■ 小泉響子の小指 ■
■ 1 これは恋と呼ぶべきだろうか. ■
中学校も三年間通うと、どの水のみ場が一番近いか、無意識に、ね、計算するだろう?
例えば東廊下にある音楽室からは中央階段の横が近いし、グラウンドから学校に入るための玄関からは、食堂の手前のが一番近い。3−Aの教室からは、西廊下の水のみ場だ。
寒々しいコンクリートとタイルは、これからの冬を待ちわびているようにも思えるけれど、僕はそこが嫌いじゃなかった。
蛇口が、手でつかみ回転させるものではなく、ちょっと長めのレバーを左右にひねって開閉するタイプだから、手がふさがっていても顎を使えばなんとかなるし、石鹸だって、校内では唯一ハンドソープを置いている場所だ。
僕がそこに行ったとき、小泉は一人で手を洗っていた。
ハケと、パレットと花瓶が無造作に置かれ、水は無難な音をたれ流している。あら今野君、という視線をちらりと僕にむけた小泉は、小指で、『あら今野君』だって?
僕はそれどころじゃなかった。
だから何も言えなかった。呆然とした。
あれ、こんなことってあるのかな。世界が、止まった気がした。
その薄い唇をやんわりあけて小指だけが、蛇口をひねる仕草。
――キュ。
小泉。
ねぇ小泉。
きいてくれ小泉。
僕は思春期まっただなかの少年で、食欲もあれば睡眠欲もあってもちろん性欲もあって、性に対して不真面目にまっすぐ走っているんだ。
それをなぜだかたくさん、あふれんばかり君に伝えたい。
たとえば。
君のその小指で、僕を引き裂いてもらえたら、どんなに光栄なのだろう。
自尊心に「ツ、プ」と小さな穴を開けてそのまま放置して欲しい。
君は無表情で見つめるだろう、そして、きっと僕は笑っている。
夢に入るように徐々に徐々に裂け、最終的にどうにかなってしまう。その様子をよく目に焼き付けてほしい。キスなんていらない。見つめてくれるだけで、僕は。
――たとえば。
君のその小指を、口に含みたい。
とろけるような恍惚と、人間の、肉の味がするに違いない。
コリ、僕は君の小指を食べたい。ソースをかけるなんて邪道だ。そのまま、爪と皮の間を舐めたら少ししょっぱいんだ、きっと。
例えば。
たとえばたとえばたとえば。
あぁ、いくつあっても足りない!
悶える。
その文字はきっとこれだ。僕は、小泉の小指に悶えているんだ。
彼女は、顔かたちはそんなに美しくもなく、とりわけ背が高いわけでもなく、横に太くもなく、細くもない。黒いおかっぱ頭で、スカートは規定通りの長さにしている。
響子、という名のひびきから音楽が得意なのかと思いきや、学校内でただ一人の美術部員だ。けれど、一人の部活なんて誰も許してくれないから放課後、たまに教室で絵を描いている。
この間もそれで、僕が一番近いと思った水のみ場でひとり、筆を洗っていたんだ。
相良たちのグループに属しているみたいだけれど、トイレは一人で行く。これは、小泉を見ているうちに気づいたことだった。
小泉はとっくに、一般常識をかねそなえた一人の女性としてそこに居た。僕でさえ、雄太と一緒でなければ行かないというのに。
けれど。
授業中にこっそりと小指の爪を噛む君。
それがなぜか可愛らしい仕草に見えた
形の良い、よく切られたその爪はピンク色と呼ぶにふさわしく、つぼみのような小ささは小指の名にふさわしかった。
食堂で見ていて気づいた。
彼女は小指を一本だけたてたまま、牛乳をクイ、と飲み干す。最近流行っている金運のまじないで、皆苦心して立ちそうな薬指と一緒に飲んでいるのに、まったく連動しない。
まさかと思ったけれど小泉響子の小指は、小ささに反してかなり発達しているようだった。
活躍の場は、蛇口にとどまらない。
授業中。
小泉はページを小指でめくる。そっとてのひらを教科書の右上にあて小指で角を持ち上げれば、あとは手のひらをかえすだけでページは、ふわりと浮かんだ。
昼休み。
小泉は荷物を小指で持ち上げる。学校指定のカバンなのに、小泉が持ち上げるとまるで軽い羽根のようだった。そこから月曜日限定の弁当箱を取り出す。包みの結び目に小指を入れ、クイ、と何回か動かすと結び目は優雅に解かれた。
その美しさ。
あぁ。
小指の奥に骨を、その薬指と離れた様子を僕に、僕の目に鮮明に残して小泉は昼飯を食べ終える。
僕はぼんやりした視線を弁当箱にあわせてから、ハッとして両手を顔の前でくっつける。
「……ご馳走様でした」
また小泉の小指に見とれていたんだ。
見ないようにしても、いつのまにか見てしまう。
胸の奥が、うずく。
あたかもカラスの足に引っかかった、哀れなゴミ袋のように恋した。毎日毎日、家に帰ると階段をかけあがり、ベッドに倒れこみながら学生服を脱ぎ、シャツをかきむしった。中身が出てくるんじゃないかというくらい、カラダが熱をもって僕を支配する。
頭の奥から、心臓の音が聞こえてその向こうの向こうの暗闇の中、熱に浮かされた僕という奴隷が跪きながら叫んでいる。
彼女の名前を。
「…………っ、」
小泉。
助けてくれよ小泉。
小泉、小泉!
違う、3−Bの小泉恵子じゃない。
僕は小泉響子が。
僕のクラスの、小泉響子が。