■ 君の不思議な問題点 ■

■ 1 練習曲、二番のハノン ■

 軽快な音が、わたしの耳を駆け抜けていきます。
 床にすわっているピアノを聴いているのはわたし。椅子にすわってピアノを弾いているのは君。わたしの恋人、な、らしい、立風君です。
 わたしたちは、お互いに告白したわけでもされたわけでもないのに、恋人と皆が言う、そんな仲です。
 そうそう、よく間違われるので言っておきますが、君、というのがこの人の名前です。
 たちかぜきみ。
 君はいやがるけれど、とても素敵な名前だとわたしは思います。
「ねぇ、君。さっきから弾いてる曲はなに?」
 わたしは微妙な繰り返しの音にスグ飽きてしまい、君にもう一度同じ質問をしました。
「ハノンだよ」
 君はさっきと同じ答えかたをします。
「指ならしのための練習曲」
「飽きないの?」
「なれてるから」
「どうして?」
「三歳のときからやってたから」
 一字一句間違えずに、わたしと君は先刻と同じ会話をしました。
 わたしはなんだか嬉しくなって、君の足元にメトロノームをおき、
「つけなくていい」
 君はそう言って、弾きはじめてはじめて指をとめましたが、わたしはかまわずメトロノームのオモリを一番上にあげ、びーっと指で押しはなしました。
 ……カッチン。……カッチン。
 おとがなります。
 このきかいのえらいところは電池がないところだと思うので、その旨を君につたえると、君は
「電池が入ってるのもあるよ」
 といい、それから、
「見えないだけで」
 とつけたしてメトロノームをとめました。
「やだ、やめないで」
 わたしは君の手からメトロノームを奪おうとしましたが、君は宝物をピアノのフタの中にかくしてしまいました。あの、つっかえ棒でとめる、ピアノの中が見えるところに。
「……さて、」
 君はスケッチブックをめくりました。
「次はー…」
 君のスケッチブックには、楽譜が一枚一枚貼りつけてあります。こうすると、きちんとめくれて嬉しいらしいのですが、わたしにはその違いがよくわかりません。
 今度は、さっきとちがう曲が跳ねました。先刻のよりは曲になっていると思います。
「これはなに?」
 わたしは君に聞きました。
「二番のハノン。きのうの夜にぼくが作曲した、指ならしのための練習曲」
 君はそういって、わたしに「どう?」という目で感想を求めました。
「まだぜんぶ聴いてないのに」
 わたしがもっともな意見をいうと、
「そうだね」
 君は笑いました。君が笑うなんて、めったにないことです。
 わたしはまた嬉しくなって、五本のゆびを一本ずつ折っていきました。
「君、わたし、メトロノーム、ピアノ、」
「二番のハノン」
「じゃぁ、二番のハノン」
 今度は折った指をもとにもどしていきます。
「二番のハノン、ピアノ、メトロノーム、わたし、君」
 全部もとにもどしてしまうと、丁度曲が終わりました。
 さいしょのハノンと同じように長いと思ったら、断然短かったので
「短い。もうおわり?」
 とわたしは君をみあげました。
「どうだった?」
 君が真面目な顔をしてピアノに聞くので、わたしはピアノの下に這って入って
「うーむ、なかなかであったぞ、おもてをあげい」
 と言いました。
「ピアノは外国から来たから、そんな口調じゃないよ」
「そうなの? じゃぁ、どんな?」
「知らない」
「君は三歳のときからピアノと話してきたのに、どうしてわからないの?」
 わたしは急に悲しくなって、泣きはじめてしまいました。
「ピアノがかわいそう」
 なみだが、ピアノの下のほこりと一緒になってわたしをなぐさめます。
 こういうとき、君は何も言いません。
 へたになぐさめても、わたしの涙は乾かないと知っているからです。
 やさしい君。
 声をかけてほしいときもあるのに。
「君はやさしいけれど、つめたい」
 わたしの言葉が伝わったのか、君はふっとかなしい声をだしました。
「こと子ちゃんはつめたい」
 一拍おいて、わたしはおもったより大きな声で、
「うそ」
 かなしい気持ちより、おどろきの気持ちのほうが大きかったわたしの瞳は、とたんに涙を出せなくなります。
「君のほうがつめたい」
 反論したわたしでしたが、口では君に勝てたためしがありません。
「でも、つめたいの次にやさしいっていった」
「うん」
 それは、確かにそう。
「だったら、わたしもやさしくなきゃ」
 わたしのなみだが本当に出てこなくなるのを見て、君はまた二番のハノンを弾きはじめました。
「こと子ちゃんは、つめたい。でもやさしい」
 みかけより大きな、君の手。
 わたしはピアノの下から出て、さっきまでいた君の足もとに座りました。

■ 2 即興曲、夕日のハノン ■

「コトコちゃん、キミ、7と11の公倍数はいくらだと思う?」
 あぁ、また始まったわ。
 そう思ってチラリと右側を見ると、君はチョコレイトの板を口に入れたまま、幸せそうに目を細めました。
 部屋の窓から西日が差し込み、君の黒髪を、はしっこからオレンジにします。
 わたしと君が座っているソファもオレンジ。
 目の前に座っている、博士の白いワイシャツもオレンジ。テレビも、窓辺に座っている猫も、壁に掛かっている鏡もオレンジです。
「さあ、答えてごらん」
 博士は、その頑丈そうな顎から伸びた黒いヒゲをなでて、優しく言いました。
 こんな普通の家の普通の居間より、研究室や大学の講堂の方が似合っているのに、とわたしは思い、それから考え直しました。
 博士にだって、家庭生活というものがあるのです。
 ただ、家に帰った時点で全てを忘れられないだけなのです。
 ……大切なのは公倍数ではなく、その向こうにある本当の問題。わたしは今から君と一緒に、博士の言わんとしていることを見極めなければいけません。
 そうそう、今まで何度も言っていて、そのたびに、君に失礼だと思いますが、わたしが言わなければ誰かが混乱してしまうので、最初に言います。
 この、わたしの隣で平然と、博士ではなく博士の隣のテレビを見つめチョコレイトを食べているのは、わたしの恋人、な、らしい、立風君です。
 君、というのがこの人の名前です。
 タチカゼキミ。
 わたしたちはお互い、付き合いましょうなどという宣言をしていないにもかかわらず、恋人だと皆が言う、そんな仲です。
 博士はわたしの目の前に置かれていた蜜柑のカゴをちょっとだけ右に寄せトントンとテーブルをたたき始めました。
 トントン。
 トントントン。
 テーブルがかわいそう、と、言おうとしたわたしの耳に、君は
「……ハノン弾きたい、今日はまだ一回も弾いてないんだ」
 少し高めの美しい旋律で裏うちをしました。
 まったく。
 そんな理由じゃあ、博士は許してくれないの、わかってるでしょう?
 キッと睨みつけると、君はしぶしぶ唇をとがらせて
「ボク、バカだから簡単に言うけれど、77じゃないかな」
 窓の外へと視線を移しました。
 博士は満足そうに「うんうん、それが一番早い」とうなづき「だがしかしだね」と、決まり文句を口にしました。
 だがしかし。
 だがしかし。あぁ、だがしかし。
 わたしがいくら「やめて」と願っても、その言葉は博士の口からドジョウのように何度も何度もつるりと出てくるのです。
 可愛い博士。
 たとえもっと若くても、わたしは、付き合おうとは思わないけれど。
 博士は
「ううん」
 と、困ったように眉間にシワを寄せました。
「私が言っているのはだね、約いくら、というぼやかしの入った最小公倍数の話であってだね……」
「ねぇ博士」
「なんだいコトコちゃん」
「数学はぼやかしちゃだめって、前に」
「いいんだよ、これは大学の講義でも、私を慕う研究員へのあてつけでもない」
 わたしが言いかけたのをさえぎって、博士は笑いました。その見るからに大きな手は、君の食べていたチョコレイトを「ひょい」と取り上げます。
 とたんに君は不機嫌な顔で
「返してください」
 博士からチョコレイトを奪い返します。
 君がこんなに表情をかえるのは珍しいことなので、わたしは少し嬉しくなりました。猫が「ファー」とあくびをします。
 博士は君の持っているチョコレイトを指差し
「そこに、カカオ72パーセントと書いてある。このシリーズでは、確か99パーセントのものも発売されているね?」
 と言いました。
「ここで、前者を約7。後者を約11としたとき、99パーセントのチョコ二つぶんのポリフェノールを摂取するには、72パーセントのチョコ約3つぶんとなる、つまりー……」
 わたしと君はもう教育テレビしか観ていません。わたしは、もう、チョコレイトはお腹一杯だから、君は、大好きなピアノレッスン番組の時間だから、です。
 君は、しばらく番組を見て再放送だと気付きました。つまらなそうに「あーあ」と言ったあと、呆れ顔で博士を見ます。
「どうせ同じカカオぶんをとるんなら、甘い方がいいじゃないか、って? 親父」
「その通り!」
 博士は嬉しそうに笑い、わたしは、博士に一応の拍手を送ります。
「コトコちゃん、いいよ、こんな奴に拍手なんて」
 君はわたしの両手を包み込んで
「親父、あっち行って。これからコトコちゃんとキスするんだから」
 足で博士を追い払います。博士は台所へ逃げて行き、そのうち君のお母さんの笑い声が聞こえてきました。
「キスなんて、したくもないくせに」
 わたしがそういうと、君は
「してほしくもないでしょ」
 と言って、手をはなしました。
 君って本当にバカ。
 してほしいときもあるのに。
 きっと博士に似たのだと、一人で納得していると、君は「また飛んでる」と目で笑ってチョコレイトの銀紙を丸め、ゆっくりとソファから立ち上がりました。
 銀紙をゴミ箱へ捨てると、
「ね、あとでハノン弾くけど、今日も夕飯食べていく?」
 君はくるりと振り返り、今日も、かしげた首のオレンジで、わたしをとりこにするのです。

■ 3 夜想曲、真夜中のハノン ■

 わたしがその電話ボックスに走って最初に失望したのは、色が緑じゃないということです。
 扉のかたさはいいの。それが公衆電話というものの「サダメ」だとわたしが思っているからです。
 次に、何度入れても五十円玉が拒絶されること。
 硝子があからさまにキレェで、くっきりと夜が映ること。
 ボックスの横に説明書きがついていること。ボタンが白いこと。受話器を持ち上げたときの音がもれなく高いこと。
 そしてなにより、君の家の電話番号を書いた紙が、手の中でしわくちゃになっていたことでした。
 仕方なく取り出した十円玉がピカピカで、わたしはまた大きなため息をつきます。白い息が出てくると思ったのに、わたしの口は、なにも生みません。
 この公園の電話ボックスは、ベンチの横にポツリと立っていて、駅のボックスとは大違いです。静けさとひきかえに、隣に自動販売機がありません。
 両替できないわたしの財布のなかにはもう十円玉がなくて、くすんだ百円玉はいちまいあって、もっとくすんだ一円玉は、ごまい。
 君に電話したいのに、ピカピカが惜しい。
 時間なんて、学校に行けば沢山あるのに、こんな真夜中でさえお金を使わせる君の意地悪さに、わたしはちょっぴり腹がたちました。
「……バイバイ」
 そう、ピカピカに別れを告げて灰色の機械に押し込みます。
 冷えた指を曲げて、わざとボタンを押しづらくしてみたけれど、あんまり意味がないのでやっぱりやめました。
 カリチ、カチリ、指が、ボタンにこすれて、ぷるるるる、ぷるるるる、耳のそばの呼び出し音。
 三回も、鳴らないうちに、
『はい、タチカゼです』
 遠くの。
 君の、家の、あたたかいシチューやオレンジに光る黒猫の目、口癖の多い博士とお母さんの笑い声、みんなみんな繋がって思い浮かべた瞬間、君は
『コトコちゃん?』
 と、笑いながらわたしの正体を言い当てました。
 まるで今、この電話ボックスの隣に、立っているかのような鮮やかさで。わたしはとたんに嬉しくなって、電話じゃ言わないでおこうと思っていた、とっておきの秘密を君にうちあけてしまいました。
「今ね、七草公園に居るの。コップ座が見えるわ」
『そう、』
 君は笑って、それはわたしが声から想像したのだけれど、ハッキリと笑っている君が、
『いいね』
 見えて、わたしは
「あのね、今から」
 ブウと、ふてくされた警告音が距離をさえぎって、受話器を肩にはさんだまま急いで百円玉を用意したのに、財布から出すと思ったよりもピカピカで、手放すのが、ひどく、惜しくなってー……。
 ――もったいぶった様子もなく電話は切れました。
 受話器を置いて、何度も考え直そうとしたのですが、やっぱりピカピカだったので、重いドアを開けました。
 しばらく芝生を歩いて、空をみあげて手をひろげて。
 誰もいない夜に、誰かを立たせようと思ってわたしは、君の星座を探します。
 適当に、みつくろってくっつける。
 あれがピアノ座、あれがハノン座、あれが黒猫座、あれが博士の教科書座。
 そしてあれが、君の星。
 君の、横顔みたいな星座。あの大きな手の、星。君が弾く、踊る音たちの星。そしてあっちがー……。
 ふと、急な足音に振り返ると、誰かがこちらに走ってきました。
 ドキリとして身構えたけれど、見慣れた身長にほっとします。
 この公園の裏手は、君の家。
 実は、すぐ近くなのです。
 君の、その足音がサンダルじゃないことに気づいて、わたしは
「プリン!」
 と叫んでしまいました。君は笑って近づいてきます。ちょっと、息を、きらしながら
「コップだから、プリン」
 クスクスと笑う君に、とがらせた唇を向けて、わたしは
「今日はもう弾いたの? ハノン」
 いつものように訊きました。
「今から弾くところ。だから、家においで」
「いいの、それより見て!」
 わたしは君の腕をとって、わたしと同じ場所に立たせようとしました。
 ね、見て。
 あれがわたしの気持ちの星なの。
 君には見える?
 わたしの星なの。
「……多すぎて、どれだかわからないよ、コトコちゃん」
 君は眉を少しだけひそめて、微笑みました。
 なんてこと。
 やっぱり、わからないんだわ。
「ひどい……」
 こんなに、好きなのに。
「君はひどい! ハノンだって、毎日夕方に弾くじゃないっ。本当はもう弾いたくせに、バッカみたい!! わたしに気をつかって、おいでなんて、」
「コトコちゃんはひどい」
 君のあたたかな指が冷えた空気をすりぬけて。わたしの頬をやんわりと、なぞりました。
「星と一緒に意地悪するのはダメだよ、コトコちゃん。ちゃんと自分で云わないといけないのに、やっぱり僕に云わせようとするんだね」
「ちがう、」
 言いかけたわたしの口を、君は、くすりゆびでおさえました。
「コトコちゃん、違わないよ。僕は、コトコちゃんが好きなんだ。だから家においで。泣くのはそれからでいいから、一緒にハノンを弾こう」
 星のような彼の名前は、タチカゼキミといいます。
 立風君。
 君はいやがるけれど、わたしは好き。
 君の大きな手は、毎日、ハノンを丁寧に織って、次の日になったら、きっと、もう、放課後の音楽室で、噂じゃなく一緒に居られるのです。