■ 午前四時、君に会いに行こう。 ■

■ 1 彼女と彼 ■

 私がそのお好み焼屋に行きたいと思ったのは、東京めぐりの雑誌で美味しそうに紹介されていたからだった。
 外での猫かぶりを終了していた彼を強引に誘う。猫をかぶりなおした彼と電車に揺られ少し。そこは高いビルの隙間にひっそりと佇む横丁といった風情で、奥まで続く長い通路にいくつもの居酒屋やバーなどの看板や扉が立ち並んでいた。
 それだけでワクワクしたけれど残念なことに休業日で、あぁ……、とため息をもらした私たちの後ろから、やはりここ目当てのサラリーマンらしき集団が、休みかぁ、残念、と口々に言いながら踵をかえして歩き去った。
 通路をUターンして横丁の入口に戻る。
 と、彼がなにやら声をあげた。見つけたのは、その横丁から少しズレた場所にある、半地下のような通路だった。
 ここにも店があるのかなと軽く言いながら彼は入っていく。私は直感で不気味だと思いで入るのをためらったけど、その入口に佇んでいたみすぼらしい老婆が突然、大声で嘲るように歌い始めたので怖くなって彼に追いついた。
 通路は、先に入った横丁よりは短くすぐに終わってしまったけれど、横を見るとおかしなくぼみ。「心霊スポット」の看板。
「へえ。ここで片足あげて立っていると、幽霊があなたを後ろにひき倒そうとします、だって。いいじゃん、やってみなよ」
「いやよ! もう戻りましょ?」
 そこでポン、と誰かに背中を叩かれ、私は悲鳴をあげ彼に抱きついた。振り返ると作業着を着た女性が笑っていた。
「アタシはここの管理人でねぇ、いらっしゃい」
 幽霊ではない、ちゃんと触れる。
 地下の霊的パワーについて、女性は神妙に語った。なんだか本当にすごい場所らしい。よくよく見ると、通路の壁面にはたくさんの硬貨やお札が貼り付けられていた。彼とともに、来た道を戻りはじめる。女性は見送ると言ってついてきた。
 女性は私の隣にピッタリくっついて、色々話しかけてくる。名前や年や、どこの地方の出身か、学校はどこに? 会社は? 友達はいるかい? などなど、マシンガンのように基本的なプロフィール事項を聞いてくる。なんだというのだろう……ただただ圧倒されて、全部の質問に答えてしまった。
 そこの彼との関係はと聞かれ、私は、先月結婚したばかりだと答えた。
 彼が最初に外へ出る。私も続く――と、とたんにぐらりと視界がゆがんだ。
 あ、れ?
 私、ちょっと風邪かしら。体がうまく動かない。なぜだか目がうるみ、出口がぼやける。光に、あふれている。
 一歩、外に出た。
 隣を見やる。
 私の隣で歩いていたはずの女性の姿は、老婆のように老けていた。
 驚き、目を見開く。
 なぜ?
 いえ、違う。
 その姿は、最初に入口にいて歌をうたった老婆と同じだ……変身?
 どういう事なのだろう?
 私は自分の手を見る。
 シワだらけの。
 ふるえる手。
 思わず体を確認しようとひねらせると、筋肉が悲鳴をあげた。
 私、は。
 老けていた。老婆ではないが、40代か、そのくらいには老けていた。ちょっと待って。私、まだ20代だったはずなのに。どうして――。
 周囲の風景もまるで変わっていた。
 近代的な、開けた風景だ。あの横丁に入るためのビルの隙間などない。横丁はマンションに変わっていた。目の前には知らない形の車が行き交い、それも、ここに着いたのは昼過ぎの筈なのに、この妙な明るさ―…、今は朝だ。
 姿は老け、時間も変わった。
 浦島太郎、という言葉の次に頭をよぎったのは、あの女性になにかされたんじゃないかという事だった。
 私の、時間を盗られたのだ。
 そうか。彼女は魔女だ。
 けれどそれ以上、考えることができなかった。私の目の前に、おだやかな顔をした初老の男性が立ちふさがったのだ。ゆっくり、上を、視線をあげる。
「待ちくたびれたよ」
 それ、は。
 まぎれもなく私が愛している彼の、将来の姿だった。
 わかる。
 私にはわかる。
 もう直感としか言いようがなかった。彼の唇が三日月を描き、私はただただ口をおさえ、鳥のこえすら聞こえない。

     ☆

 半地下になっている通路を出てから、あぁ、あんまり面白くなかったな、と後ろをふり返ったとたん、僕は大声でさけんだ。
 悲鳴に近いくらいだ。
 声が止まらず、近くの通行人によって警察を呼ばれ、病院に連れていかれ、注射を打たれて数時間眠った。ようやく起きて診察室に行くと、
「何か――錯乱していたのですね。念のため、てんかんか診断するために脳波の検査を受けてもらいますから」
 と、医者に説明された。
 僕のとなりに、後から静かに入ってきた女が居る。
 姿かたちは、僕が結婚した愛しい彼女そのものだが、中身が違う。
 別人だ。
 僕はさっき錯乱していたかも知れないが、てんかん等ではないし理性は十分保っている。そのうえで、口に出すのはやめた。狂人扱いされずに穏便に彼女を取り戻す為に――やめた。
 彼女からの電話で駆けつけてきた両親にも謝り、僕達のマンションに戻る。車で。その間、一言も口をきかなかった。
 隣のコレは、誰だ?
 まずはそこから必死に思考をめぐらせる。単純に考えるのはやめた。何かとんでもなく複雑な事が起こっている……もうこの数時間で、僕は様々な事をやめなければならなかった。
 マンションに戻りカギをかけ、僕はとりあえず猫かぶりを終了した。

■ 2 彼と魔女 ■

 新居の玄関先にいつも置いてあるボンテージテープで女を素早く縛りあげ、廊下にころがし、靴で顔を踏みつけながらお前は誰だと怒号をあびせた。
 女は、彼女の声で必死に
「私よ、ねぇ信じて、まだ錯乱してるだけよ、痛いわ」
 などとくりかえす。
 呆れてものも言えない。
「君が偽者だなんてことは、僕にはとっくに分かっているんだ。証拠がほしい? 動画を見せようか? 彼女は、反射的にイイ声をあげるほどの――、ドMだったんだよ」
 女の動きがピタリととまった。
 とにかく一年、無理やり一緒に暮らして、なんとか女の信頼と改心をかちとった僕は、クリスマスの晩にようやく核心にふれた。
 女が話したのは、信じられないような魔法だった。
 彼女の肉体を盗んだというのだ。
 女は魔女で、身体が老けていくたびにそうしているのだという。
 信じないのをやめた。
 僕はもう本当に、ほとんどのことをやめている。
 一体何の告白だと思ったけれど、彼女を取り戻すために女の老後を保障した。全部元に戻っても、僕は君をここに住まわせてあげる……浮浪者のような以前の生活はもうおしまい。快適な生活、あたたかい寝室、これからは、魔法じゃないアンチエイジングをしよう。
 意識して頬を染め、ささやくように言うと、女は涙を流した。
 彼女の声で「ありがとう」と。
 違う。
 ダメなんだ。
 違う。やっぱり。彼女じゃない。
 女とは一切、肌で触れあうことはなかった。
 同じ条件の星めぐりになるまで、二十年以上の月日がながれた。その間、僕はたまに、彼女を失った半地下の入口に行き、付近の電柱によりかかってはぼんやりとそこを眺めた。
 愛と執着の違いとか、エゴと生きていくための手段はどちらが重いかとか、戻ってきたとして愛せなくなったらどうしようか、とか、そんな事をぼんやり考えるのが常だった。
 区画整理のため横丁ビル自体が取り壊されることになったとき、僕は今までの貯金を全額はたいて借金までして半地下のあの場所を買った。
 そして、ある朝。
 起きると女はいなくなっていて、テーブルには置き手紙。それを読み、僕は飛び跳ねるように走って電車に乗った。息をきらしながらついにそこに着く。
 半地下の入口から、出てきたのは。
 僕は今でも笑い話で、大声で悲鳴をあげた日の事を、彼女と老婆に話すことがある。老婆は最近、熱心に教会へ通っている。
 彼女は彼女で、自分が年老いていることを自覚せずにときどき、筋肉痛を起こしては目じりをさげ、僕はそのたびに愛しいと思う。

     ☆

 いいカモが来た、と大声で歌った。
 あのカップルの後ろから、若返ったように見せる呪文で変身を。
 どうやら今回も身体に不自由しなさそうだ。星の位置も丁度いい。今度もうまく騙せるだろう。男女の仲などうわべだけだ。騙すのは達人の領域と自負していたし、外見が同じでどうして疑われよう。
 けれど。
 今回はそういかなかった。
 女の体に入ってすぐ、カップルの男はふり返り、アタシを見た瞬間に別人だと見抜き悲鳴をあげたのだ。
 あげくにアタシは、マンションに戻り縛られた時、身体が快楽ぎみに反応しているというのに必死に懇願するというヘマをおかした。
 だが、男はやさしかった。
 手足を縛り床に転がす手際の良さ以外は本物の紳士だった。
 アタシは観念して一緒に暮らし始めたが、男以外の人間、つまりこの身体の女の両親や職場の同僚、近所の住人たちは、中身が変わった事にまったく気がつかない。
 なぜ男が一目で気づいたのか、アタシは興味をもった。
 これが愛というやつなのか、単に男の観察眼が鋭いだけなのか……。
 それが愛だと気付いたのは、暮らし始めてから一年がたったときだった。子供はまだかとせがむ双方の両親を集めて、彼はこう言ってのけたのだ。
「今まで黙っていましたが、僕はゲイなんです」
 男が持ってきた、エイズではないという診断書とともに男が歩んできたゲイ人生が語られた。騙すのがライフワークのアタシが数日気付かないという程、出来栄えの良すぎる嘘だった。
 そしてアタシはここまで来て、入れ替わってからたったの一度も、男がアタシに触れてないことに、ようやく合点がいったのだ。
 愛。
 全てを話すと男は、彼女さえかえしてくれたら老後の保障はするよと言ってくれた。アタシは大昔に生まれてからずっと魔女だと蔑まれてきた。こんなに優しい男と出会った事なんてなかった。運命というヤツなのかも知れない。男の願いを――彼女をかえしてほしい――叶えてやりたい。
 けれど、一度交換した身体をかえすなんてことは、やった試しがない。準備やら研究やらで十年近くを費やした。
 アタシはどんどん老けてくる身体を、鏡にうつしてみた。お世辞にも美人とは言えない女の、中身だけ戻ってきたとして何をするんだと男にきいてみると、
「そうだな……、とりあえず心はそのままなんだろ? じゃあ前に言ってた鼻フック用の用品の購入と、身体をつるすための天井工事が必要だなぁ……」
 なんてニッコリ言われ、以来、戻ってきた時に備えた毎日のストレッチとランニングを強要された。
 望み通りの星がめぐった夜。
 寝ている男の指にすこしだけ唇をつけた。
 終電で、あの場所へ。
 アタシは成長するんだ。
 いや、成長した。
 老いるのはこわい。
 それ以上にこわくて脆くてどうしようもなく綺麗なモノを、アタシはやっと手に入れたところだった。
 愛と呼ぶにはまだまだ相応しいものじゃない。