■ 秋と隣の独立国家 ■
■ 1 国王と優先度 ■
しゅーちゃんはだいじんね。
え?
だめ!
おおさまははるちゃん だから。
しゅーちゃんはだいじんで、おおさまのつぎにえらいひとなんだよ。
はるおおこくのおおさまははるちゃんで、だいじんはしゅーちゃんね。
おおこくのおかしをかんりするひとだよ。
はい、こんぺいとう。
あっ!
だめだよぜーったいたべちゃだめ。
かすだけだからね!
☆
「佐々木先生、知ってるだろう。A組の担任の。……坂井について、お前に相談したいそうなんだ……」
教壇でそう囁いたのは、東郷秋の担任・吉川先生。ホームルーム後のざわめき。聞いている生徒は皆無。吉川先生は目線を合わせずさらに「放課後はずっと職員室に居るそうだ」と秋に告げた。
秋は無表情のまま頷き、教壇からおりて自分の席へと戻る。椅子に浅く座り優先度を思案していると、奈良一樹が「シュウ、」と声をかけた。
「これからゲーセン行かねェ?」
秋が無表情のまま「優先度4」と言うと、奈良は露骨に顔をしかめた。
「じゃあ1は何だよ」
「佐々木先生に会う」
「2は?」
「塾に行って勉強」
「3は、」
「自販機でコンペイ天然水を買う」
奈良はオーバーに手をふりあげながら「俺は自販機以下かよぉー!」と頭をかかえたが、次の瞬間にはパッと身をひるがえし、何事もなかったかのように他の友人を誘い始めた。
ノートや筆記用具をカバンに詰め、秋は優先度1の目的地へ向かった。
A組の坂井こと坂井春子は同い年の幼馴染で、秋の家の隣に住んでいる。同じ保育園・同じ小学校・同じ中学校ときて、今年から同じ高校に通っていた。
中学最後の秋。進路希望の紙をもらった夜、突如部屋へやってきた春子の、あの言葉は記憶に新しい。
――秋ちゃんはやっぱし、あたしと同じトコ受けんでしょ? そりゃ、春王国の領土拡大を狙って別々の高校に行ってもいいけどさ、あたしのコト考えてくれてんでしょ。やっぱ大臣はこうでなくちゃ! あ、これ、コンペイ天然水。知ってる? 昨日発売されたばっかなんだけど、ここ見て。コンペイトウ入ってんの、チョー受ける。
職員室で作業している先生方の中から佐々木先生を見つけると、相談の内容は秋の予想通り春子の不登校についてだった。
佐々木先生は、これまでの行動を東郷秋にイチから説明した。
最初の頃は週に一度「体調が優れずに学校を休みたい」という旨の電話きて休む事が多かった。が、それも週に二日、三日、と増えていき、週四日休む頃には何の連絡もなくなったという。学校から電話をかけても、常に留守番電話で、メッセージを入れても梨のつぶて。
不審に思い、教頭先生と共に家まで行ったが、坂井春子は出て来ずに彼女の母親が出てきた。
この母親の言で坂井春子の生存は確認されたものの「不登校は学校の責任で春ちゃんは何も悪くない!」「先生なんて春ちゃんに悪影響だから会わせない!」の一点張り。三十分ほどねばったが、けんもほろろの玄関対応に泣く泣く帰った、という話であった。
坂井春子の不登校が確実なものとなって一ヶ月。どうしたものかと困っていたところに、顧問をしている部活の一年・朝倉六月が「D組の東郷秋は彼女の幼馴染で、のっぴきならぬ仲だからきっと何とかしてくれる」と進言したという。
「……ムツキ…」
あいつ、次会ったら殴るぞ。
と無表情で口をモゴモゴさせていると、佐々木先生はプリントを取り出し、とにかくプリントを渡す口実をつけて一度坂井に会ってくれ、学校に来ない理由を聞いてみてくれ、頼む、東郷君。と頭を下げた。
その切実な様子に、優先度を変更。
今日の講義は全て欠席すると塾へ連絡を入れ、食堂前の自販機からコンペイ天然水を買った。
☆
「大臣! ひさしぶりジャン。6月からだからぁ〜、シハン世紀ぶり? 何っつーんだっけこれ、いち季節ぶり? まぁいいや」
勢いをつけて自室のベッドから立ち上がった春子は、秋のカバンに強引に差し込まれているコンペイ天然水をめざとく見つけ「サンキュー」とひったくった。
ペットボトルは中が二層になっており、小さな上の層にコンペイトウが詰まっている。春子がキャップをひねると同時に、コンペイトウがゆっくりと下の層――水の中へ落ちはじめた。
その様子をながめながら、彼女はいたずらっぽく笑う。
「今日のあたしは優先度いくつ?」
……しばらく見ない間に、頬がそげたように感じる……。そう秋は思い、無表情で視線を移した。頬もそうだが、長袖シャツの袖から見える手首も、痩せたというよりはやつれた、といった細さで、ジャージの下からのぞく素足も、細い上に色が悪い。
「2」
「ふーん。1は?」
「佐々木先生からプリントを預かってきている」
「何のプリント、」
「図書だより……」
「それ却下、命令。ここ春王国の領地だかんね大臣。あたしを優先度1にして。命令」
王国の領民は、いちどたりとも増えた事はなかった。保育園でも小学校でも中学校でも、王様と大臣以外、ひとりもいなかった。
それは春子が常に孤立した存在だったからだ。秋からしてみれば、今まで不登校にならなかったのが不思議なほど、友達がいなかった。ただひとり、秋だけが、春子の信頼を勝ち得て王国に受け入れられた。
しかしその秋も、小学校では周囲の冷やかしを跳ね除け常に一緒だったものの、中学では部活動に打ち込み一緒に帰らなくなり、高校では別々のクラスで、数日顔を見ない事もざらになり、徐々に離れていった。
■ 2 大臣の病気 ■
二人だけの時に語られる春王国は、一年中快晴で草原には花が咲き乱れ、国民には毎日数粒のコンペイトウが配らる。 皆は静かに畑を耕し、家畜を飼い、時計の丘で愛を誓って、季節に一度お祭りをする。
平和で閉じた世界。
――ただ、少しばかり、栄養素が足りない。
語られる王国の平和に反して、現実の春子の家庭はお世辞にも上手くいっているとはいえない。
両親は昔から不仲だ。春子が小学校のときから出張続きで、月に1回帰宅すればいい方の父親は、直属部下との不倫にあけくれている。母親はというと、こちらも懇意の男性の家に日中入り浸り、夜の帰宅の際にはコンビニ弁当を自分のぶんだけ買ってくる。家に居る間は強い酒をあおり、階下の台所から時々ヒステリックな憎悪の叫びが、そうでなければ大仰な嗚咽が聞こえてくる。
秋は、春の部屋の窓を眺めながら、隣に建っている自分の家を思い浮かべた。優しい父と料理上手な母。確か今夜は、父のリクエストで和食と言っていた。母に頼んで何かを皿ごと持ってくるか、母に頼んでタッパに詰めてもらうかと秋が思案していると、突然。
春子が秋の足を踏みつけた。
「痛い」
秋は無表情で、つぶやく。
「ウソつけ、このゲジマユ! 微塵も歪んでないジャン。つーかさ、今またあたしの優先度下げたよね?」
「2、」
「なんで。王様の命令きけないの、サイテー。優先度1はなんなの?」
「夕飯」
「……いいよ、コレで」
春子はコンペイ天然水をかざす。
水の中で、溶けはじめたコンペイトウがゆれた。
☆
結局、不登校の理由を訊かないままだったと秋が気付いたのは、翌日の放課後。教員室に入ろうかという時であった。
あの後、一旦春子の家を出て隣の自宅に戻り母親の手料理をタッパーに詰め春子の部屋へ行き夕飯を一緒に食べ……。
秋は更に回想する。
全部食べ終え、ゲップをし、恥ずかしそうに「あー、満腹!」と身体をのばした春子の、あの一言を。
――シューちゃんのビョーキ、どうやったら治んのかな。
春子の部屋の一角には、集めたぬいぐるみが山のように置かれている。
その隣に投げ出された「数U」や「地学」の教科書たちには、うっすら埃が積もっていた。反対に、勉強机の上に置かれていたのは、何度も読み返したあとが見える分厚い医学書ばかりだった。心理学、認知療法、脳の仕組み、神経入門、ニューロン……。
「よぉ〜シュウ!」
秋の背中を軽く叩き回想から引きもどしたのは、C組の朝倉六月だった。円柱形の透明なプラスチックを秋の目の前につき出す。標本のように収まっているのはバドミントンの羽根だった。
「佐々木先生、まだ第二体育館だぜ?」
そういえばバドミントン部の顧問だったな……と秋が無表情で思案していると、中学校では三年間同じクラスだった六月は、何を思ったのかいきなり秋の背中をバシバシと叩きはじめた。
「痛、ムツキ、何、おい、やめろっ」
無表情のまま手を払う。
そこにあったのは、いつものお調子者の顔ではなかった。口元は笑ってはいるが、瞳にどこか諦めたような悲しみがこもっている。
「悪ィ、」
「……殴っていいか?」
「なんでだよ!? 悪いっつったじゃん! あっ、つうか、佐々木先生に用あんだろ? 殴るより体育館行けってー…」
「優先度2」
「出た優先度! どーせ優先度1が俺を殴る事なんだろ、アーアー! 俺はたださぁ、あんまり佐々木先生が困ってたからぁ、ちょろっとネ? 助け舟出しただけだって! ダ・イ・ジン」
その一言で、秋の奥底から今度こそ怒りがわきあがってきた。
しかし、顔には出ない。
出せない。
出せなくなってしまったのだ。
能面のような無表情で、ガンッと壁に拳をぶつけると、秋は大股で自分の教室へと戻った。報告は、明日でもいいだろう。
教室に入ると、人はまばらだった。クラスメイト達は全員部活に行ったか下校したかのどちらかだ。秋は、自分の机の横にかかっているリュックを勢いよく取った。
「あ、シュウ! いたいた。今日こそゲーセン……」
廊下から声をかけてきた奈良を無視して、秋は足早に玄関へと向かった。下駄箱から靴を取り出しながらあの日を思い返す。
中学三年の夏の終わり。
なんでもない、平和な一日だった。
特筆すべき事件などなにもない。
ただ、PTAの会合があるため部活が休みとなり、久しぶりに春子と一緒に家へ帰った。しかし道中の会話も、特にあたりさわりのない、何でもない事だったと記憶している。
おそらくは次の日からだ。
秋の表情筋は一切仕事をしなくなった。
それだけの事だ。
春子が気に病む必要などどこにもない。
第一、気に病むならその時点から休めばいいのだ。なぜ高校に入ってから、と、秋は思う。
もちろん入学した当初は、一切笑わない堅物としてクラスメイト達から距離を置かれていた。だが、今ではクラスの一員として、会話もそこそこするし奈良に付き合ってゲーセンに行く時もある。女子からはまだ怖がられている節があるが、それは中学でも同じことだった。元々そんなに表情が変わる人間ではなかった。
秋の頭の中に様々な疑問が沸き起こるが、いったんそれを横に置き、優先度1の用事を片付けることに決めた。
塾へ行っての勉強である。
集中して雑念を頭から消し去ると、勉強は容易に捗った。だが、休憩時間に自販機に行った時。商品二段目の右側にコンペイ天然水を見つけ、秋は胸の奥が締め付けられるような感覚に襲われた。
500円を入れると、おつりと共にゴトンと、天然水が落ちた。
■ 3 二人の王国 ■
翌日の朝。
秋は両親に断り学校を休んだ。
朝食後、両親を見送った秋は九時過ぎに春子の家へと歩を進め、門の前に立った。
幼い頃の王国ごっこで隠した鍵を探す。
秋の記憶通り、庭の隅にあるもう枯れ果ててしまった植木鉢の下に置かれていた――。
――カチリ。
家の中に入った秋は、靴を確認する。春子の母親の靴も父親の靴もない。あるのは、埃をかぶった茶色のローファーだけだ。
おじゃましますと呟き、靴を脱いで二階へあがった秋は、春子の部屋の前で立ち止まった。
一呼吸し、扉をノックする。
「ハル、俺だ」
「………」
応答はない。
だが、秋はもう一度ノックした。春子の部屋のカーテンが開いていることは確認済だ。春子は起きている。
秋は額に手をあててため息をついた後、改めて呼んだ。
「春王国・国王さま。大臣ですが」
「はぁーい」
今度はすぐに返事があった。
ドアを開けると、先日と変わりない部屋が現れた。変わっているのは、机に向かって勉強している春子の姿だ。
テーブルライトをつけ、大量の専門書に向き合っている。ノートの上ではペンシルが走りつづけ、止まる様子はない。秋は、それらの専門書の中身が自分の症状に関するものだと知っている。そして、いくら本で知識を叩き込んでも、無駄なのだ。無駄なはずなのに、学校を休んでまでやめない春子に苛立ちすら感じている。同時に、自分のことを想ってくれているのは分かりすぎるほど理解している――。
また胸の中にもやもやとした苦しい痛みが現れ、秋はズカズカと部屋に入った。
春子の右手首をつかむ。
ペンシルが、手からこぼれ落ちた。
「……何?」
春子は怪訝な顔で秋を睨みつけた。
秋も無表情で春子を見つめる。本当は、心の中では、とっくに別の表情になっているはずなのに。
「外行くぞ」
「は? なんで? ……学校は??」
「サボった」
その言葉を聞いた春子は「あーっ!」と声をあげた。
「サボリって、いっけないんだー! ダメじゃん大臣。あたしは王様だから別にいーけどぉ。大臣はさぁ、ちゃんとベンキョーしなきゃー…」
「――うるさい!!!」
突然の秋の大声に、春子はギュッと体をこわばらせた。数秒後、ゆっくり、そして呆然と、見知らぬ男のようになった秋を見上げる。
テーブルライトが少し動き、専門書の影がゆれた。
時計の針が、小さな音を規則的にたてて進んでいく。
二人は。
まるでそこだけ別の世界に囚われてしまったかのように固まった。
沈黙が続く。
お互いに、次の言葉を探している。
けれど、そんな言葉はどこにも落ちていなかった。
秋は自分に言い聞かせるように、春子の手首から自分の手をそっと放した。
それを見て、春子は、掴まれていた部分を静かに撫でる。しばらくそうしていたが、春子は椅子をひいて立ち上がった。ベッドの方へ数歩進み、秋に背を向ける。
「……出てって」
「ハル、」
「出てって。着替えるから」
☆
外は快晴であった。秋が表情を失う直前の、あの夏の終わりの空とよく似ていた。
秋と春子は並んで外を歩く。
会話らしい会話もせず、ただただ歩き続けた。
そのうち、先ほどから秋が感じていた気まずさも、だんだん海の砂のように凪いで無くなっていく。
幼いころ秋がのぼった電柱。小学生のころ春子が家出した公園。中学生のころ待ち合わせた目印の商店看板……。
この町は春子との思い出であふれていた。
秋がふと春子に目をやると、春子は、幼いころ二人で幼虫を探しに出かけた神社の方角をじっと見ていた。おそらく神社に行きたいのだろうと秋が体の方向を変えると、春子も大人しくそれに従った。
二人で階段をのぼる。
まだ蝉は出ておらず、境内の中は静まり返っていた。
秋が賽銭箱に硬貨を投げ入れると、春子はあらん限りの力で鈴緒を振り回した。ガランガランと乾いた音が、深緑の木々に響き渡る。
手を二回たたき、春子は少しお辞儀をするような格好で静かに祈った。
……おそらく、無表情が治るようにと願っているのだろう……。
それを思った瞬間、また、秋の胸の奥が静かに締め付けられた。
「俺は別にこのままでいい」
春子がハッとした表情で秋を見上げる。
そんな春子を見つめかえす。
春子の瞳の奥に、疑問を見つける。
『しゅーちゃんはそれでいいの?』
そう、言いたげな瞳だ。
秋は無表情で頷いた。
春子はくるりと回転し、段を降りると
「あっそ!」
と明るく言った。
神社の階段をくだった所で、自動販売機をみつけた春子は駆け寄った。秋がお金を入れると、春子はまっさきにコンペイ天然水のボタンを押す。
鈍い音とともにコンペイ天然水が出てくる。春子はキャップをひねり金平糖を水に落とすと、口をつけずに秋に渡した。
「はい、大臣」
秋は受け取り、無表情で一口飲んだ。