■ 雪望-Setubou- ■

■ 1 どこか遠くが白く、汚く ■

 思いきり沈みこむようならまだいい。
 鬱になって一日中その場から動かなかったり、睡眠時間が連日半日を超えて会社を休んだり、食事も取らず水も飲まず自分の世界に籠もることも、まだ、いい。
 本当なら、それさえ救える気がしないのでやめてほしいのだが、今日の彼よりはまだ。
 外は雪がちらついていた。
 暦の上ではもう春を迎えている、三月のことだった。
 いつものようにマッチを壁にこすりつけた朝、私より先に起きていた彼はすこぶる上機嫌で、それは、このくそ寒いのにYシャツ一枚とジーンズという服装にも現れていた。鼻歌をうたいながらコーヒーを淹れている。
 まるで夏の装いだ。
 私は驚きを胸のうちに隠し、こすったマッチの火が消えないうちに動かし、古風なダルマストーヴのフタを開けて芯を出し、そっと炎をなすりつけた。
「お早う。コーヒーは浅煎りのナイトコロンビアだけれど、大丈夫かな」
「えぇ、ありがとう」
 服装についての指摘は、しないことにした。
 普段の彼は温厚な一般人であり、仕事で毎日慌しく動き回る私は、どっしり落ち着いているその雰囲気にずいぶん助けられている。どこへ出張に行っても、帰ってくる場所には彼が微笑んでいる。
 こんな休みの日。そう、あまりにお互いの仕事が忙しく、同じ日に休めることなど滅多にない。そういう、貴重な休みの日には、たいてい、彼は朝キッチンテーブルで頬杖をついていて、無秩序に並べ立てられた私のつたない話を、ニコニコと、本当に穏やかに笑いながら聞いている。
 そして私の話が―…会社のいやみな上司のこと、スーパーの品揃えについて、最近の政治家の汚職、そして出張先の素敵なダイニングバー、など、話題は多岐にのぼる…―ひとしきり終わると、二人であてどないドライブを楽しみ、行きつけのレストランで少しだけ贅沢をするのが通例だった。
 けれど。
 今日は立場が逆だった。
 彼は、もし彼が今日以外の日に見たなら、必ず眉ひとつ動かさないと断言できるテレビのCMで笑い転げたり、朝食用のバケットを手に持ちながら居合い切りの真似をしたり、あることないこと陽気に喋り続けたあげく、合間に何回も私を抱きしめた。「大好き」という棒読みの日本語をそえて。
 若いのに、私より年上に見える外見も手伝って、普段はついつい頼りがちになってしまうけれど、本当は、彼の心のほうが毎日悲鳴をあげていることを、私は知っている。
 それが目に見えるとき、私の頭はきまってスウっと冷えていった。こちらを見て屈託なく笑う彼に体全体で寒気を覚え、偏頭痛がし、目をこらし、唇を噛む。
 おかしい。
 熱があるのかしら?
 いえ、彼は。
 違う、望んでそうなっているんだわ。
 だって。
 そうだわ、今日は。
 ――予感は見事に的中する。
 夕闇がそぞり寄った午後六時半、雪の降る中、彼は家から飛び出した。
 彼が上着を着ていなかった事に気づき、私は彼のコートを手に持つと即座に追いかけた。
 寒い。
 街灯を見上げた。オレンジ色がともる。
 自分のコートを持ってくるのを忘れた。仕方なく私は、急いで彼のコートを着、転びそうになりながらも、つっかけたままの靴をしっかり履いて道路に出た。
 彼の姿はもうない。辺りを見回し検討をつけ、走って大通りに出る。大通りにも居ない。黄色いアーチがかかっている商店街に入る。ゆるい坂道になっているその人ごみの奥に、彼の白いYシャツが見えた。
 あぁ。
 黒と茶の、コートの海で泳ぐ、死にそうな私の天使。
 笑みをうかべたままステップを踏み、クルクルとまわりながら人ごみの中をすり抜けていく。誰かが「なんだ」や「キャハハ」や「バカみたい」という種類の嘲笑を、彼に対して発している。
「あの、すいません! あ、ごめんなさい!」
 ただの人間である私は、無様に追いかけるしかない。何度も誰かにぶつかり、そのたびに私は謝った。
 彼は既に商店街を抜け、左にそれて見えなくなっている。その先は路地が入り組んでいて、暗い中捜すのはさらに困難になる。
 けれど。
 捜さないわけにはいかない。
 彼は、心が孤独になってしまったのだ。
 もう誰も、たとえ彼が望んで死んでも望まずに死んでも、覚えている人など居ないと、自分を諦めさせたのだ。
 誰も彼を愛さない。
 だったら自分だって、誰も愛したくない。
 それが彼を大人にさせた。
 私には義務がある。彼に、私だけは違うと信号を発信する、義務が。それは私が、去年眠っている彼の前で声に出した、ただひとつの決定的な項目だった。去年の今日、彼は手首を切り、救急車で病院に運ばれている。原因は、ただ、私が仕事で帰りが遅くなってしまい連絡もできなかったという、ささいなキッカケでしかなかった。携帯電話に、何十件という着信とメールと、そして、か細い吐息のみの伝言が残されていた。
 あの時、今日は彼の親友の命日なのだと、放心している私の隣で誰かが言った。だからきっと、あなたに、一番に傍にいてほしかったのではないかと。それを聞いたとき、私は、もしかしたら彼に愛されているのではないかと、少しだけその日、思ったのだ。
 息を切らして小さな公園に着くと、彼はすべり台の上で雪を眺めていた。
 周囲にはビルがそりたち、オレンジの灯りは、まるでスポットライトのように彼をななめに照らしていた。
 この距離からでもわかる。
 彼の眼には、私には見えない何かが映っている。
「やぁ、今晩は。今日はなに? 用がないなら帰ってくれないかな」
 彼もまた、肩で息をしていた。
 口元がゆるくつり上がっている。
 儚い、白い花が、彼の口から出ては消える。

■ 2 愛という何かで、染まってゆく ■

 吐息が寒さで白くなることに、私は、今、気がついた。ここのところの暖かい陽気に、その事実をすっかり忘れていた。
 何も言い出せないでいると、彼は私を、私の奥の何かを見ることをやめた。ゆっくり両手をあげ、闇を見上げる。ひらいた彼の口から、大輪の花が咲き誇った。
 ――雪を受け止めようとしているんだわ。
 白いシャツは、彼を一瞬だけ、小さな少年に見せた。
 瞳を閉じ、彼は舌を出す。
 それは普段肉を食べないせいで真っ白になってしまった哀れな舌だった。小さなハンバーグやベーコン以外には、会社の用事でしか肉を食べない彼。最近、その会社の会食でさえ避けていることを、本当は、知っていた。
 何もしなかったのは私だ。
 仕事に忙しすぎて、今日がくるまでこの日が何の日かすらー……。
 ゆっくり、すべり台に近づく。
 足音をたてないほどに、ゆっくり。
 彼は私よりもゆっくり瞳をひらき、頭をかたむけこちらを見た。いつも私を安心させてくれる茶の瞳は、ふっと優しく細められたけれど、表情は一層の狂喜をみせた。
 ケラケラと笑い出し、
「――聞いてくれ諸君!」
 高らかに、宣言したのだ。
「今日は、僕が×××を殺した記念日だ!!」
「知っているから……降りておいで!」
 つとめて冷静に言ったはずなのに、いつのまにか叫んでしまった。
 はっとして周囲を見渡しても、公園には誰も居ない。
 彼は上にあげたままの両手を握り、また、開いた。
 風が、吹く。
 冷たい、冬の風。
 はためいた彼のYシャツの襟元から、ちらりと鎖骨がのぞいた。
 オレンジの光に照らされているハズなのに、それは青い。病的な色をしている。
 叔父がこの間言っていた、紫の夜を思い出した。
「×年前の今日、僕はトイレに駆け込んで吐いたよ。胃液しか出てこなかったけどね!」
 見知らぬ少年が、叔父の育てた花を、死んだ犬にパサリと落としたという話。
「夜から何も食べてなくて、朝をむかえてそのまま昼になった……。便器は真っ黄色さ!」
 見てもいないのに、彼の鎖骨でその光景が頭を過ぎった。
「血が。このへんについた。手に、こびりついてね、水で流してもとれないんだ。だから、石鹸をつけようと思った……そしたら!! 石鹸の匂いで、また吐き出しちゃったんだよ僕は! ッハハ! おかしいね、おかしくないかい?!」
 ひとしきり泣くように笑ったあとで、彼は、腕をだらりと下げた。
 二つの目は、もう虚ろではなかった。
 ぴったりと私をとらえて離さない、いつもの、あの、殺されそうなくらいの優しさが入った視線だった。
 ――真剣に狂おうとしているのだ。
 本当はどこもおかしくなく、ただ演技的におかしく見せようとしているだけ。そうしないと今日一日を過ごせないと思ったのだろう。あながち間違ってはいない。
 だって今日は特別な日だから。
 彼が人生で唯一愛した親友を、彼がその手で殺した日だから。
 その詳細を、私は一切きかずに暮らしていた。
 けれど、立てないくらいまでに酔った先週の水曜日、人間が階段から転げ落ちるとき、どんな格好でどんな音をたてるのか、どこからどう血がでてくるのか、彼は私にぽつぽつと話した。実際に見てきたかのように。低い、声で。悲しい、音で。
 ぴりっと、首筋に雪が入った。
 反射的に私は、走って、すべり台の階段をかけあがった。
 彼のあわてた動きが、ボンボンと音になって私に届く。
 それより早く、もっと、早く。雪が融けるよりも早く、私は彼を抱きとめた。
「……貴女は、」
「え?」
 車が通る音。
 犬の鳴き声。
 ブーツの足音。
 商店街の、賑わっている遠い音。
「貴女は本当、僕がどこに行っても追いかけてくるんですね」
 どこに行っても、どんな遠そうなところに行っても。
「そうよ」
 それが私の愛し方なの。
 他人が嫌いで、でも独りが怖くて、おびえて、でも顔には出さずに涼しく生活していて、誰も愛したくないと言っていても、結局は誰もを優しさが入った目で見て、それでたくさん損をして、傷ついて、そんなあなたを、私、愛しているわ。
「まぁ、こうなったらアレよ。自殺したら、追いかけて死んでやるわ」
「……感服ですね」
 肩をすくめられた瞬間、私は思いつき、着ていたぶかぶかのコートを彼の肩にかけた。けれど彼は身動きひとつしない。
 安心したのもつかの間、今度は躁状態を抜け出して、自分の中に閉じこもっている。動こうとしない彼ひきずって、なんとか部屋に戻ったものの、テーブルの前にかがみこんだまま、私が作った夕食を見てすらくれない。
 当分この状態だろう。毎年、私を驚かせる一大イベント。
 ソファにシーツを敷き、彼がどこに居ても見えるよう部屋の角に移動させた。横になる前に彼は、ちらりと私を見て
「かみさまなんて居ない」
 と、虚ろにつぶやいた。
 私もそう思う。
 彼を救うのは彼自身だ。
 私は、走って彼のあとを追いかけることしかできないけれど、彼にとっても私にとっても、どうしてだかそれが、一番の薬になる。
 真夜中、彼が悪夢の中にはまりこんでいく声で目がさめた。部屋の隅で倒れこんだまま、うなされている。私は羽毛布団を持って彼の隣に陣取った。夢の中まで追いかける気でいたのだ。
 けれど、朝起きると私はなぜか寝室のベッドの上で寝ていて、横を見ると彼が、満足げに深く、寝息をたてていた。