■ i.(y)oman.te. ■

■ 1 十の夜の神話 ■

 黒い闇の中で「ぼく」は座り、一冊の絵本を読んでいる。
 手に紙の感触が。
 記憶というのは便利なものだ。「ぼく」はその絵本に書かれている神話が大好きで、小さいころからずうと読んでいるため、見えなくとも何が書かれているかイチペイジ単位でわかる。めくる。懐かしい感覚。その絵本の話を「ぼく」は心の中でくり返し声に出す……。
 昔々、神様は、ひとつの山をさがしていた。
 人間たちをみおろせる、別荘のような快適な山がいい。そうだ、探しに行こう。
 神様は大きな熊の姿になって、ひとつめの山に降り立った。
 そこは春の山だった。けれど花たちがさきに住んでいたから、神様は一晩そこで眠り、ふたつめの山に進んだ。
 ふたつめの山は夏の山だった。けれど魚たちがさきに住んでいたから、神様は一晩そこで眠り、みっつめの山に進む。
 みっつめの山は秋の山だった。けれどドングリたちがさきに住んでいたから、神様は一晩そこで眠り、よっつめの山へ。
 一晩ずつそこで眠り、神様は理想の山を求めて先へ進んでいった。
 四つ目は春の山。でも小鳥たちが住んでいた。
 五つ目は夏の山。でも草たちが住んでいた。
 六つ目は秋の山。でもシカたちが住んでいた。
 ここで神様は気づいた。冬の山が見当たらない。
 シカたちに聞いてみると、冬の山はなかなか住んでくれる友達がみつからないので、泣いて、遠くに逃げてしまったらしい。見てみたいのだけれど、と神様は言う。それならココからもっと、みっつよっつ向こうの方に居るかもしれないとシカたちは言った。
 七つ目は春の山。でも雨たちが住んでいた。
 八つ目は夏の山。でも太陽たちが住んでいた。
 九つ目は秋の山。でも月たちが住んでいた。
 そうして進んだ十番目の山。
 神様は理想のかたちをもった、見事な冬の山に出会った。
 まっしろな雪の上にはまだ誰も住んでいないし、木々も葉をおとし、人間たちをまっすぐにみおろすことができる。
 これはいい。
 神様はさっそく山のまんなかに大きな洞窟をつくって、快適な別荘にした。ちょっと腰をおろしてみる。うん、上出来だ。冬の山も、初めて住人ができたと感謝してくれている。
 あぁ。
 なんだか眠くなってきた。
 十日も歩き回ったのだ。
 すぐ夜。
 熊の姿をした神様は、別荘でぐっすり寝込んでしまった。
 ぐっすり。
 ぐっすりと。
 一方そのころ人間たちは、いつまでたっても春がこないので慌てていた。
 神様が雲の上に戻ってこない。一体どこへ行ってしまったのだろう。
 皆は手分けして十の山々をさがし、やっとのことで、洞窟の中で寝ている神様を見つけた。
 ……神様、神様、もう春ですよ、起きてくださしゃんせ。
 人間たちの声に目がさめた神様は、起こしてくれたお礼に、人々とひとしきり楽しく踊った後、ありがとう、ありがとうと雲の上へ帰っていった。
 雲の上に戻った神様は呪文をとなえ、山の下に、やっと春がめぐってきた。
 めでたしめでたし。
 おわり。
 パタリと本を閉じると「ぼく」はゆっくり辺りを見渡した。
 なんだか声が聞こえたような気がしたのだ。ふらっと立ち上がる。本が、手からすべりおちてどこかへいってしまった。
 今更なのだけど……ここはどこなのだろう?
 絵本に夢中で、まったく考えていなかった。どうしても前後が思い出せなくて、少し不安になる。
 現実感がない。
 ここは、夢?
『夢ではない』
 ――突然。
 目の前に、大きな光の玉が現われた。
 反射的にまぶたを閉じても、光は奥まで差し込んでくる。
 痛い。
 光に耐え切れなくなって「ぼく」の眼からとうとうと涙があふれ出た。
 玉はどんどん大きくなり、闇は消え、どこもかしこも白に染まってしまう。
『そなたのからだは死に至った』
 光の玉は言った。
 死?
 それを聞いた瞬間、脳裏に浮かんだのはひとつのビジョン。
 吹雪の山中。薄着で車から降ろされた。アンタ、この山で死にたいんでしょ、望み通り死なせてあげる。そう言って、薄笑いで見下ろしている彼女。そして。
 うっとりと見上げながら死ねる予感で酔いしれている「ぼく」だ。
 あれはー……。
『だが、ソに貸しおくれば、幾握かの月日を生きながらえよう』
 ビジョン。
 声。
 絵本はどこへいったの。
 呆然としたまま「ぼく」は口をパクパクさせた。たぶん、ハイとかうんとか、イエスとか、もちろんとかよろこんでとか、肯定的な意見を口にしたと思う。光の強さで頭がいっぱいで、自分が何を言ったのか正確にわからない。
 光の玉は「ぼく」に近づくと胸のあたりでふっと消えた。中に入ったのだとわかった瞬間、カッと体中が熱く。
 視界がゆがむ。立っていられない。くずれて倒れこむー…。
「――っア!」
 暗闇の中。
 僕は叫んで目を覚ました。心臓が、ドッドッと早鐘を打つ。
 落ち着く暇もなく、獣の臭いが鼻をついた。次に、頬や腕に当たっている、ザラリとした毛の感触。その当たっているところから静かに伝わってくる体温……体温?
『起きたか、ワタシの子よ』
 巨大な黒い熊が、低くうなるように僕に囁いた。

■ 2 神 i との会話 ■

 闇とはいっても、さっきまでの闇とは違う。目が慣れてくると、僕がどういう体勢でどこに居るのか、やっと理解できた。
 ここは冬山。洞窟の奥で、大きな熊が体を丸めて寝ていて。その隣に添うように、僕は、熊の体にぴたりとくっついている。まるで、母親にすがる子供のように。
 ここは、まさしく絵本の中のようだった。遠くの、外の気配は吹雪。洞窟内はしんと冷えきっていて、時折、つららから伝った水滴が、ピンと水溜りに落ちる。
 ようやく落ち着いてきた。首を横に動かす。
 僕はずいぶんと、痺れるように眠り続けたのだろう。筋肉がきしんで、悲鳴をあげた。
 唇をうごかす。
 どうしようもなく乾いて、声はガサリと耳に障った。
「わ…たしの……子…」
『そうだ』
 熊の体は微動だにしない。けれど、低い波が洞窟内に響き渡った。その重厚な振動に、僕は心をゆさぶられる。この土地で、熊が神と同等に扱われるのは当然の結果だ。
『神が、子を孕めぬワタシに遣わした子供だ』
 僕は。
 たぶん一回死んだのだろう。
 闇の中に現われた光の玉が今、僕の胸に宿って鼓動を繰り返している。
『眠れ』
 熊は言った。
『じきに吹雪が止む。アイヌがワタシを殺しに来るだろう。だがお前は死なない』
「……どうして」
『ワタシの子供だからだ』

     ★

 何度も目が覚めて、そのたびに僕はすこしだけ熊と会話した。
 会話が終わると、また何度も夢へ沈んだ。
 夢はどれもこれも不明瞭で、ただ、いくつかの映像が、余韻として僕の思考をいくばくか支配した。たとえば、今の状況なら俗世と呼べるであろう場所の、不愉快な誰かの声だったり、彼女が僕を蔑むときだけ見せる美しく歪んだ顔だったり。色々だ。
 汚らしい世界で、僕は神話を胸にやっと生きていた。
 あの十の夜と、僕の名前が同じだったから、やはりそれと同じこの山に、僕は、故郷ですらないのに家族のような感情を抱いていた。
 小さい頃から、つらい事があるといつも絵本を開いた。
 いつか、あの山に行くのだと言い聞かせて。
 ……数年前、就職して孤児院を離れてから、電車を乗り継いで初めてこの山に着いたときのことを、今でも鮮明に思い出せる。
 神話と同じように、山々は十あまりの連峰になっていて、裾野は道路でまわれるけれど登山道は全く整備されていない。頂上へ行くには、険しい獣道を進むしかなかった。季節は秋で、熊が出るおそれがあったため、金に糸目をつけず、僕は地元の、日本語ができる山伏数人に道案内を頼んだ。疲れて何度も立ち止まり、息を吐いてはまた歩く。
 数時間後の山頂の景色。
 後ろには広大な連峰、眼下に広がる集落、湖。遠くには湿原が広がり、ずうと向こうに霞んだ海が。晴れていて、でも寒くて、風が大きくゆれていた。
 あえて感動とはいわない。
 ただ安心しきって、少し、泣いた。
 翌日帰ってから彼女に蔑まれるまで、僕は、心を山に置いてきてしまった事に、まったくといっていいほど気がつかなかった。

     ★

『そこに木の実がある。食え』
 僕が起きたのを察して、熊は言った。手探りであてると、それが何かも確かめずに噛んだ。かたく、苦い味が口に広がる。でも、飲みこめないほど不味くはない。
 ありがとうというかわりに、僕は、山伏の言っていた話を唐突に思い出した。そうだ、山の裾野に住む人々は、熊のことをカムイと呼ぶ。
「あなたの名前を……知っているような気がします」
『そうか』
 洞窟内に静寂が満ちる。僕が二個目の木の実に手をのばしたとき、『だがそれになんの意味がある』
 と熊は言った。
『世界を言霊で縛りつけるな。ただ、ワタシは此処にあるだけだ。死ぬときは死ぬ。それが神の意ならば』
 僕が子供になったのも? と聞くと、熊は笑った。笑ったように聞こえた。
『レスウリピリカ』
「え?」
『お前が育つところを、見ていたかった』
 そんな言葉、今まで、かけられた事もなかった。望まれて育ったことなんて、ただの、一度も――…。
 ……僕は、本当にあなたの子供に生まれ変わったのだろうか。なら、
「あなたを別の名前で呼びたい」
 僕の知っている「熊」や「カムイ」なんて名前ではなく、もっと、別の。
『――来る!』
 その声が響くのと、熊が動き出すのと、ほとんど同時だった。
 大きな手が僕の体を引き寄せ、後ろへ隠すように押さえつけた。
「や……」
 衝動。
「やめてください、おかあさん!!」
 銃声。
 直後、何かが投げ込まれた。煙が洞窟内に広がる。更に続く銃声。頭を天井にぶつけ、暴れ、低くうねる叫び。それに混じる、人間たちの怒号。
 ズン、と大きな音をたてて母さんが倒れた。外から歓声があがり、土を踏む音がいくつも鳴る。上から覗き込まれている気配。
 母さんを足蹴にするな、バカ。
 睨み、そう叫ぼうとした時、針を刺したような痛みが腕に。うめいた僕を見て、男は言った。
「ラマッコロクル、イオマレ! 大変だ。何だ、コレは……」
 急に体が痺れてきた。目をあけていられない……。

■ 3 とある送り日前夜 ■

 夜、ラプが忍び足で僕の部屋に訪ねてきた。
 明日は送り日で、実を言うと、そうでなくとも僕との接触は避けるようにサパネフから厳令が下っている。
「トオヤ、逃げて」
 ささやくようにラプは涙した。
 最近の逢瀬は、いつもこうだ。
 結局。
 あれからどうなったかというと、母さんの言ったとおり、僕は殺されなかった。うすく目をひらくとそこには白髪のお爺さんがいて、私の言葉が判るかと、日本語で問いただした。
 それから一年あまり。
 僕はあの山をいつでも見上げることができる、この裾野の集落にお世話になっている。
 そのお爺さんはラマッコロクルといって、村で唯一の医者で、同時に通訳者でもあって、様々な悩み事を引き受ける相談屋でもあり、また様々な村の儀式を取り仕切る神官でもあった。
 目の前で泣いている少女はラマッコロクルの孫で、僕はそれなりに彼女を好いている。
「明日、あなたは死ぬわ」
「知ってるよ」
「わたしはいや」
「……君はいやがるだろうね…」
 僕がラマッコロクルの問いに頷いたあと、周囲の男たちは驚きを隠さず、好奇の目もほどほどに僕は今居る豪勢な部屋に入れられた。彩をそえた食事は日に二回あり、麻酔銃を撃たれた腕はお爺さんが丁寧に治療してくれた。
 数日。
 並べられた器に一切手をつけないでいると、村の頭であるという大男が僕の隣に腰をおろし、厳つい顔で何かをつぶやいた。あのとき、僕を見下ろし困惑していた男だ。
 ラマッコロクルが部分的に通訳する。
「私はサパネフだ。我々はお前を歓迎する。続く限りもてなそう」
「……母さんを食べたのか」
「そうだ」
 それきり沈黙が続く。僕はもう、何も話す気になれなかった。けれどサパネフは口を開いた。
「肉は貴重な食料になる。足の肉は若者に、腕の肉は女に、内臓は病弱な者に、その皮は服に、爪は装飾品となり、お前の母親全てが民の生きる糧になった。あとは儀式が残っている。このもてなしを受け入れてほしいが……」
「儀式?」
 そこでお爺さんは視線を泳がせた。何か、失言をしてしまったと言いたげな顔だ。サパネフと何度かやり取りし、少し迷ってから僕に言葉を伝える。
「お前もじきにああなる。お前の中の光を体から取り出して、雲の上へと帰すのだ」
 ドキリ、心臓が跳ねた。
 どうして知っているんだ。
 思わず胸に手をあて、サパネフを見る。
 二人は逆に驚いたよようで、雪が。風に舞って隙間から入ってきた。
 目の奥に、ちかちか、光るものがある。
 音にならない反芻。
『――に…ば、幾握かの月日を生きながらえよう……』
「トオヤ!」
 ラプが声をあげた。痛々しいくらい泣きはらした顔で。
「私、ずっと嘘だと思ってた……! トオヤを見たとき、皆が嘘をついていると、思っていたの。いつか、どこかの遠い国に帰るんじゃないかって。私を連れて、逃げてくれるかも知れないって!」
 外は凪いでいる。
 この様子だと、冬も、もうじき終わる。けれど、神の光を雲に帰さないと、いつまでたっても春が来ない。
 彼らはかたく信じているのだ。
 僕もひとつ、信じている事がある。
「本当に、母さんだったんだ」
 おかしいと思う? ときいてみた。ラプは涙を拭おうともせず、僕の顔を見つめた。
「……死なないで」
「僕はもう、一回死んでいるんだよ。ラプ」
 村の言葉はすぐに覚えた。
 やることもなかったし、なにより自慢したがりの子供たちは、僕に言葉を教えるのを一種のお遊びとし、ラマッコロクルもそれを推奨した。ここの言葉は独特で、日本語を忘れそうになる。
 ラプ以外の女性たちは僕を極力避けていたけれど、男たちは存外よくしてくれた。というのも、僕は、あれから動物の言葉がわかるようになってしまって、狩りのときは鳥の声を通訳したし、何か山に危険があると真っ先に伝えた。
 僕が村に来てから、山での死者は一人も出ていないと聞く。
「雲の上に帰らないと、」
「トオヤの居場所はここなの! 私、やっぱりサパネフに話してくるわ」
 知っている。
 ラプが、お爺さんの制止もきかず、何百回とサパネフに懇願したことを。けれどサパネフは聞く耳をもたなかった。熊送りの儀式は、正しく遂行されなければならない。神は、長く居すぎては困るのだと、ラマッコロクルが枯れた手を震わせた。一年。長くても二年。
 まだ何か言おうとしているラプの額に唇を寄せ、こちらから先におやすみを。
「佳い夢を、」
 ラプが部屋から出て行ったあと、僕は床に寝ころんだ。
 母さんの爪でできた首飾りを握りしめ、目を閉じる。
 十の山々を背にした夜、炎をかこんで酒を飲み、笑い、踊った。鮮やかな日差し。めぐっていく毎日の風。雨の音。月の光。訪れる季節。全てを感じて、僕は生きた。動物も、魚も、草も、花も、生まれては死んでいった。その美しく育つ瞬間を何度も心に映した。
 明日、僕の中から光が出てくるとき、少しだけ耳に留まってから天に昇るのだという。
 熊送り、イヨマンテの伝説。
 なんだ、感想を述べてくれるのかと僕は不謹慎にもわくわくしている。あのどうしようもないまぶしさの中で聞いた光の声が、記憶の奥の絵本のように、ありがとう、ありがとう、と言ってくれたら、思い残すことなんてもう、何もない。