■ ラ・ベールへ素足。 ■

■ 1 僕が棄てた一つ目の友情 ■

 その結果。
 キキリは海の向こうへいなくなって、僕は人生で二度目の友情を棄てた。
『オーツseットdeネテイコタッtoトwo、こnoアッナツィート、バツたちha、本当ni死んでいるンじゃナイっていうことニ気づいたよ。丸の中に埋もれていると、バツは小さく行き倒れて死んでいるような気がするけれど、バツだけだとそう。まるで、倒れた十字架が乱立する天国みたいなんだ。……隣、いい? 僕はキキリ。きみは?』
『……、サキハ。どうぞ、お好きに』

     ☆

 ラ・ベール大陸が接近しているのはわかっていた。
 ここ最近のプレートの動きは、世界規模で問題になっているらしい。けれど、その情報がこの島まで届いたときには、もう遅かった。
 遠目に見える場所まで対岸が。
 けれどそれはラ・ベールが大きい大陸だったからに違いない。
 実際はまだ、何百メートル……いや、何百キロメートルも離れていて泳いだって到底たどりつけやしない――。
 僕が。
 人生で一度目の友情を棄てたとき、隣にいたのはキキリだった。思いだす、浜辺で水平線を見ながら彼女の死体を焼いている情景。あの、ひどく青い朝。
 流行り病でレンナは死んだ。それは、異邦の旅人が持ち込んだものだった。
『サキハ、』
 立ちあがるキキリ。
 海は平らに凪いでいる。まだラ・ベールは接近しておらず、空との境界が視界の端まで続いていた。キキリは、虚ろな横顔で遠くを眺めている。
『サキハ。旅人を殺してしまおう』
「なんてこと言うんだ……」
 今日は、雨が降るだろう。
 いまは晴れているけれど、午後にはきっと雫が落ちてくる。風が水を含む。潮風とはまた違う、水の気配。
「だって彼女が死んであの男が死なないなんて、おかしいとは思わないか」
「おかしい」
 僕は即答した。
 旅人が病原体を持ちこんだ事はわかっていた。しかし、当の本人は死なず平気な顔をして「外れの丘」に隔離されている。
「けれどそれは神が選んだ事だ、受け入れないと、」
「まさか!」
 今度はキキリが即答した。
「どんなになっても、君とレンナを選んだろうに。実を言うと僕はかみさまなんだ、裁きを! 旅人には死を、太陽にも死を、一日が終わってしまうよ。今この瞬間に一日は終わってしまったよサキハ。見て、あれは夕日だ」
「……ウソもほどほどにしてくれ」
 彼女の死体は灰となり、雨は午後から一晩中降り注いだ。
 その結果。
 本当にキキリは殺人を犯し、開放されるまで五年かかった。
 当初は二十年だった刑期が極端に短くなったのは、殺人という前代未聞の事態に、一体何年罰を与えれば良いのかわからなかったから。
 それともう一つ。
 この島の人たちも、実際のところ旅人を憎んでいたからに違いない。猛威をふるった流行り病で家族を、恋人を、友人を、ペットを失ったやさしいひとたち……。
 手を下し、一連の出来事に終止符を打ったキキリは「外れの丘」に監禁された。彼の元々の家は、殺人の代償として壊されることに。
 叔父が現場を指揮した。僕に破壊を、破滅を、見ておけといった。
 雨が降っていた……。
 それから時々、キキリの行動を賞賛する人たちが、差し入れを持って丘の上で面会したという話をきいた。キキリは狂ってなんかいない。皆が許すまで、そう時間はかからなかった。
 五年後。
 棄てたはずの友情を持って、キキリは僕の自宅に現れた。
 ちょっとした外出から戻ってきたかのように戸口の壁によりかかりながら、何も変わっていないね、と、言うもので、無視するつもりだったのに、
「年をとったよ。それから、食器棚を買い替えた」
「ふうん」
「新しい本が増えたし、僕は教授になった。一年島を離れて留学して。今は流行り病を研究している」
「うん、」
 堰を切ったように、
「レンナの両親は死んだ。事故だった。両親の娘……ほら、レンナの妹。あの子を一時期ひきとっていたけれど、結婚して去年出ていった。綺麗だった。ちょっと妬けたな。今は湖のほとりに新居が建っている」
「うん、」
「あと、サニーおばさんが骨折した。これは三日前のこと。あいかわらずそそっかしいんだよね。そうだ、グーニー家族に二人目の子供ができた。君がいたときは新婚だった」
「うん、」
「君のものは……、君のものは引き取った時からなにひとつ変わっていない。君の家は壊された。けれど君のものは、君は。……本当にキキリ?」
 戸口からの光がまぶしくて、直視できない。
「サキハ。あいたかった」
 キキリは両手をかかげた。棄てた友情を、拾ってかえそうとするように。
「雪が降る日はいつも君を思い出していたよ。太陽が出た日はレンナの事を、雨が降る日はあいつを殺した時の感触を。僕の手は汚いと思うかい? 僕のこと、嫌いになった? 友情は終わった? サキハ。抱きしめたいんだ、いいかな?」
 もう、許すしかない。
「あぁ……、どうぞ。お好きに」
 抱擁をかわした後、キキリは浜辺に行きたいといった。サニーおばさんが作ってくれた花束を持って、レンナの事をひとつふたつ語りながら海岸に着く。キキリは勢いをつけて花束を海に放り投げた。波に飲まれて花弁が散る。
 向こうに見えるアレは何だと聞かれたので、ラ・ベール大陸が近づいてきたことを言うと、キキリは急にふりかえり、お前の家は森の奥にあるからまず見つからないだろうなと言った。
「きっと、近いうちに誰かが歩いてくる」

■ 2 僕が棄てた二つ目の友情 ■

 ラ・ベール大陸が眼前にせまって、向こうの灯台の光も届く頃。
 キキリの言ったとおり大陸から使者がやってきた。
 流行り病を警戒してか、大使の検閲や接待は僕に任せられた。この島では、侵略など大した問題ではない。人口が減るのが一番の問題だ。
 それに加えて頭のいい人物、といったら僕しか浮かばなかったようだった。満場一致というもの。
 大使は、この島ではとうにすたれた旧世界の言葉を話した。
 初対面では、なんとか通訳本片手にのりきれたけれど……。それからの数週間、キキリに旧世界の言葉をみっちり教えてもらわなければならなかった。
 島で唯一、旧世界の言葉を全部理解できるキキリだったけれど、彼に通訳そのものを任せるわけにはいかなかったからだ。
「――また、殺してしまうかもしれないからね」
 キキリは楽しそうに笑った。
 殺すのと訊くと、一変して黙り、食事中に話すことじゃないなと至極真面目な顔をしてつぶやいた。
「やみつきになるどころか、もう、二度と、触りたくない」
 キキリの家は壊されてしまったので、仕方なく今は僕の家に一緒に住んでいる。あれほど料理が好きだったのに、住み始めてからキキリは、まだ一度も台所に立っていない……。
 次に大使がやってきたとき、やめてほしいと懇願したのは、この島へ来る非常識的な行動だった。
 彼らは、海を歩いてやってきた。
 前回のそれを真似た子供が、海でおぼれて死んだのだ。
 彼らは素足で、パシャパシャと塩水をはねて輝かしい服をまとい、知らない細工で飾られた荷物を背負ってやってくる。
 こちらで用意した小舟で来て下さいと言ったとたん、彼らは激怒した。どうやら座るという行為自体が、あちらではタブーのようだった。確かに前から疑問に思っていたことだった。椅子をすすめても、疲れないかと尋ねても、彼らはずうと立ったままで。
 そうか、座るというのは、自分よりも身分の低い者がすること、か……。
 そして僕は殴られた。
 ここで島に悪印象を持たれるわけにはいかない。
 僕は、されるがままに思考を閉じた。天井。人の影。彼らの影。痛みが持続する。ぼんやりとしたまま、眠ってしまったようだった。
「……ハ…、…サキ…ハ、――サキハ、」
 キキリの声……。
 目が覚めた。夜だ。
 さしこんでいる月光。破壊されている椅子。大使たちはいない。
 殴られ蹴られている間、ずっと思っていたことを第一声に。キキリ、
「か、彼らを、っ」
「喋らないで。腹に大きい痣ができている」
 めくれた服が戻された。かまわない。それよりも、
「キキリ、彼らを」
「いいから! じっとー…」
「殺そうとしないで。彼らを、殺しちゃダメだよ……」
 涙が出てきた。
 僕は非力で十分だ。
 キキリの友情は激しい。燃えるような眼がそれを証明している。やめてくれ。島は侵略には慣れている。第一、僕はまだ、死んではいない。
 レンナ……。
 家までキキリに担がれ、ずっとレンナの事を考えていたと告白すると、友人は僕もだと言った。
「僕も考えていた。レンナも、君も、どうして島は、……平和に暮らせないのか、ずっと。ずっとよくしてくれたのに。だから決めた。もう色々と。君が回復して歩けるようになったら、見せたいものがある」
 数日。
 ようやく外に出られるようになり、同じく数日、大使たちは姿を見せなかった。
 二人で浜辺まで歩く。彼女を焼いた浜辺だった。キキリが解放されたあの日、一度だけきてあとは寄ろうともしなかった場所。と、突然キキリは靴と靴下を脱ぎ、裾をまくって海の中に飛び込んだ。
 ぼんやりと眺める……あぁ、ラ・ベールが近い。くっきりと見える崖のかたち。人の影まで見えそうなくらいだ。
 キキリはまだバシャりと派手な音をたてている。
 朝日が、のぼった。
 ふ、と。波の向こうに立ちあがった、の、は。
「キキリっ?!」
「どうだいサキハ、うまいものだろう? ちょっとラ・ベールに行ってくるよ。実をいうとね、僕はかみさまなんだ。あの国限定だけどね」
「どういうー…、」
 島でたった一人、旧世界の言葉を喋れること。
 暴力も、殺人さえも厭わないこと。
 そういえば、彼はいつから島にいた? 思い出せない。気がつけばそこに家があった。粗末な手作りの小屋。
 そうだ、昔、レンナと三人でピクニックしたことを思い出す。草のうえに敷いたシートを見てキキリは、こんなの初めてだと言ったんだ。不思議に頬を染めて、彼は、こんな風に座るのは初めてだと言ったんだ。
 こんな風に「座る」のは「初めて」だ、と――。
「――キキリ!」
 振り向かずに走り消えた海の向こうから、次に大使がやってきたとき、彼らは小舟に乗っていた。
 僕を殴った奴らではない、違う大使たちだった。
 ずいぶんと島に有利な交易の条約をかわし、なんとか旧世界の言葉で尋ねると、彼らは、ラ・ベールを支配する王が変わったのだと言った。
 行方不明になっていた、国王の実子が帰ってきたらしい。
 その瞬間、もう、僕らの友情は終わってしまったと悟った。すべてかえしてくれてしまって、もうどうしようもない。

     ☆

 僕は今でも時々、朝靄の中の浜辺を、素足で散歩することがある。ラ・ベール大陸の移動は止まってあれ以上近づかないそうだ。
 ここを歩いていると、もう全て棄ててしまおうと思う。
 足首が波にひたる。
 いなくなっても繋がっているなんて嘘だ。かみさまになったキキリなんて想像すらしない。けれど。まだ、どうしてだろうか。
 彼の持ち物はなにひとつ変わらないまま、僕の家に残っている。