■ 消えた水色 ■

■ 1 不機嫌な水色 ■

 待ち合わせをした会場の外はひえきっているというのに、マリアンヌは水色の可愛らしいドレスそのままに走ってきて私を驚かせた。カールさせたブロンドは通りのガス灯でオレンジに浮き上がり、お出かけ用の少し高めのヒールがコンクリートを小刻みに打ちつけている。
 飛び込んでくるつもりのようだったので両手を広げて受け止めた。
「パパ! 待った?」
 息を切らせて上気した頬は、寒さなど感じないらしい。
「十年くらい待ったかな、早速中に入ろう。寒くてしかたないよ」
「会場は? もう開いてるの?」
「ああ、」
 小さな娘に腕を差し出す。
 軽く組んで歩き出してから、歩調を合わせて階段をのぼる。入口で半券を切って渡され、台に積んであったプログラムを一枚取った。
 ホールの外の廊下ははちきれんばかりの人であふれていた。どうやらトイレ待ちらしい。皆、思い思いの格好をして立っている。私の娘が一番だとひとりごち、ちらりとななめ下を見ると、宝石のようなブルーの瞳が――私の遺伝を受け継いだのはこの部分だけだった――ニッコリと三日月を描いた。
「トイレはべつにいいわ。席についたらプログラム見せて!」
 マリアが楽しんでくれるといいが、と私はガラにもなく思った。
 離婚調停も佳境をむかえ、しがない労働員だった私は、元妻のビビアンに親権をゆずることにした。女の方がなにかと手間をかけてくれるだろうし、離婚となった理由は、私が州の外に出張に行ってばかりだったからだ。娘にさみしい思いなどさせたくない。
 それに、私と違ってビビアンにはもう既に恋人がいる。
 ケインズという名前の男で、今夜は彼がマネージャーをつとめる楽団の季節に一度の公演会だった。
 私の可愛い娘は、ケインズの事を好いていないようで。今回の公演も、もちろん私もクラシック好きとして観に来たかったものだが、ケインズの仕事ぶりを見て、マリアにどうにか心を許してもらえるよう、珍しく元妻に頼まれたからでもあった。
 私も、妻も、お互い愛情はなくなっていた。私は愛のかわりに諦めを手に入れ、妻は愛の裏側から憎しみを取ってくるまでになった。
 しかし、マリアに関しては例外だ。
 提案は受け入れることにした。そもそも、ケインズが働いているとは知らず、私は既に自分のぶんのチケットはリザーブしておいたのだ。
 指定の席に座り、しばらく待つと照明が落ち、幕があがった。出てきた燕尾の男。ケインズだ。調停前に数回会った時は殴りかかりそうになるほど口の悪い、だらしのない男だと感じたが、グレーの髪をバックになでつけ、颯爽と歩く姿はどこかさまになっている。思ってみると、確か前の公演のときにも出てきたような気がする。
「レディース・アンド・ジェントルマン! 今宵は、我らアンドリュー楽団のコンサートにようこそお越しいただきました! ………」
「わたし、あの男キライ」
 隣に座っていたマリアが唐突につぶやく。
 ギョっとして見ると、先ほどまで三日月だった瞳はゆがめられ、今にも泣きそうに私を射抜いていた。
「パパ。わたし、あんな奴と一緒にいるのイヤ。ママもこわい。あそこには要らない子なんだわ。パパと一緒に暮らしたい」
「……いい子だから、ここではそんな話題を出さないでくれ」
 私の反対隣りに座っていたいかつい男が、ゴホンと咳払いをした。
 あわててプログラムをマリアと見るフリをする。最初から謝肉祭か。飛ばすな、と、誰にともなくつぶやくと、マリアが水色の胸飾りをいじりながら、いやそうに「あ、」と声をあげた。
「ママに言われて、あの男に渡すものあったんだ……。パパ、ちょっとわたしのバッグ持ってて?」
 押しつけられたのはビビアンの小物入れだった。ニセモノのパールが贅沢にあしらわれた白いものだ。昔、私がビビアンにプレゼントした。
 それに気づいたときぐらりと眩暈がした。
 ドレスと同じような水色の封筒をつまらなそうに持ち、楽団員のチューニングの音とともに小さな娘は座席から飛びだした。ネコの様にスルリとホールの外へ出ていく。
 ケインズはもう舞台にいない。おそらく、舞台裏で渡すのだろう。
 指揮者が出てきて拍手がはじまった。一曲分は仕方がない。二曲目からは娘が飽きないように解説でもしてやろうか……。
 毎日馬車馬のように働いている身分にとっては、こういったコンサートはこのうえない楽しみであった。出張も多いが、見知らぬ土地でのジャズバー探しや中古のレコードショップ探しなど楽しい事も多くある。しかしビビアンは理解がなく、チケットは散財だと罵った。激しい喧嘩は、ときおり私にもわからない白い空白を連れてくる。次に気づいた時には、ビビアンはいつも泣きながら床にくずれおちている。
 そんなだから離婚になったのだ。
 十分わかっているが、もうどうしようもなかった。
 おそらく、ケインズの各地への公演出張も、良くは思っていないだろう。女は、どんなになっても一定の特徴のある男に恋するものだ。責めはしないが、一体どうしてだろうと、ずっと疑問に思っている。
 二曲目が終わってもマリアは席に帰ってこなかった。
 集中して聴けなければ、クラシックというのはすぐに楽しくなくなる。私はどうしたのだろうという思いにかられ、拍手のなか席を立ち、舞台裏へ行くことにした。
 一旦ホールを出て、廊下をずっと舞台側へ。案の定薄暗いあたりにロープがはられ、ひょろ長い警備員が一人ポツンと立っていた。
「君。ちょっとすまないが、娘を見なかったか。舞台裏へ行ったはずなのだけれど……」
「見かけませんでしたな」
「可愛らしい、小さな、これぐらいの、水色のドレスを着た少女だ。髪はブロンドで、青い目をしている」
「いや、公演がはじまってこちら、そんな子は見ませんでしたね」
「舞台側へ行く通路はここだけかい?」
「ここじゃないとすると、あとは裏口からしか入れませんぜ」
 見た見ないでしばらく押し問答する。
 仕方がないので、会いたくはないがケインズの名前を出した。
 警備員が消えて数分、通路の奥から出てきた燕尾の男は、私を視界にとらえると「やあ!」と快活に手をあげた。
「久しぶりだねジャック。来てくれて嬉しいよ」
 まるで旧友のような話し方にいささかムッとしながら、私は簡潔にマリアは見なかったかとたずねた。
「マリア……?」
 一瞬、ぽかんとした顔。そして、
「誰だいそいつは。君の新しい恋人かなにかかい?」

■ 2 消えた水色 ■

「私の娘だよ! きみ、一緒に暮らしているだろう? きみに手紙を届けに、席を立ったっきり戻ってこないんだ」
「なに言ってるんだジャック? そんな子は知らないし、会ったこともないね。昔も、もちろん今日ここでもだ」
「なんだって?!」
「だから、知らないってば! ――なあ?」
 ケインズは隣の警備員にうなずきを求め、警備員は大げさに首を縦にふり「警察を呼びますか?」と言った。
「そうしてもらった方がいいだろう。こいつは俺の恋人の元夫なんだ。腹いせになにされるか、わかったもんじゃない。今がそうかも知れん」
「ふざけるな!」
 殴りかかろうとした瞬間、警備員はサッと動いて私を羽交い絞めにした。
「放せ! 私は正常だ」
「正常な人間は、いきなり殴りかかろうとしないはずですぜミスター!」
 警察が到着するまで、私はホールの中も、外の廊下も、もちろん会場の周辺もくまなく走り回った。しかし水色の少女などどこにもおらず、残すところは舞台の裏だけとなった。
 やってきた警官は一人だけで、私と同じくらいの年齢に見えたが、私より背が低く横に大きい。私の話をきいたあと、同じ所をもう一度いっしょに見てまわってくれた。
「いないようですな、エンバーンズさん」
「あとは舞台裏だけなんだ」
 警備員に話をつけ、舞台の裏側にまわっても、その地下の物置にもマリアはいなかった。舞台の裏へ戻り、三曲目が終わった頃には関係者全員に話をきくことができた。だが、誰も見たことはないと言った。
 私は違和を感じていた。息がつまりそうだ。なんだかこの舞台裏全体が、重くのしかかってくるようで、しめてきたタイをゆるめた。
「あれは?」
 と警官が言うと、私の反対隣りにならんでいたケインズが答えた。
「あれはバイオリンなどを入れて持ち運ぶケースですよ。ちょっと手狭ですが、ここに置くほかないんです。こっちはスコアをまとめて入れる段ボール」
 ほら、と段ボールをあける。中はカラッポだ。
「もういいでしょう刑事さん。そもそも、俺はマリアなんて子供は知らないし、誰にきいてもいなかったでしょう。こいつの妄想かなにかじゃないんですかね」
 殴ってやろうと思ったが、私の後ろにはさっきの警備員がついていて、拳はピクリと動くだけだった。
 警官は少し考え込み、慎重さがうかがえる顔で私を見た。
「そうだな……そもそもあんたに娘なんているのか?」
「いる」
 私は即答した。
「証拠は?」
「これだ。この小物入れ。さっきまで、マリアが持っていたものだ」
 しかし中を開けてみても、ビビアンのものばかりだった。この化粧品も、このハンカチも、このコンパクトもだ! 見たことがあるものばかりだ。ケインズは横から、それもしかして全部ビビアンのものじゃないのかいと言った。
 警官が目で私にうったえる。うなずくしかない。
「妻に……、元妻にきいてください」
「元?」
「離婚したんです、親権は彼女が……」
 ビビアンは私と住んでいた家をとっくに出ていたため、彼女が上がりこんでいたケインズの家に電話をかけることになる。
 しかし、警官は電話口で少し話したあと、驚くほど早く電話を切り、私にこう宣言した。
「彼女に娘などいないそうだ」
「そんな!」
 嘘だ、と叫んでも、もうケインズはおろか、警備員も、警官さえも信じてはいないようだった。私は走りだし、大声でマリアとさけびながら廊下に飛び出した。
「マリア! もうかくれんぼは終わりでいいんだ! マリア! マリア……マリンヌ!!」
 廊下に立っていた数人が、気ちがいじみた私の叫びにそそくさと退散をはじめる。がらんとした玄関口――今は扉が閉まっている――が私を冷徹に見つめていた。ここから一緒に入ってきたはずなのに、どこへ消えてしまったというんだ。
「ちがうんだ…本当に……マリア…」
 私の可愛い宝石。
 急に世の中のすべてから、ふっと色さえ消えてしまったようだった。奇妙な世界にまぎれこんでしまった感覚。
 おぼつかない足取りを、追いかけてきた警官が腕でささえた。
「ちょっと休もうか、エンバーンズさん」
 ホールの外の廊下にはいくつか椅子が置かれている。私は座らされ、警官は立ったままだった。
 もう何十分も私の手は顔の前にあって、つまるところ、私は他人のまえで泣いていた。公演は終わっていて、けれど、出てくる人波にも娘の姿がなかったのが、警官の声で分かった。それからもっと時間が経ち、警官がタバコを吸い終わる頃には廊下には誰も、ゴミ箱を逆さにして、大きな手押し車に集めている清掃員しかいなかった。
「証拠があれば俺も信じたいがね、エンバーンズさん」
 こんな寒いのにドレスのままで来たため、ストール一枚も見つからない。小物入れの中は全部妻のものだった。そして警備員も、ケインズも、ビビアンさえも娘の存在を否定する。まるで幻か何かのように。
 私は怒る気力すらなくしていた。
 本当にいるんだ。
 本当なんだ。
 ポケットに入っていた二枚の半券を出しても、警官は首をふった。
「もっと確実なものだ、記憶じゃなくて、物品でだ」
「君に……、君には娘はいないのか」
「いるがね」
「名前は?」
「エミリー」
「違う、あんたの名前だ」
 紙のカップに入ったコーヒーを啜っていた警官は、いぶかしげにブライアンと呟いた。
「ブライアン。頼む。信じてくれ。信じて、警官としてじゃなく、一人の男として頼んでいるんだ。私に、お前に娘はたしかに居たと。そう肩をたたいてくれるだけでいいんだ……」

■ 3 証明された水色 ■

 警官、ブライアンは、太い唇と眉間を歪ませ目をそらした。
 マリアの居ない世界なんて、灰色だ。
 味方なんてひとりもいやしない。それが、どんなに辛いことかー…
「……生きていけない」
「違う、」
 呟くと同時にブライアンは走りだした。清掃員が集めていたゴミ入れカートを目指して。清掃員が何をするんだと怒鳴るが、負けじと「警察だ!」と怒鳴り返し、ゴミをあさりはじめた。
 やっと追いついたところでブライアンが掲げたのはー…!
「それだ! その封筒だ」
「待て。俺が中をあける」
 ビリリと破った中から出てきたのは、折りたたまれた絵だった。
 クレヨン画だ。下に、M.エンバーンズと書かれている。
 M。
 マリア。
 マリアンヌ・エンバーンズ。
 私たちは時がとまったように顔を見合せ、最初の口はブライアンがきいた。
「肩は、たたかなくていいようだな」
「――ケインズ!」
「行こう、舞台裏だ」
 走って舞台裏に行くも、ケインズはおろか団員も、楽器もスコアもなくなっていた。
「帰ったのか、ちくしょう!」
「いや、だが目撃した人は一人も居なかった。お前も聞いたはずだ」
 そうだ、曲の合間の休憩時間に、団員達にも訊ねたのだ。
 そこでふと、私は舞台裏から感じていた違和感がなくなっている事に気がついた。あれほど重苦しかった空気が、さっぱりとしている。元凶がなくなったということか。
 元凶。舞台裏から無くなっているのは、ケインズと、団員と、そして
「ケース……」
「なんだって?」
「コントラバスのケースだ! プログラムは覚えてた、あとでマリアに聞かせてやろうと思ってー…」
「どういうことだ?」
「謝肉祭、鱒、四季! あともう何曲かあるが、今夜の楽曲じゃあ、編成でコントラバスは一台しか使わない!! ケースが多かったんだ、二台ぶんのコントラバスのケース! きっと、あれに入れてー…!」
 言い終わらないうちにかけ出した。
 裏口から駐車場に出る。
「来い! 俺の車だ!」
 乱暴にドアを閉めると、エンジンをかけながらブライアンは私の家の住所をきいた。セントルイース通り3078へ向けて、急発進させる。またたく間に角をいくつも曲り、中央通りに踊り出た。
「ケインズの家に行けばいいんじゃないか?」
「いや、奴らはこざかしい真似をしてお前を狂人に仕立て上げようとしたんだ。警備員も金で口止めしたんだろう。最後までお前に罪を着せる気なら、お前の家だ。俺の勘がそう言っている」
「罪?」
 罪……まさか。まさか、私がマリアをー…
「急いでくれ!」
「とっくに急いでる!!」
 両手を組み、神に祈っている間に、セントルイース通りへ出た。ブロックの手前で車をとめる。遠目に、一台見知らぬバンが停まっているのが見える。私の家の数軒先だ。
「応援は呼んである。俺が行く。お前はここで見張ってるんだ、いいな」
 拳銃を確かめるように胸にこすり、ブライアンは駈け出した。たまらず後を追う。目で来るなと言われたがかまわない。玄関まで来ると暗がりがゆらりと動き、何かの話し声が聞こえてきた。
 壁づたいにブライアンがにじり寄り、私はかがんで渡された懐中電灯を握りしめた。
 二人でタイミングを合わせて飛び込む。
「警察だ!」
 名乗ると同時に拳銃が火を吹いた。天井に向かって威嚇しただけのようで、私が照らし出したのは、ゴ、という音とともに床に落とされたコントラバスのケースと両手をあげているケインズ。
 そして、耳をふさいでおびえている、
「ビビアン!?」
 瞬間、私の諦めは、愛から変わった諦めだったのにそれすら消えてしまった。
「ジャック……! 違うの…私……!」
 もう、彼女の声をきいても何の感情も浮かんでこない。
 急に手のちからが抜けた。
 あっさりと終わった。
 数分後、応援の車が道路にとめられると同時に、ブライアンは手早く拘束したケインズとビビアンを放り込んだ。
「現行犯ってヤツだ。あとは署でじっくり聞かせてもらう」
「いや、まだだ」
 私は、さきほど音をたてて床に落とされたコントラバスのケースの留め金を、震える手で外していった。ブライアンが気づいて入れたスイッチで蛍光灯がつき、同時に留め金はすべて外れた。
 頼む。
 生きていてくれ。
 重い黒革のフタを、両手でゆっくりと持ち上げる。横たわっていたのは、布を噛まされ、縛られていた娘だった。ゆっくりと抱きあげる。
 小さな体から心臓の音が聞こえ、私は今夜で二度目の涙を流した。
 ようやく落ち着いてから、何も言わずに帰ろうとしたブライアンを引き留めると、彼はバツが悪そうに「俺の車に乗っけちまったな」と頭をかいた。
「いいんだ。明日歩いて取りに行く。さ、お礼を言いなさいマリア。お父さんは、この人のおかげでマリアを助けることができたんだ」
 ドレスから私のトレーナーに着替えた娘は、ぶかぶかの裾を持って涙の残るブルーの瞳を恥ずかしげにほころばせた。
「ありがとう、エミリーのお父さん」
「知ってるのか?!」
「うん、エミリーは隣の席だもん。パパ、エミリーの事も知らないの? あーあ、授業参観に来てくれないからだわ」
 それを聞いたブライアンは、自分の肩を二回軽くたたき、ニヤリと笑った。
「俺の娘が実在するかは、すぐに証明できたようだな!」