■ トゥ・バッド ■

■ 1 スリー・シアター ■

 女の第一声ほど不快なものはない。
 ターゲットがブッキングするなどとは普通考えられない。
 機関が同じならなおさら、の、はずだが。
「ねェ、」
 女が発する。甘く汚い声。
 俺は、ブラックライトに照らされた青いバーで、この隣りに座っている女と今から会話しなければならない。
 先に頼んだカウンターのスカイダイビング。その横には、写真が二枚ある。
 同じ写真だ。
「アタシに譲らない?」
 機関の仕事は簡単だ。
 ある日郵便ポストに宛名のない茶封筒が入っている。その封筒の中には黒ずんだ白黒写真が一枚。そのターゲットを殺す。金は自動的に振り込まれる。
 それだけだ。
 写真の裏には、殺さなければならない場所と日時が機械的なフォントで印刷されている。そこに赴き、ターゲットを待つ。
 俺は、一時間前にはその場に着いている。
 クセのようなものだ。
 だから、必要であれば対立する機関との戦いなんてのもある。知らない能力者とブッキングした場合、たいてい俺は先にその場に居るから、とっとと逃げて失敗すら報告しない。
 能力者同士はスグにわかる。
 だが、機関は、現場放棄という職務怠慢にもかかわらずまた茶封筒を俺のマンションのポストに放り込む。
 面倒くさい、が、行く。俺はこう見えて律儀だ。
「アンタ、トゥ・バッドでしょ。知ってるわ。一方的に」
 女は続ける。
 もう甘くも汚くもない。
「業界じゃ有名人だもの」
「……で?」
「譲ってよ。アタシ、今月金に困ってんの。家賃も滞納してるし、久々にきた仕事だし。その点アンタは金だって余りきってんでしょ。知ってんのよ。機関の報酬ランキングも一位だってこと」
 自己紹介もナシだ。
 女はいつだって一方的でウルサイ。
 俺は、さっきから黙ってグラスを拭いている老マスターに、レッドバードを注文した。老人は、皺だらけの唇のはしをあげながらシニカルに首をかたむけると、慣れた手さばきでビール瓶の栓を抜いた。
 女の前に緋色のグラスが置かれ、彼女は予想通り自己紹介しはじめる。
「名前言ってなかったっけ。アタシは、スリー・シアターで通ってる。分るとは思うけど、ターゲットに三つの悪夢を見せて、精神的に狂わせて破壊するのがアタシの武器ネ。ほとんどが自殺扱いになるわ」
 自慢げだ。
 能力者は、24時間以内に多くても10回しか能力を発動できない。発動できる回数が多いほど低レベル、少ないほど、高レベルな能力が備わっている。
 俺は今夜二回しか能力を発動できないし、女は三回しか能力を発動できない。ただ、単純に能力だけで比べると、俺の方が上ということ。
 ハ、馬鹿らしい。
 逃げるか。
 そう思った瞬間、俺の前に過去の情景が開けた。
 これ、は。初めて能力を使ったときの。
 リアルな白昼夢。手に、血がついている。
 母親が刺されて死に、父親が刺されて死んでいる。
 あぁ、お互いの包丁にお互いの指紋をなすりつけて、俺が、刺した。
 笑っている。
 狂うように、ケタケタと笑っている。いつまでもここで
「ねェ、」
 はっと、した。
 息が上がる。
 汗をかいている。
 頭がぐわんとうなる。飲んでもいないのに。
 この女、今
「譲ってよ」
「っ……、オネガイゴトも三回か」
「アンタ、いい男ね。この写真の女、顔見た限りじゃ一回悪夢見せれば参るわ。あともう一回、アンタに使ってもイイんだけどー…」
 瞬間。
 ―― カラン。
「いらっしゃいませ」
 ターゲットが店に入ってきた。
 男と一緒だ。腕を組み、夜の蛾が飛び回るような色のドレスで笑っている。
「共同戦線は、」
 一応の提案。
「お断りだわ」
 ノータイムで却下。
 と。
 同時に気づいた。
 あの男ー…能力者か!
 男はニイ、と笑いー……、ピタリと、止まった。
 間に合った。
 俺は、全てが停まっているバーのスツールから飛び降り、蝋人形のような老人の背後をすり抜けナイフを拝借した。
 素早く女の左鎖骨付近ー…大動脈をスパリと切ってから、そのナイフを男の手に持たせる。
 それからカウンターに置いてあった、スカイダイビングとコースターを持ち上げた。
 時間を止めていると傾けてもこぼれない。
 俺の部屋には、こうして持ち帰った記念品があふれるほど置いてある。勝手口を探しあてたところで指をパチリと鳴らす。
 息をついた。
 世界が。動きだす。
 悲鳴は分厚い扉の奥に。
「運が悪いことに」
 ネオンがまぶしい。
 もう揺れているスカイダイビングが、俺のワイシャツを青く濡らした。

■ 2 ワン・ハンド/フォー・リン ■

 僕しか知らないこと。
 機関最高の殺し屋であるワンハンドが、歓楽街からすこしはなれた線路沿いでおでんとラーメンの屋台をやっているということ。
「らっさい」
 のれんをあげると、あつい湯気が僕に襲い掛かり思わずむせる。スキンヘッドを保護するように白いタオルを巻いたワンハンドは、まぁたお前さんかと呆れた声で箸を上にあげた。
 ターゲットを殺した晩、僕はきまってこの屋台にお邪魔している。
「味噌ラーメン」
「あいよ」
 ワンハンドは、僕の服にシミのようについている血を一瞥し、ぬるい水の入ったコップを置いた。
 客は誰もいない。
 色褪せたのれんと提灯が、申し訳なさそうにゆれている。
 年代を感じさせる木の匂い。古びたラジオが、ニュースを放送しているようだった。けれどノイズが混じり、何を言っているのか見当もつかない。
 慣れた手つきで棚からどんぶりを取ったワンハンドは、底に味噌をひとすくい入れクルリと回した。
 彼のその手つきが好きで、クセなのかジンクスなのか、殺し屋は意外とジンクスを大事にする。殺す前、僕は祈る。成功したらまたコレを見ることができる。
 あぁ、見たいな。
 ワンハンドのかみさまの手。
 見たい。
 味噌ラーメン食べたい。
 殺しは成功する。
 時々、闇の都市で殺しが発生するのは致し方ないことだった。誰にだって一人や二人、殺したい人が居る。それを自制できるかできないか、できない人間は複雑な手段で機関に頼む。そして僕らが殺す。それだけだった。
 機関の殺し屋は大抵おかしな能力を持っている。ここ数十年で突如現れた、マンガかアニメのような人々。機関からスカウトされ、育成され、能力に合わせたコードネームがつけられる。やっぱりマンガやアニメのように。
 事実は小説よりなんとか、って、よく言ったものだ。
 精神病棟から連れ出してくれた、あの黒い服の男たちが死神だということには、最初から気づいていたのに。
 僕は死ねなかった。
 だから生きていた。
 能力は二十四時間に最高でも十回しか使うことができなくて、使う回数が少ないほど高度な能力であるらしい。僕は運悪く、四回しか使うことができなかった。
 五回なら死ねただろうか? それとも、ワンハンドのようにもっと上級の能力があれば良かったのだろうか。
 どっちにしろ、死には、少し足りなかった。
 あれからもう数年が経つ。年に一度、報酬ランクがつけらた紙がアパートの郵便受けに入っていて、何回も見ているお決まりの白黒印刷で一年めぐったことがわかった。
 現在のランクトップはトゥバッド。
 ワンハンドは、ランク対象外だった。
「ねぇ、ワンハンド」
「大将って呼んでくれた方が、俺ぁ嬉しいがね。味噌ラーメンお待ち」
 しわがれた声。遠くで犬が吼えている。
 ここ数年で一番の勇気を出して、
「引退するって、本当、」
 僕の言葉は無視して、ワンハンドは机に、小さな皿に盛った大根と卵を置いた。
 ガア、と電車が通り過ぎる。
「サービス」
「……どうも」
 トゥバッド。あいつはいけすかない。
 一度だけ見たことがある。
 能力者同士は互いにわかる。直観。渋谷のスクランブルで、あいつがそうだと確信した。遠くから、目があった。なんでもないワイシャツと黒髪。けれど纏っている雰囲気は、サラリーマンでは決してなかった。
 カチ。
 信号が青になった瞬間。
 向かいにいたはずの男は僕の後ろに立っていて、トン。背中にひとさしゆびがあてられた。
『――なんだ。ただの人間か』
 た、だ、の。
 あいつにとって世界は、ただの人間か金になる人間かの二つに一つしかないのだ。冷えた声も苛立たせた。僕は人畜無害と勝手に判断され、けれど反論の隙など与えられなかった。振り向いたときには、もう彼は消えていた。
「ハハ、俺も年さー…いらっしゃい」
 誰かがのれんをあげた。
 見覚えのある、顔、が。
「トゥ……バッド!」
 引退なんて許されない。殺しに来たのだ。なら、僕が。
 立ち上がろうとした直後、ワンハンドのうめき声があがった。手をおさえながら、その手には包丁が刺さっている。トゥバッドに目をもどすと、彼は僕を見たまま、唇のはしをあげた。
「お前、じいさんにお礼言いなよ。一回しか発動できない能力を、お前のために使ったんだぜ、ホラ。早く」
「なに、を、」
 ガア。電車が通り過ぎる。
 ぼんやり座ったまま、一部始終をすべて見ていた。
 ワンハンドは無抵抗で、湯気のムコウで、血が飛び散り、叫び声は電車に消され、ピッ、ラーメンの器に血がついた。のろのろと焦点を合わせる、トゥバッドは赤く染まったワイシャツのえりで顔をぬぐいながら、つかんでいた死体の服を放した。ゴトン。鈍い音がする。
 とりあえず味噌ラーメンを食べ始めると、トゥバッドが隣に座って、
「泣かないのか。仲、良かったんだろ? えーと……」
「フォーリン。涙なんか入れたら、味が落ちる」
 ふうん、と血まみれの手をかざしてトゥバッドが牛スジを引き抜いた。
「じいさん。こんなことやってたなんて、知らなかったな」
 そうだよ。僕しか。
 言いかけたとたん、視界がにじんだ。

■ 3 テン・ダラー ■

 セキュリティを抜けるのは簡単だった。
 べつに帰りはそのまま帰ればいい話なのだから、二回。このビルの中に入るために玄関で。そして、社長室と書かれたプレートが光る、能力者のSPが左右をかためる扉の手前で一回だ。
 入ったとたんに自動ランプの光が、机の奥で少女のかたちをつくった。
「来ると思っていたよトゥバッド……。ひさしぶりっ!」
 抱きつかれた反動でよろける。
 その様子を見た少女は、またお菓子ばかり食べているのだろうと指を鳴らした。突如、白い服を――調理師のような服を――まとった男たちが列をなし、カートを引いてきた。
 多種多様な、異国の料理が並ぶ。
「なにがいい? 来ると思って作らせておいたんだ」
「和食、」
「――みなご苦労! 下がってくれたまえ!」
 セリフだけ聞けば大人だ。が、小さな少女が言っていると思うと、軽くめまいがする。
 ぞろぞろと誰も居なくなった社長室に残された、籠と皿に彩られた食事はまったくの無言で進められた。雇い主だ。食べないわけにはいかない。少女は、ついてきた茶碗蒸しの器を撫で回しながら、じ、と、こちらを見ている。
 箸を置いたと同時に、少女は口を開いた。
「君の口座に金が入っていないのはワザとだ、ごめん。だって最近、召喚の手紙送っても、君、見ないで捨ててるだろう」
「言い出すの、箸置くのと同時だったな」
「それはそうだ。ワタシは金よりも時間を大事にする。タスクを頭に叩き込んで、無駄のないようにするのが楽しいんだよ」
 合理的にな、と、ニヤリと笑うと少女――機関の創設者であり資産家でもあり更に能力者でもある彼女は、茶碗蒸しを黄金に変えた。
 手品のように。簡単にかわる。
 輝きを放つゴールド。の、茶碗蒸し。
 なかなかシュールな図だ。能力は、本人にとってはいとも簡単になされる。
「まぁこれは、エージェントに通してもらってからだけど。ちゃんと振り込んでおくよ。今日は会えて良かった。ワタシも元気が出るというものだよ。じゃあね、」
 手をひらひらさせ、終わらせる合図だ。
「ちょっと待て、テンダラー」
「……なんだね。ワタシはアポなし客の長時間滞在は認めたくないのだが」
 だったら飯なんか食わせるな、と反論したいところだが、雇い主であるという事実が、言葉を、喉の奥へ押し戻した。
 ――いや。
 それをまた、押し戻す。
 今日はこれを伝えにきたのだ。
「辞めるわ、俺」
 彼女はしばらくキョトンとした瞳で俺を見つめて、それからうつむいて考え込んだ。
 それはそうだろう、無理もない。
 機関に所属する能力者は皆、一日に最高でも十回しか能力を発動できない。発動できる回数が少ないほど上位能力者だったが、俺はこの間、機関最高の能力者、ワンハンドを殺したばかりだった。
 一日一回しか発動できない、空間干渉能力。
 俺はその時、俺の能力で時間を止め、居合わせた青年の心臓めがけてジイさんの包丁を差し込んだが、青年は無事。ジイさんは手に包丁傷を負った。空間干渉でかばったのだ。
 まぁ、一回しか発動できなければ、その後の能力者なんてただの人間だ。グチャグチャにしちまったが、牛スジは美味かった。
 そんなワケで、機関に所属する能力者のうち、一番上位の能力を持つ人間は俺だけになった。一日二回だけ、好きな範囲の時間を止めることができる。
 彼女は今、俺をどう殺そうか対策を練っていることだろう。
 穏便に辞めれるわけはない。
 少女を殺して悠々とこの場を去るつもりだった。
「……言う事はそれだけか? トゥバッド」
 視線を合わせた表情は悲しみに満ちて、今にも泣き出しそうに歪んでいる。
「ワタシはお前を拾ってあげただろう? ものを食わせて、金も仕事も与えてあげた」
「あぁ、」
「あの日は曇っていたな。センター街の裏路地だった」
「そうだったかな、」
「雨が降りそうな、明け方の頃だった……。お前は人を殺していたね、最初は驚いたよ。ワタシの部下が後処理をしていなければ、お前はとっくに警察につかまっていた。小ぎれいにさせたお前と向かいあった時、そうそう、なんと言ったか覚えているか?」
 感傷的にさせて引き止める気か、全く、少女らしくもない。
「何が不満なのだ。飼われていることにか? それとも引き抜きか?」
「聞いてどうするんだ」
「今後の参考のためだよ」
 時間稼ぎのためだろ。
 ベルトチェーンに下がったバタフライナイフを取り出そうとした瞬間、少女は走って俺にしかみついてきた。
 ぎゅう、と、布をつかむ手に力がこめられる。
「さよなら、トゥバッド……、ワタシが人を殺せないとでも思っているのだろう。それを驕りと言うのだ」
 まさか。ただ物を金に変えるだけの能力で、何ができるんだ。くりんと顔だけあげ、いたずらっ子のように少女は、ニッと。
「ワタシが人間を黄金に変えるのは、両親を殺して以来二度目だよ」
 負けた。
 これは死んだ。と思ったが、少女は能力を発動せず、そのまま俺から一歩離れた。当然、片手はまだ俺のYシャツの裾をつかんでいる。涙目だったのも、感傷的に過去を振り返ったのも、抱きつくための伏線だったわけだ。
「どうせ辞めたいのも、ただの気分なのだろうトゥバッド。もうしばらくワタシの元にいてくれないか。ワタシの目的が達成されるまで――」
 戸口に向かうまでずっと裾を引っ張られ、それは観音開きの扉をギリギリ閉めるまで変わらなかった。
 裾を放した瞬間に扉をもう一度開けて殺す。
 そう思っていたが、小さな指が放されると同時に、茶色だった木の扉は黄金色に輝き、片手で、両手でさえ、開けることは叶わなかった。