■ 秘密 ■
■ 1 出会い ■
廃屋を撮影するのが趣味で、その日は西にある田舎の廃村へと行った。快晴の夏。
一日に二本しかない路線バスの終点から歩いて四十分あまり。途中休憩を何度かはさみ、ようやく村の入り口へとたどり着いた。狭い道には人の気配はなく、家屋は茂る葉に侵蝕されかけ、蝉がうるさくがなり立てるだけの、午後。
カメラを構え、ゆっくりと。
家、地蔵、電柱、看板……入れるところは入った。家屋が傾き外れている窓から侵入し、放置されていた玩具を撮る。硝子が割られて骨組みだけの玄関から、奥の苔むした座敷を撮る。公民館らしき所は鍵がかかっておらず、お邪魔して古い公衆電話などを撮った。
もちろんどこにも誰もいない。
咎められる心配はない。
不法侵入しているというスリルも、廃墟探索にはつきものの――いわばスパイスだ。
村の中央に位置する、大きな洋館が今日の目的だった。遠くからでも分かる、美しい乳白色の造り。ネットの廃墟写真サイトで一目みた時から気になっていた、いわば憧れの情景だ。
しかし、実際にたどり着いてみると、身長よりも高い鉄格子の門はかたく閉ざされ、続く壁の落書きに至っては、洋館の風情をまるで理解していない単語の羅列。……帰ろう、と思いつつ、シャッターを切る。
一枚。
角度を変え二枚。
絞って三枚。
蔦が地面から這い上がり、洋館を値踏みしている様子。正面から見上げる、主人不在の空虚な風。なるべく壁を写さないよう洋館のみフレームに入れると、あのサイトの写真と同じ構図になった。これでは来た意味がない。少し離れて全体像、絞りをかけてもう二枚いっておこうか。
ふ、と。
背後の気配に振り向くと人が立っていた。線の細い、若い男。
驚きすぎて声も出ない。
沈黙を蝉が通り過ぎた。
男は、少年というには背が高く、青年というには顔が幼い。ばつの悪そうな表情浮かべている。男もこの洋館に用事があるのだと気付いた、と同時に、ウチに何かご用ですかと甲高い声で問いかけられた。
★
彼の案内で洋館に足をふみ入れる。
中は存外整っており、今すぐここに住もうと決心したら難なく生活できるような様子だった。きくと、彼が時々掃除しにきているという。電気は通っていないが、水道は井戸から引いており今でも使えるらしい。
玄関ホールを抜け、一通り案内してもらった。一階は応接室数部屋と家人用のリビング、キッチン、風呂トイレ、使用人の待機部屋。二階は吹き抜け客室数部屋と、サロンとして使われていたバルコニー付きの大部屋、トイレ。裏手には離れもあり、以前は主人の書斎だったという事だが、今は鍵がかかって開かないらしい。
一階に戻ると応接室に通された。豪勢なシャンデリアや重厚なソファ、いくつも飾られた名画に見惚れる。
しかし、写真を撮ろうとは思わない。
これらが本当に眠り、雨風や草木に蹂躙され、朽ち果てる所をつい、想像してしまう……美しくたおれる様を。
ノックの音にギクリとすると、彼が淹れたての珈琲と茶菓子を持って入ってきた。ガスもまだ通っているのかと聞くと、カセットコンロでどうにでもなりますよと彼は屈託なく笑った。
ご相伴にあずかりながら聞いたのは、村が壊れた経緯だった。
★
ある日この村に、三人の男たちが現れた。
彼らはここより南西の村からやってきて、この村の住人たちと良い関係を築きたい、我々は使者だと言った。その話がなされた場所こそこの応接室であり、村長であったこの洋館の主人は、二階の客室に彼らを逗留させる事にした。
彼らはこの地に留まっている間、南西の地に伝わる農業技法を惜しみもなく分け与え、あっという間に村中の人間の信頼を勝ち取った。村は栄え、発展していくだろうと皆が思っていた。
三人の男たちは、定期的に話し合いの場を設けた。ちいさな村の公民館の中、呼ばれた十数人が車座になり、話し合う。なぜ対立が生まれるのか、人間の持つ感情について、怒りはどこからくるのか、皆が穏やかに暮らす理想郷について……。
そのうち、南西の理想郷に皆で移住しないかという話が持ち上がった。話を持ち上げたのは、他でもない村長だった。誰も泣かず、苦しまず、怒りもない、穏やかな暮らしが南西の村にはある、と。三人の男たちは驚き、それを止めた。それは一個人の意見であり、意見を押し通そうとする事こそが軋轢を生むのだと、三人は村長を説得した。そこで、村内全ての人間を集めた話し合いの場が設けられた。今日のような快晴の日に、この洋館の、広い庭で。
結果。村は、村人は、南西の村に行くことに決まった。皆穏やかに笑いながら旅立ちの準備をし、今までの人生を劇的に変えるような真理をもたらしてくれた三人の男たちに、口々に感謝した。
こうして一夜の間に引っ越しは済み、村は捨てられた。
俗世に脱ぎ捨てた、殻のように。
★
「君は、その、南西の村には行かなかっの?」
「えぇ、」
「それは、その、訊いていい事なのかな……?」
「あぁ、お気になさらないで下さい。僕は、村長とは血が繋がっていないんです。母の連れ子としてこの村に来て、その母はすぐに亡くなって、……まぁ、ここでずっと暮らしてはいたものの、家族――じゃなかったんでしょうね。義父にとっては。村でも、余所者扱いでしたし。あの話し合いという名前のマインドコントロール儀式にも、一度も誘われた事はありませんでしたよ」
話を聞き終えたとき、バスの時刻に間に合わないと気付いた。慌てて席を立ったが、後の祭りだ。ここから全速力で走っても、到底間に合わない。へなへなとソファに座り直す。
彼は申し訳なさそうに眉をさげ、今夜は泊まっていって下さいと言った。