■ 根付かずの雪 ■
■ 1 雪降る ■
ちろちろと、降り止む気配をも見せず、庭はいつしか染められた。
吊った庭木、かきねの椿、飛び石から縁側の机木……。
広大な日本式庭園を有する屋敷の主人・有田篤郎は、白に薄化粧したそれらを客間からぐるりと見渡し、
「――こたつを仕舞ったばかりというのに、寒の戻りとは嘆かわしいな」
疲れたように呟いた。
「おまえの処はまだ雪深いだろう。こっちへ来て驚いたんじゃないか」
有田の前に座っている客人に水を向けると、客人は
「あぁ、」
と相槌を打ち、紺絣の袖から見える肘をしきりにこすりながら
「薄着で来るんじゃなかった。火鉢くらいあるンだろうな、」
悪態をついた。
有田篤郎の妻・枝美子が死去してから早一年。縁側のつきあたりから右にいくと仏間があり、今でも毎日線香が絶えない。
本日の客人である駒込厚朗も、有田家の様子を気にして立ち寄る一人であった。駒込は、一服したあともう一度線香をたてていいかと有田に訊ね、妻を亡くした彼は隈の濃い目を静かに伏せる。
降り続けている。
使用人の老女が、茶托に乗せた熱い緑茶を客人の前に置いた。襖がスッと閉まると、駒込は「お前もスミに置けないな、あんな美人を囲いこんで」と小指を立てたが、それが学生時代から付き合いのある友人特有の冗談だということを有田は理解しており、唇の端をにわかにもちあげた。
同じく老女によって火鉢も運ばれてきたが、火がついた炭は中央の一本のみ。二人はしばらく部屋を暖めることに熱中した。
一段落した頃には最初の緑茶も冷めきり、有田は使用人を呼んで再度熱い茶を持ってくるよう指示した。
「どうもこの家は広いようでな……」
屋敷の主人は、冷めたほうの茶を一口すすり、
「時折、誰とも知らん足音が聞こえてくるのだ」
またも白い庭に目をやる。
駒込厚朗は言葉に詰まり、同じく庭を眺めはじめる。
幽霊か、妄想か、泥棒か、実は本当に女を囲っているか、使用人が増えたのか、隠し子の存在、同じようなおせっかいの友人が同居しはじめた可能性、………。
「猫さ、」
「ああ! ……なンだよ、脅かすなよ」
親友のおおげさな反応に、有田は久方ぶりに声をあげて笑った。
だが、すぐに真面目な顔に戻り「猫だと信じているだけだ」と声を低くした。
妻が亡くなり、百か日が過ぎたあたりから、有田篤郎は毎晩眠れないのが当たり前になってしまった。体が不眠に順応してしまい、深夜に数回フッと目を覚ましてしまう。
鳥の声ひとつしない深夜の床で、有田がすることは決まっていた。
天井を見上げながら、広大な屋敷の隅々まで神経を行き渡らせる事。何も考えず、ただただそうしていた。妻との思い出に潜るのは、へたに泣けない街中の雑踏――、これも有田が決めていることの一つであった。
妻の死去から半年ほど過ぎた頃。深夜の屋敷は有田の意識が隅々まで入り込み、少しの違和でも感じ取れるまでになっていた。
気配とすこしの足音がきこえた当初は、もちろん、幽霊となった妻が戻ってきたと喜んだ。が、足音は寝床にも仏間にも入らず、ただ台所の勝手口からそっと入り、そっと出ていくだけであった。あるいは庭を、そっと歩き、そっと立ち止まり、そっと出ていく。
数ヵ月経っても盗まれたものはなく、おそらくは猫……猫でなかったら小さな野生動物かなにかだろう、という結論に落ち着いた。
この経緯をきいた駒込は、すぐさま家を出て行った。
半刻後に現れた彼は右手にちいさめの行李を下げ、左手に大吟醸を下げて、目をいたずらに下げて、有田篤郎に宣言した。
「――今夜は無礼講だな!」
きくと、今夜の宿泊予定を取り下げてきたのだという。
宿泊地は駒込厚朗の知人の持ち家だったが、その知人は怒るでもなく、一緒に飲む予定だった大吟醸を土産にと渡したそうだ。
その名前をきいて、屋敷の主人は机に向かう。雑紙に書きつけ、何らかの便宜をはかってやるつもりでしばらく考え込んだあと、
「……まさか泊まるつもりか」
と、判りきった質問を後ろに投げかけた。
客人は無言。
しばらくののち、答えは老女が持ってきた。
つまみが入った小鉢という答えを。
☆
積もる話は山ほどあった。
駒込厚朗の放浪先にいた詩人の眉毛から、有田篤郎が通っているミルクホールの名物店員。学生時代の思い出として定番の「あつろう」違い事件、毎年変わる町角の店、駒込の実家で起きた笑い話から、今どきの貸本屋のトレンドまで……。
顔を真っ赤にした屋敷の主人がクツクツと笑った。
「おい、そんなに飲んだら、夜中起きられないだろう? 朝まで眠りこけるんじゃないのか」
酒を飲みながら器用に羽織を脱ぐ。
酒豪の客人は、これも気前よく笑いながら
「大丈夫だってぇ〜。気配の正体はこのワタクシめがしかと見届けますぞなもし! そっちこそ、今日は久方ぶりに深く眠れるンじゃあないか?」
有田のぐい飲みにまた酒を注ぐ。
そのうちまた愉快な気分が沸き上がり、男二人で声が枯れるほど笑い合った。
居間の壁掛け時計が遠くで午前零時を鳴らした直後、使用人の老女が一日の仕舞いの挨拶をと襖を開けた。
すると、酔いが限界に達した屋敷の主人はすぐさま叫んだ。
「――寝る!」
襖と老女の隙間を、覚束ない足取りで通り過ぎる。
老女はすぐさま追いかけた。もちろん、寝室まで無事にたどり付けるかどうか分からないからである。
その様子を見送った客人は、しばらく酔いにまかせて呆けていたが、まぶたをを閉じてふっと開けた瞬間、寒気を感じた。
見ると火鉢は既に消えており、部屋の中は冷気で満たされている。懐中時計を取り出し月明りにかざす。どうやら2時間ばかり眠っていたらしいと気づくと、駒込厚朗はすぐに、友人が脱ぎっぱなしにしていた羽織を拝借して立ちあがった。