■ オレンジスープ ■

■ 1 ボクが思い出せない ■

 いちばんはじめに天井。ボクは……何をしていたんだっけ。
「おはよう。といっても、もう昼よ」
 坂下先生がカーテンを開け、白い世界は一瞬で保健室へと変貌する。ボクはつぶすようにスリッパの上に足を置き、ゆっくりと立ち上がった。
「あの……」
「ん?」
「ボクは……誰でしたっけ」
 寝ぼけてるのね。
 先生はそうクスリと笑い、あなたは瀬戸シュンスケ君でしょ、とペンをまわしながら言った。……そうだった。どうして忘れていたんだっけ。
「さ、寝ぼすけ君。いちばんはじめに何をしたい?」
「えっと……」
 そうだ、授業。
「もう授業に出ます。すみません、寝かせてもらって」
 ペコリとお辞儀をする。
 出口に向かって歩き出そうとすると、先生は待って、と言った。
「待ってシュンスケ君、それは違うわ」
「……え?」
 違う? なにが?
 ボクが授業に出ることは、学生である限り避けられない事実なのに。
 頭に疑問符が飛び交う。先生は、パチリと指を鳴らした。
 とたんに、カラダの力が抜け、ボクは床に座り込んでしまった。先生は、そんなボクを助けようともせず、小さな皿に注いだオレンジ色の液体を差し出す。
「飲みなさい」
「え、……あ、ハイ」
 ボクはそれを、音をたてて飲み干した。
 苦い。なにか、漢方でも入っているかのように苦い。
 しばらくすると、よろめきながらも立てるようになった。これで授業に出れる。けれど。
「先生。ボク、なんだか眠くて……」
「いいのよシュンスケ君は。好きなだけ寝ていきなさい」
 フラフラとベッドに近づく。
 ボクはそのまま倒れこみ、目をあけていられなくなった。

     ☆

 いちばんはじめに天井。ボクは……何をしていたんだっけ。
「おはよう。といっても、もう昼よ」
 先生がカーテンを開け、奥に医療器具が並んでいるのが見えた。ボクはスリッパの上に足を置き、ゆっくりと立ち上がる。少しフラつく。
「えっと……」
「ん?」
「ボクは……誰でしたっけ」
 寝ぼけてるのね。
 先生はそうクスリと笑い、あなたはシュンスケ君でしょ、と髪の毛をまわしながら言った。……そうだった。どうして、忘れていたんだっけ。
「さ、寝ぼすけ君。いちばんはじめに何をしたい?」
「はじめ……」
 グウ、と、ボクにしか聞こえないように、控えめに腹がなった。
「今って昼休みでしたっけ。ご飯食べないと。ありがとうございました」
 ペコリとお辞儀をする。
 出口に向かって歩き出そうとすると、先生は待って、と言った。
「待ってシュンスケ君、それは違うわ」
「……え?」
 違う? なにが?
 ボクが食事をとることは、人間である限り避けられない事実なのに。
 頭に疑問符が飛び交う。先生は、パチリと指を鳴らした。
 とたんに、カラダの奥がしびれ、ボクは床に座り込んでしまった。先生は、そんなボクを助けようともせず、小さな皿に注いだオレンジ色の液体を差し出す。
「飲みなさい」
「……ハイ…」
 震える手で小皿を受け取った。なぜか、飲まなければいけないような気がする。クイと飲み干すと、苦味が喉からせりあがり、少し咳をした。
 しばらくすると、カラダの痺れがとれていくのがわかった。
 あぁ、お腹がすいた。購買はまだ開いているかな。けれど。
「なんだろう…眠い……」
「いいのよシュンスケ君は。好きなだけ寝ていきなさい」
 フラっとベッドに倒れる。ボクはまぶたのふちなぞって、黒に、落ちた。

■ 2 彼女が思い出せない ■

 いちばんはじめに天井。ボクは……何をしていたんだっけ。
「おはよう。といっても、もう昼よ」
 彼女がカーテンを開け、そうかここは病室だったと、気づくまでに時間がかかった。ボクはぼんやりとしたまま、ベッドに腰掛ける。
「あれ……」
「ん?」
「ボクは……誰でしたっけ」
 寝ぼけてるのね。
 彼女はそうクスリと笑い、あなたはセト君でしょ、と首をかたむけながら言った。そうだった。どうして、忘れて、いた、ん、だっけ。
「さ、寝ぼすけ君。いちばんはじめに何をしたい?」
 なにを……。なにもしたくない。カラダがダルい。けれどなぜだか、ここに居てはいけないような気がしていた。
「いえ、もう出て行きます。ありがとうございました」
 ペコリと礼をし、立つ。出口へ歩き出そうとすると、彼女は言った。
「待ってセト君、それは違うわ」
「……え?」
 違う? なにが?
 ボクがここから出て行くことは、ボクである限り避けられない事実なのに。頭に疑問符が飛び交う。彼女は、パチリと指を鳴らした。
 とたんに、ぐらりと眩暈がし、ボクは床に座り込んでしまった。彼女は、そんなボクを助けようともせず、小さな皿に注いだオレンジ色の液体を差し出した。
「飲みなさい」
「……いやだ…」
 勝手に動いたボクの手は、なめらかに小皿を受け取った。
 飲みたくないのに、なぜか、飲まなければいけないとカラダが訴えている。三口にわけて飲み干すと、ボクはカラリと小皿を床に落とした。
「ボクは……」
 ボクは誰だったっけ。そして、彼女は誰だったっけ。
「どうして……」
「いいのよ君は。好きなだけ寝ていきなさい」
 彼女はボクを抱きかかえるようにベッドに寝かせ、ボクはそのまま、ぼんやりと闇にのまれていく……。

     ☆

 いちばんはじめに天井。ボクは……何をしていたんだっけ。
「おはよう。といっても、もう昼よ」
 誰かがカーテンを開け、ボクはぼんやりとしたまま、横を向く。
 視界には、白衣だけが見える。
「あれ……」
「ん?」
「ボクは……誰でしたっけ」
 寝ぼけてるのね。
 誰かはそうクスリと笑い、あなたはあなたよ、と瞳を細めて言った。
 そうだ。ボクはボクだ。
「さ、いちばんはじめに何をしたい?」
 ……なにも。なにもしたくない。カラダがダルい。どんな世界でも、それらを全部受け入れてしまいたい。
「なにもしたくありません……」
 ゆっくりと時間をかけてまばたきをすると、誰かは笑って、言った。
「そうね、それがいちばんいいわ」
「………」
 視界がにじむ。ボクは、泣いているのか?
 誰かは、パチリと指を鳴らした。
 とたんに、息が苦しくなり、ボクは自分の喉に手をおいた。白衣の手は、そんなボクを助けようともせず、オレンジ色の液体をたたえた小皿を、ボクの唇にあてた。
「飲みなさい」
「……っあ…」
 口の中に注がれる、全てを忘れる劇薬。
 ゴクリと飲み下したら、きっと、ボクは死ぬ。
「ボクは……」
 ボクはボクでしかなく、そしてこの、指に触れた輪郭はー……。
 ――そうだ。思い出した。これだけ、思い出した。ボクの、愛しい。
「…眠い……」
「いいのよおじいちゃんは。もう、好きなだけ寝ていていいの」
 震える声が、耳を打つ。淡い光すら消え、ずっとこのまま、穏やかな気持ちのまま、ただ受け入れて、生を……忘れていく。