■ レレレイ坂下ヨーデルワークス(連載中) ■

■ 1 レレレイ坂の魔法使い ■

 いちばん下までくだったところの、そう。あのバス停の向かい側に ヨーデルワークスと書かれた看板が見えるだろう? でも音楽レッスン教室じゃあない。
 あすこには魔法使いが居るらしいんだ。現代なのに?
 そう、現代なの、に。

     ★

 ニコニコと楽しそうにトランプをシャッフルする少年。
 テーブルをはさんだ対面には眉間にシワを寄せて少年をにらみつける男が座っている。
 空き家に忍び込んだのではないかと思わせるほど、質素で狭い事務所。
 ポスターや観賞植物、書類棚やカーテンなども一切なく、ただ、ショットバーにありそうな丈のあるステンレスの丸机と、これまた丈のある、小さく丸い椅子が置かれているだけの空間。
 外から眺めた限りでは、もっと広いビルのハズなのだがおおかた、向こう側のドアの奥が全て物置になっているのだろう。
「――おい、」
 とうとう沈黙に耐え切れず、男はドスのきいた声を出した。
 と同時に少年はテーブルの上にタンとトランプを置き、片手を軽くスライドさせる。
 扇状に広がるカードは、紺と白で中世的な模様が描かれている市販のものだ。少年は、笑顔で言う。
「どうぞーっ! 一枚お引きになすってくださいコカタさん」
 苛立ちを表面に出しながら、男ー…子方は、いちまいのカードを選んだ。
 少年は先ほどの、シャッフル前の言葉をもう一度口にする。
「ご用件の前にコレをやるのがアタクシの趣味でしてーん」
 子方がここ、鈴々礼坂下バス停向いのレレレイ第四ビル三階、ヨーデルワークスまで足を運んだのはなにもカードマジックを見るためではない。
 ここに、魔法使いが居るという噂のためだった。
 確かに身なりは魔法使いっぽい、と子方は思う。
 右上に束ねた長めの髪には白いシルクハットの飾りがついていて、時々青く透ける黒髪に踊っている。左目のまぶたには太く茶色の縦線が入っており、刺青なのかそれとも火傷の痕なのかは判断できない。
 着ている服も妙で、黒スーツの左胸から腕までは別な茶色のスーツを継ぎはぎしているようだった。
 口にはパイプをくわえているー…と思いきや、パイプの先端はくるりと曲がって細くなっている。一瞬、耳かきをくわえているのかとギョッとする。魔法使いだという噂さえなければ、こんなおかしな格好の奴とは関わりたくない。
 子方は、この場に居る自分を後悔しながら引いたカードをチラリと見、て、え? と目を疑う。「何出ましたん?」と少年。
「ハト、だ、」
 ハトの絵が描いてある。
「ハト!!」
 少年は嬉しそうに叫んでテーブルに手をつき、身をのりだした。
 差し出された手を呆然と握ると、少年は大げさに上下させた。
「お受けしますわコカタさん! アタクシ、樹課メレンゲいいますん。今日はどのようなご用件で?」
 てっきり、数字が書いてあるものだと思っていた。
 ブンブンと手をふり回されながら、そういえば俺、こいつに名前言ったっけか? と子方は思った。
「用件……ジュ…?」
 用件を言う前に言葉が止まってしまったのは、聞きなれない苗字であった。発音に困る。いや、発音は聞いてはいたが……。
 子方の表情を見て、少年は「あぁ、」と慣れているかのような声を出した。
「ジュッカですのん子方さん。ジュッカ」
 少し両手を広げ、でもなんと呼んでもらっても、と少年は続けた。
「ハトでも、伝書バトでも、文鎮バトと呼んでいただいても、アタクシはオールオッケイでごやんす」
「なるほど、」
 カラスでもフクロウでもなくハト、ね。
 どうやら魔法使いと言っても、自分が思っているような正統派魔法使いではないようだ、と、子方は検討を付けた。
 カードに描かれているハトも、純白な平和の象徴ではなく、街中でよく見かける灰色を塗りたくられている。アウトローでないとしたら、相当のひねくれ者に違いない。
「ではパロマと呼んでいいかな、パロマ?」
 スペイン語で「ハト」である。
 ――ひねくれではなく、ウィットと呼んでくれたまえ。突然子方は、心の中で誰にともなくにそう言いたくなった。
「いいですともギル・エヴァンス!」
 少年はまたも顔を輝かせ、肩をゆすって握手を求めてきた。ぶるんぶるんと手首を上下にふられながら、
「アタクシもコカタさんの事ギルと呼んでもん?」
 子方は、その名前の元ネタもわからないまま「あ、あぁ……」と頷くしかなかった。
 とにかく、こうしてダラダラ話をしていても始まらない。
 子方はポケットからいくつか石を取り出し、カチカチと丸テーブルの上に並べた。コレこそが、子方の悩みのタネだ。
 数日前から、子方の行く先々にこの石が置かれている。
 会社の机の上や、取引先の受付プレートの前ならまだしも、座ろうとした食堂の椅子の上、自宅のコーヒーメイカーの中、果ては今朝枕の中身が、ソバガラからこの石に変わっていたのである。
 さすがに気味が悪くなる。
 子方は現在、オートロックのマンションで一人暮らし中だ。枕の中身なんて、誰にも換えられる筈はないのだ。
 その石を手に取り、少年は「ははーん」と玩ぶ。
 ザラザラした表面。青いもの、半透明なもの、緑がかったものなど、様々な色があるが、どれもなめらかに角がとれていて、白く粉がふいたようになっている。飴かと、間違うような。
「コカタさん、これはただの石じゃあないですん。シーグラスと呼ばれるー…」
「おい、さっきの名前は、」
「あぁ、アレ? あれはさすがに言うの無理ですのん」
「はぁ?!」
「まぁまぁ。いずれ必要になるものでしてね、本当の名前というもんは」
 石を眺めていたメレンゲ少年の顔から、突然笑顔が消えた。
 それは、様々な混乱の中、確信をもてた者だけが発する一声。
「…ハレの使者だ……」

■ 2 レレレイ坂の魔法使い→レレレイ坂の二度寝ハート ■

「ハレの使者?」
 子方の問いには答えず、少年――メレンゲは、椅子から飛びおりカツカツと歩き始める。
 狭い室内を一周、うつむきながら二週、どうしまぷかねとつぶやきながら三周、さきほどまでの異様なハイテンションぶりはどこにいったのか、入り口ではなく別の、奥へ通じているであろうドアの前に立ち、メレンゲはやっと顔をあげた。子方と目をあわせる。
「……コカタさん、」
 なんでもないような裏に、探るような視線を感じる。
「もしか、カミサマを信じてないんと違いますん?」
 今度は子方が考える番だ。
 カミサマ、神様、キリスト教にいわせれば主、全知全能のゼウス、日本を創った男女。子方はべつに、それらを嫌いなわけではなかった。人間の信仰心に依るものを尊重している、とでもいうのだろうか。
 ただ、実際に自分の目の前に「神」が降り立ったことなど、一度もなかった。
 目に見えないものは信じない主義だ。だが、それを簡単に「信じていない」と言っていいものなのか、判断に困る。
 メレンゲは、子方の返答を待たずに質問を続けた。
「コカタさん、死んだらどこに行くと思いますん? 天国? 地獄? 涅槃?」
「まず霊安室。次に棺。火葬場。残った骨は墓、の順だろ」
「天使とか、」
「知らん」
「悪魔とか、」
「それ人間だろ」
「幽霊とか、」
「幻覚、幻覚」
「ファンタジー系の本はお好きで?」
「見ないな」
「占いなんぞにはー」
「女性の娯楽だ」
「宗教やっとりますん?」
「やりたい奴が勝手にやりゃあいいだろ」
 ――ガチン!
 突然。
 事務所の中に風が吹き込んできた。
 メレンゲがドアを開けたのだ。ただし子方の方向からは、引かれたドアの板しか見えない。曇りガラスの向こうに、メレンゲのシルクハットが浮かび上がり、それがひょいとそれた。
 と、同時に、ドアの後ろから少年が顔だけのぞかせる。
「どうぞお帰りなすってくださいコカタさん!」
「は?!」
「その依頼は厄介ですのん。三日後、こちらからお伺いいたしやすん、では。ツァイツェン!」
 ――バタン!
 呆然としている間に扉は閉められた。フラリと寄ってドアノブを回してみるも、ノブは微動だにしない。残されたのは机の上のトランプカードとシーグラス。それに、子方が引いたハトのカードだけだった。
 扇状になったままのそれの、一番端のカードを持ち上げ、そっと返す。パタパタと連動してトランプは全て裏返った。
 裏は全て真っ白だった。

     ★

 まったく騙されたものだ。
 とひとりごち、子方はコーヒーを飲み干した。
 なにが魔法使いだ。部下たちの雑談に乗ってしまったのが悪かった。
 ここ数日、相変わらず行く先々でひどくあの石が目についてしまい、子方の精神力も限界に達していた。
 しかし、もう一度あのヨーデルワークスとプレートのついた扉を開くつもりはなく、少年が言っていた「三日後」は、あと数時間で終わろうとしていた。
 テーブルの上で組んでいた腕をほどき、軽く手をあげつつレジカウンターに目をやると
「ニコ!」
 とオレンジ服の店員が爽やかな笑顔を作っておかわりコーヒーを持ってきた。
 レレレイ坂は、北東から南のあたりへ長く伸びる一本の坂道である。
 坂の一番上は山の入り口にかまえる鈴成神社で、修験者が鈴を鳴らし、人々に礼をしながら神社へと参ることから「鈴々礼」という名前がついたとされている。
 本来なら、この坂道の終わりはもっと長い筈なのだが、二十年ほど前、宅地開拓のため切り開かれ今ではあのヨーデルワークスがあるバス停のロータリーが、一応の坂の終点となっていた。
 現在、子方が居座っている二度寝ハートは、ヨーデルワークスよりも少し坂をのぼった所にある風変わりなコンビニで、コンビニといえば雑多な菓子・食料品・飲料水・雑誌など、商品を棚に並べているのを想像するが、ここは弁当のかわりに漫画喫茶風椅子&テーブル&有料パソコン、温泉風座敷&ちゃぶ台&セルフ湯飲みセット、ファミレス風長椅子&テーブル、などが置いてある。
 当然普通のコンビニのように雑誌なども置いてはいるが、それは向こうの小さなスペースのみで、こっちの席料金がメインのような造りになっている。
 よく道ですれ違った女子高生たちが
「じゃ今日も二度ハー行っとく?」
「行く行くぅ!」
「チョー二度ハるぅ!!」
 などとキャアキャア騒いでいるのはよく見かけるが、実際に入ったのは今日で二度目だ。
 そして、二度目が危ないという、噂。
「はん、」
 何が危ないだ。
 まさか、二回来ただけで強盗と鉢合わせするわけもない。世の中嘘ばっかりだな。
 そう全国チェーン喫茶店風のスツール&窓際カウンターに座りなおした子方は、店員が持ってきた五杯目のコーヒーを胃に流し込み、暗闇の道路を見つめた。
 あと一時間で日付が変わる。
 どうやら自分は、部下たちの噂話に、相当流されているようだ……。

■ 3 レレレイ坂の二度寝ハート ■

「、あ? れ……」
 ふと気がつくと、子方は白い空間にポツンと立っていた。
 ここはどこだと思う前に、
「コカタさん」
 トン、と背中に手が置かれる。
 振り向くとそこには、三日前失礼極まりない退場のしかたで子方の視界から消えうせた少年が立っていた。
 相変わらずシルクハットの飾りが髪の上でゆれ、ニコニコと笑っている……そうだ、こいつの名はメレンゲといったな、と子方は思い出した。
「あぁ、良かった! 間に合いました。間に合わなければボク、どうしようかと!」
 ボク?
「間に合うって、何に」
「あのシーグラスを置いた主に合う前に、ですよ」
「こんな所でか」
「そうです」
 メレンゲは少し声のトーンを落とし
「こんな所で現れるんですよ、ヤツラは」
 慎重にあたりを見回した。しかし、ただ白い広々とした空間が、どこまでも広がっているだけだ。
「この三日間、ボクが調べまわった結果から申し上げますとー…」
「おいちょっと待て、」
 何かがおかしい。
 何かが。
 しばらく考えてもその違和は拭えず、頭をふり「いや、いい。続けろ」と促す。メレンゲは「もちろんです」と請け負った。
「コカタさんはどうやら、ハレの一族とケの一族の縄張り争いに、知らないうちに巻き込まれてしまったようですね。そしてハレの一族の使者―…人間に干渉する外部省みたいなモンです…―が、先手を打ってコカタさんに仕掛けてきた……。それが、あの、シーグラスです」
 少年は両手を広げ、左右の手のひらをゆっくりと子方に示した。
「もともと、あんまり人間には干渉しないんですよ。このふたつの民族は。ただ、コカタさんが特殊な人間だという事に、同時に気づいてしまったのがそもそもの始まりです。普通の人間なら、どちらかの一族に必ず傾くハズが、そうならない特殊な人間ー……」
「何が、傾くんだ?」
 身に覚えがまったくない。
 特殊な人間?
 ハリウッド映画じゃあるまいしー…。
「それは、」
「――そこまでですのん、ハレの使者!」
 突然の叫び声。左に視線を移す。
 そこには、もう一人樹課メレンゲが立っていた。
「―― ようやくのお出ましですねハレの使者。ボクのマネなんかして……予想済みですがね!」
 もう一人のメレンゲから、子方を守るように立ちはだかる。
 それは、の、続きを聞きたかったが、事態はどうやら、それどころではなさそうだ。
 向こうに立っていたメレンゲは、一歩こちらへ踏み出し左手を出す。
「馬鹿な演技はおよしなさいん、ハレの使者! ――コカタさん、アタクシが本物ですのん、そいつから早くお離れなすってください。こちらへ!」
 子方は考える。
 会社では上司なのだから、決断力を迫られるのは日常茶飯事だ。
 今の二人の言動を思うと、さきほどの違和感があいまって明確に頭の皮をつつく。どちらが。
 ―― ボ、ク、ノマネナンカシテ。
 ――ア、タ、ク、シ、ガホンモノデスノン。
 子方は走った。
 後に現れたほうのメレンゲの手を、あっけなくつかんだ。正解だと。
 ヒヤリ。
 冷たい。まるで、人のモノではないような冷たさ。思って。
 唇のはしをあげ、本物のはずのメレンゲが薄く囁いた。
「さぁ、コカタさん。アタクシと≪本当の名前≫を交わして、正式に契約しやしょう」
 本当の名前?
 ハト。トランプ。
 いずれ必要になるものでしてね。
 灰色のハト。
 そうだ。
 簡素な事務所で。
 スツールで。交わした。
 ひねくれではなく、ウィットと呼んでくれたまえ!
 もう持っている。
 パタパタパタ。
 トランプは裏返る。ツァイツェン!
 思わず呟いた。
「……パロマ…」
「何ッ?!」
 メレンゲの顔が驚きの色を混ぜる。その声はメレンゲのものではない。もっと、別な。
 聞いたこともない――。
 反射的にパンッと、弾くように手を放した。誰だ? こいつは。アイツじゃない。後ろを振り返る。と。
 その様子に子方は目を奪われた。白い空間だったはずのそこには、灰色の魔法陣が所狭しと敷き並べられ、パチパチと音を立てている。
「さぁ!」
 本物のメレンゲが叫ぶ。走ってその灰色に足をかけた瞬間、少年は嬉しそうに、カン! と踵を踏み鳴らした。
「――上出来です、ギル・エヴァンス!!」
 高い声がキンと響いた瞬間、床という床から光がほとばしり、空間を包んだ。子方は思わず腕で顔をふさぐ。
 ふっと暗転。
 反射的に目を開き、がばっと起き上がるとそこは二度寝ハートの喫茶店風カウンターで、窓の向こうの空は、建物に遮られながらもやや白み始めていた。
 夢……?
 辺りを見回し、唯一の変化に気がつく。
 子方のとなりには、プラスチックの細い棒でコーヒーをかき混ぜながら眠そうにまぶたをこすっているー…樹課メレンゲが座っていた。

■ 4 レレレイ坂の二度寝ハート→レレレイ坂の水鏡堂鈴成支店 ■

「おい、」
「ハイ? あ、お早いお目覚めでやんすねコカタさん。グッ・モーニン」
 やはり、いつもの格好だ。まだ会って二回目だというのに、いつもという判断を下す自分が滑稽に思え、子方は少し思い直した。
 だが、いつもの格好でなければ、二度寝ハートの店員は好奇の目でチラチラ見るに決まっている。
 あの、笑顔が機械的なオレンジの青年は、子方やメレンゲなど気にもせず、せっせと店内を掃除している。
 その様子を眺めながら、あれを夢オチにできないかどうか子方はずいぶん考え、
「お前……ちゃんとした日本語で会話できるなら、最初からそうした方がいい。社会的に」
 居合わせていた少年も同じ夢を見ていたのかどうか、確かめるために口にした。
 メレンゲはコーヒーを啜り、ほうっと息を吐きだすと
「社会的に?」
 笑いを含んだ声で子方をじっと見つめた。
 まるで、アレは夢ではないと言いたげに。
「お断りしやすわ」
「そうか」
「マンガみたいな言い方をすれば、アタクシ達は、既に社会から隔絶された存在ですのん。コカタさん」
「達?」
 少年はそれに答えず、もう少しお付き合いいただいてもん? と首をかしげた。  会計の段になり、子方はメレンゲの分も払おうと、恐る恐る財布を取り出した。と、昨日までなら、財布の中身がすっかり石に変わっていたハズが、普通の札。普通の小銭。
 元に戻っている。
 思わず、少年を見る。
 と、金がないと勘違いしたのか
「アタクシが払いまショウ!」
 少年はずずいと前に出た。
 どうにか押しのけて少年のぶんまで支払う。寝むそうなオレンジ青年の「ありがとうございましたぁ」の声に背中をおされて外に出ると、メレンゲは、ヨーデルワークスがある方向の左……ではなく、右へ。坂をのぼりはじめた。子方もそれに続く。
 朝日は昇り、坂道のいたるところから朝の合図が聞こえてきた。
 牛乳配達のバイク。打ち水をする民家。小鳥の鳴き声。犬の散歩。体操をする老人。
 こんなに朝早く、レレレイ坂を歩くのは久々だった。大学以来か、何年になるだろう。子方はメレンゲの後ろ姿を見ながら、ふと、こいつは学校には行っているのだろうかと思った。
 外見からすると、通うなら中学校か。近くだとレ二中か、あのロータリーの真下ー…崖下にある、切り開かれ新設されたレ三中かのどちらかだろう。
 しかしその想像もやすやすと砕けた。
 足をとめて振り返ったメレンゲが「だから、」と言ったのだ。
 朝日が反射して、少年の髪が光る。
 キラキラと。
「だから、アタクシ達は既に社会から隔絶された存在ナノデスよ。子方さん。今、変なコト考えてー…」
「達って何だ、」
 おれも含むのか。
 またしても少年は答えず、前を向いて歩き始める。
 着いたのは、シャッターが閉まったままの店の前だった。
 所々に錆が浮かんでいる看板には、いかつい字で「水鏡堂」と描かれ、その下には「鏡ノ張替・取付 御見積リ致シマス」とある。
 小さな店だが、ここなら知っている、と子方は思った。
 伊達に何十年と住んでいるわけではないのだ。坂にある全ての店を知りつくすことが一種のステータスだった少年時代。母親に買った手鏡。はじめてできた恋人に贈った、今思うと恥ずかしい柄のコンパクト。
 それらが脳裏を通り過ぎる。
「鏡屋じゃないか」
 声に出した。
「えぇ、モチロンご存知のコトかと、こっちですん」
 木戸を勝手に開け、メレンゲは迷わず裏の住居スペースへと歩いた。
 狭い通路の奥は、木々が生い茂る庭になっており、飛び石の先に縁側。昔ながらの日本家屋となっていた。人の気配はなかったが、縁側の雨戸とガラス戸が少しあいている。
「ココから入りまショウ。なに、彼とは古い友人でしてん」
 ガラス戸は少年の力では動かない代物のようで、子方が手を貸すと、ギッ、と、派手な音をたてて動いた。
「テルペン! テールペーン!」
 猫のように家の中へ入ったメレンゲは、子方が躊躇している間に誰かを呼びながら奥へと消えていった。
 仕方なく靴を脱ぎ、入る。雨戸のおかげで薄暗い家の縁側をしばらくソロソロと歩き、思い切って障子を横に引く。
 そこは鏡の部屋だった。
 低い木の棚が置かれ、所狭しと鏡が並べられている。大小様々な鏡に圧倒されながら部屋の中へ入ると、一際目についたのが等身大の姿身だった。やはり向かい合った薄暗い男は子方自身で、ここ最近の寝不足や緊張もあり、相当疲れているように見える。
 すると鏡の中の子方が「ようこそ水鏡堂へ」と、子方に話しかけてきた。
 ……やれやれ。二人のメレンゲと対峙したあとは、二人のおれか。
 さして驚かずに鏡に向かって
「メレンゲが探していたがー…」
 と言うと、後ろ側から、水色のガウンを羽織った少年が現れた。寝間着姿のようだ。あのガラス戸の音で、目がさめてしまったのだろう。
「なんだ、つまらないなぁ。改めてようこそ、水鏡堂へ。メレンゲの事だし、朝食もまだなのでしょう。ここじゃあなんですから、居間へご案内します」
「店主は、」
 子方の記憶では、ここの店主は頑固な職人気質の爺さんのはずだった。
 つ、と白い顔が伏せられる。
「……申賀彦は本当に良い鏡職人でした。天国でも、きっと鏡を磨いていると思います」
 それがどういう意味なのか気づき、子方が言葉を探しているとパッと顔をあげ、笑顔で
「あっ、でもあなたは天国とか信じないんでしたよね?」

■ 5 レレレイ坂の水鏡堂鈴成支店 ■

「……誰、だ」
 その質問は既に、何千回も誰かに何かにしている。しかし子方は、そうするしかないのだ。自分が触ったところからが、世界なのだから。
「まぁ、それも含めてご説明します。居間へ行きませんか、すぐそこ なんです」
 少年が手のひらを向けたのは子方で、後ろを振り返ると、なるほどそこだけ鏡が置かれていない。
 人一人分の隙間をぬって襖を開けると、時代が止まったような、古くちいさい居間に出た。おそらく、店主だった老人は、晩年の大半をここで過ごしたのであろう。座布団をすすめられ腰を下ろすと、壁の振り子時計がボーンと鳴り、メレンゲが軽快な音を立てて襖を開けた。
「テルペン! やっと見つけたでやんす!」
「うん、来ると思っていたよ。この間ぶり。ところで紹介してくれない? 一方的に知っているのも、なんだかアレだし」
 少年は襖の前に膝をつくと、三つ指を立てて子方に礼をした。
「満禾テルペンです」
「ミッカですのんコカタさん。アタクシの古い友人」
「あぁ。子方時人だ」
 訝しみながらも会釈する。メレンゲと似たような人種だという事は、今の名前でわかった。しかし、一方的に知っているとは……?
 すこしお待ちくださいと少年――テルペンが消えて数分後。子方の前には純和風の朝食が並べられていた。それも一食分だ。この二人は、食事は要らないらしい。
 子方が味噌汁を啜っている間、不可思議な説明が始まった。夢の中で聞けなかった部分も含めた、調査結果報告だ。探偵気取りらしい。
 だが、それは、終わったと思っていた事が、始まりに過ぎないと思わせるのに十分な効果を発揮していた。
「まず、僕達の存在経緯からご説明しましょう。メレンゲはやらないから、こういうの」
「説明しすぎは格好悪いんですの!」
 今から二十四年前。
 長く伸びたレレレイ坂を文字通り二分する、大規模な宅地開拓が行われた。四年をかけ、中間地点にある巨大な森林公園を住宅街として切り開くのだ。
 そのために、坂は分断された。
 鈴成神社からくだると、現在のヨーデルワークスがあるバスロータリーで一旦坂は終わる。土を盛り、ゆるく平地にされてしまったのだ。
 そこから先はすぐ崖で、崖下は、盛るぶんの土を削って平地にし建てられた、鈴々礼第三中学校。校門から再び坂は始まり、そして国道とぶつかりT字路となって坂の本当の終わりとなる。
「それらは、僕達をも二分しました。僕達は鈴成を守るー…、うーん。守るなんて言っていいのかな」
「アタクシ達は狭間の存在ですのん」
 それらは時々、神の使いや天使、夢魔や魔法使いなどといった言葉で表わされる。しかし、その存在自体は現実と幻想の挟間に生きる存在。
 普通の人は見ることすら叶わない。
「僕達は、それぞれ別々の思想を持っています。その思想とリンクする人間、僕達を契約ナシで見ることができる人間と≪本契約≫することで、 僕達は存在を強めて他の人にも見られるようになるし、長く生きることもできるのです。メレンゲだけは違うのだけれどー…、メレンゲは昔ー……」
「そのハナシは後回しですのん、テルペン。とにかく、」
 その二分された思想は、そのまま周囲の幻想領域の住人を巻き込み、ついに二十年の歳月をかけてハレの一族・ケの一族と呼び称されるまでになった。
 この二つの勢力は、基本的に人間には干渉しない。
「干渉するとしたら、僕達が契約できる人間を見つけた時くらいです」
「けど、コカタさんが特殊な人間だと同時に気づいてしまったのが始まりですん。コカタさんが居れば、つまりコカタさんと無理矢理にでも契約してしまえば、今の拮抗状態を脱却し鈴成すべてを支配できるー…」
「はぁ??!」
 思わず子方は素で声をあげた。
 二人の少年は苦笑いで肩をすくめる。
「でもメレンゲ、契約しちゃったんでしょ」
「まぁねん、」
「ダメじゃない?」
「必要に迫られた結果ですのん、致し方ないん」
「この人、死ぬよ?」
「……おい、」
 子方は体勢をたてなおし、額をおさえながらなんとか箸を置いた。茶碗の中はからっぽである。
「要約して教えろ。会社の報告書は、先に結論から書くもんだ。つまり、 おれは今、どういう状況なんだ?」
 少年二人はそれぞれ考え込み、なんとか簡潔にまとめようと、目は宙を泳ぐ。数秒後。
「そうですねぇ……、鈴成中の「人間以外」に命を狙われる存在になった、かな?」
「祝☆初契約で、ここら中の「人間以外」のヒンシュクを、バッチシ買い漁ったってトコかしらん?」
 アレが始まりに過ぎなかった事より、この先まだファンシーな出来事が待っている方が苦痛だ。
「そうだ、せっかくなのでコレをさしあげましょう」
 立ち上がったテルペンが、日めくりカレンダーの隣にかけてある封筒入れに手をかけ、チリンとひとつ、音がした。
 水色のお守りには、鈴成神社と刺繍が。メレンゲを見ると「ミッカはハレの眷族だから」と肩をすくめた。
 あの冷たい手。誰のものでもないような声。夢。石。
 それを見越したようにメレンゲは続ける。
「テルペンは、あんな事に労力を使うほどバカじゃあないですん」
「まぁ、そうだね」
 少年はクツクツと楽しそうに笑い、ちゃぶ台の上にお守りを置いた。
「子方さん。ケの使者は、ハレの使者ほどぬるくはありません。ハレの使者と違って人型で……っていうかメレンゲ、もう名前出しちゃっていい? あ、いいの? 沓香サンミア。僕達のひとりです」
「クッカですのん、クッカ」
「メレンゲと契約してしまったからには、契約抹消を強行するハズです。そういう性格なのです。お分かりかと思いますが、契約の抹消は、契約を交わした人間か僕達のうちのどちらかがー…」
 死ぬこと。
 存在を消滅させること。

■ 6 レレレイ坂の水鏡堂鈴成支店→レレレイ坂の昼ドラ会社員 ■

 押しつけられたかたちでお守りを受け取り、水鏡堂をあとにした。
 木戸まで見送りにきた少年に朝食の礼を言うと「こちらのほうがお礼を言いたいくらいです」とガウンの前を合わせた。
「僕の契約は末梢されたので、もう少ししたら、存在自体が薄くなってしまうので……、でも≪向こう≫で何かあった時には、遠慮なく呼んでください。ハレとかケとかのまえに、僕はメレンゲの友達なんです」
 とテルペンは笑った。
 二度寝ハートの前まできたとき、シルクハットの飾りを指でいじり ながら歩いていたメレンゲが突然立ち止まり、
「では、一週間後にお会いしまショウ!」
 ピタリと手を空中でとめ、くるくる回しながら胸の前へ。恭しくお辞儀をした。
「一週間?」
「イエス。この前もそうでしたデショウ? 使者が干渉するには、それなりの準備が必要なのですよん」
「で、お前は」
「アタクシ? アタクシはイロイロと準備してー…、あ、具体的なこの後? まぁ〜〜二度寝ハートで昼まで二度寝しやすわ、ふぁ〜〜…」
 大きなあくびとともに「ではまたですのん」と言い残し、奇怪な格好をした少年は自動ドアの向こうへ消えていった。
 しばらく立ったまま、子方は夜から今までの色々を考えようとしてみた。が、無理だった。
 駐車場にとめてある愛車に乗り込み、マンションへと戻る。
 契約だの、使者だの、勢力争いだの、現実離れしすぎている。それに、見たわけではない。信じる理由はどこにもない。けれど。それでも。
 部屋の扉を全て開け、子方を限界まで苛立たせ、悩ませていた石がどこにもなくなっていることを確認した後、不安をかき消すように、まっ先にシャワーを浴びた。

     ★

 いつもの出社時間より早く課のドアを開けると、狭い机たちの隙間で動いている影がひとつ。部下の立花葉寅である。雑巾を持っていた片手をあげ
「あ、先輩! お早うざいやーっす」
「タチバナ、ちゃんと区切って言え。お早うございます、だろう」
「今日早いっスね、先輩。どうしたんスか? 朝帰りっスか??」
 立花は子方の注意も気にせず、鼻歌まじりに机を拭いている。
 入社してまだ数か月。若者風の軽い言葉遣いも、まだまだ先方に紹介するレベルまで直っていない。が、毎朝一番早く出社しては皆の机を拭いているところをみると、やる気だけは途切れていないようだ。
 面接時には染め伸ばしていた茶色の髪の毛も、今ではサッと切られ真っ黒に光っている。ピアスも最近つけていない。ネクタイの柄も、慣れない最初に比べれば落ち着いた色合いのものをしめてくるようになった。
 今時の歌をアレンジしているのであろう下手な鼻歌はあえて突っ込まないようにしつつ、入口カウンターの上に乗っている郵便物をチェックする。課では子方の役割だ。
 宛名のついているものはそれぞれの机に、ついていないものは事業所の印字を見て判断する。それでもわからないものは大抵が営業のDMであるため、水滴の跡が残る自分の机に放り投げた。
 席に落ち着いたところで、寿が出社してきた。この課の課長である。
 子方とは三才ほどしか違わないが、既に薄くなりはじめている髪を気にし、ポマードで七三に分けている。額のホクロはトレードマークで、他の課の女子に何と言われようと薄く笑える程度には社会にこなれていた。
「おっ?! なんだ早いな。めっずらしー…朝帰りか?」
 ……またそれか。
 ヒクついた子方の口元など気にせず、寿は一番奥の課長机に鞄を置いた。
「おいハトラ、コーヒー」
「了解であります! 不肖タチバナハトラ、これより給湯室に行って参りまっス!」
 立花は勢いよく敬礼し、雑巾を放り投げて給湯室へ走って行った。
 寿の趣味で課のコーヒーは数種類用意されており、切らされることはない。とにかく沸かしたお湯さえ持ってくれば、あとは室内の応接用仕切りの裏のスペースが、コーヒー専用テーブルとなっており、インスタントかペーパードリップ、もしくはネルドリップが選べる。
 コーヒー好きという点では、立花はこの課によく馴染んでいた。
 次に入ってきたのは、おかっぱ頭に眼鏡の少女だ。
「お早うございます……」
 小さな背丈は本人の悩みの種だが、課のマスコット的存在となるには十分だった。上着を脱ぐと既に事務用の制服。彼女にはどうやら更衣室は必要ないらしい。タイムカードを機械に差し込んだところで、子方の存在に気付いた。
「コカタさん? あれぇ、なんだ。今日早いんですね……」
「ソーコちゃん! こいつ、今日朝帰りだってよぉ」
 寿の大声に、少女は両手で口をふさぐ。
 丁度、課長席と入口の中間地点にいた子方は、首を左右にふらなければならなかった。
「ばっ……! 違っ…!! う、違いますからウシゴエさん」
「朝帰りだったんですか……」
「いや、だから違いますって」
 子方の必死の弁解むなしく、牛越は大げさにため息。上着を自分の席のイスかけると、ポット片手に戻ってきた立花と世間話をはじめた。
 その後も課に勤務する同僚たち数人、口をそろえ「朝帰りか、」と子方の肩をたたく。
 げんなりしたところで課の全員が揃い、十時の音楽が流れたところで始業となった。
 あっという間に十二時のチャイムが鳴る。
 昼時はおおかた、女性社員なら社内に残って弁当、男達はバラバラに社内食堂もしくはどこかの定食屋に入ってランチ、という図式だが、今日は立花が弁当を買ってきたらしい。
 仕方がないので子方は、寿を誘って課に留まった。
 やはり課の中には、女性社員しかいない。
「じゃーん! ドライブスルー吉岡の新商品、南蛮タルタルチキン&特盛豚カルビ弁当! これでワンコインっスよ、どうっスか?!」
 ハイハイと軽く受け流しながら五百円を渡す。
 ちらりと課長席を見ると、寿はこの弁当でもコーヒーらしい。まったくあきれたコーヒー党である。
 烏龍茶のペットボトルを振りながら、なんとはなしに「そういえば、立花専務は元気なのか」と聞くと、さきほどまで太陽のように光っていた立花の顔が急に曇った。

■ 7 レレレイ坂の昼ドラ会社員 ■

「あー…ハイ、一応。毎日接待のしすぎで、オレとはあんま会わな いッスけど」
 はは、と力なく笑い、
「でもオレはオレなりに頑張りまっス! 午後もビシビシお願いします先輩!」
 弁当をかきこみはじめた。
 寿の視線に気づく。コーヒーをすすりながら、アホかお前、その話題はタブーっつったろう、とでも言いたげだ。
 いや、実際心の中で言っているのだろう。
 立花の採用理由が「それ」だとは、社内では当然の噂となって浸透している。しかし、実際は、何も知らない寿と子方が合格の判子を押した。不当な噂である。教育係に子方があてられたのも、噂が白くなる位まっとうにさせてみろとの、寿の無言の命令であった。
 いち早く食べ終わった立花は、律儀に両手をあわせると立ち上がり、弁当箱をしまっていた牛越の席に向かった。
「ソーコさん! また今日見た夢教えて?」
「うん、今日はね、」
 親しげな会話に、女性社員数人が混じる。ドッと笑いがおこり、その中心には立花
 しばらく笑い声を聞きながら肉を口に運ぶ。ムードメーカーとしては適任ではあるが……、と子方が考えていると、空のコーヒーカップを手に近づいてきた寿が一言。
「ありゃ、狙ってるな」
「は?」
「いや、見ればわかんだろ。ソーコちゃんだよ、ソーコちゃん。可愛いもんなぁ。でもムリだ」
「……ふうん」
 男二人の話し声に気づいた牛越が、チラリと視線をあげる。子方と目が合ったとたん、パッと顔をふせた。
「どう考えてもお前狙いだろ? ムリムリ」
「何の話だ……」
「おいぃー、そりゃあねえだろう。色恋沙汰には興味ありませ〜ん、ってか。死んでるな、アホか」
 寿はコーヒー専用テーブルへと歩いていった。
 意味が分からない。
 と。
「子方主任、」
 若い女性社員数人が、空の弁当をよせた子方の机まで来た。その中の一人は、立花が来る前の年に教育を終えた女の子である。
「食べ終わりましたぁ?」
「これぇ、この前の休みにみんなで旅行に行って買ったクッキーなんですけどぉ」
「伊豆のおからクッキーなんですぅ」
「あぁ、じゃあ、ひとつ頂こうかな」
 パクリと一口。
 定石どおり「お世辞じゃなく美味い」と言ったとたん、女性たちはキャアキャア叫びながら向こうの席へ戻っていった。
 皆、可愛いものである。
「――アホが」
「うぉっ?!」
 いつの間にか寿が後ろに立っていた。
 その手には、カップになみなみと注がれたコーヒーが湯気をあげている。
「お前、ほんっとアホだな」
 もはや定型文である。
 だが、それを聞いたとたん、子方の中で、今朝までの様々な出来事がスッと遠のくような気がした。
「そんなアホなお前、夜付き合う気あるか?」
「どこへ」
「ボンタンのつくね串」
「アサヒか」
「じゃ、のりきんのおでん」
「キリンか」
「銘柄重視かよ! ビールなんて何でもいいだろうが」
 寿のツッコミと同時に、立花が戻ってきた。
「ハイハーイ! オレっちも行きたいっス! えーっとぉー、そだ。ちょっと遠いっスけど、都心にあるメルベルタワーの最上階に行きつけのラウンジがあってー、行きませんか?」
「アホか…このボンボンが……」
「ギネスか……」
 一時のチャイムが鳴った。
 子方が恋愛関係の一切を締めてしまったのは、初めて恋して初めて付き合った彼女と、初めて別れた後であった。
 あんな不安定な、見えもしない感情を、しかもお互いが想像だけで持ち続ける……。
 その難しさ。
 子方は机に向かい、立花がまとめた集計表をチェックしながら少しだけ首をふった。
 恋愛について何かを思ったのは久々だが、今やるべきはそれではない。
 間違い箇所を数点指摘し、立花にやり直しを命令するとバリバリ効果音が聞こえるほど書類をチェック整頓していた寿が、手のあいた子方をめざとく察知し
「ライン三課!」
 とファイルを積み重ねた。
「これも、これも三課、こっちはセ二課に持ってけ。あとセ三の奴らにおせーよってな、ハッパかけてこい」
 あわただしく課と課をめぐる。
 上司の口の悪さを軽減するのも部下の役目だ。うまくセ三の主任を見つけ「調子は」と尋ねると、割合話を引き出すことができた。目当ての書類はまだできあがっていないらしい。
 なんとか明日までにという約束を取り付ける。製造三課は、製造の中でも一番忙しいため、書類を渋る事がよくあるのだ。笑いながら寿が待ちくたびれているとちゃかすと
「アホか! でしょう、大変ですねぇ子方さんも」
 逆に労われた。
 もう既に、子方がフォローできる領域を超えているらしい。
 書類ファイルは全て無くなり、ブラブラ課へ戻っていく。通路の角を曲がると、丁度牛越が子方の方へ歩いてくるところだった。入金のための袋を両手でかかえ、トコトコと音が出そうな歩き方をしている。
 子方が手をあげて「お疲れ様」と声をかけると、牛越は一瞬フリーズし、目線を落として、あの、ひとつ、と遠慮がちに言った。

■ 8 レレレイ坂のラヴ環状線 ■

「あの、フィリピンパブの女の人と付き合ってて、朝帰りって……本当ですか?」
「………、は、」
 どうやら知らない間に、相当変な話になっているらしい。
 訂正をする前に、誰が流した情報なのか確認する必要がある。作り笑いでごまかすと、牛越は沈んだように廊下を歩いて行った。それを見送る間もなく早足で課に戻る。
 机に上にギリギリと拳をこすりつけ、誰が、と確認しなくとも立花である。問い詰めた後にため息。すると、夢がおもしろくてと弁解を始めた。
「夢?」
「そうッス。ソーコちゃん、なんか夢の中の人と仲良くなったらしくって、そいつが預言したらしいんスよ」
「預言?」
「なんか、先輩が女の人と付き合ってるって」
 夢。
 結局行ったおでん居酒屋のりきんのカウンターで、寿は「女子っちゅーのはな、」と芋焼酎のグラスをかたむけた。
 ビールから焼酎への切り替えは、酔いはじめたサインだ。まともにとりあえば、こちらが痛い目をみる。
「ホラ、夢占いとか信じるだろ? まー可愛いモンだよなアホくせえ」
 そうじゃない、違うんだ、と言いかけて子方は口をつぐんだ。
 古い木の香りと、おでんのけむりが静かに漂っている。寿の行きつけの居酒屋。
 彼が子方を飲みに誘うときは、決まって何かしらのタイミングがあった。おそらく、最近のイライラも、あのハトマジシャンのような変な少年も、曖昧なかたちをもって見破られているハズだ。
 うまく言うことができない。直感というものの存在を、全否定しているわけではなかった。しかし、いくつかの項目がなぜか
「不安だ……」
「ハ、めっずらしーな、お前がそういうの口にするのは、あーアレだ。研修のトキに聞いたな、最初の。お前まだこう、ピチピチってな。懐かしい」
 寿はクッと焼酎を流し込んだ後、オヤジに大根と卵を頼んだ。

     ☆

 それから数日。
 何事もなく平和に時間が経ち、土曜は立花の尻拭いで休日出勤。日曜は、連絡がつかない寿のかわりにライン二課から呼び出しをくらった。会社を出ると既に午後三時。子方は、少しドライブでもするかとハンドルを右に切った。
 レレレイ坂の中央には昔、巨大な森林公園があり、宅地開発で切り開かれた後は、元々の森林公園の外周をぐるりとまわる道路ができあがっている。丁度φのような形だ。その円の中央が、坂が一旦終わるロータリーであり、ヨーデルワークスが入っている事務所のビルがあり、レ三中学校がある場所だ。
 巨大、というだけあって、円を一周するには信号待ちもあわせ、それなりの時間がかかる。暇つぶしにはもってこいのルートだ。ぼんやり二週ほどまわってマンションに帰ると、あっという間に夜であった。
 入口のキーを開ける。
 ふっと何かの気配を感じたが、不安や直感、そして愛も、目にみえるものではない。子方はかまわず中に入ったが、夕飯をまったく考えていない事に今さらながら気づき軽く舌打ちをした。
 最近まで子方を悩ませていた「石」は、もうどこにもなくなっていた。
 三日目までは、この何事もない日常をひしひしと噛みしめていたが、四日を過ぎたあたりから、子方の中に別な悩みが持ちあがってきた。
 牛越草子のことである。
 ファイル整理に立ちあがった瞬間、寿への電話を内線でつなぐ瞬間、立花にダメ出しをした直後、他の課から帰ってきて扉を開けるとすぐ、牛越の視線に出くわす。
 最初は勘違いかと思った。次に、自意識過剰だと言い聞かせた。立花の話にあてられたのか、とも考える。
 フィリピンパブどうのこうのという噂は、既に終息しているはずだった。誰もが、立花葉寅の作り話であると考え、相手にしなかった、はずだ。
 が。
 五日、六日と過ぎていくごとに、帰り道でもその視線を感じるようになり、また、自宅マンションに入る瞬間、部屋のカーテンを開けた瞬間、その視線の気配を感じた。ベランダのてすりに捕まって視線の主を探してはみるものの、暗闇にまぎれて姿さえ見えない。
 子方は結局、「特異な体験をした事による一時的な過剰反応」とオチをつけた。
 少年が予告した、一週間目。
 その日、マジシャン少年は現れなかった。
 前回余裕をぶっこいて二度寝ハートで寝てしまったことをふまえ、子方はなるべくいつも通りの生活パターンを心掛けたが、日常は過ぎ、起きたら翌日になっていた。
 ――そうだ。そうやすやすと変な事が起きてたまるか。
 寝ぐせがついた頭をボリボリと掻きつつ、勝った、と思った。直後、何にだよと自分でツッコミを入れる。
 鼻歌まじりに朝の支度を整え、マンションの鍵をかけ車に乗り込む。FMラジオを聞きながらささやかな通勤ラッシュ渋滞を抜け、いつも通り始業時間ギリギリに会社へと到着した。守衛のじいさんと会釈を交わし、数人が待機しているエレベータ前。チン、と古風な音が鳴り、子方は他の社員と混じり3階のボタンを押した。廊下を歩きながら今日の業務予定を頭でなぞりつつ、子方は課の扉を開ける。と。
 ドン。
 誰かと、強くぶつかった。
 子方はよろめく。下を見ると、おかっぱ頭。どうやら牛越草子とぶつかってしまったらしい。
 お早うございます、と口を開いたとたん腹部に猛烈な違和感を覚え、ただぶつかったのではない事を、子方は察する。
 離れる、小柄な彼女。
 直後の女性社員の悲鳴。
 遠く窓際の課長席から息をのむ寿の顔が、ぐらりとゆらぐ――、いや。
 自分がゆらいだのだ。
 自覚した瞬間、子方は足から崩れ落ちた。腹部に、鈍痛が襲いはじめる。やがてズキリ、ズキリ、と傷みは強くなっていき、動く、内臓のうねりが、音をたてて子方の体に響いた。前向きに倒れかけた身体を腕で無理やり押し返し、床に、あおむけに。
 ドクン、ドクン、金属とこすれあう、内臓の、いやな感覚ー……。

■ 9 レレレイ坂のラヴ環状線→レレレイ坂のドライブスルー吉岡 ■

 寿が叫んだ。
「――110番!」
「違うッス課長! 救急車は119番ッス!!」
「いや、110番だけでいい!」
「……ま…、痛うっ……!」
 呼びとめようと声を出したとたん、痛みが一段階強くなった。
 子方には、立花の訂正を更に訂正した寿の意図が、手に取るようにわかってしまう。
 駆け寄った女性社員たちを制し、寿だけが、倒れた子方に近寄る。
「おい! ――おい、子方。大丈夫か、」
 頭を持ち上げられた瞬間、今までの痛みが練習だったかのようにズシンと強く痛み、子方はうめき声をあげた。
 本番の始まり。
 そんな言葉がどこからともなく出てきた。
 子方の視界を、輪になった課の社員たちが取り囲んでいる。皆心配そうな顔をしているが、一番青ざめているのは牛越草子に違いなかった。ブツブツと、何かを言っているようだが、聞きとれない。痛みだけがガンガンと頭を支配していく中、ふるえながら顔を、歪め、
「どっ……、ドライブスルー…吉岡だけは……ぐっ…う、イヤだ……」
「アホぬかせ! おいハトラ、足持て! 俺のバンで行くぞ」
「リョーカイ! 車取ってきまッス、あっ、課長カギ……、」
「………、………!」
「……! ……」
 子方の意識はそこで途切れた。

     ☆

「、あ? れ……」
 ふと気がつくと、子方は白い空間にポツンと立っていた。
 ここは……、ここはまさか、と子方が思った直後
「コカタさん……!」
 背後から、感極まった牛越草子の声が響き渡った。振り返るとやはり牛越であり、床に捨てられた包丁をよそに、両手を口にあてポロポロと涙をこぼしている。
「良かった……っ、無事だったんですね……!」
 無事なハズあるか、と、子方は冷静に考える。
 前回と同じ展開。気がつくと立っている白い空間。夢ともまた違う場所。
 そして。鏡屋の少年にきいた、話。マジシャン風の少年がした、話。ハレの使者が干渉する。一週間。契約抹消は、メレンゲか自分か、どちらかが死ぬ事。
「わたしっ……、本当にごめんなさい! あんな事するんじゃなかった……って…! 今さら気付いて……謝りたくて…! ごめんなさい……ごめんなさい!!」
「……どうして、」
 かろうじて、絞り出す。
 子方にとって牛越は、課のマスコットキャラクター的存在、それ以上でもそれ以下でもなかった。課の中では挨拶する仲であるし、少しだけなら他の皆に混じって談笑もする。牛越が社に入ってきてから、少しはミスをきつく叱ったかも知れないが、最近は一切トラブルなどなかった。刺されるような原因など、何も、
「だって……他のひとに取られちゃうかもって、夢で、言われて……だって、この間だって、朝帰り、不安で……それで、わたし、だから――」
 牛越はブンブンと、勢い良く頭を振る。
 そして、覚悟を決めた目でまっすぐ子方を見た。
「好きなんです! コカタさん……っ、わたし、コカタさんのことが好きなんです!!」
 子方は目を見開く。
 驚いたのは、その告白ではなく牛越草子の背後にピッタリとはり付き、その肩に手をかけつつニタニタ笑っている使者の姿ー…!
「……信じない」
 え、と牛越は声にならない声を発した。子方は目をそらして続ける。
「悪いけれど、信じられない。好き? 恋? ……目に見えないじゃないか。そんなものは、おれは信じない。牛越さんには悪いけれど、信じたくないんだ。………。………、牛越さん?」
 いつまでたっても牛越の返答がないため、子方は床に置いていた視線をあげ、ようやく牛越を見た。
「、牛越さん?!」
 彼女は消えかけていた。後ろについていた使者の姿が透けてみえるほどだ。彼女もようやくこの事態に気付く。
「えっ……、なっ、え?! やだ、なにこれ……助けて下さいっ!」
 子方にすがろうとする彼女の背後には、ハレの使者が立っている。子方は動けず、ただ、力を入れた身体だけがグッときしんだだけだ――。
 ふいに。
 子方の横を白い風が通り過ぎた。いや、風ではない。白いシルクハットの、飾り。
「――メレンゲ!!」
「アタクシは信じる!!! その想い、その存在、全てを信じる!! 恋を、愛を、好きという言葉を!! 信心は二重にかえり、狭間を胞してあるべきところへ納まるべし!!」
 宣言は、巨大な風を巻き起こし、次いで少年が右手をおおきく払うと、たちどころに光る魔法陣が現れた。その場に立っている全員を巻き込み、輝き、バチバチと音をたてて空間を征服していく。仁王立ちしていたメレンゲはフッとふり返り、悲しげに笑った。
「コカタさん。言っちゃダメなコトって、案外世の中多いって、コカタさんは分かってますでしょ。さぁ、――真の名を!」
 しかし、子方は見た。
 床に捨てられたままの牛越の包丁を持ち、メレンゲに切りかかるフードの男を。突進の勢いでフードは取られ、右頬に星型の痣がある青年の顔が見えた。
「……ッ!! パロマ!」
 光がほとばしり、何もかもが白に消えるー……。
 反射的に目を開くと、見慣れない天井。ズシリと重く、内臓の痛みが子方に帰還を教えた。牛越はどうした。使者は。そしてメレンゲはー…!
「――大丈夫よ。誰も彼も」
 突然、子方の考えを見抜いたように、女性の声が室内を包んだ。子方にとっては、もう一生聞きたくなかった、懐かしい声である。
「ミドリ……か?」
「久しぶりね、時人」
 子方の目を覗きこむように現れた女性こそ、ドライブスルー吉岡の外科部院長でありそして、子方時人の初恋の女性。吉岡美酉である。

■ 10 レレレイ坂のドライブスルー吉岡1 ■

 ドライブスルー吉岡は、環状線の最も左側に位置する鈴々礼総合病院の院長、吉岡氏の血縁者で運営されている。
 きっかけは、吉岡氏の妻が有り余る坂の下の土地に建てた吉岡食堂であった。
 レレレイ坂の下には、今でも古くからの町工場があり、昼時ともなれば腹をすかせた男達が山のようにおしよせる。院長の妻が道楽で始めた安い食堂は繁盛した。
 とうとう吉岡氏の妻と数人のパートだけでは賄いきれなくなった時、彼女は名案を思いつく。
 ドライブスルー方式で、500円ポッキリの日替わり弁当を売ろう。
 と。
 結果は大成功であった。
 ワンコインで楽々買える、しかも美味しいと評判を呼び、食堂の売上よりもドライブスルー弁当の利益が高くなるほどであった。
 ところで、吉岡氏の父親は死去したが、母親は老婆になった今でも健在である。
 この老婆が、ドライブスルー弁当のおかげで閑散としはじめた食堂内に陣取り1000円ポッキリの占いなぞを始めたあたりで状況はにわかに変わる。
 姑の行動に怒った吉岡氏の妻。食堂内で占い屋を開くことがどうしても許せず、
「食堂内でやる位なら……!」
 と弁当のドライブスルーレーンに分岐点を増設し、ドライブスルー占い屋を建設したのだ。
 掘っ建て小屋同然の小汚い占い屋は、しかし繁盛した。
 1000円だった占い料を100円に下げ、車の中から一分で今日の運勢を占ってもらえるという噂は、レレレイ坂から遠く離れた土地でも話題になるほどであった。
 さて。
 この吉岡氏とその妻には、一人娘がいた。
 吉岡美酉である。
 吉岡氏の道を継ごうと医者を目指した彼女は、高校時代に子方時人という青年と若干お付き合いしたが別れ、予定通り上京して医大に入った。
 しかし、外科の医師免許を取得して地元に戻ってきたはいいものの、鈴々礼総合病院には医師の空きがない。
 どうしても地元で働きたかった美酉は、ドライブスルーレーンの分岐点を更に増築し、町工場の急患用にドライブスルー外科を設置したのである。
 急患が出たが人手は無く、業務に早く戻らなければ仕事のノルマが達成できない小さな工場がひしめく中。患者を車で運びこみさえすればあとは家族への連絡やら治療やら保険の手続きやらを全て完了してくれて、
 職員たちは急患を引き渡したあとOUTレーンへハンドルを切り、そのまま工場にUターンして作業の続きが出来る。
 という、小さな工場ならではの需要を、完全に満たしたのであった。現在、ドライブスルー吉岡は1レーン(駐車場)が吉岡食堂、2レーンが弁当ドライブスルー、3レーンが占い屋吉岡、4レーンが吉岡外科(急患専用)、となっており吉岡家の女3代の手によって、運営されている。

     ☆

 子方は頭を動かし、室内に目を向けた。
 ベッドの向かいの薬品棚には、所狭しと壜が並んでいる。その隣にはドア。
 また頭を動かし上を向くと、椅子に机に窓。
 乱雑に散らばった紙の山の奥には、緑色の巨大なオウムが飾ってあった。
 おそらく剥製だろう、と子方は検討をつけ、また、相変わらずだな、とも思った。
 彼女は高校の時から、美しいトリと書いて「ミドリ」と読む自分の名前にちなんで、緑色の鳥が大好きだったのだ。
 こうして彼女と対峙している今、別れのいざこざではなくやさしい過去の思い出が蘇ってくるとは、記憶というのは便利にできている。
 子方は、ふつふつと泡のようにわいてくる過去の記憶を脳内でひたすらパンパン割り続けた。
「――ちょっと待って。今、呼んでくるから」
 ミドリが部屋の扉を開け、入っていいわよと声をかけた。
 入ってきたのはメレンゲである。
 沈痛な面持ちは、子方を見るとにわかにゆるみ、ハッと気づくと眉をひそめ、また元の沈痛な面持ちに戻った。
「ぜんぶ、ボクのせいです……ごめんなさい」
 ボク?
「いいのよ。ホラ、時人も生きているし、女の子も生きているわ」
 ――女の子!
「牛越さ……痛ッ! ったた…」
 脇腹を押さえる。
 ズクン、ズクン、という熱をもった鼓動。
 指と内臓を通した感覚は、全治数か月の大怪我……といった所だ。
 女医は椅子に座り、美しい脚線をクロスさせた。
「そんな切り傷、大したことないわよ。盲腸よりちょっと長いくらいだったわ」
 机の上からカルテを取り、ミドリは視線を落としながらオウムに餌をやった。
 子方は剥製の置物だとばかり思っていたが。
 緑の鳥は動いた。
 ミドリの手のひらから、俊敏な動作で餌をついばむ。
 メレンゲはその鳥に向きなおり、こう言った。
「ボクのせいで……師匠もごめんなさい」
 師匠?
 するとオウムは喋った。
「キニスルナ。ドウセ、オソカレハヤカレ、コウナッテイタ。ジュウサンニンメノ封印ハ、ヒジョウに弱マッテオル。ダが、イマノ状態デは、融合にも差支える。あっ、ミドリちゃん。もうちょっと食いモンくれない? できればフルーツがいいんだけど」
 バサリと翼を広げ……ようとしてまた閉じたオウムは、呆然と眺めている子方に気づくと
「クエーッ!!」
 と一声。
「オオオオハヨウ、オウムノピープダヨ。オウムノピープダヨ。オハヨウ、ピープダヨ。ハハハハ、ハハハハ」
「師匠。もうバレてますし、子方さんは問題ないですよ」
 メレンゲのツッコミが入ると、オウムは頭をグルグル動かした。

■ 11 レレレイ坂のドライブスルー吉岡 ■

「ハジメマシテ、無ノ特異点。ワガハイノ仮ノ名前ハ、イッカ。逸過ピプノセ。ミドリチャンとは十年来の契約を結んでイルんだぴょーん。あっ、師匠ってのはおよしになってね。このクソガキがそう呼ぶだけであって吾輩弟子など取った覚え、これっぽっちもあらへんにょーん」
 返答に窮する喋り口。子方はまだ呆然としている。
 その様子を見たミドリは「あのねぇ」と続けた。
「私たち、昔付き合ってたでしょう? どうして別れたか覚えてる?」
「……覚えてないな」
「ウソね」
 嘘であった。
 子方は覚えている。
 突然の別れを切り出したのは吉岡美酉の方であった。理由はいくつかあり、進学で上京するから。最近愛情が感じられない。遠距離恋愛の自信がない。このままだとお互いダメになる。他に男ができたわけではない。将来のため。などなど。
 一気に様々な要因をぶつけられ、子方は「わかった」と言う他なかった。
 一番グサリときたのは、愛情が感じられないという言葉であった。
 子方は小さいころから目に見えないものを信じない、という信念を持っていた。
 だが、初めての恋。目に見えない感情を、頑張って信じて発信してきたつもりだった――。
 全く届いていなかった。
 そう、宣言されたも同然だった。
「別に、今からヨリを戻したいって言ってるわけじゃないのよ。そこは分かってくれるわよね?」
 ミドリはそう前置きして、事の真相を話し始めた。
 あれは子方と付き合っている最中のことであった。遠出のデート先で立ち寄ったペットショップがあった。そこで出会った緑の巨大なオウムに、ミドリは一目ぼれした。柵の前で、目が合ったのだ。
 だが、その緑のオウムには値札がなかった。
 柵の前で、数種類のオウムたちが思い思いに過ごしている前で、ミドリは懸命に値札を探した。他のオウムには、写真付きでプライスカードがあるというのに、どれだけ探してもないのだ。
 きっと非売品なのだろうと諦め、若干引き気味の子方に慰められながらも、一旦は家に帰ったミドリ。
 しかし目が合った瞬間の、あの、何ともいえない「通じ合った感」が頭から離れず、悩みに悩んだあげく、再度その地まで行き購入したのだ。
 といっても、実際には盗んだも同然であった。
 店員には、そのオウムの姿が見えていなかったのだから。
「あの……、あのオウムがほしいんですけど…」
 とミドリが店員に尋ねた時、店員は柵の中から、別な種類のオウムを取り出そうとした。
「違うんです! あれです、あの、緑の大きな……」
 眉をひそめた店員の視線は、ミドリと柵をなんども往復。返ってきた言葉はこうであった。
「大変申し訳ございませんが、当店で緑のオウムというと、この子とこの子くらいでして……」
 店員は、またしても別な種類のオウムを取り出した。
 その瞬間、出口が開きっぱなしのケージから巨大な緑の躯体が飛び立ち、天井の照明を美しい羽に反射させながらミドリの頭上を通り過ぎていった。ミドリは追いかけ、同じく開きっぱなしの自動ドアから店の外に出た。
 果たしてオウムはそこにいた。ミドリが手を差し出すと、オウムはミドリの肩にとまった。
 家に持って帰ってきたことを後悔しつつ寝た夜。
 ミドリは夢を見た。
 彼女はなにもない白い空間に立っており、目の前には、緑のロングコートを着た男が立っていた。長く垂れた髪の毛も緑色で、顔は色白の面長。目は糸のように細く、やや吊り上がっている。
 男は言った。
「――うわぁ……似てるわぁー。こんな似てる人初めて見た。せっかくだし吾輩と契約してくんない? 今なら未来もダダ見できちゃったりしたりして、クッソお買い得だっぴょーん」
 差し出された手のひらには半円の痣があった。そしてミドリは契約を了承する。夢だと思って。だがそれは、夢でもなんでもなかったのだ。
「未来を見させてもらったわ。時人が……知らない女の子に刺されて死ぬ未来だった…だから、」
 女医の話はここで途切れた。室内は静寂に満たされる。続きを誰が発するのか、牽制しあっているような沈黙。遠くで、車のクラクションが鳴った。この続きを発する人間は、もうすでに決まっていた。
 皆の視線が子方に集まる。
 子方はミドリの瞳を、ここにきてはじめて真っ直ぐ見据えた。
「医者になって……ここに病院を建てた…」
 かつての恋人は、満面の笑みを子方にかえした。
「……もう一度言うけれど、別にヨリを戻したいってわけじゃないのよ。ただ、ピープの未来の通りになっただけで。もともと医者にはなるつもりだったの」
 ミドリは子方の視線を振り切り、立ち上がった。
「さ、話は終わりよ。とっとと他の病院に移ってちょうだい。移送の準備も整ってるわ」
「ちょっと待ってください!」
 声をあげたのは樹課メレンゲだった。
「師匠。いつなら融合に差支えないんですか。ボクは早くー……」
 メレンゲは、ちらりと子方を見やると眉をひそめ、唇を噛み、言いかけたなにかを胸中に戻した。頭をゆるく左右に振り、言い直す。
「師匠、教えてください。未来はどの程度まで視えているんですか」
 オウムはバサリと羽を広げる
 深い、緑の陰影は部屋を支配し、机の上の鉛筆立てがゴトンと落ちた。
「―― ロッカガクル! ゴカが来る! アル男とケイヤクニイタルであろう。校庭の夜ニお前ハ伏す、試練の時が来るであろう! なーんてコトは最初からわかってたんたんタンバリン。吾輩はどこにも属さず、ただ傍観者であるのみのみのみのモンタージュ。したがって、気まぐれに、ゼロとイチの特異点に講した預言は、他の「我々」にも同等に授けるものとするっぴょーん」
「師匠……」
「キャッハハー、これが師匠ってモンなら世の中終わってんな。ってわけでちょっくら失敬つかまつる。夜には戻る、ミドリちゃん窓開けてぇー」
 吉岡女医が窓を開けると、巨大なオウムは空へと飛び去った。
 質量をもつ風が、室内をぐるりと旋回した。

■ 12  Coming Soon... ■