■ 天空の計画 ■

■ 1 ワタシの夢 ■

 不明瞭な夢が唐突に、おれのまぶたを濡らした。
 布団から起き上がると鼻水まで出てきて焦る。寝巻がわりの黒いTシャツに、すんとこすりつけ台所まで5歩。湯沸かしポットに水を入れた。
 このワンルームマンションに越してきてからというもの、おれはよく朝方に、不明瞭な泣ける夢をみるようになった。ぼんやりと覚えているのは白く明るい空間の中おれと誰かと誰かと、おそらく10人くらいが何かの計画をたてながら笑って……。
 とにかく心安い空間で、おれはとにかく泣いてしまうのだ。
 乱雑な床から上着をひっぱりだし、古いポットの湯が沸くまで公園をぐるりと散歩することにする。
 裏路地を抜けると、ざあっと緑の匂いが風に薫る巨大な公園に出た。
 草をわけ――朝ツユがサンダルにしみる――ほどよく土で整えられた道に出る。向こうの丘には犬を連れた老人がいて、そこより近くのゴミ箱には、コンビニの袋がぞんざいにつっこまれていた。足元の空き缶をひろい、投げる。ゴミ箱からは大きくはずれて、あっちの草むらに落ちた。まぁ気にしない。
 ぶらぶら歩いていくと、丘の下に遊具が見えてきた。
 と。
 誰もいないことが正しい、朝に濡れたブランコに一人の少女が腰かけていた。
 ダボダボのジャージは茶色のシミがつき、腕には無数の痣。おでこには絆創膏が貼られ、頬は不自然にふくれている。ざくざくと風に揺れている黒い髪の毛は、もう何日も洗っていないと思わせるかたさで、家庭環境が容易に想像できた。
 目が合う。
 瞬間。
 少女は笑ったー…それも。まるで、久方ぶりに会った旧友に挨拶するような、そんな瞳で。
 足はすくみ、それ以上近くに寄れない。
 おれはきびすを返し、来た道を戻り始めた。

     ☆

 ――ここをこうしましょう!
 彼女の提案に、皆は一様におどろく。
 それはちょっとやりすぎだろう。試練すぎでしょ、さすがに。どうやって解決するんだ?
 といった疑問が、皆の口からこぼれおちる。
 私は、すかさず手を挙げた。
『彼女は私が救う』
 ……へぇ? どうやって?
 皆の視線が集まる中、私は『そうだな』と言った。『そうだな例えばー…』

     ☆

 寝巻きがわりの白Tシャツに、すんと鼻をこすりつけた。またなにか、懐かしい夢を見たような気がする。
 今日は公園には行かず、大人しく朝食を作りはじめた。が、目玉焼きは卵を割った時点で黄身が崩壊し、魚肉ソーセージは上手くむけずに折れ、珈琲はなぜか薄く仕上がり、散々な気分で会社に着き、タイムカードを取り出した。
「お早う谷原! ん? なんだ、今日は調子悪いのか?」
 声をかけてきたのは、同僚の中田悠美だった。大げさに考えるポーズをした後、
「ははーん、さては今朝、下痢したろ?」
「……もうちょっと言葉を慎めよ…女だろお前は……」
 前を歩いているスーツの社員が、一瞬ビクリとしたのをおれは見逃さなかったが、中田は気にとめた風でもなく、快活に笑いながら「悩みがあるなら聞いてやるよ」と無理やり今夜の約束を取り付けた。
 同期という事もあるが、中田はなにかとちょっかいを出してくる。それが許せるのは、おれ自身、中田に懐かしいような感情を抱いているからだった。
 ――そうだ。おれが引っかかっているのはそれなのだ。おれは、おれはあの少女に懐かしさを覚えていたのだ。

     ☆

 で? 次は?
 つ、次……? えーと…。
 ははーん、ここはウチの出番だね。ウチがここ、こうすればいいっしょ。
 んで、こうアプローチする。
 なるほど。いいんじゃないか? それでかまわないよ。な?
 ――えぇ、ありがとう二人とも。あたし、頑張るわ。

     ☆

「幼児虐待、ねぇ……」
 のりきんのおでんをハフハフしながら、中田はクイッと日本酒をあおった。
「谷原きゅん、日本の幼児虐待の数、知ってるか?」
「きゅんって何だよ、きゅんって」
「2010年で5万件以上。つうか、これは相談数であって、実際は相談できない家庭もあるっしょ、まぁ6万件はゆうに超えてるわな」
 どうしてそんな事を知っているのかと聞くと、大学卒業の論文に選んだらしい。どこの大学だよときくと、福祉大だと言う。
 おかしいだろ、何でウチの会社にしたんだ。
 業務だって全然関係ないだろう。
 と、酔った勢いでまくしたてると、中田は中田で、いや、私もなーんかおかしいと思ってるんだよねー、ま、これも時の運ってヤツだよ。
「オヤジ! 大根とぉー、あとこんにゃく!」
「はいよ」
「ひゃぁ〜きたきた! よっしゃ! 明日、その問題の少女とやらに会いに行く!」
「は?」
「今日泊めろよ」
「はぁ?!」
「襲ったら罰金100万円」
 結局、おれはベランダに締め出され、タオルケット一枚で夜を明かすこととなる。

■ 2 カノジョの願い ■

 中田がいる。
 彼女のほかにも、大勢の人がいる。白い空間。なんて心地いい。中田が、その後の解決策を全部決めた。
 テーブルの上には地図のようなものがある。線を指でなぞり。
 みんな笑っている。
 いいか……そしてお前は結婚する。これで万事解決! はは。残念だったな、ウチでも、彼女でもなくて。

     ☆

 いた。
 あの少女だ。
 そう聞くと中田はすぐさま歩調を早めた。
 ブランコに座っている少女の方はというと、やはりあの、何もかもを知っているような笑顔でおれ達二人に微笑みかけた。
 朝の、公園で。
 驚いたのはおれだ。
 中田は暫く少女と見つめ合い、こう言ったのだ。
「私たち……どこかで会ったことなかったかしら?」
 少女はニッコリ笑って「ある」と答えた。
「きっと、ひさしぶり」
 言葉にならないうめき声を上げたおれを一瞥して、中田はやさしく語りかけた。
「お母さんは?」
「ママはおうちにいる」
「お父さんは?」
「いない」
「これ、この傷とか、全部ママがやったの?」
「うん。でもしかたないの。ママのしれんだから……」
 結局おれ達は、少女を連れて少女のアパートの前に立っていた。おれの隣には手をつないだ少女が。そして背後の電柱の陰には中田が控えている。
 インターホンは鳴らず、ドアをノックしたが反応なし。数回ノックして、やっとドアが開いた。
「……はい…」
 チェーンがかかったドアの隙間。青白い、若い女の顔。
 女は少女を見るとガッと鬼のような形相となり、いきなりドアを閉めたかと思うと、チェーンを外されたドアは大きく外側に開き、おれは顔面を強打した。
 少女は無理やり中に引っ張られ、おれの手からいとも簡単に離れバタンと、盛大な音をたてて閉められたあとには、顔を押さえて俯くおれと、その後ろの中田だけが残された。
 そこからの毎日は、おれもよくわからないまま過ぎていった。
 毎朝、公園にいる少女と手をつないで、母親が住むアパートに行く。
 ドアをノックすると、出てきた母親はおれを睨みつけたまま少女を中に引き摺り込んでいく。
 その後ひとりでマンションに帰り、沸いたお湯でコーヒーを淹れた。
 それが数十回ほど続いた朝。
 母親はひかえめにドアを開け「どうぞ」とおれを招き入れた。
 夏が、終わりかけていた。

     ☆

 まぁ、いいだろう。
 私たちのグループでは一番年長の彼が言った。
 この中では一番根気があるからな。
 みな、口々に賛成した。
 私は彼女をねぎらう。
 私が助けにいくまで、どうか、心だけは元気で。
 抱擁をかわす。
 もちろんよ、と彼女はいたずらっぽい目で言った。
 あたし頑張るわ。彼女のためなら耐えられるもの。
 待ってるわ、未来のパパ。

     ☆

 不明瞭な夢を見なくなった冬、おれは結婚した。
 まさか自分が結婚するなどとは夢にも思わなかった。しかも、相手は、少女を虐待していたあの母親であった。
 彼女は彼女で、虐待されていた不幸な過去があったのだ。子供をどう愛すればいいのかわからないと泣いた彼女に、おれは、今まで何度も抱いてきた、あの、懐かしい思いがわきあがってー……。
「あの、前に、お会いしたことはありませんでしたか?」
「いいえ」
 母親はその後こう続けた。
「でも、わたしどうして……全然親しくなんてないハズなのに、こんな事話しているのかしら……」
 中学校にあがったばかりの娘に、おれはあの時の事をもう一度聞いてみることにした。
 会ったことがあるかと聞いた元同僚の女性に、少女だった娘は「ある」と即答したのだ。
 しかし、サラサラとした黒髪をふたつに束ねたパジャマ姿の娘は、
「わかんない、覚えてない」
 と言い、さっさと寝室にひきあげていってしまった。
 嘘だったのだろうかと考えあぐねていると、リビングの扉が開き、娘が顔を出した。
「パパ。きっと、忘れて良いことだったんだよ。おやすみなさい」
「あぁ、おやすみ」

     ☆

 白い空間で。
 おれと誰かと誰かと、10人ほどがテーブルをかこんでいる。
 テ−ブルには彼女の試練を決める、人生の時間表が置いてある。
 よし。
 これでこの試練は解決する。
 皆口々に同意し、激励をとばした。
 解決は、彼がしてくれるというので私はすっかり嬉しくなった。
 生まれるのが楽しみ。
 前世では夫婦だったけれど。
 また一緒に、家族として暮らせるのね。