■ 「六千世界のノートルダム」 ■

■ 1 ■

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 翻訳元……PG2800年代ファルレール第一口頭言語(メッラ語)
 中継機……メネシス(品番:6T−Φwo7.85)
 中継言語……伝頭間唯一共通架空言語(セプコスキー語)
 選択言語……AD2000年代ジャパン第一筆記言語(日本語)
 時間・距離・重さ等の単位は全てAD2000年代に使われているものに翻訳・数値変換されています。この時点で概念が存在しなかった単位・物質は、口頭音をカタカナ表記する事をここに注訳します。

     ☆

 静かに。
 誰も起こさぬように。
 そうっとおさえ、つける手に、冷えた銅の振動を感じて彼女は目を伏せた。冬。ノートルダム大聖堂の北鐘楼。夜明け前の、糸を張るようなつめたさが耳に、やはり。静かにそっと打つ。
 巨大な鐘たちは数千年前からある代物だ。外側にも内側にも緑青色の錆がボコボコと貼りつき、もはや鐘という原型は留めていない。たとえ掃除して鳴らしてもうまい音は出ないだろう。そう思いつつ彼女――ユライノーイは銅鐘をおさえ、雑巾を動かしはじめた。
 PG(新3パンゲア紀)2835年14月31日、ファルレールの北西部に位置する都市・セラは年の瀬を迎えていた。
 明日になれば2836回目の、新しい年が始まる。
 大聖堂に現存している鐘4つを拭き終えたユライノーイは、ザックリと崩れたファザードに立ち、廃頽した遺跡を見下ろした。
 とうの昔に干上がった河川の名残り、ヒビが入り朽ち果てたいくつかの巨大な石、その先には無人の廃墟群。覆いつくすツル草と奇形の木々が織りなす森。深い山。それらを過ぎると地平線の向こうに砂漠。そして、天までそびえる巨大なオベリスクが鎮座している――いつもの光景。
 大聖堂から眺めるぶんには、オベリスクはただの黒くて細い棒のようであったが、実際には直径50キロにもおよぶ円柱形の建造物だと、彼女は祖父から聞いていた。表面は全てドゥカトロボーンアヴィで覆われており、出入り口はおろか窓さえ無い。ただ、地上100メートルほどの高さから、円柱を支える柱が数十本ななめに突き出ていた痕跡があるのみ……。90年前、祖父ノードルトン率いるオベリスク調査隊があげた報告書を最後に、無益と判断され調査は打ち切られている。
 ぼんやり眺める彼女の、右側にある小高い山の頂がじわじわと金色に浸食されはじめた。しばらく待つと、まばゆいほどの光を放ちながら太陽が顔を出す。
 静まりかえった世界の果て。オベリスクの影が倒れるように陰影をつくる。光は乱反射し、急に音をたてて無数の鳥が飛び立った。遠い水場に向けて羽を広げる極彩色の群れが、ユライノーイの眼前をななめに横切った。彼女は手を額にかざし、目を細めた。
 人類の生活拠点は全て地下都市に移っており、ファルレールにはセラの他にもいくつかの地下都市がある。外を歩く者など滅多にいない。人々が地下に潜った理由は土壌と大気の放射能汚染だったが、ユライノーイは防護服もつけず、こうして毎日地上に登り、更に大聖堂の屋上まで登り、音も鳴らない鐘を拭いている。
 ――気にしなければいい。
 彼女はつぶやいた。
「――気にすんのは、お前みたいな奴だけだよなぁ、ニツカ」
 コッ。
 靴音を響かせて現れたのは、幼馴染のアマテニツカだ。
 膨れあがった分厚い防護服。白で統一されている中で、目にかかる頭部ガジェットだけは濃い茶色で構成されている。特殊ガラスに遮られ、表情は全くといっていいほど見えない。が、彼女の勘が正しければ――そして彼女の勘はいつでも正しい――静かな笑みをうかべているはすだ。
「お早うニツカ。エチルはどうしたんだ?」
 ユライノーイの吐息が白く、砂糖のように広がって消えた。
 と。
 防護服の右腕が持ち上がり、膨れあがったひとさし指がコツコツと頭部ガジェットを叩いた。「メネシスに切り替えろ」という合図であろう。
 ユライノーイは肩をすくめ、ゆっくりと耳に手を当てる。
 ブツン、脳に繋がるノイズ。メネシス伝頭回路を開くと、彼女の頭上に予想通り、アマテニツカの明るい声が響いた。
「お早うノーイ! ……あのさ、今さ、なんか口で言った?」
「――お前、バカじゃないのか?」
 防護服の肩がもこもこと持ちあがった。朝一番に罵られた気分を表現しているらしい。ユライノーイは構わず続ける。すでに口は動かしていない。脳から脳へ、メネシス回路を繋ぎ直接伝頭する。
「今年最後の日ぐらいキノコじゃなくて彼女と過ごしますぅ〜、愛しいエチルちゃんと一緒に新年迎えるんですぅ〜、っつったのはどこのどいつよ、あ?! 可愛い可愛い我が妹メイデレトーの誘いを断ってくれたのはさぁ〜…、ハッキリ言ってお前だよなぁ! モテモテ青年のアマテニツカ君」
 まくしたてた彼女に対しての彼の返答は、無言。しかし数秒後。防護服の頭部ガジェットがいきなり、がっくりと斜めにうなだれた。
「……ニツカ?」
 数秒。無言。
「もしかして……、え? エチル、は…ま、まさか。フラれたのか?? レイェルーカスの次にやっと付き合えたとか言ってたのに」
 更に数秒。
 やはり、無言。
 ユライノーイはブルンと肩をまわし、緑青がこびりついた雑巾を端に放り投げた。大股で歩き、屈んで鐘の下をくぐり抜けると、アマテニツカが立っている螺旋階段の前まで到着した。頭部ガジェットの特殊ガラスを、軽くコツンと叩く。
「元気出せよ、親友」
「……ノーイ…。メイデレトー、怒ってるかな」
「気にすんな。朝まだだろ? 食わせてやっから、その時言っちまえよ」
 螺旋階段を降り、年代物のエレベータで地下へと降り、洗浄作業後に地下通路へ。しばらく歩いて右に曲がり、彼女は自宅の扉を開けた。
「お帰り姉さん! あっ、お早うございますニツカさん!!」
 まず出迎えてくれたのはユライノーイの妹・メイデレトー。次に部屋から出てきたのはアントナーナのクローン・アナイートと、母親のフィスス。奥のカウチで横になっていたユライノーイの祖父・ノードルトンが起き上がり、ノートルダム大聖堂の管理を生業とする一族全員がアマテニツカを歓迎した。

■ 2 ■

 普段は地下都市セラのキノコプラントで寝泊まりしているアマテニツカが朝から来たとあって、メイデレトーは喜んだ。笑顔でアマテニツカをリビングに通し、張り切って朝食の手伝いを再開した。
 台所に立つ少女の後ろ姿を、アマテニツカはちらちらと眺める。
 その眺めているアマテニツカを、ユライノーイはあくびをしながら一瞥し、床に寝転んだ。メネシスに接続し、ゲームアプリを開く。
 スープを温めるメイデレトーが、小声で歌を口ずさんでいる。
「んっんー…、金のいとーをからませてー…、青いなみーだの少女がひとりー…、んーんんー…」
 朝食は、フィスス特製のコーンスープに柔らかい黒糖パン。みじん切りにして蒸したキノコとベーコンを、テルナンに乗せたものだった。
 ファルレールの住人は、口や歯、顎といった器官が退化している。柔らかい品や小さく刻んだものでなければ口を通らない。
 じわじわと進んでいた機能硬化を一気に推し進めたのは、メネシスという画期的な脳リンクシステムである。これにより、脳から脳へ直接会話する「伝頭」が生まれ、口を使う必要性は無に等しくなったのである。
 アマテニツカの普段の食事は完全栄養ゲルパウチだったが、彼は「あれは味気ない、こっちの方がよっぽどいい」と大量に食べ、結果、顎を痛めた。動かすことに慣れていないのである。
 既に朝食を食べ終えた祖父のノードルトンは、痛みに震えているアマテニツカを労うと、防護服を着はじめた。仕事の時間である。
 祖父の生業は、ノートルダム大聖堂内の美術品修復だ。壁面を彩る絵画や欠けた彫刻などは、彼の細やかな修復作業によりなんとか体裁を保っていた。現在は、ガレキュスタインの大地震で壊れた部分の修復が始まっている。だが、地上に出て鑑賞するような人間はもう居ない。完全趣味の惰性である。
 今はどこを修復しているのかとアマテニツカが尋ねると、大聖堂を隅々まで把握している趣味職人はこう言った。
「南周歩廊の内陣障壁彫刻じゃな。イエス・キリストが復活し、聖女たちの前に現れるのじゃ」
「へぇ……その人は、どこから復活したんですか? ナノカプセル?」
 ノードルトンは、しばらく考え指を顎髭にあてた。
「天国からじゃ」
 この地がまさか天国ではなかった。煉獄ですらない。ファルレールに住まう人々は、ここを地獄だと思って暮らしていた。放射能に汚染された過酷な環境。薄暗い地下に籠り、ひっそりと暮らし続け、たまに地上に出てみれば、そこにはそびえたつ巨大なオベリスクがある。ここは、地獄なのだ。あのオベリスクが貫く雲の上に、罪を許された清き人々は逃げた。あとに残されたのは、鬱屈し、統率力もなく、ただ地面の下で這いずりまわって生きる罰だけだ。
 唐突に、ユライノーイが立ちあがった。
「なぁニツカ。じい殿の仕事、見に行かないか?」
「? いいけど……、」
 立ちあがったアマテニツカの腕をつかみ、ユライノーイは囁いた。
「見せたいものがある。メイディーを誘ってからでもいい」
 口頭で放たれた息が、アマテニツカの耳をくすぐる。彼女に煽られ、年の瀬の誘いをどうにかこうにか伝えるとメイデレトーは笑った。心からの笑顔であった。
 その後に見たイエス・キリストの復活は、アマテニツカの心に何の感動ももたらさなかった。古い彫刻、それ以上でもそれ以下でもない。まだ、彼の心の中には、さきほどのメイデレトーの甘い笑顔が広がっている……痩せこけた男の復活など、ひとかけらも胸に入らなかった。
 一方のユライノーイは、目を輝かせて何度も彼の防護服を引っ張った。
「なぁ、いいよなこれ。こことかさぁ、なぁ、」
 メネシス回路伝頭は感情を伝えるものではないが、アマテニツカの脳にはハッキリと、ユライノーイの異常な熱気が伝わってきた。
 ――こいつはいつもそうだ。浮かされたように狂っている。今は昔ほど狂ってないけれど……、いや。
 アマテニツカはフォローしはじめる自分をブンブンと振り捨てた。
 いや。違う。
 今は。
 狂っていないように――、見せかけているだけだ。
 大聖堂の壮麗な壁画やファザードのステンドグラスをめぐった後、ユライノーイは彼を祈りの間へと誘った。十字架に、枯れた男が磔にされているがらんとした空間。
 祭壇の裏にまわった彼女は、石壁をずらして開けた。
 昔、まだ放射能など気にせず地上を走りまわって遊んだ頃、二人で作った秘密基地である。アマテニツカは懐かしくなり思わず微笑んだ。祭壇の中は空洞になっており、ちいさな子供たちは、そこにライトとお菓子を持ち込んで、よく食べたものだった。
「おい、防護服脱げよ。入れないだろ? 洗浄スプレーなら中にある」
 小さい頃はスルリと入れたその穴は、今では大人が這いずってギリギリ通れるかというサイズだ。ユライノーイが先に入る。彼女の尻が入りきった事を確認し、アマテニツカが続いた。
 中はそんなに大きな空間だったかなと曖昧な記憶をたどりつつ、アマテニツカが隙間を通った――、瞬間。彼はガタガタとずり落ちた。祭壇の中は、下り階段となって下へと続いていたのだ。
 十数段はあっただろうか。ようやく落下が止まると、アマテニツカは痛む全身を床から引きはがした。立ちあがる。立てる高さだ。上をみやると、暗闇の上にぽっかりと開いた四角い、光が。
「ニツカ、大丈夫か? あぁ、閉めないとだな。忘れてた……。ほらよ」
 ユライノーイが放り投げた洗浄スプレーは、彼の頭に当たった。手探りで持ち直し、全身にふりかける。
 彼女は軽く階段を上り、石の入り口を閉じた。
 直後のパチリという音と共に、狭い部屋の全景が照らされる。壁に飾られた布は、聖堂からの発掘品。刺繍入りクッションは母親のフィススが縫ったものだろう。床には散らばった機械部品に工具。ゼリー菓子と飲料パウチのパッケージ。積み重なった本が数十冊。椅子まである。
「……まだ秘密基地ごっこしてたのか、」
「ダミーだよ」
「ダミー?」
 アマテニツカの質問には答えず、ユライノーイは口頭で言った。
 声を一段、低く。
「こっからはメネシス回路、切れ。回路閉鎖じゃなくて主動作も」
 ユライノーイは壁にかけられていた布を数枚、退ける。現れたハンドルを引くと、部屋の奥側にある壁が静かに動いた。
 今度こそパックリ開いた真の闇の下に、梯子の先端がちらりとのぞく。ユライノーイが無言でスルスルと降りはじめた。アマテニツカは彼女の姿が見えなくなってからも数分躊躇していたが、観念し、ため息をついて梯子を降りはじめた。

■ 3 ■

 やや斜めに傾いている梯子はかなり長く、暗闇も手伝ってアマテニツカはもう何十分と下っているような気になっていった。カンカンと降りる動作も機械化してくる。空間や時間が歪んでいく感覚。ようやく地面に着いたときには緊張がほぐれ、アマテニツカは思わず床にへたりこんだ。ユライノーイの足の気配を感じつつ、青年は懇願する。
「……もうくだらないよな?」
「いや、」
 彼女は少し間をおいて
「近くで見たければもう一段くだっていい」
 ガチャリとドアを開けた。
 青い光が広がる。暗闇に目が慣れていたアマテニツカは、思わず目を瞑り顔をそらした。手をかざし、そろそろと見開く。ドアの向こうには小さな部屋が。ユライノーイが差し出した手を取り立ちあがると、二人は室内に入った。室温は異様に低く、彼女がドアを閉めた直後、ゴオオという機械音の後に冷えた風が室内をめぐり始める。
 部屋の床は中央が円形にくぼんでおり、中心部には、腰の高さまである棺が置かれていた。照明に照らされ、今は青みがかった反射光をふりまいている。ふらふらと棺に寄るユライノーイにならって、アマテニツカは一段降りた。棺の上部は透過材でできており、彼は真上から見下ろし――、そして、声をうしなった。
 少女が横たわっている。
 微動だにせず、ただ、そこに。
 アマテニツカはこの少女を最初、アントナーナだと思った。ユライノーイの二番目の妹であり、あの日、彼女に惨殺された少女……。だが、この瞳を閉じた少女は、セラの住人とは決定的に違っていた。
 名も知らない白い花に飾られた輪郭は、大聖堂の壁画と同じ、太古の人間の造形。鼻が高く、眼窩はややくぼみ、しっかりと凹凸のある骨格が見えた。なだらかな稜線を描く顎。金色の髪はゆるくウェーブし腰までのびている。腹の上で組まれた細い指。短い骨格。これも太古の人間の造形だ。ワンピースからのぞく素足は、包む花に劣らず白い。つま先までのラインを、透過材越しにユライノーイがそっと、指で、なぞる。
「私のイヴ……」
 恍惚の色を隠せない、吐息。
 アマテニツカの背筋はその声にぞくぞくと反応する。なんだ、これは、なんだ? 自問しても答えは出ず、彼は横に立つ幼馴染を見た。
 彼女は白い少女に視線を注いだまま、歌をうたい始める。
「……きんのいとー…をからませてー…」
 ファルレールに古くから伝わる子守唄だ。人によって細部は微妙に違うが、ユライノーイとアマテニツカが知っている歌の内容はこうである。
『金の糸をからませて/青い涙の少女がひとり/天の国から落とされて/イヴは上見て泣いている/歌えよ歌え終わりの歌を/この世が明日に沈む前に』
 二人は梯子を登り、ダミーの秘密基地へと戻った。
 埃を払っているユライノーイに、つかみかかるように青年は
「ノーイ! あの女の子は」
「ちょっと待て。……まだ主動作切ってるな?」
 コツコツと叩かれるこめかみ。アマテニツカは頷く。
 二人がつけている――本体を脳内に埋め込んでいる――メネシス6Tシリーズは、自分の意志で伝頭する相手を限定できるが、誰かに傍受される危険性もある。今は技術者が減っているため傍聴の危険性は限りなく低いが、切るに越したことはないとユライノーイは説明した。
「いち。彼女の名前はイヴとすること。に。イブの話のときはメネシスの主動作を切る。さん。イヴの存在は私以外の誰にも話さない。よん、」
「待ってノーイ。顎が痛い」
「よん。顎が痛くても口頭。全部守れるなら質問を受け付ける」
 アマテニツカは平たい鼻の先に指を二本つけ、シュッと手前に引いた。一対一の約束事を了承する時に使われる動作だ。
 まず彼は彼女に、あれをどうやって見つけたのかを訊ねた。
「ガレキュスタインの……っていうか私が起こした地震があっただろ。あの時に見つけた。地下基礎部の更に下から。見つけた時の話は要らないだろ? その時の経路は埋めて、祭壇の下にこういうのを作った。一旦「上」に出てからのアクセスが一番見つかりにくいからな」
 確かに、とアマテニツカは納得する。
 ファルレールの人々の大半は、地下で一生を過ごす。地下都市セラは、ファルレールでは最も古いとされる円形都市だ。上部と下部に特殊セラミックでできた円盤が取り付けられており、随所の柱がそれを支えている。円盤内には家々が立ち並び、数千年もの生活の末に、今では細かい石や砂による地面ができあがっていた。上部の円盤は地熱による自動発電を行っており、その電力は照明として使われている。
 地上へ出るのは困難だ。地下都市セラから他の地下都市へのパイプでは、上へは出られない。セラの円盤外縁から地上へ出るルートは、円盤修復作業のため四か所ほどあるが、現在はガレキュスタインの大地震の影響で全て土砂で埋められている。
 いま地上へ出られるルートを確保しているのは、ユライノーイの一族だけだろう。それ故に誰も気付いていない。とっくに放射線量は半減期を幾度も過ぎ、防護服なしでも出歩ける程に安全だという事実を。
「あの子は……生きてるのか?」
 アマテニツカの質問に、ユライノーイは虚をつかれたように目を丸くした。次に、口を歪め、クックッと笑い声を洩らす。
「お前はさぁ、ニツカ君。何年私を見てきたんだよ。わかるだろう? 私の行動くら、い。くっ、くらっ、は、ははっ、ははははは!!」
「生きてるのか……!」
 青年の驚愕は、狂気をまとった笑い声にかき消された。
 ひとしきり笑ったユライノーイは、痙攣したままグラグラと、ダミー部屋の椅子に腰かけた。ひとつ、大きな深呼吸をし、彼から視線をそらす。呟くようにささやいた。
「生きてる。蘇生させた。やったことなかったけど、正しい手順だったんだろうな……成功した。背中の皮膚は大半壊死してたけどナノカバーで修復したし、血管の中身も……グリセリンか? 不凍結液だったが古くてな。入れ替えるのに苦労したよ。まず骨髄の情報を取るところから始めないとだろ? 太古の人間を構成している血液は、私たちと違うハズだ。だが骨髄情報を取得してもサッパリ判らないときた。そしたらなんと、あの棺の奥から情報ディスクが出てきてさ。それももう、相当古いディスクなわけだよ! 化石もいいとこ。は? ディスク再生機? 作ったよ。私は天才だからな。それにしたってもう、何もかもが手探り状態。そういえばさ、髪の毛。綺麗だったろ? あれ、髪は本物だけど、カツラなんだ。後頭部の皮膚もダメになっててなぁ……壊死してて頭骨がー…。あ、ココは聞かなくていい所だ?」
「遠慮しとく」
 ユライノーイは肩をすくめ、しばらく意識を遠くに飛ばした。

■ 4 ■

 ぼんやりと、壁布の飾り刺繍を眺める。彼女の母親が気に入っている、三角形を連続させた赤い模様が波打つように刻まれていた。
「……もう、起きてもいい頃なんだ。脳細胞は奇跡的に、ほとんど結晶化していなかったから…頭骨にロボトミー痕が見えてな……。もしかしたらメネシスを埋められて…それなら電気信号さえあれば……。で、お前に頼みたいわけなんだよ」
 ようやくアマテニツカへと視線を戻す。彼の顔は強張っている。
「ノーイ……」
 しばしの無言。やがて、覚悟を決めた青年は強く、言った。
「ノーイの頭が「おかしい」のは、十分わかってた。つもりだった」
「ははっ、」
 嘲笑。
「私を責めるのはお前くらいだもんなぁ、ニツカ。……あぁ、私も顎が痛くなってきた」
 ユライノーイの人生は、あらかたが凶行で成り立っていた。
 まず5才。彼女は自身の二番目の妹・アントナーナと実の父親・エディーノークスを殺した。秩序は一応あるが法律は全く無いファルレールで、彼女は何者にも裁かれなかった。彼女は言葉巧みに周囲を納得させたのだ。殺した理由はこうである。
「アントナーナばっかり可愛がって、私とメイデレトーに愛情を注がないなんて、父親として間違ってる。平等に注がれない愛なんて、無いほうがマシ! アントナーナを殺してみたけれど、愛どころか体罰をくれたクズの父親なんて、やっぱり居ないほうがマシだわっ!」
 次に6才。彼女は医療の分野で才能を開花させ、ほぼ独学でアントナーナのクローンを作成した。理由はこうである。
「アンがいないと、やっぱりつまんないや」
 7才。地下都市セラ内で飼われていた改良品種の羊を惨殺する。
「私が作った人工毛糸を誰も買ってくれないわ。羊の毛よりはるかに製作工程が楽で染色にも優れているのに、どうして? 羊が可愛いから? いいえ、従来という鎖に縛られているからよ。じゃあ解き放ってあげないと。進化は、破壊から生まれるんだから!」
 そして8才から12才まで、彼女は知識を求めて元老院に入り――クローン技術が認められたのだ――ほとんど全ての分野知識を吸収した。この4年間は大した事件もなく都市は平穏だったが、学問というユライノーイの遊び相手は、またしても彼女を退屈させた。
 学び終えたのだ。
 13才。都市の中枢でバイオテロを起こす。セラの人口は半減。元老院の技術者は数人を残して死亡。これにも一応理由がある。アマテニツカが彼女を殴ったあと、その頬をおさえてこう言ったのだ。
「……世界なんて何度滅んでもいいんだ。昔からそうだったんだよ今度も一回無くしちゃお? それで、そこで……私をイヴにしてよニツカ。ここはもうダメだ、進化できない。一緒にやり直そ? ……好き…」
 14才。フラれた腹いせに奇妙な装置を作り、ガレキュスタインの大地震を起こす。被害は甚大。地下都市セラの内部は言うに及ばず、遠く南の地下都市は断層が上がって押しつぶされ、東の地下都市は上部基盤が崩れ、それぞれ消滅した。
 直後。
 15才の誕生日を迎えた辺りから、彼女の凶行はなりをひそめる。
 ファルレールで地震の被害に遭った人々の治療を始め、地下都市セラの復興にひた走った。医療の技術者もほとんどが亡くなっていたため(地震ではなくバイオテロのせいだ)ユライノーイはひっぱりだこ。
 16才から現在に至るまで、彼女は設立した自身の病院で、毎日患者と向き合っている。
 しかし。狂気が落ち着いたと思っていたのは、周囲の人間だけだったのだ。3年間、治療業務のかたわら彼女は、セラの地下深くに冷凍保存されていた太古の少女・イヴの蘇生に心血を注いでいたのである。
 こんな年の瀬になんて事を告白してくれたんだとアマテニツカはユライノーイを罵った。しかし返ってきたのは楽しそうな笑い声だけであった。いったん冷静になるためキノコプラントに戻ったアマテニツカは、夕方まで頭を悩ませ続けた。が、結論は出ない。
 仕方がないので着替えてメイデレトーと待ち合わせ、外食を楽しんだ。地下都市セラの歓楽街は、新年を迎える節目の日という事でいつになく賑わっている。人でごったがえす街の中を二人で歩いていると、突然。アマテニツカの行く手を阻むように美女が現れた。
「あら、ニツカじゃない」
「エチル……」
 限りなく球形に近い顔、スラリと長く伸びた手足、白磁というより銀に近い素肌。セラには、エチル以上に美しい女性など存在しない。
「今年はお世話になったわね。アラッ、新年も迎えないうちから、もう次の彼女? ――あッ、ごめんなさい。妹さんだったかしら?」
 アマテニツカの隣に立つメイデレトーの顔が、カッと赤くなった。
「妹って……いや、確かにノーイの妹だけどー…」
「ノーイってあの気違い女の――、っ! ごめんなさい。言い間違えたわ。あの天才ユライノーイの妹さんなのね。聞いたコトあるわ。クローンの妹を造ったって。でも普通の人と同じに見えるわ、すごいのね彼女」
 反撃しようと口を開きかけたアマテニツカだったが、引っ張られる袖。斜め下を見ると、メイデレトーは俯いたまま、首を小さく左右に振った。
「……そうだね、すごいよね。エチル、僕らちょっと急いでるから、失礼するね。あとで君のお父さんの所に顔を出すからよろしく、じゃ!」
「え、ちょっと! ニツカ! 待ってってば……!」
 遠ざかる声を聞きながら、アマテニツカはため息をついた。
 エチルの父親はメネシスの修理技師であり、パイプとしては大切だが、彼女の言葉を聞くたびに、傷ついてばかりの自分がいる……。
 一ヵ月後。
 それぞれの仕事を終えたアマテニツカとユライノーイは、再び青白い棺の前に立っていた。室温は今や20℃近くまで上げられており、少女の頬はピンク色に染まっている。ユライノーイが苦心して製造した血液が、少女の肌を静かにめぐっているのだ。
 ユライノーイに頼まれてアマテニツカが手に入れたのは、現存している最古のメネシスであった。古いメネシスは、脳に埋め込まれた内部部品と外部アクセス端末により構成されており、メネシスの起動終了は外部からの電波信号により決められている。ユライノーイは、アマテニツカの持ってきた外部アクセス部品から起動信号を解読し、現存していない――これよりもっと古い――メネシスの起動信号も、同じであるか、もっと単純であると仮定した。少女を起こすためだけに作成した、数種類の起動信号を発する機械を持ち込んでの挑戦である。
 最古のメネシス起動信号を与えるが、反応ナシ。更に数十回、単純化・複雑化した信号を与えてみるも、反応ナシ。
「不凍結液が脳内部のメネシスにまで侵入したのか、あるいはー…」
 ユライノーイが仮説を組みたてようとした、その時。

■ 5 ■

 少女のまぶたが、ピクリと動いた。
 二人は息をのむ。
 徐々に見開かれるブルーの眼球。ノートルダム大聖堂に掲げられた、ステンドグラスの欠片のような美しい瞳――。幾度かまばたきを繰り返した少女の視線が、天井からユライノ―に移った。
 興奮を無理やり抑えつけ、彼女は泣きそうな笑顔を少女に、向ける。
「お早う……、私のイブ」
 見れば見るほど海の色だ、と、ユライノーイは思った。
 祖父ノードルトンが、普段寝室に置いて誰にも見せない写真アルバム。幼い頃に一度だけ見せてもらった記憶。一枚だけ写っていた鮮やかな青。メッラ語で「海」と呟いた祖父。見つめ続ける横顔……。それらが、続けざまに脳裏を横切った。
 イヴの眼球の修復も当然ユライノーイひとりで行った。だが、科学的興味で頭が一杯だった時と、こうして何もせずにじっと見つめる時、または、神経が繋がっているだけで機能していなかった眼球と、こうして血が通い体液で潤された眼球とでは、明らかに違う。
 美しさ、とは。
 エチルのような球体顔がもてはやされる時代と逆行し、ノートルダム大聖堂に描かれた太古の人間の体格に慣れ親しみ、その延長線上で今、この少女を美しいと思う「自分」とは? 太古という浪漫。快楽対象の移行。深い青。大聖堂から見渡す森と似ている……。
 そのような事をユライノーイが考えている横で、アマテニツカが、ボソリと言った。
「どう、する? 話す?」
「……どうやって…」
 ユライノーイはイブを見つめたまま質問を返した。少女は静かに瞼を閉じ、少し肩を動かした。そのまま数十秒が経過し、ユライノーイはようやく、アマテニツカの云わんとしている事が分かった。
「あぁ、もしかして、セプコスキー語翻訳を転送すればこの子と喋れるってこと?」
「――それだけじゃないよ!」
 アマテニツカは叫んだ。
「夢みたいだ。すごい、この子は、パラダイムシフトの生き証人だ! セラの生い立ちも、あの黒い塔の行先も、全部きっと、全部知ってる!!」
 少女が突然、ビクッと目を開けた。眉はひそめられ、視線が左右に揺れ動く。数秒そのままで、イヴは再度目を閉じた。
 しばらく考え込んでいたユライノーイが、小さな口を開く。
「メモリが足りないんじゃないか? 確かメネシス2W以前は……ほら、一体型だったろ。増設が無理で、その前だからー…よっぽど足りないと思うな。そもそもセプコスキー語そのものの処理が膨大化している。簡単な単語に絞って、初期バージョンに近くすればあるいは……って、言語関連は専門外なんだけど、私にやらせるつもりなのか?」
「えっと、じゃあ、メネシスの標準機能を削除するっていうのは? 6Tシリーズでも「高速計算機能」と「地図・地名表示機能」は最初からついてたし、それを削除すれば……」
「いや、無理だな。古いメネシスは削除とか出し入れっていう概念がないワケだしー…、ちょっと待て」
 ユライノーイはイヴから目を離し、最後に発した起動信号音を確認した。周波数は最古のメネシスよりも短く、信号音は2種類に区切られている。だが、これだけではイヴに埋め込まれているメネシスがどういうタイプなのか判断がつかなかった。
 アマテニツカは引き下がらない。
「ノーイ、じゃあさ、この子の基本言語をこっちが解読して理解してみるとかは? 言葉がダメなら絵を描かせるとかは? あ、もしかしたら棺の情報ディスクにメネシスの情報もあるかも……」
「まてまて、待てってニツカ。それ以前の問題が山積みだ」
 立ち上がったユライノーイはイブを見下ろした。アマテニツカもそれにならって立ち上がる。少女は動かず、まぶたの下の眼球だけが活動している。夢を見ている合図。
「もう行こう。長く居ると危険だ」

     ☆

 数日後、ユライノーイは病院の受診時間を変更した。受付と終了が、それぞれ1時間ほど早くなる。報酬を変えずに勤務時間だけを短縮するこの案は、病院の使用人たちに歓迎された。建前としてユライノーイが用意していた理由は、誰にも訊かれる事なくその役目を終えた。
 一方のアマテニツカはキノコプラントへと戻り、育成管理にあけくれた。エチルが他の男と付き合い始めたという噂を耳にしたためだ。
 激しく燃え盛るようなエチルとの蜜月は、ただのまぐれだったと言い聞かせた。思い出は美化されるものだ、会えば毒のある言葉にうんざりし続けるだろう……とは思うものの、やっぱり相当凹んだ。
 年末のあれから、メイデレトーと会うのにも気まずさを感じており、結局、アマテニツカがユライノーイの家へ行ったのは、イヴの目覚めから二週間も過ぎた、二月末の夜であった。
 しかし、玄関先に出てきたノーイの母親フィススは「まだ帰ってきていない」とアマテニツカに告げ扉を閉めた。病院の勤務時間はとうに終了しているため、彼女が帰っていないとすると行く場所はあそこしかない――そう考えたアマテニツカは、単独で地上に昇ることに決めた。
 外縁用通路を歩き、なんでもなさそうな所で左に曲がる。古いドアのノブを握り、凹凸の数か所を指で的確に押さえる。中は物置き部屋だ。だが、床のちいさなくぼみを開けてボタンを押すと、壁が大きく開いた。エレベータだ。アマテニツカが乗り込むと、すぐに扉が閉まる。上昇しはじめてから五分後、チーンという音が鳴り扉が開いた。
 いつものアマテニツカなら、エレベータが到着するまでに防護服に着替えるのだが、今夜はそのままイヴの部屋へと行くつもりだった。あまりに平気な顔をして地上を歩きまわるユライノーイに感化されてきている自分を思い、彼は苦く笑った。
 冷たい外気がアマテニツカの頬を通り過ぎる。思わず身震いし、立ちあがり、駆けだす。秘密基地までの通路は、修復された古代の飾りに彩られている。
 月の光が、青く絵画を照らす。
 息が、白く。
 走る。体が熱を持っている。
 秘密基地に入りこみ洗浄スプレーをふりかけるとアマテニツカはすぐにハシゴを下った。二段飛ばしで。どうしようもなく、早く。早く。息も整わずに部屋へと駆けこむと、室内にいた二つの影がパッと動いた。
「……ニツカ?!」
 口を開いたのはユライノーイ。その横の、棺だった台に腰かけている金髪の少女が、口に両手をあてアマテニツカを見つめた。

■ 6 ■

「どうしたんだよニツカ、何かあったのか?」
「い……っ、いや、…な、……ちょっ、と待って……、っ」
 深呼吸するアマテニツカの耳に、
「――アクセッヅ、ヴォジーダ?」
「アナタ、大丈夫、?」
 二種類の声がとびこんできた。
 そのどちらもユライノーイのものではない。
 困惑しつつ顔を向けたアマテニツカの耳に、今度はユライノーイの弾丸トークが届いた。
「イヴの名前はマリーンだそうだ。この子は頭がいいよ。私に敵意がない事をすぐにわかってくれたんだ。とはいっても、言語は意味不明でどうにか名前だけは指差して教えてくれたんだけど。あ、検査はね、完了したよ。お前ほんと惜しいことしたな! そんなんだからアマテニツカはニツカ君って言われちまうんだよ。私は天才だからな、この通り起き上がれる位には体力をつけさせたんだ。病院でやって良かったよリハビリ系。それでな? ちょっと聞いてくれよ。あー…、マリーン? あなた、マリーン。私、ユライノーイ。あっち、アマテニツカ」
 ユライノーイがアマテニツカを指差すと、ブルーの瞳が弧を描いた。
「イリハアマテニツカオラヘーアマン」
「アナタ、名前、アマテニツカ、コンニチハ」
 今度もアマテニツカの耳に二種類の声が届く。
 整った息で分析する。片方は意味が読み解けない、震えている女性の声。もう片方はカタコトだが理解できる人工音声。まるで、片方の声を片方の声が翻訳してこちらに届けているようなー…。
「――ああ!?!」
 アマテニツカは大声をあげた。
 すぐにメネシス回路を確認する。急ぎすぎて主電源を切ることを忘れているどころか、回路が開きっぱなしのうえに周囲の伝頭をセプコスキー語に自動翻訳しお届けする「伝頭フリー」の状態。
 つまり。
 アマテニツカの予想が正しければ。
 この二種類の声は少女の口頭音声と、少女の伝頭音声――!
 彼はおそるおそる、少女に伝頭を試みた。
 なるべく簡潔に、簡単に。
「僕は、アマテニツカ。僕の言葉、わかりますか?」
「……ハイ。アリガトウ、アマテニツカ。私、驚キ、嬉シイ、!」
 少女の目から大粒の涙がこぼれた。
 突如嗚咽し始めるマリーンに、ユライノーイは驚き、アマテニツカを見る。そのアマテニツカはというと足の震えがとまらずに尻餅をついた。
「ノーイ……」
「何、」
「怒らないできいて」
「何だよ」
「メネシスの主電源入れっぱなしだった」
「よし、殴る」
「いや、ちょっ待っ、痛ッ!!!」
 5回ほど殴られた後、アマテニツカは伝頭で会話できたことをユライノーイに伝えた。だがユライノーイのメネシスをつけて伝頭フリーにしても、少女との会話は実現できなかった。
 なぜ同じメネシス6Tシリーズであるのに、アマテニツカだけが翻訳・会話できるのか? 二人は議論を交わしたが分からなかった。結局、傍受される危険は少ないと判断し、アマテニツカのメネシスでマリーンとの会話を試みる事に決めた。
「じゃあ、まずこう伝えてくれ。私のエゴで貴女を目覚めさせた事については謝らない。だが、私の目的が達成された暁には、貴女を再び眠らせる事を約束する。冷凍か、死か、どちらで眠ってもらっても構わない」
「目的って何?」
「世界の破滅」
「まだそんな事を……ノーイ、」
「黙れ。いいから伝えろ。ニツカ、彼女の表情を見るんだ」
 少女マリーンは、アマテニツカの言葉が終わってもしばらく目を閉じていた。すこしとがらせた下唇を歯で甘噛みしており、ファルレールの住人には決して真似できない独特の表情をつくりだしていた。
「――ノーイ、返事がきた」
「何て?」
「えっと、私は世界を終わらせない、私は世界を始めるために起きた。私はジェフ・カルバーソンに会わなければならない」
「誰だって?」
「ジェフ・カルバーソン」
 ユライノーイは怪訝な顔で指をあごにあてた。
「何で名前区切ってるんだ?」
「待って。…………、…………、僕らが呼び合っているような名前の部分はジェフ…ジェフリー? で、カルバーソンは……家? の、名前?」
「ふぅん……」
 ユライノーイは顎に手をおいて上を向き、視線を泳がせた。
「おそらく、今より人口が多い頃は二種類の名前を繋げることによって人の区別をしていたんだろう。私はイエス・キリストは特別な伝説だから区切っているんだと思ってたんだがー…、まぁ、その辺はじい殿に聞いたら……、遅そうだな」
 ユライノーイの予想通り、ジェフ・カルバーソンを見つける事は容易ではなかった。
 地下都市セラの中では名字制度は崩壊しており、ユライノーイは「ノードルトンの孫」や「フィススの長子」などと言うだけで通じる。
 祖父・ノードルトンに聞くと「我々の名字はセラだ」と言った。
 そこからユライノーイは歴史音声データを百年ごとにさかのぼり、四百年前の資料から、まだ他の地下都市と活発に交流があった頃。地下都市の名を冠して○○○・セラと名乗っていたらしい記録を見つけた。
 しかし、地下都市一覧には「カルバーソン」という都市名はなく、その子孫が仮に生き残っていても名字という習慣からは例外なく外れており、捜すことはできないという結果に至った。
 それ以前――六百年より前の資料はメッラ語ではなく別な口頭言語で記されており、ユライノーイには解読できなかった。古代語を得意とする元老院の人間は、彼女が既に殺している。
 そこでユライノーイは別方向からのアプローチをしてみることにした。
 セラは近隣の地下都市の中でも一番歴史が古いという事、マリーンがセラの地下基礎内部で延々と眠っていた事も考え合わせれば、ジェフ・カルバーソンの子孫は「セラで生活している誰か」という線は濃厚だ。名字から探るのではなく、ユライノーイの一族以上に血縁を遡れる一族なら、何かしらの関係性はあるのではないかと考えたのだ。
 こうして一か月が経ち、四月になった。

■ 7 ■

「――ありがとうございました」
 ユライノーイの情報力で探し出した「セラ内で古い家系を持つ家」も、これで大分調べつくしだ。彼女は調査した家の玄関先に立ったまま、はぁとため息をついた。
 最近ではひどく「外」に出たがっているマリーン……出せるはずがない。出して、外を見て、変わり果てた故郷を見せたら、彼女はきっと泣き崩れて壊れてしまうだろうー……。
「アラあなた、ユライノーイじゃなァい?」
 甲高い声に顔をあげると、通路の真ん中にエチルが立っていた。美しい服に身を包んでおり、その腰には誰かの手が添えられている。視線を移すと彼女の隣には、精悍な顔つきの若い男が立っていた。
「ねーぇー、何してるのぉ? マジェロヴァの家で」
「………」
 無言を貫きつつ、ユライノーイは男を観察する。男は警戒しつつも、エチルの腰を撫でまわしていた。おそらく、今訪ねた家がこの男性の家なのだろう。
 ユライノーイはさも今気がついたかのように「あぁ!」と声をあげた。
「君があの「お孫さん」なのかい? 私は病院の担当者から言われて、おばあさんの様子を見に来たのさ」
 嘘である。
 確かにこの家の「おばあさん」を訪ねたが、話があったのは高祖母のほうであり、しかもユライノーイの病院では半年近くこの家の祖母の診察をしていない。
 それでも二人の警戒心はとけたようで、ユライノーイがスッと道を譲ると、彼はエチルを伴って家の中に消えた。
アマテニツカがエチルにフラれたのは、おそらく、性的な積極さに欠けたのが要因だろう……などとユライノーイは思い、気をとりなおして次の候補の家へと向かった。が、収穫なし。ジェフ・カルバーソンどころか、セラの歴史についてもろくに知らない人間ばかりであった。
 がっかりしながら扉を閉めたとき、ふっとエチルの声が再生された。
『ユライノーイじゃなァい……? …ねーぇー…』
「………、ん?」
 何か、ひっかかる。
 こういう時にあがいてもロクな事はないと考え、ユライノーイは今日の調査を打ち切りにして近所のキノコプランとへと向かった。
 セラの南側、住宅街よりすこし下に位置する建物へとたどり着く。アマテニツカが管理しているキノコプラントだ。菌床の独特な臭いと湿気に辟易しながらも、アマテニツカの姿を探す。そうしてようやくアマテニツカを見つけた時、突如としてこののほほんとした青年を傷めつけたいという衝動がわきあがってきたため、ユライノーイは挨拶も早々、声高にエチルとその恋人に会ったことを伝えた。
「あー、あぁー…、マジェロヴァかぁー……。格好いいもんなぁ……」
 未練たらたらといった言葉と、肩を落とすアマテニツカの姿は、ユライノーイの口角をニッコリとあげさせた。
 さらに傷つけたくて言葉を紡ぐ。
「いいかいアマテニツカ君。もともと、お前が短期間でも付き合えた事自体奇跡なんだよ。お前の前は確かレイェルーカスだったっけ? あいつもなかなかの美丈…夫……」
 いつもの弾丸トークの筈が、尻すぼみに終わる。
「ノーイ?」
 心配そうに覗きこむアマテニツカの視線を、遮るように、
「いや……、私はさっき、そのレイェルーカスの家を訪ねた…7代前まで遡れたから……。それで、10代前までたどれたマジェロヴァと、エチルが今付き合っている……?」
「偶然じゃない?」
「――偶然かどうかは、今までエチルがとっかえひっかえした男の名前をお前がどこまで言えるかだよニツカ君。しかもエチルの父親はメネシス技師だ! 何で気付かなかったんだ。同じ6Tシリーズなのにお前だけが私のイブと話せるのは、……エチルが何かしたからかも知れない」
 アマテニツカが言えるだけ言ったエチルの男性遍歴は、すべて、ユライノーイが探した5代以上遡れる家の子孫たちで構成されていた。
 裏をとるためにエチルの血族を調べたユライノーイは、男系だと3代前で終わりだが女系の血は25代前までたどれるという事実に愕然とした。年数にしておよそ二千年。しかもその25代前の女性は、ユライノーイの家から出た女性だったのだ。
 仮説は、確信に至った。
 すぐさまユライノーイは、アマテニツカを脅してエチルの家を訪ねた。戸口に出た彼女の父親は「エチルは外出している」と素っ気なく告げた――当然である。彼女は今頃マジェロヴァと楽しいひとときを過ごしてるはずだ。ユライノーイはそのままの勢いでエチルの父親に頼みこみ、家に上がり込むことに成功した。
 直後、事前に打ち合わせていたアマテニツカが店の呼び出しボタンを押す。父親はユライノーイを気にしながらも店に出て行った。父親には、一時間ばかりアマテニツカのメネシスをメンテナンスしてもらう予定だ。
 ユライノーイは軽い足取りでエチルの部屋を探し当てた。床の絨毯をはがし、部屋の一角を捨て場と決め、ひっくり返せるものはひっくり返し、フタが開くものは開き、中身を全部ぶちまけ、解体し、空洞や怪しい物がないかどうか確認していく。
 クロークの中の下着入れを部屋にひきずり出した時、ユライノーイが見つけたのは黒い小箱であった。鍵穴がついており、底面にはノートルダム大聖堂を模したマークが刻まれている。
 目的のものだと確信したユライノーイは小箱をポケットに仕舞い、特に部屋を片づけるわけでもなく、そのまま上機嫌で家から立ち去った。

     ☆

 秘密基地に戻ったユライノーイは工具で箱をネジ開け、中から黒い箱を取り出した。黒いチップとデータゾルデが入っている。データゾルデに関しては、マリーンと会話できる翻訳データが入っているのだろうと予測し、さっそく自身のメネシスにインストールした。黒いチップの方は、平たい四角の一辺だけ斜めに切り取られたような奇妙な形で、裏を返すと基盤の一部が見えた。
 ユライノーイの心の中には破滅へと向かうホーンが鳴り響き、無意識にニヤニヤと口角があがる。
「金の糸―をからませてぇー…、青い涙の少女がひとりー…ふふっ」
 これをマリーンに渡したら、彼女は『終わりの歌』をうたい世界は終了する――! と、思っていた。
 しかし。
 秘密基地の地下でマリーンにそれを見せた時の反応は、ユライノーイの予想とは全く違うものだった。泣き出したのだ。

■ 8 ■

「……ゥヴネザー…チサディオームォ、っう、うぅー……」
 しゃくりあげるマリーンの肩をさすり続けて20分が経過した。
 ユライノーイは死んだ魚のような目をしながら虚空を見つめていたが、ようやくマリーンが嗚咽の合間に語りはじめたため、気を取り直した。
 カタコトの伝頭音声を推測しつつまとめると、以下のような話である。
 新三パンゲアができる前、後の地殻変動を考慮して、地殻変動の影響が限りなく少ない土地――当時のフランス国――に、衛星軌道エレベータ「アルハルバ」を建設する計画が持ち上がった。マリーンは計画の肝である、軌道エレベータの総合設計技師だったのだ。
 数多の犠牲をはらってようやく完成した頃、大気放射能汚染レベルは引きあがり、全ての人類が地下での生活を余儀なくされていた。そんな中完成した人類の夢、宇宙への脱出、最後の希望とうたわれたアルハルバに、各地下都市は祭りの如く沸き上がった。
 だが、実際は違っていた。
 アルハルバに乗って宇宙へ脱出できる人間は、ごく少数に限られていたのだ。世界各国の要人、最先端技術者、そして金を積んだ者。
 原子エネルギー技術責任者であり、アルハルバ副統括でもあるジェフ・カルバーソンは、会議でこう発言した。『人類全員を宇宙へ送り出すことは到底不可能だ。それならエレベータ運用終了後、外壁の太陽光発電エネルギーを地下都市に供給させられるように変更しよう』と。半減期が過ぎて再び地上で暮らせるようになるまで都市が「もつ」ように。そして地上に出た時、エネルギーに困らないように。
 だが、ジェフ・カルバーソンは同時にこうも考えていた。
 宇宙で暮らすのは大変な労力だ。全員が死に至るかも知れない。地下都市においてもそうだ。閉鎖された空間で、犯罪や疫病、巨大地震が起こった場合人類は消滅するかも知れない――。
 種を、保存しなければならない。
 そこで選び出されたのがマリーンだった。
 健康状態には申し分なく、荒廃を想定した場合でも生き永らえるだけの頭脳と胆力を持ち合わせている。そしてジェフも、対となる男として一緒にコールドスリープで地上に残ると言ってくれた。
 けれど目覚めた先にジェフはいなかった。そこにいたのは、かつて地球外生命体と言われたグレイのような造形の、人類の進化の果て―…。
 ユライノーイは首をかしげた。
「私があなたを見つけた時、棺はひとつきりだった。隣に棺は無かったし、他に通じる通路もなかったと思う。同時に冷凍睡眠に入ったのか? あなたが先に眠ったのなら、おそらく彼はー…」
「言ワナイデ、知ッテル」
 マリーンは青い瞳にからこぼれそうな涙を、服の袖で拭った。
 そして、外に連れて行ってほしいとユライノーイに懇願した。
「アナタ、科学者。知ッテル。私、見タイ。地球」
 大気放射能汚染が既に生存可能レベルである事を知っている、変わり果てた光景を見る覚悟もあると詰め寄られ、ユライノーイはたじろいだ。絞り出すように、長い梯子を昇り降りする体力がないから無理だと伝えると、マリーンは急に立ち上がり体操を始めた。
 彼女は、と、ユライノーイは思う。彼女は違う。イヴじゃない……イヴじゃなかったのだ。
 ユライノーイは簡潔に
「あなたは世界を終わらせないのか」
 とマリーンに尋ねた。
 彼女は体操をやめ、ユライノーイをじっと見つめ
「アナタ、泣キソウ」
 心配そうに眉をひそめた。美しい角度で。
 ユライノーイはたまらず「そうだよ!」と明るく叫んだ。
 伝頭を使わず口頭で、
「私が今までしてきた事は一体何だったのかと思っているよ! 全ての女を殺してしまえはニツカの目には私しか映らなくなると思っていた時期もあった。けれど今はそれさえ通り越して、みんなみんな居なくなればいいと思っているよ!」
 大声でケタケタと笑った。
「けれど! そんな事は一人では到底無理だから、終わりの歌をもって一斉に眠ってくれれば楽だから、こうして研究を重ねてきたのさ。散々だな! 報われない。誰も彼もが死ねばいいのに……はは、っははははは!!」

     ☆

 泣きはらした目をそのままにしたユライノーイは、秘密基地でうずくまっていた。タイミング悪く入ってきたアマテニツカに、彼女は、マリーンに相応の体力がついたとき地上を案内する、と告げた。
 そしてじい殿とエチルに紹介した後、例の黒い線――オベリスク「アルハルバ」に向かう、とも。
「……お前が来るかどうかは、お前の意思に任せる」
 うずくまったまま顔も見せずにユライノーイは言った。
 望みは絶たれたのだ。この先、どうあがいても世界は終わらない。
 普段は有無を言わさず巻き込むアマテニツカの事さえも、もうどうでもいいと思うほどに絶望感に打ちひしがれていた。
「ノーイ、」
 アマテニツカは静かに声をかけた。
「行くよ」
 ユライノーイは顔をあげる。
 いつものやさしい笑みがそこにあった。
「ノーイが行くなら、僕も行く」
 そこからのユライノーイの行動は早かった。
 マリーンの情報を頼りにセラの地下基盤の奥から部品倉庫を見つけ出し、一切合切を地上に運び出した。その中から組み立て駆動装置を作り上げ、マリーンが長い階段を登り切ったその日にノードルトンとエチルに彼女を紹介し、アルハルバに向かう許可をとった。エチルはマリーンに逢う権利がある……というのはユライノーイの直観だったが、まさしくその通りだった。
 エチルの25代前の祖先がユライノーイの家から切り離した秘匿情報が、エチルにより開示されたのだ。一同は驚いた。
 ユライノーイは「ジェフ・カルバーソンの弟」の子孫だったのである。
 ジェフ本人ではなく、ジェフの弟……。マリーンは驚きつつも、どこかふっきれたような表情で、この事実を受け止めた。
 一方のエチルは懇願した。
 自分もその旅に連れて行ってくれと。それが、ジェフ・カルバーソンを輩出した一族の、せめてもの償いなのだと。かたくなに信じて疑わない様子であった。
 人が変わったようなエチルの勢いに、ユライノーイは根負けした。

■ 9 ■

 十月の地上は、美しい紅葉に覆われている。
 凛とした空気の中、アマテニツカはノートルダム大聖堂の正面入り口に立っていた。隣にはエチルが居る。そして二人の前にはユライノーイとマリーン。さらに全員の横に、旧時代「キャンピングカー」と呼ばれていたらしい大型の移動装置が鎮座していた。
 三人が、メネシスの現在時刻をマリーン準拠で合わせる。
「――10時40分。これから一か月かけて「アルハルバ」まで向かう。ニツカ、エチルを乗せてくれ。マリーンは運転席。私は助手席に乗る」
「わかった」
 アマテニツカがエチルの手を取りエスコートすると、エチルはマリーンを見続けながら歩き始めた。彼女の視線の熱は、マリーンに一心に注がれている。
 こうして四人は出立した。
 数日経ち、それぞれに打ち解けた。エチルはマリーンを信奉し、ユライノーイはそんなエチルをからかうまでに心を許した。マリーンは緊張の糸がほぐれたようによく笑い、アマテニツカは三人のやりとりを眺めながらスープを静かに味わう日々。
 奇形の獣たちに襲われる心配もなかった。マリーンの歌声を聞いた獣たちは皆穏やかになり座り込む。獣の優性遺伝子に組み込んだプログラムが未だに動いているらしいが、アマテニツカには難しすぎてよくわからなかった。ユライノーイは言い伝えの子守唄を引用し、マリーンの存在がいかに残されていたかを証明した。
 そしていよいよアルハルバが眼前に迫ったとき、アマテニツカは感嘆の声をあげずにはいられなかった。
 砂漠化している地域の中央部に、黒く輝く物体がある。円形に何十キロメートルと続いており、見上げれば天空に向かってどこまでも伸びている。入口があるという真北へ移動する最中も、ずっとそこにある。
 アマテニツカは、降り立った時も歓声をあげた。黒い壁に触ってみる。建設から数千年経った今でも壁材のドゥカトロボーンアヴィはキラキラと輝き、発電熱を持っていた。
 鍵の差し込み口を見つけたマリーンが、エチルから受け取ったチップを差し込む。空気循環に三十分ほど待つ。壁に浮き出た切れ目の個所をマリーンが手で押すと、音もせずに扉が左右に開いた。足を踏み入れる。
「なんだこれ……! すごい……!!」
 アマテニツカの、本日三度目の感嘆詞である。
 無人のロビーは光にあふれていた。電源が今でも生きている証拠だ。
 マリーンは受付カウンターの画面を操作し、管制室へと三人を案内した。入って早々、マリーンとユライノーイが管理画面を確認しながら難しい話を始めたため、アマテニツカとエチルは一旦キャンピングカーに戻ることにした。お茶を持ち込み、セッティングする。数分後、ローテーブルの前に着いたマリーンは、青ざめた顔をして開口一番に謝った。
「ごめんなさい。そして、いままでありがとう」
 メッラ語を流暢に操り、マリーンは説明した。電気をセラや各地下都市に移す地下機構はまだ生きている。しかし。あとはボタンを押すだけの簡単な操作が終了した瞬間、アルハルバの扉は強制的に閉じられ、内部電源は失われる。つまり、マリーンはここに閉じ込められ死に至る。アルハルバ内のロストテクノロジーも永遠に失われる。マリーンがアルハルバの扉を開けた瞬間から一時間のカウントダウンが始まっており、現在、残り時間は10分しかない。
 しばらく考えたユライノーイが、顔をあげた。
「ジェフ・カルバーソンが人間の屑みたいな男だという事はよくわかった。切り上げて、皆でセラに帰ろう。今のままでも十分生きられる」
 それを聞いてエチルも大きくうなずいた。
「マリーン様を死なせるだなんてとんでもないわ! そのボタンはアタシが押すのよ。そのためにここまで来たんだもの」
「「「はっ??!!」」」
 全員がエチルの言葉に驚き、止めようとしたが無駄だった。エチルはあっという間に、持参した手錠で手首と管理画面の横にあるパイプを繋いでしまったのである。
「あと7分よ! 早く行って!!」
 エチルは大声で叫び、三人はあわてて出口へと走った。機械音声が残り5分、3分、と時間を刻む。
 アルハルバから脱出した直後、音声は残り1分と告げた。
 息を切らしたアマテニツカがユライノーイと出口を交互に見つめる。
「やっぱり……っ僕も! 僕ッ」
「ニツカ!!」
 ユライノーイはとっさにアマテニツカの腕をつかんだ。
『残り30秒』
「ノーイ……」
 しばらく二人は無言で視線を交わしたが、アマテニツカはユライノーイの手をやさしく振りほどいた。
「いままで言えなかったけれど、僕、ノーイの事す……」
「うるさい!!! こんな時に嘘吐くんじゃねーよ!!」
『残り20秒』
「エチルと居たいんだろ、行っちまえよ。お前なんかッ! ずっとずっと嫌いだった!! こんな私に優しくするなんてお前くらいだよなぁアマテニツカ君! 行って後悔して死んで詫びろ!!」
『残り10秒、9、8、7、』
「ありがとう。ノーイは僕の最高の親友だよ」
 アマテニツカは数歩進んでアルハルバの内側に入った。
『3、2、1、ゼロ』
 あっけなく扉は閉まった。
 中から続けて、内部電源を切断と聞こえたきり、あとはもう何も聞こえなくなった。
 崩れ落ちたように膝をつき、ユライノーイは呆然と目の前の黒壁を眺める。マリーンが彼女の肩に手をそえ、祈りの歌をうたい始めた。

     ☆

 ユライノーイの凶行に、またひとつ新たに加わった話がある。彼女は幼馴染のアマテニツカとその恋人エチルを殺したのだ。
 だが、彼女の成した歴史的行為が偉大すぎたため、建設が完了した地上街の中では誰も興味を示さなかった。
 地上街の中心地に鎮座する、美麗なノートルダム大聖堂の奥には、セラの民を地下から救った女神イヴが住んでいる。毎朝起床の鐘とともに、少女の美しい歌声が響き、獣たちは街を襲うこともなく静かに朝支度をはじめる。
 それと同時に北鐘楼に立ち、遠く細いオベリスクを眺める影がある事には、まだ誰も気づいていない。