■ 前世ベイビー ■

■ 1 前世:部下 ■

 一歳になった息子が、はじめて単語らしき言葉を発した。
「あちょ! あ、あ、は、ちょ。かっ! ちっ、ちょ。かちょー!」
「はははは、課長? おい、千夏、今こいつなんて言ったと思う? 課長だってよ、課長!」

     ☆

 二歳になった息子がある日、神妙な顔で「折り入って相談があります、お父さん」と言った。
「お父さん、いえ、課長。僕です。信じていただけないかもしれませんが、木谷康助です。猪又課長」
「――は?」
 体育座りで、若干唇をとがらせながら、息子は上目づかいで私を見上げている。私はモスグリーンのソファで、寝転びながら新聞を三面まで読み終わったところだった。
 おいおい、ウチの子天才か?
 二歳になったばかりだというのに、こんなに流暢に話すなんて。TV局に電話した方がいいかなハハハ……。
 て、ちょっと待て。
 今なんて言った?
 木谷康助?
 猪又課長?
「課長――結婚式出れなくて、すみませんでした……」
 現在は部長職である私が、まだ課長だった頃。
 三年前。
 木谷康助は死んだ。
 私と千夏の結婚式の日だった。
 その日は大粒の雨が降っていて、せっかくのチャペル、ガーデンに出れなくて残念と千夏が朝からこぼしていた。私は緊張のあまりチャペルでは気が付かなかったが、明るく濡れそぼるイングリッシュガーデンを眺めながらの披露宴。私の会社の円卓に、ひとつだけ空席があった。
 招待したはずの腹心の部下、木谷康助が来ていなかったのだ。
 結局、木谷が来ないまま式は終わり、親しい友人たちとの二次会にくりだそうかという矢先。年配の女性から連絡が入った。
 息子が。
 死亡した、と。
 私は無理に、飲み下すように二次会を終え、もうそのまま眠りたかったが、何も知らない千夏はベッドサイドの灯りだけを残して私の目をふさいで――。
 二ヶ月後。千夏は嬉しそうに、妊娠したと笑った。
「えー…っと、かずくん。一志、」
 私はソファに座りなおした。
「お父さんちょっと寝ぼけてたみたいだから、もういちど、言ってくれるかな?」
「課長……、やっぱり、信じてくれないんですね」
 息子はぽろぽろ涙をこぼし、手で乱暴にぬぐった。
「僕だって最初に気付いた時は愕然としましたよ。思うように身体は動かないし、なんでか課長がガラガラ持って僕をあやしてるし、奥さんに無理やり哺乳瓶くわえさせられたり、オムツ交換なんて、もう、屈辱ですよ……」
 これが息子のかわいらしい声で聞こえてくるのだから、くらくらする。自分の頬を思い切りつねってみたが、目の前の息子は恨めしそうに私を睨むだけだった。
「言っときますけど、夢じゃないですから」
「幽霊か……」
「前世ってヤツだと思います」
 どうして今さら言いだしたのか、その理由は木谷の実の母親にあった。
 息子は、つかまり立ちができるようになった10ヶ月あたりから時々、棚をゆすって子機を落としては、木谷家へ無言電話をかけていたらしい。そういえばよく、千夏に取り上げられていた。
 ところが昨日かけた電話に、知らない男が出たのだという。
 もしもしと怒鳴るように言う奥で、母親の泣き声がノイズのように。チッ、という荒々しい舌打ちが余韻を残して電話は切れた。
 二歳になったし、諦めて、このまま、私と千夏に真実を隠し第二の人生と思いやっていこう、母親の声を聞くのもこれで最後、と決心した矢先の事だったという。
「あのなぁ、かずくん」
「はい、課長」
「……課長はやめてくれ」
「あっ、すみません。もう部長でしたもんね、猪又部長」
「いや、違っ、そういうー…」
 そういうことじゃあない。
 息子だろ?
 お前。
 前世はなんでも俺の息子だろう?
 そう言おうと思ったが、まだ、幼くちいさい手が、カリカリと右耳の裏をかく仕草。書類のダメだしをした時、発注ミスを怒鳴りつけた時、よく目にしていた木谷のクセだ。
 記憶がふっと鮮明になる。
 あの、ひょろ長くていかにもお人よしといった笑顔。いつもつけていた銀のネクタイピン。最後に交わした言葉は『じゃあ明日な』だった。
『――ハイ、課長。お疲れ様でした。あっ、』
『ん?』
『気をつけて帰ってくださいよ、明日本番なんですから。この雨だし、交通事故にあわないように……』
 今日は、千夏は地元の友人と遊びに出かけている。私は清潔に整いきったキッチンで、お湯をわかしはじめた。インスタント珈琲でも淹れて、少し、落ち着かなければならないだろう。
「……なぁ、一志。もしかずくんが仮に木谷だとしても、課長とか部長とか、やめてくれないか」
 一瞬キョトンとした愛くるしい息子が、私を見上げたままニッコリと
「うん! わたったおたーたん!」
 ダメだ! 馬鹿にしているとしか思えん!!
「やっぱり課長にしてくれ……」
「えーっ、どっちですか課長。まったく、そんなんだから奥さんに尻にしかれるんですよ?」
 とにかく三年は長すぎた。木谷の家に連絡するような口実は見当たらない。いきなり電話をかけるのも不自然だ。
 息子と話し合い、散歩の途中で偶然通りかかったから仏壇に挨拶、という、何とも胡散臭い作戦を決行することとなった。

■ 2 今世:息子 ■

 出迎えてくれた女性――木谷康助の母親は、明らかに憔悴していた。
 葬儀の時の記憶はもう薄れかけているが、ここまではひどくなかっただろうと思うほど痩せこけ、目の下には化粧でも隠せないほどの濃いクマが出ていた。
 線香に火を付け、鐘を鳴らして木谷の遺影に手をそえる。息子は、静かにしているのが耐えきれないといった風に家の中を走り出した。
「こら、一志! こっちに来なさい」
 木谷の母親は疲れ切った顔に笑みを浮かべ
「いいんです、久々に子供の声を聞いて、私も嬉しいですから」
 と言ってくれたが……。私にはわかる。無邪気に走り回るふりをしながら、異変がないか確かめているのだ。
「このような事をきくのも何ですが、ずいぶんお疲れのようですね」
 私の言葉に、木谷の母親はあからさまな動揺を見せた。目は左右に泳ぎ、何かを言いかけてはハッと気づきやめる。
 用意してくれたお茶を口に運び、私はつとめて明るい声で言った。
「私にできることなら、お力になりますよ」
「えぇ、ありがとうございます……でも……、猪又さんを巻き込むわけには……、あの、家族の問題ですので……」
 家族?
 私は道中、息子から聞いた話を思い浮かべた。
 木谷康助が小学生の頃に、木谷の父親は他界している。二人の間の子供は、木谷康助ひとりだけ。つまり現在、この広い一軒家でご婦人は独り暮らしだ。父方の親戚とはとっくに縁が切れている。母方の方には兄が一人、こちらは未だに独身で、たまに、ギャンブルでスッた金をせびりにくるらしい。
 という事は、家族問題イコール兄がらみ……金か。しかし、ポンと大金を出してやれるわけでもないし、心情的にも立ち入る資格はない。いきなり息子を「実はこの子の前世はあなたの息子、木谷康助だったんです」などと言ったところで、私が精神異常者と思われるのがオチだろう。
 と、玄関のドアが乱暴に開く音。年をとったひょろ長い男がリビングに入ってきた。おそらく木谷の母親の兄、だろう。着ている服がアロハシャツという点でお察しだ。私に気付いたとたん、ニヤニヤと薄気味悪い笑みを浮かべて近寄ってきた。
「おい、めぐみ。紹介しろよ。あッどうもォ、初めましてェ、めぐみの兄の……あぁ、康助クンのォ上司? ははぁ〜、じゃあ葬式でお会いしましたっけェ?」
 こんな人間がまだ世の中にいたとは驚きだ。どう返そうか悩んでいると、また玄関のドアが開く音。今度は、ガッシリした体つきの若い男が入ってきた。ブランドもののスーツに身をつつみ、アタッシュケースを持っている。
 場の空気が、一瞬にして凍りついた。
「先日はどうも、」
「……てめェ……! よくもノコノコ顔出せたな!!」
 アロハシャツの男がスーツ男につかみかかる。だがスーツ男は柔和な笑みを浮かべたまま、木谷の母親に口をひらきー…、
「うわあぁぁぁーん!!」
 いきなり。泣きはじめたのは息子だった。
「一志?! おおー、よしよし、あぁ、すみません。ほらっ、一志、だっこはどうだ? お父さん、だっこだっこしてやるぞー?」
 息子は、立ちあがってだっこしようとした私の両手をすり抜け、この場の唯一の女性に向けて走った。ソファから出ている両足にガシッとひっつくと、一層声をはりあげて泣きじゃくる。
 これには、スーツ男も観念したようだった。
「今日は無理なようですね。また日を改めます、木谷さん。それでは」
 スーツ男の姿が見えなくなると、息子はピタッと泣きやんだ。なるほど、あの男が例の電話の主か。私はようやく木谷の母親から息子を引きはがした。だっこした私の耳うらを、そっと、声が通り過ぎる。
 ――お父さん、
「たすけて……」
 前世はなんでも俺の息子だった。世界で一番可愛いし、こいつのためなら何を敵にまわしても怖くない。困ったことがあったら助けてやろう、悩みがあれば聞いてやる、キャッチボールなんてクサい事はできないが、成人したら一緒に酒を飲もう。そう、新生児室で寝ている顔を窓越しにながめて何度思ったか知れない、俺の。息子だ。
 グッと飲み込み、
「木谷さん。最近、何か困ったことがあったのではないですか? 実は先日間違ってこちらに電話をかけてしまいまして、おそらくあの男性が電話に出たのですが……、覚えはありませんか?」
 予想に反して、アロハシャツの男は家族想いの人間だった。木谷の母親は弱みを握られ、あのスーツ男から脅されているらしい。男は裏の人間とも繋がりがあるとかで、なかなかにしつこく彼女から金を巻き上げているという。
 こんな話がまだ世の中に転がっているのかと驚嘆しつつ、会社の弁護士を紹介すると約束した。私の名前を通せば、相談だけなら無料でできますからと言ったところ土下座する勢いで感謝された。
 息子はその間、ずっとだっこされたままだったが、帰る段になって、動かない息子が眠っていることに気付く。木谷の母親に手伝ってもらい、おんぶすることにした。
 外はもう陽がかたむき、わが家までのひと駅ぶん息子をおんぶしながら、私は心を決めていた。
 昔、会社であった一幕を思い出したのも大きい。木谷がある日、私のことを課長ではなくお父さん、と言った、遠いあの午後。
『あの、お父さん。ここの資料――、あっ、』
『ん?』
『すみません課長! 間違えました課長。課長、ええと、ここのー…』
『お父さん?』
『課長っ! 勘弁してください、本当に間違えたんです』
 運命とか、そういう言葉は嫌いだが、もしも。木谷が、私を父親に選んで生まれ変わってきたのなら、それはそれで嬉しい事じゃないか。
 アゴでインターホンを押すと、千夏が出迎えてくれた。髪をひっつめたエプロン姿。もうすっかり母親業が板についた彼女は背中から息子を抱きとると、トン、トンと軽くたたきながら寝室に連れて行った。たまらず追いかける。すやすやと眠るちいさな息子を、千夏とふたりで、しばらく眺めた。
「今日、遅かったのね。なにしてたの? 散歩?」
「いや、木谷の家に行ってきた。散歩の途中で通りかかって……木谷って、俺の部下だった奴なんだけどな、線香あげてきた。なんというか、まぁ、なんだ。息子みたいな奴だったんだ……」
「そう……」
 私と千夏は寄り添って、陽が落ちるまで息子の寝顔を眺め続けた。