………。
けれど、うさぎさんの料理を食べるたびに、何故だかいつも黒焦げのトーストを思い出す。
『――あ、あれ? いつもはもっと上手くー…やだ! これダイヤル6になってるわ! ごめんね森くん! 食べなくていいから――』
アリス、やめてよ。泣きそうになるんだ。
ねぇ、戻って来てよ。
アリス!!
……うさぎさんには言えない。絶対に言わない。
窓を開け、小皿に入れたキャットフードを与えた。カラカラと小皿を鳴らしながら食べているところを、いつものように手のひらで撫でる。長い毛だ。ふかふかしている。所々に白い毛が混じっているのは、きっと白髪なんだろう。撫でながら、ぼんやり想像する。この猫が何歳なのか……飼い主がどんな人なのか…普段はどんな家に住んでいるのか―…。
あっという間に小皿の餌がなくなった。飼い主じゃないから、意識して少ない量を与えているのだ。それくらいはわきまえないと。
猫がちいさく鳴いた。アゴの下に手を入れてゴロゴロしてやる。
――カッ、カッ。
「ん?」
指が数回、硬い何かに当たった。何だろう?
両手で、猫の顔を持ち上げるように首元をさらした。首輪の先に、円形の細いものがぶら下がっている……、指輪、だ。いつもぐもった音を出す鈴のかわりに、指輪がつけられている。そういえば今日は鈴が鳴っていなかったと思いつつ、僕は猫に声をかけた。
「よーしよしよし、ちょっと見せてー…いい子だから…」
指輪の外側は黒く汚れていた。内側のほうは綺麗な銀で、小さく文字が刻まれている。たぶん持ち主の名前かなにかだろう。
「ごめんね、ありがとう」
首元から手を放して猫の頭をなでた。
ふと、自分の指先が赤くなっている事に気がつく。中指と人差し指の、爪のすぐ下あたり。その赤を親指でこすってみる。少しの感触。親指にも赤が移った。
その、色。
過去の記憶。覚えがある感触。
まさか。
「ごめんねもう一回みせてくれる、」
バッと毛ごと持ち上げる。猫が鳴く。指輪についているのは血だ。猫が唸る。まだ乾いていない。……乾いていない??
猫を抱いてリビングへ入った。威嚇される前に強く指輪を触る。とたんに猫が腕から飛んで逃げた。指にはベッタリと血が。間違いない。
僕は時計を見て、今朝の会話を回想した。うさぎさんは確か、今日は早めに帰る、四時には、と、言っていたような気がする。
洗面所に行き手を洗いはじめると、チャイムが鳴った。うさぎさんが帰ってきたらしい。グッドタイミングと思いつつ勢いよくドアを開けた――が、立っていたのはうさぎさんではなかった。細身の男。紺のスーツに身を包み、髪は短く刈られ、長方形の黒ぶち眼鏡をかけている。
僕はドアを開けた姿勢のまま固まり、相手の男も固まった。
なぜなら僕は、いや、この男も――、一年ぶりの再会。
「クイン刑事……?」
「……『森くん』…か? 森―…、あっ、三ノ宮森くん! いや、今は何ていったっけな。あぁ、違う違う。その、君ぃ、ここに住んでるのか?」
「見てのとおり住んでいますけど、何か?」
「あぁー、そっかぁー、住んでるのかぁーあちゃー…」
刑事はわざとらしく額に手をあてて嘆いた。
その口ぶりから、僕に会うことが目的で来たとか、そういう事ではないらしいと悟った。ただ、久しぶりに会っても相変わらずの軽いノリで、僕はこの男を心底軽蔑していた事をかなり鮮明に思い出した。
九院刑事はスーツの内ポケットから警察手帳を取り出し開いて見せた。正面写真の下には「九院透汀」という名前や所属等が書かれている。畳んで内ポケットに仕舞いながら、九院刑事は口をひらいた。
「えー、ちょっとお聞きしますがぁー、この辺でネコ見なかった? 黒くてさぁー、毛むくじゃらのネコなんだけどこんなヤツ」
彼は内ポケットから、今度は猫の写真を取り出した。
ドキリ、心臓が跳ねる。
この猫、似てる……。というか、この猫、今、家の中にいる…。
「君ひとりで住んでるの? お友達とかに声かけてさぁ、見た人いたら教えてほしいんだよねぇー。ほら、あの、前にいたおっきな彼とかさぁ」
「宇佐美剣史郎の事ですか?」
「そう! そうそうそれそれぇー!」
九院刑事は指パッチンしてビシッと僕を指差した。
やっぱりこの男は嫌いだ。猫について訊くのすら嫌だし、猫が家の中に居るのも教えたくない。教えるにしても一度うさぎさんに言ってから匿名電話とかで教えたい。こいつにだけは嫌だ。二度と関わりたくない。
「わかりました。それでは……」
扉を閉めようとしたとき、廊下の向こうから誰かが歩いてくるのが見えた。膨らんだスーパーの袋を両手に提げた大男。あれは――。
九院刑事はいそいそと写真を仕舞い、両手で指パッチンをした。
「おおーっ! 宇佐美くんじゃないかぁー、丁度いいところにぃー!!」
うさぎさん、バッドタイミング。