■ 裏側を仕舞う美しい仕草より ■

■ 1 代理を行う者 ■

 はららかに含む、冬の雨の湿度。
 3限目が始まる、無人の白い廊下を音もなく歩き、ひとりの生徒が科学準備室のドアをノックした。
 物理科目を受け持つ教員・浅葱邦彦は、ドアを開けた瞬間すべり込んできた紺色の、猫のような生徒を一瞥するとドアを静かに閉めた。
 雨はやまず、鉱石標本の埃が、モノコードが、加圧器や風計器、試験薬もメスシリンダーも、何もかもが湿気と湯気を帯びる狭く暗い室内。蓄積された地球の基礎が、棚の余白を消すように詰め込まれ、はみ出た段ボールが天井までのびる中、浅葱は薬缶の蓋をあけた。消毒済みの細長い温度計を入れ、カセットコンロのスイッチを切る。
 水銀が、のぼりはじめる40、50、60、70……。
「どうしてなんですか?」
 田中トモが尋ねる。
 17という年齢のわりには高い、声がふるえて窓をすりぬけ、冷えた雨と混じり地面に落ちていく。
 淹れる温度は82℃が好ましいのだと老齢の物理教師が答えると、彼は「ふうん」と首を親指でなぞった。
 学校指定の男子制服は紺のブレザーと縞のネクタイ、そして白のワイシャツである。ただしワイシャツの下に何を着るかは、特に指定されてはいない。田中トモはワイシャツの下に、常に、肌色の薄いハイネックシャツを着用していた。顎の近くまでピッチリとあげられたハイネックの色味は驚くほど素肌と同調し、遠目から眺めるぶんには何も着用していないかのようであった。しかし、近くで見るとやはり――素材が違う。
 浅葱邦彦はそれを声には出さず、温度計を確認すると薬缶から引き抜いた。セットしていたドリップペーパーの中に少量の湯を注ぐ。挽かれた珈琲豆が、少しだけ浮きあがり細かい泡を発した。
「どうしてなんですか?」
 田中トモは顔をあげた。雨に濡れたのかシャワーを浴びて急いで登校してきたのか、しっとりと額に張り付いている黒髪を横にわける指。弔いごとに使用される鯨幕をそのまま切り取ってきたかのような、白と、黒の双眸で、浅葱を真正面から見据えた刹那。物理教師は、持っていた薬缶の蓋がカタンと揺れる音を、きいた。確かに。耳裏に。
 20秒ほどの蒸らしが美味い珈琲を淹れるのに必要なのだと答えると、彼はまた「ふうん」と呟き、パイプ椅子に座りなおした。長机に置かれたシュガースティックの袋から数本を取り出し、やぐらを組みはじめる。
 老人は根気よく、湯を「の」の字にまわし入れ続け、できあがった珈琲を田中トモの前に置いた。
 少年はカップにそうっと口をつけ、科学準備室にすべり込んで来てからはじめて笑った。冬の。
 雪になれずに泣きそぼる、落ちる、雨を、見送る言葉のように。
「おいしいです。先生」

     ★

 7月10日。早朝。
 浅葱邦彦はスウェット姿のまま、だらしなく布団の上にのびていた。
 6月末に上空を通過した台風が、未知の疫病を連れてきたのではないかと疑わずにはいられない程の倦怠感。浅葱はろくに夜も眠れず、かといって無理に眠ろうとすれば悪夢にうなされ、起きれば背中には冷たい汗。忘れた夢の内容はどんよりと、彼の底でとぐろを巻いている。
 この春。高校の物理教師という職を定年退職してからというもの、浅葱の生活は日々無益に過ぎていった。継続任用は受けなかった。新しい環境で新しい職に就く気力もない。購入した履歴書は、封を切られないまま読みかけの本の下敷きになっている。
 倦怠感の原因は、これまでの人生にあるだろうと彼は検討をつけた。
 何の因果か浅葱邦彦という人間は、産まれたときから誰かの代理だった。
 母親は、彼の兄にあたる赤子を死なせてしまい、兄のかわりに浅葱邦彦を生んだ。小学生時代、父親は、叶わなかった自分の夢を遂行する代理人として彼を無理やり野球チームに入れた。結果は散々なもので、失敗するたびに怒鳴られたものである。中学生時代、ようやくできた親友……と思っていた同級生はいじめの首謀者で、自殺した被害者のかわりに3年間、彼をいじめ続けた。その影響もあり高校大学と、わき目もふらずに勉学に集中した浅葱邦彦は教師となったが、教壇に立ったとき。
 彼はショックで立ちつくした。眼前の、30人あまりの生徒たちにとって「教師」とは、将来役に立たない雑学をブツブツと呟きながら黒板に字を書き続ける機械。単なる、時間つぶしの「代理人」でしかないー…。
 勉学に集中したい学生たちは、高校時代の彼と同じく外の塾や家庭教師といった場所を求めたのである。だが、この絶望はまだ軽い方だった。
 浅葱邦彦が最も絶望したのは、教員室で向かいの机となったのがきっかけで結婚した、ある女性教員の言葉であった。恋愛期間こそ短かったが、彼女が自分自身を求めてくれていると感じた浅葱は舞いあがり、すぐに結婚した。式は盛大に。新居のマンションも購入した。引っ越し作業が一段落し、彼女を抱きしめ「愛してる」と言ったときだった。
 突然、妻は泣きだし、こう告白したのである。
 死別し失った恋人のかわりにあなたと結婚した、と。
 かわりは誰でも良かったの。あなたを選んだのはたまたま。わたしが本当に愛しているのは、あなたじゃない。一生、あの人だけなの―…。
 寝ころびながら苦い回想に浸っていると、アパートの呼び鈴が鳴った。
 また宗教勧誘かと思い無視していた浅葱邦彦だったが、コンコンとドアをノックする音。ちいさな「先生、浅葱先生、いらっしゃいますか」の声、に。はじけるように起き上った。
 今の、声は。田中トモではなかっただろうか。
 急いでドアを開けると、立っていたのは果たして田中トモだった。彼の30年あまりの教員生活の中で唯一、科学準備室をくつろぐ場所と決めてくれた、猫のような、あの生徒である。
 久方ぶりに見る彼の首は、相変わらず肌色のハイネックに隠れていた。その上から着用している黒の長袖シャツ、下はジーンズ。アタッシュケースを持った田中を浅葱は部屋に招き入れた。薬缶をコンロにかけ布団をどける。田中トモは、壁に立てかけてあったちゃぶ台を置き直してケースから書類を取り出した。雇用契約書と書かれたそれを見て、浅葱邦彦は訊こうと思っていた疑問全ての回答を、思い出す。鮮やかに。
 あの重い、静かな雨を。
 地球の枠組みが埃くさく詰まった室内で珈琲をすすりながら、彼と彼は対等に座し、それぞれに孤独で、どうしようもなく淋しかった、冬を。
『先生、3年後に定年ですよね。ぼくは来年卒業です。先生、先生は前に、お菓子作りと珈琲淹れるのは科学と似ているとおっしゃいましたよね。それ、喫茶店できますよだって、先生の淹れる珈琲、うまいし。毎日飲みたい。ぼく、雇いますよ。先生。喫茶店やりましょう。先生の老後は、ぼくが保証します――』
 浅葱邦彦は書類にサインをし、田中トモは立ちあがった。

■ 2 代理を依頼する者 ■

 着いた先は白夜坂のふもとであった。
 住宅街の入り口であり、ここから先は曲がりくねった石畳が続く。
 田中トモは、交差点に佇むちいさな店を指差した。数種類の鉢植えから伸びる緑、木枠と黒板の立て看板。壁はクリーム色に塗られ、白木の扉には「CLOSED」の札が下げられている。
 鍵を開け、田中トモは扉の隙間からスルリと中へ入った。その猫のような素早い動きが過去と重なり、浅葱は目を細める。
 店に入った浅葱の目にまずとびこんできたのは、正面に置かれた飴色のショーケースであった。すぐ右側は折れ曲がったカウンターテーブルとなっており、高めのスツールが置かれている。右壁の窓のくぼみには、夏の景色の写真や貝殻、ちいさなオルゴールやサボテンなどが置かれていた。
 店内の左半分はテーブル席。天井から、麻の織物が下がっている。
 田中の手招きで、浅葱はショーケースの裏へまわった。子供遊びのような小さなレジと金庫が、ちょこんと浅葱を見上げている。
 右側のカウンター裏へと進む。IHヒーターに薬缶、カップと、珈琲を淹れる道具が一通り揃えてられていた。
 ショーケースの裏側から奥へと伸びた通路には、ステンレスキッチンが設置されていた。コンロ下にはオーブン。埋め込み式の冷蔵庫。
 奥へと進むと、つきあたりにトイレの扉があった。こちらは、テーブル席の奥のドアからも入る事ができるらしい。
 キッチンの隣に階段を見つけた浅葱は、二階席もあるのかと田中トモにたずねた。彼は、はにかみながら「ぼくの部屋です」と、見上げる。
 田中トモの両親は、彼が高校2年の頃に亡くなっていた。これらの不動産の購入、喫茶店としてのセッティング、そして浅葱の当分の賃金も全て、亡くなった両親の資産から出されるという説明を、田中トモはカウンターの前に立ったまま淡々と行った。締めの口上はこうである。
「先生。子供のお遊びだと思っていいです、しばらく付き合ってもらえませんか、お願いします」
 頭を下げる元教え子……いや、担任などではなかったのだから、教え子とも呼べないだろう。そう思った浅葱の胸はしかし、朝とは打って変わって奇妙にあたたかく、人はそれを充足感と呼ぶのだと。アパートに帰ってから浅葱はようやく気付いた。
 布団に横になり、甘い感情を広げる。求められている。自分自身を。
 老人は久方ぶりに、すんなりと寝付くことができた。
 翌週からオープンした喫茶店は、浅葱邦彦が予想していた以上に忙しかった。白夜坂に住む、オシャレを肩に羽織ったような奥様方はこの店を、井戸端会議の避暑地として認定したようだった。朝はジョギング帰りの老人たちが、昼はオフィス街のOLが、夕方前の閉店間際には背伸びした学生カップルが、密かな隠れ家としてこの店を利用した。
 田中トモは、何を着ても内側の肌色のハイネックだけは外さなかったが、よく働いていた。客が来ない時にはビラを配り、インターネットのサイトで短い宣伝日記を書き、珈琲豆の仕入れを熟考した。
 浅葱はというと注文がくれば珈琲を黙々と淹れ、やはり菓子も、黙々と作った。彼は元・物理教師にふさわしく、粉やバターの分量を正確に計り、オーブンの予熱は忘れず、律儀にタイマーをセットした。
 不具合があるとすれば、田中トモの、週にいちどの寝坊だけだった。普段は浅葱が出勤すると、彼はすでに店の掃除をしているか出勤の気配に気づいてあわてて降りてくるかの2パターンだったが、浅葱が店に来ても起きてこない日が必ずある。その場合は、1階から2階へ内線電話をかける決まりとなっていた。大抵は数回鳴らすと「先生!」の叫び声と共にスルっと足音もなく降りてくる。
 だが、ある朝。
 何度内線を鳴らしても田中トモは起きてこなかった。
 浅葱邦彦は階段の前に立ち逡巡したが、意を決して足を踏み出す。定年以来、階段など久しく昇っていなかった浅葱の足はギシギシとぎこちなく動いたが、何段か昇るとすぐに違和感は消えた。扉をノックし、田中トモの名前を繰り返す。返事はない。浅葱は深呼吸し、扉を開けた。
 広いフローリングの中央に、海の底の色をした大きなベッドがひとつだけあった。手前に転がっている冷や水用のコップ。広がり木に、滲む水。ポツンと落ちている群青のピルケース。散らばる貝殻のような白い、錠剤。ベッドの足に、からまり落ちているシャツと肌色のハイネック。
 ゆっくりと、視線を。
 田中トモは上半身裸のまま、ベッドの上に倒れていた。目を凝らし、彼の背中が規則正しく上下しているのを認めると同時に、浅葱邦彦は息をのむ。田中の首には細い麻縄が、ゆるく、幾重にも巻かれ、そして隙間からのぞく、首の、素肌に、は、くっきりと青紫のあざが――とたんに浅葱は思い出す、季節にいちどの風紀全校集会。うつむき、唇を噛んだまま床を見続ける田中トモを、とりまく人々の輪。訳知り顔の生徒指導部・樫崎先生、担任の関先生。学年主任の水谷先生そして、野次馬であろう数人の生徒たち――。
 浅葱邦彦は部屋の入口に立ったまま、それ以上前へと進めず、また、後ろにも下がれなかった。60という年齢になってすら出来事は、浅葱の心に逐一波紋を広げ、年々受け止めるスピードが遅くなっていることを彼は充分に自覚している。
 過去に、浅葱邦彦と深くかかわった人々にとって、彼は代理という「空白を埋めるためのピース」でしかなかった。その両親は死に、同級生は疎遠となり、離婚した彼女は辞職し、生徒たちは数年ごとに、流れるようについには誰も、そのピースに意志があることを認めてくれないまま彼の前から消失した。元からなかった自身の存在意義、存在する意味が、定年を機に更に薄らいでいった。
 そんな浅葱邦彦を拾い上げてくれた田中トモは、もう十分に、彼と深く関わっている人間であった。
 先生と生徒、という線引きは実質、パートと雇用主、という線引きに変わったが、顔つきが少し大人になった田中は相変わらず浅葱のことを「先生」と呼ぶ。先生……先生の老後は、ぼくが保証します…、………。 自分の意志。自分の意義。浅葱邦彦は心から、田中トモに何かをかえしたいと願った。首の痕が致し方ない事故かなにかであるならば、笑って許してやるのだ。もしもそれが心の病であるならば、蔑んだり説教したりはしない。あの冬の日の対等さで、彼の話をじっと、聞こう。そして例えば起きた彼がすぐさま首を隠し「見ないでください」と言ったなら、きれいさっぱり忘れて今日を最初からやり直すのだ。もちろん、鍵をあけて店に、入る、ところから。
 浅葱は歩き、中央のベッドに近づくと田中トモの肩をゆすった。薄くトロンと開いた目は焦点が合わずまた閉じる。眠るための薬が効きすぎているのだろう。首の麻縄が、ジリ、とこすれ田中は「あ、」と。声を。
 腕をあげ、老人のワイシャツの、裾を。舌足らずな、微笑みを。
「……おとぉ…さん……、きて…、絞め、てぇ……」
 瞬間、浅葱は理解した。彼は――またしても! 浅葱邦彦は、なんという因果か、田中トモにとっても父親の代理人でしかなかったのである。

■ 3 代理に親しまない行為 ■

 立ちあがり、後ずさる。
 田中トモの指は力が入っておらず、老人が移動するだけでするりと抜けた。
 燃える。浅葱の内側で、今までの人生で、あらゆる場面で抑圧してきた怒りの渦が、蓋を持ち上げ、鎖を外しはじめる。
 まだ小さな田中トモが、授業内容について聞くため科学準備室に来てくれた時の嬉しさ。回数を重ねるごとに、自分との会話を楽しみに来ていると知った時の嬉しさ。誰かの代理などではなく、人として対等に座しているという事実が、どんなに嬉しかったことか。くたびれた朝、自分の力を求めに部屋までやってきてくれたことへの驚き。そして喫茶店という場所での、様々な新しい体験。自分という実直さがそのまま反映されるケーキ。手間をかけるごとにクリアになっていく珈琲の味。常連客のひとりが「ここのは美味しいから」と、純粋に浅葱の珈琲を求めにきてくれた時のあの嬉しさも――。
 全部が!
 ……ぜんぶ、褪せ、失われていく。浅葱の喜びが、客の笑顔が、田中トモへの感謝が、感情がつぶれ、うすっぺらいモノクロ写真におさまり炎に包まれ、なめ取られ、燃え、黒く、焼ける。失われていく。
 だが。浅葱の怒りは、最初からぶつける先を失っていた。
 田中トモは浅葱邦彦の個人的な人生事情など、露ほども知らないはずだった。田中が肌色ハイネックの内側になにがあるのか喋らずここまできたように、浅葱は浅葱の人生が、ずっと誰かの代理であったことなど、話したこともなかったのである。それらをいちから説明し、これまでの謝罪を求めるのか?
 浅葱邦彦は自問自答した。
 違う!! そんな事は……間違っている…。
 老齢の、元・物理教師は後ずさりながらも首から目を離せずに、怒りは鎮まるどころか益々ふくれあがり、処理が追いつかない。ふるえる彼にできることといったらあとは、扉ごと彼の秘密を静かに閉め、階段をおり、朝の開店準備をひとりで進め、田中トモがあれを夢だと思い込めばいい、夢だと思い込んでくれと、ひたすら、祈る事だけだった。

     ★

「――先生!」
 そう叫んで、肌色のハイネックノースリーブに黒のTシャツを重ね着した田中トモが階段を駆けおりてきた頃、時刻は正午をまわっていた。店内では既に、数人の客が静かに珈琲を飲んでいる。
 しい、とひとさし指を口にあてつつ、肝心の浅葱はというと、ある女性と押し問答している最中であった。彼女はこの喫茶店をいたく気に入っているOLで、毎日昼休みの合間にやってきては珈琲を頼み、カウンターの隅で買ってきたパンをかじっている。田中トモと浅葱邦彦の能力では軽食まで手が回らないため、席で食べることを許可しているのだ。
 田中トモは女性の話をきいて「ふうん」と言い、親指の腹で唇を何度かこすった。
「やってみましょうよ、先生」
 ちいさな、家族のみの結婚食事会をこの喫茶店でできないかという相談であった。教会で、小ぢんまりとした式を挙げた後、この喫茶店で食事をしつつ、「先生」と「トモくん」、そして喫茶店を利用する常連客たちに祝ってもらいたい、という内容である。
「でもまぁ、珈琲とケーキ以外は仕出しになっちゃいますけど……」
「それは私が用意して……」
 カウンターの隅にまわった田中とスツールに腰掛けた女性が話を続け、浅葱邦彦は二重の意味で胸をなでおろした。女性から逃れられたことへの安堵と、田中トモといつも通りに会話できた事への安堵だ。
 夕方、平常心を保ちつつ閉店作業をした浅葱は、帰宅後、冷蔵庫から久々に日本酒を取り出た。トクトクと、冷えた液体をぐい呑みに注ぐ。
 飲まずにじっと見つめ、彼は、朝、大きな怒りの炎に焼かれてしまった過去のかけらを心の中から拾い集め、そっと抱きしめてみた。
 それらはボロボロに千切れ黒ずんでいたが、確かにそこに存在していた。嬉しさ。驚き。発見、笑顔。価値。プラスの感情たち。対等に笑いあえる客と自分、田中トモと自分、という関係性。
 裏をかえせば、かつて、常に誰かの代理人であったという空虚をかみしめてきた浅葱こそが、自分の内側を埋めるための「代理」をずっと探してきたのではないか? 人は、多かれ少なかれ、自分を埋める何かを求め、探し、そうして生きているのではないか――? 田中トモの裏側を知ってすら、なおもよみがえる冬の3限目。孤独も極まる、鮮やかな雨の情景が、静かに。ただ。透明な液体の奥に再生されていった。
『おいしいです、先生……』
 当日。
 快晴である。仕出しの品が届き、田中と浅葱がカウンターの端に包みを積み上げていると、常連客の1人である男性が、数人を引き連れて中へと入ってきた。彼はアマチュア・ジャズバンドのリーダーで、今日のBGM役を快く引き受けてくれたのである。また、1人の女性が花束を抱えて入ってきた。彼女は白夜坂をすこし登ったところにある花屋の店主で、よく配達の仕事帰りに珈琲を飲みに来てくれるご婦人である。わけありで売れないものだと言って浅葱に押しつけてきた花束は、どうみても真新しい、摘みたての白である。斜向かいのリサイクルショップの店長も顔を出した。田中が頼んでおいた追加の椅子を、勝手に配置しはじめる。陽気な気配に、近所の住人たちがやってくる。説明すると、10分後には祝いの品を持って輪の中に入った。
 お祭り騒ぎの中、主役が到着する。新婦の手を引くのは、精悍な顔つきの男性であった。田中と浅葱の前に立つと、深く礼をする。新婦と新郎の家族たちも、次々に到着しては浅葱に礼を言った。面々が席に着き、食事会が始まり、ひっきりなしに祝いの言葉を述べる客の波。和やかな雰囲気で進行してく様子を、ひとしきり堪能してから浅葱は、奥のキッチンへと引いた。既にケーキの生地は焼けており、あとは生クリームとフルーツ飾りを乗せるのみである。
「先生、」
 いつの、間にか。田中トモが足音もなく隣に立っていた。紺のベストとワイシャツ。衿からのぞく首はやはり肌色のハイネックで覆われている。青年は、それを隠すように右手でおさえつけた。
「いつか、ずっと、そのうち、言おうと思っていたことがあって……」
 浅葱邦彦は田中の告白準備を遮るように、言わなくていいと強く、向けた。内容は知らないが、言いだす事を迷うくらいなら抱え続けておきなさい、とも。それは浅葱が、自分自身へ向けた決意でもあった。
 底に沈むなにもかもを、さらけ出しあう事だけが心安い関係ではない。
 抱え、けれど忘れないだろう。幾多の思い出とともに座す、温かな感情を。
 響くコントラバスの音と明るいトランペットの旋律を背景に、田中トモは目を細めて笑い、小さく、首を縦に振った。