■ 悪魔よりも悪魔らしい男 ■

■ 1 悪魔が来たりてくしゃみをす。 ■

 嵐の晩、夜間外来の呼び鈴が鳴りゴードン氏が扉を開けると、黒いマントを羽織ったずぶ濡れの男が立っていた。
 その薄い唇がにわかにひらき、ゴツゴツとした鷲鼻が急に高くあがると男は盛大なくしゃみをゴードン氏に披露した。
「失礼、」
 鼻をすすり、男はボソボソと言う。
「初対面で名も名乗れず申し訳ないが、ここはゴードンスミスさんの病院だろうか」
 夜用のガウンを羽織ったゴードン氏は、常日頃から手入れを怠らない自慢の口髭に手をあて
「いかにもそうだが、急患か? 貴殿がそうとは思えんが……、伝令かね?」
 遠慮のない視線で男を観察した。
 男が山高帽をとると、打ちひしがれた枯れ葉のような白髪がのっぺりと眉尻まで垂れた。灰色の隈でどんよりと縁取られた眼球をことさら強調している。その目は赤く、玄関の灯りに反射し、ぬめりと光った。耳は長く後方に伸びており、その先端はきつく尖っている。背は低く、マントの上からでも猫背であることが見てとれた。
 更に男の全身からは、腐った魚のような臭いが発せられゴードン氏の鼻をつんと不快にさせた。
 ――まるで、悪魔のような男だな。
 ゴードン氏は思った。
「……伝令でもなければ、何だ? 私に用があるのかね?」
「レンツの件で話がある。中に入らせてくれ。慈悲を」
 ゴードン氏は、レンツという言葉を聞いたとたんにピクリと片眉をあげた。レンツという名でゴードン氏と関わりがある人物といえばナザレレンツに他ならない。
 氏はしばらく口髭に手をあてた後、男を自宅兼病院の待合室へと通した。
 二歩ほど院内に入ったところで男を制し、ゴードン氏は釘をさす。
「あんたを通すのは、この待合室だけだ。他には入らんでくれ」
 氏はガウンの前をあわせつつ、スリッパで大股に診察室へと向かった。カゴから清潔なタオルを一枚取り、玄関先へ戻る。
 ふかふかの白いタオルを勢いよく男に投げつけると、タオルはそのままポトリと床に落ちた。男は茫然とゴードン氏を見つめたまま、しばらくそのまま立っていたが、突然黒いマントを激しくふるわせた。ゆがむ唇の端は上に吊りあがり、その隙間から臭い息と共に笑い声がクツクツと響く。
 笑いを一旦深呼吸で落ち着け、男は言った。
「さすが、悪魔よりも悪魔らしいといわれるゴードンスミス。こんな惨めな気持ちになったのは久しぶりだ……だが、お前の命は今日で終わる。お前が請求した法外な治療費を清算するために、ナザレレンツは――悪魔を召喚したのだ!」
 男はマントを上げようとしたが、濡れそぼり重くなったマントは両腕の形にもこもこ持ちあがったのみ。
 ゴードン氏はその様子を見て
「ふむ」
 と、口髭に手をあて冷静に対応した。
 壁際のドアを開け中に入り、数秒もたたず横の受付カウンターから顔を出したのである。
 男は構わず、しなやかに待合室の椅子を飛び越えゴードン氏に襲いかかった!
 しかし。
 悪魔が他人の家へと入ったときには、その家の主が許した部屋にしか立ち入ることができない。そして男が通ることを許されたのは待合室のみ。
 立ち入りを許可していない受付カウンターの中のゴードン氏に、男の攻撃は全く届かなかった。
 何度やっても無駄である。
 しばらくして攻撃を諦めた悪魔に、ゴードン氏は尋ねた。
「で、当のレンツはどうしたのだ、」
「……逃げた」
「逃げた?」
「あぁ。契約書を持ってトンズラしちまった」
 氏は、自身の持つオカルト知識を総動員して、悪魔の契約書とは身体に刻むものではなったか、と言ってみた。
 悪魔なら、契約書がある限り、契約者がどこにいても捜し出せるものだろう、とも。
 男はガックリうなだれた。
「今風に、紙の契約書にしたのがマズかった」
 ゴードン氏は言葉を失った。
 外の嵐はますますひどく、沈黙は風と木々の不協和音にかき消されていく。ゴードン氏のちいさな個人病院には現在、氏と飼い猫しか住んでいない。猫は院長室の奥のベッドで、すやすや寝息をたてている。
 男としばらく向き合っていると、ゴードン氏の中からふつふつと怒りが湧き上がってきた。
 こんな時間、しかも嵐の中、のこのこ殺しに来た悪魔に――ではなく、はた迷惑な行為を重ね続けるナザレレンツに、である。
「……悪魔より悪魔らしいとはまた、ずいぶんな言い草だな。レンツが言ったのか」
「あぁ、」
 悪魔はパッと顔をあげ、レンツが泣く泣く語ったという話を口にした。
 ゴードンスミスの病院は悪徳商法で成り立っている。腕は確かだが法外な値段を取るうえに、とりたても厳しい。金がない貧乏人への慈悲などゴードン氏は持ち合わせていない。
 金を支払わない患者にはウィルスの入った液体をぶっかけ、「ワクチンがないと死ぬぞ」と脅し、保険金受取人をゴードン氏にさせた上で見捨てるという。
 人の不幸をことさら喜び、特に、末期症状で死期が近い患者に恋人がいた場合には、その恋人を呼びだしてわざと死の間際を雄弁に語る。ついでに、事後処理の方法を一足先に教えるらしい。
 その後、恋人や家族が涙を流しながら死んだ患者にすがりついた日には、ゴードン氏は一日中御機嫌で鼻歌もうたうほどらしい。
 治療は丁寧だが人間の扱い方は基本的にぞんざいで、腹に聴診器をあてたあとには患部をパシンと叩く。
 喉を診るための木べらを患者の口から取り出すと、わざと患者の服でぬぐってから捨てる。注射の前にニヤつきながら患者の表情をじっと見る、などなど、問題行動には事欠かない。
 しかし、この荒廃した土地で「医者」というとゴードン氏しかおらず、住民は泣く泣く通っているという。

■ 2 悪魔が去りて金を得る。 ■

 上記のような悪魔の所業が過去に何度もくり返され、ゴードン氏の資産は今や数百万ドルという噂だ。
 ナザレレンツも被害者のひとりであり、法外な治療費の取り立ては厳しさを増し、ついには先日、ゴードン氏が直々に家までやってきて、水をぶっかけられたという。
 例の殺人ウィルスに違いないと確信するレンツ。
 そして、発狂する前に悪魔を呼びだしたのだ。
 こうなったら悪魔にゴードン氏を殺してもらうしかない。それが金がない患者たちのため、ひいてはこの地域一帯の、ゴードン氏に怯えて暮らす人々のためなのだ。
「……とまぁ、こんな事を言ってたさ」
 ゴードン氏は、ひとさし指をビシリと悪魔に向けた。
「ひとつ訂正しておくが、レンツは被害者ではない。私が被害者だ! あいつがツケ、ツケ、ツケでまわした挙句の総額がいくらに膨れたと思うんだね、え?!」
「知らないね」
 男は肩をすくめた。
「とにかくアンタを殺せば、野次馬に混じってナザレレンツも顔を出すだろう。そうしたら報酬として命を刈り取る。食う。満腹。万事うまくいく。だから、頼むから――、出てきてくれないか」
「そういう事なら私は出ない。ここから出なくてもどうとでもなるのでな」
 受付カウンターの内部と診察室と自室は繋がっており、更に買い物はインターネットで済ませる派。自室にもうけた裏口から引きとる事になっている。
 自室は広く、台所もあればプロジェクターもあり、テレビもゲーム機も本棚もある。
 なければネットでお取り寄せ。朝になれば美人の秘書がやってきて家事を全て代行してくれる。
 美人な彼女はそのまま診療時間は受け付けで働いてくれるし、氏が希望さえすれば夜の方もいい感じにしてもらえる。
 ここから一生出ずとも、大した問題ではないとゴードン氏が教えると、悪魔は頭を抱えた。
「シット、神よ! これじゃあ妻を探し出すどころか、腹が減って死んじまうぜ!」
 ゴードン氏は、悪魔が神の名を口にするのはどうかと思う、というツッコミをどうにか抑え、妻を探すとはどういう事かと訊いた。
 男の妻は、ある日誰かに召喚されたがそのまま戻ってこないという。
「妻を探すために安い供物で召喚されてはみたものの、契約者は逃走しちまって。仕方なく願いの抹殺だけでもとこうして病院へ来たのに……あんまりだ…」
 呟いた男は、体力の限界なのか、心の限界なのか、床にうずくまり泣きだした。
 その様子を、口髭に手をあてて見ていたゴードン氏は、もしやと思い受付カウンターの電話に手をのばした。
 チンッ。カリカリカリッ、カリカリカリッ、カリッ。
 美人秘書直通の番号をプッシュする。
『――プッ。……はい? どちら様ですか?』
 電話はすぐに繋がった。
 ゴードン氏は紳士的に名乗ると、夜遅くにすまないが、病院まで来てくれないかと言打診した。受話器の通電はプツリと切れ間をおかずにギイ、と玄関の扉が開いた。立っていたのは、ゴードン氏にはおなじみの美しい秘書である。
 しかし、扉の音に気付いた悪魔は、秘書を見て叫んだ。
「――おまえ!」
 一層こぼれた涙のつぶが、その鷲鼻をぐしゃぐしゃとすべり落ちた。
 ゴードン氏は受付カウンターの中へと引っ込み、ドアを開けて玄関先の秘書の隣へと歩いた。ガウンの前を合わせようと氏が手を動かすと、かがんだ秘書が、やさしい手つきで衿を整えた。
 いまや形勢は逆転――否、もとからゴードン氏のペースではあったが、今、初めて氏は笑顔をみせた。
 心からの笑顔である。
 秘書の腰に手をまわし、もう片方の手は口髭にあて、氏は言った。
「この男は、君の夫ではないかね?」
 秘書は叩きつけるように否定した。
「こんな甲斐性ない男、夫なんかじゃないわ! ねぇ、ゴードン。アンタが呼び出してくれたから、アタシ、「本物の悪魔」ってものを知ったのよ。もうアンタじゃなきゃダメなの……。それに比べて! こんな所まで追いかけてきてアンタ何なの! 女々しいったらありゃしないわ!もう帰って。帰ってよ!!」
 泣きながら黒いマントをガタガタと震わせている男の足は、スウっと消えていった。男はそれに気付き、ギョッと目を見開く。
 あわてて身体を確認する男を眺める、ゴードン氏の顔は晴れやかな笑顔と自慢の口髭で彩られている。
 徐々に男の体は透け、ついに顔まで来たとき、悪魔は叫んだ。
「――この、悪魔が!」
 ゴードンスミスは、ナザレレンツが悪魔に語ったという話をひとつだけ訂正したが、他は全てその通りである。
 患者の不幸に喜びを感じることも、診察時の患者がみせる不快な表情に興奮を感じることも、唾を吐き捨て「二度と来るか!」と悪態をつきながら帰る人々を窓から眺める愉悦も、法外な値段の治療費も、その厳しい取り立ても、死に至るウィルスを培養した液を所持していることも本当である。
 レンツの家まで赴き、その液体をかけた事も、また。

     ★

 翌朝。
 死亡したナザレレンツが発見された。
 嵐のせいで倒れた木の下にいたことから、ゴードン氏との関係を疑う者は誰もいなかった。
 秘書が男との決別を言葉にした直後、ウィルスが全身に広がる予定通りの時間にレンツが死亡した――契約者が死亡した――ため悪魔は消え去ったのである。
 勝手にレンツにかけていた保険金の受取りを済ませ、小切手をひらひらと机でなびかせながらゴードンスミスは幸せにひたる。
 だが、氏にはひとつだけ悩みが残った。
 あの悪魔が最期に残したセリフがそれである。
 悪魔にまで「この、悪魔!」といわせたのは、男の妻を悪魔と知りながら秘書として側に置き奪った恨みからか、それとも、悪魔の口を介したナザレレンツ本人だったのだろうか……。