■ 死神とシルクハット ■
■ 1 死神と僕と日記のはなし ■
ダビーを、ダビーじゃなくて父さんと呼んでほしいと請われたのは、いつつめの同じ月がのぼったときだった。覚えてる。
玄関で、父さんは静かにシルクハットをたたんだ。それから「お帰りダビー」と出迎えた僕の頭をなでた。そのあと、仕事帰りの礼服のまま目を細めてこう言ったんだ。
「お前はもう五つになったのだね。また一歩、死に近づいたわけだ。父さんは嬉しいから、今度から父さんと呼んでくれないかい、僕の可愛いアマート」
☆
僕の父さんの仕事は死神らしい。
あまり仕事がない日は、一日中書斎にこもって文字を書いているけれど、仕事の電話がリングン鳴ると、礼服のシワを丁寧にのばしてアイロンをかけ、ぺたんとたたんでいたシルクハットを手品のように膨らまして出かけていく。
ポンと、シルクハットは、音をたてて帽子のかたちになる。
僕は父さんがいない間、大人しく留守番をする。洗濯機をまわしたり、少し、掃除機をかけたり。シッターのホーリントンさんが安心して彼氏に電話をかけるためにちょっと宿題に熱中するフリをしたり。父さんに子供らしい所を見せるため、棚のお菓子を残さず食べてしまったりする。
友達は―…いるよ。でも、家には呼ばない。呼べない。
死神なんて、たいてい喜ばれる仕事ではないから(――それは学校の図書館で借りた小説に書いていた――)僕は父さんの仕事内容を誰にも言っていないし、友達を呼んで知られたりでもしたら、ねえ、ダビーだって悲しむよ。
あぁ、違う。父さんと呼ぶんだった。
父さんは、仕事があった日に帰ってくると必ず、ホーリントンさんが用意した夕食を前に、殺した人数分の、その人たちの、その人たちだけへの祈りを捧げる。
僕にとっては赤の他人なのに。
名前と、そしてやすらかにと、声にだして願った。
ろうそくは揺れる。ホーリントンさんはもう帰ってしまっている。
父さんが玄関の扉を開ける前に、急いで帰っていくんだ。
怖いの? でも、僕も祈る。父さんの邪魔にならない程度に両手の指をからめて、唇にちょっとつける。だって僕は、死神のむすこなのだから。
……シルクハットは昔のもので、僕はやっつめの月がのぼったときにそれを聞いた。玄関で。
「昔はね、アマート。オペラの開演前、劇場に紳士が座るだろう? 後ろの人の邪魔にならないように、こんな風に折りたためるシルクハットが流行ったのさ」
上機嫌な父さん。
ケーキなんんて買うような人じゃないけれど、僕が父さんへの質問を許されるのも、父さんが僕への要望を許されるのも、すべて誕生日だけの特権だった。
じゅうの同じ月がのぼった日、僕は前々から目をつけていた書斎の三番目の棚の右端の奥に隠されているクロッキー帳を所望した。
「ダビー、あれ、僕にちょうだい」
「父さん」
「父さん、あれ、僕にちょうだい」
「ダメ」
「だめ? だめなのダビー」
「父さん」
「父さん、だめなの?」
僕はめずらしくくいさがった。そのクロッキー帳は、父さんの若い頃の日記だったからだ。父さんが仕事で家にいない間、僕は最近、ずっと表紙の文字とともにそれを読んでいた。
――Why the little Frenchman wears his hand in a sling ?!
忍び込むのは、本当はいけない。
書斎には、父さんの殺す人リスト、つまり分厚い本のようなノートが、いくつもいくつも積み重なって本棚におさめられている。だから常々入らないように言いつけられていた。
言いつけを破るための理由は、「子供だから」、だ。子供って本当にいい。
父さんは毎日のようにノートを引き出して調べるらしく、リストナンバーはバラバラになって書斎中に散らばっていた。理想的な壁一面の本棚なのに、本もノートも半分もおさまっていない。横に入れられたり、ななめに倒されていたり、半開きのまま表紙を伏せて床に置かれていた。
そんなだから僕に見つかる。右端の、奥の奥。
百ページ以上あるはずのクロッキー帳の、すべての冒頭は「死にたい」から始まっていた。
6月01日。死にたい。何もなし。良く休めたと思う。
6月03日。死にたい。僕がバカで、無力で、どうしようもない人間だなんて知っているよ。だから言わないでおくれ。
6月05日。死にたい。なぜこんなコトになってしまったのだろう。もう一度やりなおしたいと願う。
6月12日。死にたい。カナリアが鳴いて、悲しいはずだったのに笑ってしまった。残酷な日常は明日もくるのだろうか。
6月19日。死にたい。今の自分のままでいるか、変わるか、悩む。
6月20日。死にたい。神の子供たちが台風の目の中で踊っている。僕を手招きしている。輪に入ろうかと立ち上がってみたけれどやめた。
「アマート。どこから見つけてきたのか知らないけれど、それは、」
父さんは言いかけてあごにそっと手をそえた。チェスの長考と同じしぐさ。父さんは今、真剣にかんがえている。
「全部読み終わったらかえしなさい。それはあげられるものではないんだ。母さんの、遺書だから。父さんが毎日書斎で日記を書いていること、知っているね? アマート。それは万聖節ごとに焼いているけれど、どうしてそれだけとっておいたかって、母さんの遺書だからなんだ。アマート。君の母さんで、僕がまだ、この世界で唯一生きる理由の人のー…」
だからダメ。読んだら必ずかえすこと。父さんは僕にそう約束させてクロッキー帳を手渡した。僕はたぶんすごく興奮していたと思う。父さんに、めったにしないハグをして、父さんも笑った。そんなに嬉しいのかい、と。それは嬉しいに決まっている。
まだ読み終わっていないこの日記の、どこに母さんの言葉が記されてるのか、僕は読みかけていたのに最初から読み直すことにしたくらいだった。
8月6日。死にたい。夏服の整理をした。服も、僕も、古いものだから捨てられるべきなのに。
8月7日。死にたい。トマトをふたつも食べて胸やけ。寝ていた……。